悪い音符? 〜ベートーヴェン交響曲第4番の弾かれない音符〜

配信やサブスクに押されて「レコード芸術」誌も休刊となり、「あなたが初めて買ったCDは何ですか?」なんていう質問も「かう?かうって何?」と「夕鶴」のつうみたいに返されてしまう日も遠くないのではないかと思われる今日この頃ですが、私が初めて買ったCDは谷山浩子のコンピレーションアルバムでした。1980年代の中頃ですかね。そのアルバムに入っている「たんぽぽ食べて」(1983)は、次のような語りで始まります。

 

この街には昔から 悪い噂があった
誰も口にしたがらない 悪い噂があった
やがて時が流れて 人々は噂を忘れた
やがて時が流れて 噂は誰も知らない噂になった
(以下略)

 

実はこれ、ベートーヴェンの交響曲第4番の第1楽章にある、ある音符のことなのですよ…

 

この曲には昔から 悪い音符があった
誰も音にしたがらない 悪い音符があった
やがて時が流れて 人々は音符を忘れた
やがて時が流れて 音符は誰も弾かない音符になった

 

その音符とは、第1楽章が長い序奏を経て Allegro vivace の主部に入り、第1主題の提示も第2主題の提示も終えて、そろそろ提示部が閉じられようとする第183小節の頭、チェロとコントラバスに書かれている低いF音(ファ)の四分音符です。この音符は初版以来ほぼ全ての出版譜に印刷されてきたし、またベートーヴェン自身の自筆譜を含む全ての一次資料にも明白に記されているにも関わらず、古(いにしえ)の巨匠から現在の新進気鋭の若手までひっくるめて、この音符を音にし録音に残した指揮者は、私の知る限りあの革命児ニコラウス・アーノンクールただ一人(私が聞いていないだけで実際には他にもいるかも知れませんが、とにかくごく少数)です。
ちゃんとベートーヴェン自身が書いたことがはっきりしているのに、これほど身元の確かな音符なのに、なぜ誰も音にしないのか?この音符を弾くと何か祟りが?「天空の城ラピュタ」の「バルス!」的なことが?ああっ、ホールが倒壊するぅ〜!?

 

〈譜例は第1楽章の第180小節以降。問題の音符は最下段のチェロ / コントラバスのパートに書かれている、赤で囲った四分音符。もちろんパート譜にもはっきり印刷されています。〉
 

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ブラームスのセレナーデ17枚+2枚を聞く 08. ガリ・ベルティーニ指揮ウィーン交響楽団

さて、「ブラームスのセレナード17枚+2枚を聞く」プロジェクトです。お久しぶりです。コロナ禍その他によりおよそ3年半にわたって滞っておりましたが、このたび復活してまいりました。第8弾の今回は、ガリ・ベルティーニ指揮ウィーン交響楽団の演奏で第1番・第2番の両方を聞きます。
指揮のガリ・ベルティーニ Gary Bertini は1927年モルドバ生まれのイスラエルの指揮者で、1998年から2005年に亡くなるまでの7年間にわたって東京都交響楽団の音楽監督を務めたことから日本の音楽ファンにもおなじみ。ケルン放送交響楽団と録音した全集や都響との連続演奏会でのマーラーの交響曲の演奏が高く評価されています。
CDはORFEO C008101 で、1982年5月28日から30日にかけてウィーンのスタジオで録音されています。拝借したCDにはドイツレコード批評家賞 Preis der Deutschen Schallplatten Kritik を受賞したことを示すシールが金色に輝いています。

 

