本宿(ほんしゅく)駅再び 〜 10年後の再訪

 ちょうど10年前の夏、今ではもう存在しないJR南武線の旧・西府駅と本宿駅について調べたことがありました。このときのことはこちらにまとめましたが、今年の3月にこの記事へのコメントをいただきました。そのコメントの内容は大変示唆に富み、10年前の私の結論を補完するものでしたが、個人名でいただいており、コメントを公開するとお名前も公開されてしまうので、コメントの内容だけをこちらに掲載させていただきます。

 

(以下コメント内容)

本宿駅と推定しているところに住んでいた者です。
ホームの残骸のコンクリートの塊が多く残されていた所が駅のはずで、あなたの推定場所よりやや右です。
線路北側に東西に走っている道があり、本宿村の主要道の一つです。
小学校東のマンション群の昔は、別荘です。林の中に日本風の立派な建物があり庭もたいしたものです。子供のころ中に入ってドングリをひろいました。別荘主はどこかの商社の人らしく、子供は府中の明星学園に通ってました。ここに別荘を建てたのは、崖上で富士山の見晴らしがよく、眼下には稲穂やレンゲ畑がきれいだからです。ここの傾斜は大昔(鎌倉、室町時代)多摩川が流れていて、川が削り取った後です。鎌倉幕府が滅びたきっかけの足利軍との大決戦があった分倍河原の戦いはこの少し東です。
以上
(コメント内容終わり)

 

 上のコメントより、本宿駅は私が推定した場所(都道府中・町田線バイパスが南武線をアンダークロスしているところの真上)よりもやや右、つまり東側にあったらしいことと、私が「豪農の母屋か」と推定した府中五小の東隣の、現在はマンション群になっている一画は、もとは別荘であったことがわかりました。
 この一画に関するコメントの「林の中に日本風の立派な建物があり庭もたいしたもの」という記述は、1947年撮影の空中写真に対する10年前の私の所見「今ではマンション群が建っているところが、当時は大きな社寺でもあったのか、学校とほぼ同じ面積の木立に囲まれた一画になっていました。しかも写真によっては、この一画のほぼ中央に大きな屋敷のような建物が写っているようにも見える」とよく一致しています。当時は高い建物はなかったので、ここから彼方に富士山も見え、逆S字型の中坂を下りた府中崖線下の多摩川の沖積平野に広がる水田も広く見渡せたことでしょう・・・としばらくの間当時の風景を想像してしまいました。

 その後このコメントをいただいた方(仮にA様としましょう)から、さらに以下のような補足情報をいただくことができました。

  • 府中・町田線バイパスが南に向かって南武線をアンダークロスしようとするところの東側に細い道が南武線に向かってついていて、線路で途切れている。A様はこれが本宿駅に向かう道だったと確信していらっしゃるとのこと。
  • バイパスはもともと南武線だけをアンダークロスしてその先は掘割にする計画だったが、当時まだあった例の別荘地の貴重な緑を残せという反対が出たため、トンネルを延長して別荘地の下を潜らせた。その後地主がこの別荘を売却したためにマンション群が建ち、現在のようにマンション群の下を道路が潜ることになった。

貴重な情報をお寄せくださったA様には、改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

 

 さて、A様からいただいた補足情報で触れられていた「本宿駅に向かう道」が、いたく私の興味をそそりました。実はこの辺りは10年前の実地調査の際にあまりの暑さにメゲて調べ残していたエリアで、その際に私自身が「宿題」として「調べ残したバイパス入口の東側(府中寄り)の線路北側に、ひょっとしたら駅へのアプローチの名残があるかも知れないが、どうかなぁ・・・「本宿駅→」なんて書いてある案内板がさり気なく残ってるとか、「行くゅしんほ りよ はかちた」(昔だから横書きは右からね)の切符が落ちてるとか・・・あるわけないか。」と書いていました。やっぱり駅へのアプローチは残っていたのか!?これは10年前の宿題をやりに現地に行くしかないでしょ!

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