駒込天祖神社で茅の輪くぐり
 6月27日(土)のお昼頃、所属している某オーケストラの室内楽演奏会を聞くために、JR駒込駅から本郷通りを歩いて文京区駒込地域活動センターへ向かっていたところ、左(北)側へ入る通りに「天祖神社入口」という石の道標と「夏越大祓」(なごしのおおはらえ)の幟(のぼり)が立っているのに気づきました(左写真)。
  私は出先で神社を見つけると、できるだけお参りすることにしています。この日もまだ時間があったので、早速この道へ入りました。夏越大祓といえば6月30日の茅の輪くぐりですが、こちらの神社では融通を利かせて、直近の週末であるこの日にも間に合わせていただいているようです(神主様が立ち会ってのお祓いは翌日28日の午後4時からだったらしい)。出不精な私はこれまで6月30日に神社に出向いて茅の輪をくぐったことがない(今日だって家にいてこの記事書いてるし・・・)ので、思わぬところで茅の輪くぐりを初体験することになりました。

 この道へ入るとすぐの角に「旧町名案内」という看板が立っています(右写真)。このあたりは昭和41(1966)年まで「駒込神明町(こまごめしんめいちょう)」だったとのことで、町名の説明文と旧町域図が出ています。以下、説明文を転記します。なお[ ]内は説明文にあるフリガナです。

旧 駒込神明[こまごめしんめい]町
      (昭和41年までの町名)

 もと、北豊島郡駒込村の内であった。明治24年、旧神明原の大部分、本村、本村下、富士裏[ふじうら]、丸山、丸山下の地を東京市に編入して一町とした。
 町名は、神明社[しんめいしゃ](現・天祖[てんそ]神社)の所在地であるところから神明町とした。
 文治[ぶんじ]5年(1189)源頼朝[みなもとのよりとも]が奥羽征討の途中、夢にお告げを聞き探させたところ、大麻[たいま](伊勢神宮のおふだ)がかかっていた。頼朝は喜びここに神明社を建てたという。
 古川柳[こせんりゅう]に“駒込は一富士二鷹三茄子[なすび]”という句がある。富士神社、鷹匠[たかじょう]屋敷と富士裏(富士神社裏)のなすの駒込の名物がうたいこまれている。

 説明文は以上です。説明文の隣の地図(左写真)を見ると、今通っているこの道が区立第九中学校の前を通って天祖神社の正面に至る、いわば参道であることがわかります。なるほど道沿いに「夏越大祓」の幟が立ち並んでいました。
 
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| 地域とくらし、旅 | 17:23 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
最近読んだ本:『丸山眞男を読む』(間宮陽介 2014 岩波現代文庫 学術319)
 以前『現代政治学の名著』を読んだ読後感に「まずは丸山真男のファシズム論に耳を傾けてみたいと思い、『増補版 現代政治の思想と行動』を古書で購入しました。これはじっくり読みたいと思います。」と書きました。その後宣言どおり読み始め、今は全体の 1/4 くらいまで読んだところです。しかしこの『現代政治の思想と行動』はA5判のハードカバーという立派な体裁に加え、はしがき・目次・補注・追記・後記等々で585ページになる大冊で、出かけるときに気軽に持ち出すのも面倒な大きさと重さですし、本文は51字×17行を細字でびっしり組んであり、しかも内容が内容だけになかなか進みません。
 というわけでこれは長期戦になる覚悟で、間に他の本も読みながら文字通り「じっくり」読むことに決めました。しかしそうかと言っていきなりまるっきり関係ない本を読むのも何となく気がひける(小心者!)ので、たまたま書店で目についた本書を読むことにしました。

 ところが、どうやら私は読む本を間違えたようです。というのは、本書は確かに丸山眞男を読んではいるのですが、本書が読んでいるのは主に彼の初期の著作である『日本政治思想史研究』(1952:ただし収録された論文は第二次大戦中に執筆したもの)なのです。これは儒教(朱子学)の批判から荻生徂徠や本居宣長らの近代的思惟が生まれてくる過程を扱ったもので私は未読ですし、『現代政治の思想と行動』で扱われている日本ファシズムや超国家主義、時局に関する提言等とも直接関係がありません。一応本書では丸山のファシズム研究にも触れてはいますが、文脈からしても分量的に見ても、幹に対する枝葉の扱いという感じです。しかも本書は冒頭からいきなり吉本隆明や色川大吉らの丸山批判に対する反批判で始まるのですが、不勉強な私は吉本隆明も色川大吉も読んでいないので、こちらの興味と本書の論点が噛み合わず、読み進めるモチベーションがさっぱり上がりません。
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| 本のこと | 18:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ブラームスのセレナーデ17枚+2枚を聞く 00. ベースノート