演奏の全体を通じて丁寧にしっかりと取り組まれ、個々の部分の音楽の面白さや表情、さらにそれらの変化・対照が鮮やかに表現されていて、幾分かは私の先入観のせいもあるでしょうが、マーラーの交響曲に対するのと同様のアプローチが感じられます。そうしたアプローチの結果として初期のブラームスの作品の特徴である「人懐(ひとなつ)っこさ」を表現するよりも、しっかりと確立された作品として、いわば「一人前の大人」な音楽に対するように扱っているなあ、と感じられました。速い楽章はしっかりと落ち着いたテンポで、ゆっくりの楽章は音楽の流れが感じられるようにやや速めのテンポで演奏されていて、全体に硬派な印象です。

ベルティーニの特徴がよく出ているなあと思われる箇所がありまして、それは第1番のセレナードの第1楽章の84小節から90小節にかけて(楽式的にいうと提示部の、第1主題が67小節から全オーケストラで確保されてから第2小節の提示に至る途中の推移部)、木管楽器に「たらら|たたたたら|たらら|たたたたら」というフレーズが繰り返されます(「|」は小節線ではなくフレーズの切れ目を表しています)。この「たらら」「たら」はスラーで、「たたた」は一音ずつ切って演奏するのですが、ベルティーニはこの「たたた」を「タッタッタッ」とスタッカートで吹かせています。譜面にはスタッカートの指示はなく、ここをこれほどはっきりとスタッカートで吹かせている演奏も他に聞いたことがないので、とても耳について「え、そこそんなにする?」と違和感を覚えます。
この謎はソナタ形式の再現部の相応箇所である387小節から395小節を聞くと解けます。ここの前半は「たららら|たららら」というスラー主体の滑らかなフレージングですが、391小節から「たらら|たたたたら」のフレージングが復活し、しかもここの「たたた」にはスタッカートを示す「・」がつけられているのです。つまりベルティーニは再現部のこのスタッカートを見て、それを提示部の(もともとスタッカートはついてない)「たたた」に遡及的に適用したと考えられるのです。うーん、これは気がつかなかった・・・さすがはマーラー指揮者、細部の読み取りと全体の構成に対する目配りがすごい!

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| ブラームスのセレナーデ | 16:34 | comments(0) | - | pookmark |
折口信夫の「万葉辞書」

先日ひさしぶりに普通の(=古書店ではない)本屋さんに行って、折口信夫(おりくち・しのぶ)の『口訳万葉集』が岩波現代文庫から出ていることを知って驚いた(刊行は2017年)。
本書はその書名のとおり、「万葉集」4500余首のほぼ全歌の原文(漢字かな交じり文)とその口語訳を対照して示したもので、初版は大正5(1916)年から大正6(1917)に発行されている。初版に付された芳賀矢一の「諸論」に「之(=万葉集)を現代語に訳したものは、恐くは、これが第一の試であろうと思う」(原文は旧字・旧仮名)とあり、この種のものは本書が最初であったらしい。折口信夫30歳の頃の著作である。
折口自身は後に本書を未熟の書として絶版にしたが、1954年から1957年にかけて刊行された「折口信夫全集」(中央公論社)に収録されて再び世に出た。ただしこの全集本は初版の出版後になされた折口の書き入れを本文に採用したり、訳文の用字法を統一したり(本書の訳文は折口の口述を数人が交代で書き取ったもののため、書き取った人ごとに用字法が異なっていた)と、初版本とは若干異なる部分があるようだ。これに対して岩波現代文庫本は、書店の店頭で斜め読みしたところでは全集本ではなく初版本を底本に採っているらしく、全集本とは細部に違いがあるかも知れない。

全集本は中公文庫から文庫版で出版されていて(現在は絶版?)、私も文庫版全集を持っているので、当初は岩波現代文庫版にあま食指が動かなかったのだが、全集版ではなく初版本を底本としているらしいことを知って、俄然興味がわいてきた。
というのは、折口が本書巻頭の「口訳万葉集のはじめに」に次のように書いているからである。
「考証文を添える事の出来なかったのと、おなじ理由で、一語々々の詳らかな解説をすることは、避けねばならなかった。それで、為方なく、巻末に、名物・作者・語格索引を兼ねた、万葉辞書をつけることにしたが、これにも、万葉辞書として、独立の価値が持たせたい、というはかない欲望から、下巻の末の百五十頁ばかりに、纏めて出すことにした。此は、是非、参照して頂かねば、隈ない理会は得られまいと思う。(中略)とにかく、本文・訳文・辞書の三つは、始中終、対照して見て貰わねばならぬ。」(全集文庫本 pp.7, 9)
ところが全集本にはここで言われている「万葉辞書」に当たるものが見当たらない。全集本はもともと三巻本として出版された初版本を二巻に収めているのだが、その際に収録から外れたのか、そもそも「万葉辞書」そのものが初版本にもついていなかったのか、その辺の事情が全集本の解説には書かれていない。もし岩波現代文庫本が初版本に基づいているのなら、ひょっとすると全集盆にはない「万葉辞書」が下巻の末についているのかもしれないではないか。

 

そう思うと矢も盾もたまらず、最寄りのまあまあ大型書店であるイオンモールの中の書店を覗いてみたが、ここには目的のブツは置かれていなかった。そこで最近つくば市内にオープンしたコーチャンフォーという大型書店に行ってみると、果たしてここには在庫していたので、ドキドキしながら下巻(岩波現代文庫本は上・中・下の三巻構成)を手に取り、本文の最後を見た。しかしそこには全集本と同じく、万葉集の掉尾を飾る大伴家持の「新しき年のはじめの初春の、今日降る雪の、弥頻(いやし)け。吉言(よごと)」の歌があるばかりで、万葉辞書に相当するものはなかった。
これはどういうことか、下巻巻末の解説にも「万葉辞書」に関する言及はなかった。しかし念のために上巻の「口訳万葉集のはじめに」を見たところ、「…下巻の末の百五十頁ばかりに、纏めて出すことにした」の後に(本書には収録しなかった)という一文が加えられているのが見つかった。つまり初版本には「万葉辞書」があったのだが、何らかの理由で岩波現代文庫本には収められなかったということがわかったのだ。同様に「万葉辞書」を載せていない全集本にはこの種の注釈がないので、この点は岩波現代文庫本の方が親切である。しかしなぜこれが全集本にも岩波現代文庫本にも収録されなかったのか、その理由は残念ながらわからない。初版本そのものの「万葉辞書」の部分を見ればその理由が推測できるかもしれないし、全集刊行時の「月報」に何か書かれているかもしれない。引き続き注意してみたい。

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雪隠読書録:『新板 ナチズムとユダヤ人 アイヒマンの人間像』(村松剛 1962 / 1972 / 2018 角川新書)

※本書は Kindle 版で読んだので、引用箇所にページ数を付記しておりません。

 

ハンナ・アレントの『エルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』(1963)はいずれ読みたいと思っていますが、本書はその関連本として読みました。著者の村松剛(むらまつ・たけし)氏は1975年から筑波大学の教授を務めておられ、私も一コマだけですが授業を受けました。ご自身の著書『死の日本文學史』(1975)を用いての講義でしたが、品行方正で素直に生きてきた好青年(当時)にはよくわからない内容だったようで全く記憶になく、テキストとして買った同書(ハードカバーで結構なお値段でした)も売っ払ってしまいました。今なら読めるかも。

 

ナチスの絶滅収容所にユダヤ人を送り込む最高責任者であったアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は、第二次世界大戦終結後アルゼンチンで偽名を使って逃亡生活を送っていたが、1960年にモサド(イスラエルの情報機関)によって捕らえられてイスラエルに移送され、1961年の4月から12月にかけてイスラエルの国内法に基づいて裁判にかけられました。この裁判は国際的な注目を集め、村松氏は「サンデー毎日」誌の臨時特派員として前後一ヶ月あまりこの裁判を傍聴し、「サンデー毎日」誌にルポを連載したようです。
本書はそのルポではなく、裁判資料や裁判の速記録、アイヒマンの供述書などに基づいて書かれたもので、著者自身「個人的解釈がはいるのは、ある程度さけられないことですが、資料のないこと、あっても不確かなことは、一つも書いてはいません。」(「あとがき」―これは初出の角川新書版(1962)への「あとがき」だそうです)「解釈はべつとして事実に関しては、資料のないこと、あっても不確かなことは、一つも書かなかったつもりです。」(「アイヒマン裁判覚書―あとがきにかえて―」)と述べています。