 先日ドクトル青木からお預かりした段ボール箱一杯の百数十枚に上る CD/DVD たちの山にとりかかる時がいよいよやってまいりました。この広く高く深い南アルプスみたいな山塊のどこから手をつけるかはいささか迷うところですが、前回アップした記事で「この段ボール箱の中ではまず真っ先にこのブラームスのセレナーデ17種+2種を聞いていくことにします。」と宣言したので、有言実行、初志貫徹。さっそく Excel でこの17枚のリストを作りました。その日その日で段ボール箱に手を突っ込んで最初に触ったやつを聞くというのでも悪くはないのですが、とりあえずどういうメンツがそろっているのか全体像をつかむため、レーベル・CD番号・指揮者・オーケストラ・録音年という項目を立てて17枚のデータをとりました。ふむふむ、なかなか多種多彩なものが揃っておるわ。

 せっかくリストを作ったので、ついでに聞く順番を決めちゃおうと思いました。たとえば録音年順に聞いていけば、ひょっとすると演奏スタイルの変遷が見えてくるかも知れません。指揮者やオーケストラごとにグルーピングというのも考えられますが、今回はアバド指揮の演奏が2種、ロンドン交響楽団の演奏が2種ある他は指揮者もオーケストラもばらついていて、グルーピングの効果は極めて限定的です。
 で、いろいろ妄想を巡らせたあげく、CD番号の昇順で聞いていくことにしました。理由は特にありません(笑)。強いて言えばなるべく特定の傾向が出ないようにしてみたかったということでしょうかね。
 というわけで、これから何日かかるかわかりませんが、以下にこれから聞くCDの内容を順番に並べて、ブラームスのセレナーデプロジェクトのベースノートとします。( )内は録音年または発売年。

01.  Heinz Bongartz / Dresdner Philharmonie(1番) (1962)
02.  Claudio Abbado / Berliner Philharmoniker (1981/1967)
03a. Sir Andrew Davis / Royal Stockholm Philharmonic Orchestra(1番) (1998)
03b. Armin Jordan / Ensemble Orchestral de Paris(2番) (1988)
04.  Kurt Mazur / Gewandhausorchester Leipzig (1981/1980)
05.  István Kertész / London Symphony Orchestra (1968)
06.  Claudio Abbado / Mahler Chamber Orchestra(1番) (2006)
07.  Alun Francis / Orchestra Sinfonica di Milano "Giuseppe Verdi" (1996)
08.  Gary Bertini / Wiener Symphoniker (1982)
09.  Friedrich Haider / Mantova Chamber Orchestra(1番) (2001)
10.  Vernon Handley / Ulster Orchestra(1番) (1988)
11.  Doughlas Bostock / Chamber Philharmonic of Bohemia (1997)
12.  Dirk Vermeulen / Prima La Musica(1番) (?)
13.  Leon Botstein / Chelsea Chamber Ensemble / American Symphony Orchestra(1番) (1993)
14.  Nicholas McGegan / Philharmonia Baroque Orchestra (2010/2012)
15.  Günter Wand / Kölner Rundfunk-Sinfonie-Orchester(1番) (1968)
16.  Dirk Joeres / Westdeutsche Sinfonia (1992)
17.  Michael Tilson Thomas / London Symphony Orchestra (2002)

 このお預かりしている17枚に加えて、私が持っている次の2枚もレファレンスとして改めて聞くことにします。
a.    Sir Adrian Boult / London Philharmonic Orchestra (1977-78)
b.    Silke-Thora Matthies, Christian Köhn(ピアノ四手版) (1996)

 聞いたことがある指揮者 / オケもあり、初めて聞く指揮者 / オケもあり、録音年も1962年から2012年まで半世紀にわたっています。しかも12.と13.の第1番は現行のオーケストラ版ではなく、最初に書かれその後ブラームス自身が破棄したといわれる九重奏用の復元版(Alan Boustead による)に基づく演奏とのこと。これは今回初めて聞きます。
 うーむ楽しみだ。

| ブラームスのセレナーデ | 16:52 | comments(0) | - | pookmark |
アバド / ベルリン・フィルのベートーヴェン交響曲全集DVD
 以前拙ブログでちらっと触れましたが、土浦交響楽団でご一緒させていただいているヴィオラ奏者の榊原さんから、クラウディオ・アバド指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団によるベートーヴェンの交響曲全集のDVDを貸していただき、先日ようやく全曲を視聴し終わりました。
 この全集は第1番から第8番までが2001年2月8日から14日にかけてローマのサンタ・チェチーリア音楽院で収録されたもの、第9番が2000年5月1日にベルリンのフィルハーモニーで収録された「ヨーロッパ・コンサート2000」のもので、いずれもライブです。