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| 本のこと | 10:53 | comments(0) | - | pookmark |
ブラームスの交響曲第1番について24年前に考えていたこと

2019年に始まったコロナ禍もようやく一段落したかのように見える昨今、私の所属する土浦交響楽団でも来月の12日に定期演奏会を行うことになりました。メインの曲目はブラームスの交響曲第1番です。私はアマチュアオーケストラを40年以上もやっていて、しかもあちこちのオケにトラ(エキストラ、お手伝い)に行ったりもしていたので、ブラームスのこの曲も何回弾いたかわかりませんが、何回弾いてもなかなかちゃんと弾けなくて、でも今さら言うまでもなく、いい曲です。

ところで、土浦交響楽団のホームページの団員専用のコーナーに、今から24年前の若き日の私(と言っても30代半ばですが)が書いた、この曲に関するエッセイが載っています。おそらく1996年5月に行われた土浦交響楽団第33回定期演奏会に向けて書いたものを、その後に若干改訂してこちらに載せたものと思います。今となっては気恥ずかしいものですが、この機会に虫干しを兼ねてこちらに転載しようと思います。内容は当時のままでその後一切手を加えていないので、現在では誤りと思われる内容もあるかも知れませんが、興味のある方はご笑覧いただければと思います。

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| オーケストラ活動と音楽のこと | 22:08 | comments(0) | - | pookmark |
皇海山はもともと「こうがいさん」だった

しばらく前から雪隠読書で『山の旅 明治・大正篇』(近藤信行編 2003 岩波文庫)を読んでいて、今は木暮理太郎(こぐれ・りたろう)の「皇海山(すかいさん)紀行」にかかっています。大正8(1919)年11月の登山記だそうです。
木暮理太郎は日本の登山史に名を残す登山家で、明治6(1873)年群馬県生まれ。明治29(1896)年頃から日本アルプス・秩父・上越・南アルプス等で開拓者的登山を行い、傍ら山の紀行文や山岳研究を発表し、昭和19(1944)年逝去。確か私の好きな詩人の尾崎喜八(おざき・きはち)が「山を見る木暮先生」という詩を書いていたと思いますが、今ちょっと出てきません(「山を描く木暮先生」とは別の作)。私はその詩に描かれた、自分の興味に従ってある分野をこつこつと一人で拓き、それに気づいた人々がそこに寄ってきて人臭くなった頃にはもう別な方を向いているという、世に阿(おもね)らず自分の価値観に従って融通無碍で群れることを嫌う、慎ましい孤高の姿を慕わしく思っています。
皇海山(すかいさん)は栃木県日光市と群馬県沼田市との境にある、足尾山地に属する山で、標高は2,144mだそうです。深田久弥の「日本百名山」にも選定されています。私は登ったことはないし登れる気もしません。

 

すかいさん、というのは Sky(空)を連想させるおもしろい名前ですが、「皇海山」という表記とはうまくつながりません。木暮理太郎は上に書いたとおり山岳研究を盛んに行っていたので、この皇海山についても江戸時代の地誌から山名の変遷をたどっています。山をやる人には既に常識なのかも知れませんが、私はこれを読んで、初めて皇海山という名前の由来を知って感動したので、紹介しようと思います。
木暮によると、この山は江戸時代の史料には「さく山」「座句山」「サク山」と書かれているといいます(pp.313-4)。これが明治12年の史料になると「笄山。勢多郡ニテ之ヲサク山ト云。」と書かれます(p.314)。「笄」は音は「ケイ」、訓は「こうがい」と読む字なので、「笄山」は「こうがいやま」または「こうがいさん」と読んだものと思われ、それまでの「さくやま」または「さくさん」とは明らかに別系統の名前です。さらに明治21年の史料に「皇開山」という表記が出てきます(p.315)。「皇開」も「こうがい」への宛字(あてじ)でしょう。こうした「こうがい」への宛字の一つが現在使われている「皇海」であると見られます。
しかし本来「こうがい」であった「皇海」がなぜ、いつ頃から「すかい」と読まれるようになったのかは木暮先生にも調べがつかなかったと見えて、「スカイと呼ばれるようになったのはいつ頃からの事であるか知らないが、勿論最近の事であろうと思う。皇海が何かの原因でスカイと誤読されてそのまま通用するようになったものであろう。」(p.316)としています。そして「皇は「すめ、すめら」と読むから皇海をスカイと誤読することは有り得よう。(中略)コウガイがクワウガイと漢字をあてられることなどは、地方には稀でない例である。」(p.316)という説を出しています。
つまり「皇海山」と書いて「すかいさん」と読むのは木暮説に従えば「誤読」の結果であって、「こうがいさん」が歴史的に正しい呼称なのです。だから「すかいさん」の徒が、誰かがこの山を「こうがいさん」と呼ぶのを聞いて「ああ素人が」と嘲笑(わら)うのは本来はお門違いで、少なくとも歴史的には「すかいさん」の徒の方が宛字を誤読する愚を笑われても仕方がないことになります。ただ多勢に無勢、自分一人がこの山を「こうがいさん」と呼んだところで、「あああの山ね」と応じてくれる人がおそらくいないであろうことは遺憾です。

 

ところで上に揚げた木暮説の後半「コウガイがクワウガイと漢字をあてられる」(p.316)という部分は、「笄」と「皇海」ではそれぞれ仮名づかいが違うにもかかわらず「笄」の代わりに「皇海」という漢字があてられることに言及したものですが、近年の岩波文庫の緑帯の「旧仮名づかいを現代仮名づかいに改める。」という表記方針がここでは悪い方に働いて、文の意味がうまく通らなくなってしまっていることには触れておかなければならないでしょう。
「笄」の旧仮名づかいはコウガイではなく「カウガイ」で、「皇海」の旧仮名づかいは「クワウガイ」なので、現代仮名づかいに改める前の原文は「カウガイがクワウガイと漢字をあてられる」とあったはずです。旧仮名づかいを読める人なら、ここで「ああ仮名が違ってもそんなことにはお構いなしに、聞いた音(おと;ここではコーガイ)に漢字を当てたということだな」とピンと来るでしょうが、「コウガイがクワウガイと」では仮名づかいが新旧中途半端で、特に旧仮名づかいを読む準備のない読者には何のことやらわけがわからないのではないでしょうか。
こういうところをどう処理して原文の意図を読者に誤りなくわかりやすく伝えるかが編集者の腕の見せ所なのですから、杓子定規に「現代仮名づかいに改める」のではなく、たとえば「カウガイ(注:「笄」の旧仮名づかい)がクワウガイ(注:「皇海」の旧仮名づかい)と」と注を入れるなど、もうひと工夫してほしかったところです。

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雪隠読書録:『石神問答』(柳田國男 明治43(1910)/ 『柳田國男全集』第15巻(1990 ちくま文庫)に収録)