<写真のように交響曲全9曲を収録したDVD4枚セットが紙製ケースに収められています。なお同じ演奏会で演奏された序曲、協奏曲等は収録されていません。>

 実は2000年という年はアバドにとって大変重大な年でした。このDVDに収められた5月1日の「ヨーロッパ・コンサート」に続いて同じ5月にベルリン・フィルと南米演奏旅行を行った後、いくつかの演奏会をキャンセルして胃がんの手術を受けたのです。復帰は同年10月でした。つまりこのDVDセットにはアバドが胃がんに倒れる直前と復帰数ヶ月後の演奏が収められているのです。
 一度病に倒れて再起した演奏家の中には、たとえば指揮者のフェレンツ・フリッチャイのようにその前と後で演奏スタイルががらりと変わってしまった人もいます。このDVDで見るアバドも、手術前の「第九」に比べて復帰後は頬のあたりがこけているのがはっきりとわかります。しかし指揮ぶりはほとんど変わらず、復帰後の方が動きが軽く切れがよいようにも見えますし、演奏スタイルの違いも感じられず、むしろ「第九」とそれ以外の交響曲の作風の違いがはっきりと感じられました。

 この全集でのアバドのアプローチは、たとえばベルリン・フィルでの前任者のカラヤンのように大編成の豊穣な響きと迫力を前面に押し立てるものとは対照的に、小さい編成で奏者同士の室内楽的なアンサンブルによる生き生きとした音楽を目指すものです。第1番から第8番では第1ヴァイオリンが4プルトないし5プルト、コントラバス3本ないし4本、「第九」でも第1ヴァイオリンはおそらく5プルト、コントラバスは6本で、どの曲でも管楽器は各パート1本ずつです。テンポは速めで慣例的な「溜め」や大きなアゴーギクは基本的に避けられていて、自然な流れの中にベートーヴェンが仕組んだオフビートの sf や突然のダイナミクスの変化が目覚ましい効果を挙げています。
 古楽系の演奏スタイルが普及した今日ではこうしたスタイルによる演奏は珍しくありませんが、今から15年前に、しかもベルリン・フィルという超メジャーなビッグオーケストラを率いてこうした演奏を行ったことは、当時及びそれ以後の音楽界に相当な影響を与えたであろうと思われますし、この路線でさらに尖鋭化した演奏(たとえば今年NHK交響楽団の首席指揮者に就任したパーヴォ・ヤルヴィがドイツ・カンマーフィルハーモニー・ブレーメンを指揮したものなど)も現れてきた今日では、中庸の美徳というか、大変上質な演奏を安心して聴くことができるという意味で貴重だと思います。勿論「平凡」ということではありませんよ。
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| オーケストラ活動と音楽のこと | 14:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
5月から6月の自分が出た演奏会
 5月30日から6月13日まで2週間の間に演奏会本番が4つありました。それぞれに苦労もあり楽しくもあった演奏会でしたが、備忘録的に短くまとめて記録しておきます。4つの演奏会の内訳は
◯2015/5/30 東京サロンオーケストラ 第43回シンフォニックコンサート(創立60週年記念)
◯2015/5/31 ピアッツァ・アルテ音楽教室発表会2015
◯2015/6/7  土浦交響楽団 第70回定期演奏会
◯2015/6/13 茨城大学管弦楽団 第39回サマーコンサート
です。
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| 自分が出演した演奏会 | 15:32 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
最近読んだ本:『「スターリン言語学」精読』(田中克彦 2000 岩波現代文庫 学術8)
 以前買ったまま積ん読だった一冊。おそらく「スターリン」に惹かれて買ったのだと思います。ところが今回読んでみて、これまで漠然と抱いていたスターリンのイメージが大きく変わりました。私のこれまでのイメージというのはなんと言っても「大粛清」のそれで、権謀術数をめぐらして当面のまた将来のライバルを片端から除いていっただけでなく、仲間や部下をも信用できず百万人以上を死に追いやった病的なまでの猜疑家にして冷血漢、ドグマチックな全体主義者といったものでした。
ところが本書に描かれたスターリンはちょっと違いました。