赤松啓介『民俗學』(1938 三笠書房)を読み始めたものの、あまりにも唯物史観臭がひどいので途中で読むのをやめたことは9月11日の投稿のとおりですが、同書中で「本書の重要性は中小農没落必至化の傾向に基底崩壊を感じた官僚の、小ブル的農本主義に立つ懐古的・空想的研究の発端をなしたことにあり」と評されている柳田國男『石神問答』(明治43(1910)聚精堂 / 昭和16(1941)創元社より再刊)を読んでみました。本書は『後狩詞記』(のちのかりことばのき・明治42(1909))『遠野物語』(明治43(1910))等と並ぶ柳田國男の最初期の作品で、日本民俗学の礎を築いた記念碑的著作でもあるので、日本民俗学を系統的に学ぼうとする人は一般教養として若いときに読むんじゃないでしょうか。私は折口信夫(おりくち・しのぶ)に惹かれて民俗学の門を叩いたのに、大学で勉強する日本民俗学では折口の学問は傍流扱いであったことに落胆してやさぐれていたので、読まないままに今日まで40年が経ちました。ちょうど手元にある『柳田國男全集』15巻(1990 ちくま文庫)に入っているので、この機会にと読んでみたようなわけです。

 

本書は基本的に往復書簡集です。柳田がシャグジという名の路傍の神について抱いた疑問を、学問仲間で「東京人類学雑誌」等の常連でもあった山中笑(やまなか・えみ、後にえむ;山中共古とも号す)に問い合わせた手紙から始まります。その後文通先は歴史学・東洋史の白鳥庫吉(しらとり・くらきち)、地理学・考古学・被差別部落研究など幅広い学的関心と問題意識を持った歴史学者の喜田貞吉(きだ・さだきち)、民話採集者で「遠野物語」の話者の佐々木繁(ささき・しげる;佐々木喜善、佐々木鏡石とも)などへ広がり、その総数は34通に上っています。
書簡集という体裁のため本文は候文(そうろうぶん)の手紙の連続で、要所に注が加えられているものの、論文のように「問題提起・考察・結論・今後の展望」といった形にまとまっているわけでは全くありません。一応「シャグジとはどういう神か」という大テーマはあるものの、手紙をやり取りするうちに柳田もその相手も、少しでも関連があるのではないかと思われる事柄を次々に提出していき、話題は神道からも仏教からも道教からもはみ出した「雑神」全般に広がって、あたかも「共同研究・シャグジ論」をまとめる上での舞台裏の様相を呈しており、しかもその「共同研究・シャグジ論」は前述のとおりついにまとまらないままに終わってしまうのです。

さすがの柳田もこれだけで成書として出版するには忍びなかったと見え、本文の前に「概要」として書簡中に現れた主要なトピックをいくつかのグループに分けたものを付けており、これが「共同研究・シャグジ論」の梗概とも見られ得ます。しかしそれとても実質的にはグループ分けされたトピックとそれに言及した手紙が載っているページを示しただけの一種の目次で、何らの考察も加えられておらず、いわば幹から多くの枝葉を出した大木がそのまま切り倒されて横たわっているようなもので、一々の枝葉を避けて幹だけをたどるもよし、逆に枝葉を細々(こまごま)とたどって自分なりの問題を見つけるもよし、読み取り方は各読者に任せられていると言えましょう。
もしも枝葉を避けて幹だけをたどるのであれば、最後の3通の書簡「32 柳田より中山氏へ」「33 柳田より緒方翁へ」「34 松岡輝夫氏へ」は読んだ方がよいと思います。この3通はいずれもこの往復書簡集をまとめて出版する考えを述べており、議論の収束を意図して一応の結論めいたものをとりまとめようとしていることがうかがわれるからです。勿論それ以外の一々の書簡も読むに如くはありません。候文の書簡の書き方が実例でわかりますし笑。

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雪隠で読み始めたがやめた本:『民俗學』(赤松啓介 昭和13(1938) 三笠書房)

本書の著者の赤松啓介は1909(明治42)年生まれの民俗学者で、戦前は独学で民俗学的調査を行うかたわら非合法時代の日本共産党に入党し、収監されたこともあるといい、戦後は神戸市史編集委員、神戸市埋蔵文化財調査嘱託などを務め、差別・夜這い(性愛)・百姓一揆など、従来の民俗学が扱ってこなかった分野の研究を行いました。


本書は三笠全書の一冊として刊行されたもので、著者の「はしがき」にあるように「何よりも一般的な知識を提供したかったので、そのような配慮から民俗学のすべてに亘る一応の提起を企図した」(p. 3 原書は旧字・旧かなづかいだが引用は新字・新かなづかいに改めた。以下同じ)ということなので、戦前の1938(昭和13:実際には日中戦争はこの前年の1937(昭和12)の盧溝橋事件から始まっているが)年の日本民俗学の状況を知りたいと思って読み始めました。

 

一応本書の目次を掲げます。漢数字はアラビア数字に改めました。

 

はしがき

 

第1章 民俗学発達の史的展望

第1節 民俗学の胎生と発達

1. 民俗学のの典型的発達
2. 民族学の特徴的形成
3. 科学的建設の萌芽

第2節 日本に於ける発達

1. 幕藩末期における萌芽
2. 人類学に於ける胎生
3. 郷土研究に於ける形成

第3節 最近の情勢と動向

1. 民俗学としての成立
2. 民俗学の転換と動向

 

 

第2章 民俗学の対象と方法

第1節 民俗学の対象

1. 民間伝承とは何か
2. 歴史性及び社会性
3. 民俗学の目的

第2節 民俗学の方法

1. 方法の多様に就て
2. 相違と一致の比較
3. 発展と運動の結合

第3節 民俗学の技術

1. 採取技術の発達
2. 調査技術の形成
3. 組織技術の胎生

 

第3章 伝承の停滞と運動

第1節 封建習俗の残存と崩壊 ―生産諸関係―

1. 村の文化
2. 村の生産
3. 村の工業
4. 村の商業

第2節 封建習俗の残存と崩壊 ―社会的機構・社会的意識―

1. 村の組織
2. 村の共同
3. 村の崩壊

第3節 俗信の集団的調査に就て

1. はしがき
2. 採取資料
3. 整理と考察

 

あとがきとして

 

 

 

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雪隠読書録:『増補 普通の人びと ホロコーストと第101警察予備大隊』(クリストファー・R・ブラウニング著 谷喬夫訳 2019 ちくま学芸文庫)

まずはカバー裏の紹介文を転記します。
「薬剤師や職人、木材商などの一般市民を中心に編成された第101警察予備大隊。ナチス台頭以前に教育を受け、とりたてて狂信的な反ユダヤ主義者というわけでもなかった彼らは、ポーランドにおいて3万8000人ものユダヤ人を殺害し、4万5千人以上の強制移送を実行した。私たちと同じくごく平凡な人びとが、無抵抗なユダヤ人を並び立たせ、ひたすら銃殺しつづける――そんなことがなぜ可能だったのか。限られた資料や証言を縒り合わせ、凄惨きわまりないその実態を描き出すとともに、彼らを大量殺戮へと導いた恐るべきメカニズムに迫る戦慄の書。原著最新版より、増補分をあらたに訳出した決定版。」
本書の大まかな内容はここに書かれているとおりです。私たちが二度と戦争に加担しないために、「私たちと同じごく平凡な人びと」を「大量殺戮へと導いた恐るべきメカニズム」を知っておきたい、ということで本書を手に取りました。
ネタバレで恐縮ですが、この紹介文が「恐るべきメカニズムに迫る」と絶妙な書き方をしているとおり、本書ではその「メカニズム」に迫ってはいますが、明らかにするところまでは至っていません。しかしその「メカニズム」が単一の要素だけから成るのではなく、様々な要因の組み合わせの結果であろうということは、ほぼ納得できる形で示されています。たとえばミルグラムやジンバルドーによる実験からうかがわれる人間の社会心理学的な性向、反ユダヤ主義の伝統、ナチスの教育、当時の社会的な状況等々、さまざまな要因が絡み合ったところにこの「メカニズム」が成立していたらしいことが、特に本書の初版(1992年)に続いて発表されたダニエル・ゴールドハーゲンの『普通のドイツ人とホロコースト――ヒトラーの自発的死刑執行人たち』(原書1996、邦訳2007)で提唱されている「当時のドイツ国民の精神に「抹殺主義的反ユダヤ主義」が骨の髄まで浸透していたから」(p. 509)という、「当時のドイツ社会だけに見られた単一原因説」と対照させながら、周到綿密な調査と豊富な文献により示されています。

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大伴坂上郎女の逢坂山の歌

京都駅からまっすぐ東へ向かう東海道本線の上り列車に乗ると、京都の次の山科駅を出た列車はトンネルに入ります。そしてトンネルを抜けてすぐの大津駅はもう京都府ではなく滋賀県の駅。このトンネルは京都府と滋賀県の境にある標高325メートルの逢坂山(おうさかやま)を越える逢坂山トンネルです(もっとも実際の県境は逢坂山の西麓を通っていて、逢坂山そのものは滋賀県大津市に属する)。
逢坂山といえば百人一首の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」(蝉丸)を思い出す方も多いでしょう。この逢坂山は、古くは畿内と畿外の境とされていました。畿内とは宮都(みやこ)の近隣地域のことで、大和・山城・播磨・河内の四つの国(さらに後には河内国から和泉国を分立して五畿内と言われるようになる)を指しましたが、そうなる以前の孝徳天皇の大化2(646)年に出された「大化の改新の詔」には「凡(およ)そ畿内は(中略)北は近江(おうみ)狭々波(ささなみ)合坂山より以来(このかた)」とあり、この山が畿内の北の境とされていたのです。

 

夏四月、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の、賀茂神社(かものやしろ)を拝(おろが)み奉(まつ)りし時に、便(すなわ)ち相坂山(おうさかやま)を越え、近江の海を望み見て、晩頭(ゆうぐれ)に還(かえ)り来て作れる歌一首

 

木綿畳(ゆうたたみ)手向(たむけ)の山を今日越えていづれの野辺に廬(いおり)せむわれ
(万葉集巻第六 1017)

※訓読は中西進『万葉集 全訳注原文付』(昭和53から58(1978から1983)年 講談社文庫)に拠り、( )に包んだ振り仮名は新仮名遣いとしました。

 

歌の題詞(歌の前にあって歌が詠まれた状況や背景を説明する文)によると、これは大和朝廷の有力豪族である大伴家の坂上郎女が、ある年の四月に山城国の賀茂神社に参拝した際、ついでに足を伸ばして逢坂山の峠に立って近江の海(琵琶湖)を望見し、夕刻になって賀茂神社近くの宿所に帰って来た際に作った歌ということです。歌の意味は

 

木綿を重ねて畳んだ木綿畳(ゆうだたみ)を峠の神に手向けて旅の安全を祈る、その手向けの山を今日は越えてきて、さて、どこの野辺に仮の廬を結んで一夜を過ごそうか、私たちは

 

というもの。歌の最後の「われ」は単数の「私」のように聞こえますが、原文は「吾等」とあり複数。当時貴族が、まして女性が、一人旅をすることはあり得ず、必ず伴の者がついて一行となる習いでした。

そうしたことは承知の上でなお私は、この歌の「われ」を坂上郎女自身の一人称と見たいのです。「吾等」という集団的な発想ではなく、後期万葉を代表する優れた女流歌人であったこの人の、その繊細で鋭利な感覚で感じ取られた畏(おそ)れや慄(おのの)きの主体であるところの、一人の「わたし」と見たいと思うのです。

 

〈画像は奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」のツイッター「せんとくんのつぶやき」から〉
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