 「スターリン言語学」とは、ソヴィエト共産党の機関紙「プラヴダ」1950年6月20日第171号に記者とスターリンの問答の形で掲載された「言語学におけるマルクス主義について」という論文と、同年7月4日第185号に掲載された「言語学の若干の問題について ―同志クラシェニンニコワへの答―」、さらに8月2日第214号に掲載された「同志サンジェーエフへ」「同志デ・ベールキンと同志エス・フーレルへ」「同志ア・ホロポフへ」と題した読者からの質問に対する回答とを、「マルクス主義と言語学の諸問題」という題名でひとつにまとめたものを指し、本書中にその全文が収載されています。タイトルページを含めて63ページという短いもので、いずれも質問とそれに対する答えという形で書かれているので、理論的な論文といったものではありません。
 そんな分量・体裁のものに「精読」とは大げさな、と思われますが、言語学者である著者は当時の言語学の状況から説き起こし、1920年代と1950年代のスターリンが置かれた状況の変化を検討し、さらにこの「スターリン言語学」が日本でどのように受容されどのような反応を引き起こしたかまでを論じています。つまり「スターリン言語学」のテクスト自体を読み込みながらその背景を順次解説していくのではなく、まず「スターリン言語学」が発表されるに至る歴史的・社会的状況を説明し、その上で「スターリン言語学」の全文をどーんと出し、読み込みは読者に任せるという構成がとられています。前述のとおり「スターリン言語学」自体が論理的に構築された論文体ではないので、本書のこうした、いわば「外堀から埋める」構成は成功しています。また網羅的ではありませんが言語学やマルクス=レーニン主義に対する理解も得ることができ、テクストに密着しながらの「精読」につきものの息苦しさもなく、読みやすかったです。
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| 本のこと | 20:43 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
最近読んだ本:『民意のつくられかた』(斎藤貴男 2014 岩波現代文庫/社会277)
 昨今、特にネット上で、マスコミやその他の情報メディアに対する批判、というよりもむしろ非難というべきものがよく見られるようになりました。その論調も、中には単純なミステイク(誤報)や提供されている情報の不足・取材の掘り下げ不足等を咎めるものもありますが、報道内容の偏向・偽装・情報遮断といった意図的な情報操作・ミスリーディングに対するそれが目立つようになっているという印象が私にはあります。
 本書は具体的ないくつかのケースによって、民意(世論といってもよい)がどのように「つくられ」るのかを解き明かしたものです。以下にカバー裏の説明文を転載いたします。

(転載開始)
原子力発電をめぐる世論は移り変わりながら、「3・11」まで「クリーンで安全な原子力」と歓迎をしていた……。メディア・広報、タウンミーティング、教育など、数多くのチャンネルを通して誘導され、操作される世論のありさまが関係者への直撃取材で明らかになる。道路建設、五輪招致など様々な場面で、国策・政策の遂行にむけ、いかに「民意」が「偽装」されるかを浮き彫りにした話題書に、集団的自衛権をめぐる言論状況に迫る新稿を加え、深まってゆく危険な動きへの警鐘を鳴らす。
(転載終了)

 さらに本書の目次を以下に転載いたします。

はじめに
第1章 言論人が国策を先導するのか
第2章 つくられた原子力神話(1)
第3章 ジャーナリズム、教育をまきこんで ―つくられた原子力神話(2)
第4章 国策PR
第5章 捕鯨国ニッポンの登場
第6章 道路とNPO
第7章 派遣村バッシング
第8書 五輪招致という虚妄
第9章 仕組まれる選挙

 巻末に「本書は2011年に岩波書店より刊行された同名書に新稿を加えるなど、再編集したものである。」と断られているとおり、扱われている個々のケースには今となってはやや古いものもあります(たとえば第8章で扱われている五輪招致は、「お・も・て・な・し」の2020年東京オリンピック招致ではなく、失敗に終わった2016年のオリンピック招致であるなど)が、本書の目的は個々の具体的な事実関係を云々することではなく、本書のタイトルどおり「民意のつくられかた」を示すことにあるので、事例が多少古いことは本書を読む上での障害にはなりません。なお解説文にいう「集団的自衛権をめぐる言論状況に迫る新稿」とは、現在国会で審議されている安倍内閣の安保法制を題材に新たに書き下ろされた第1章「言論人が国策を先導するのか」を指しています。
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| 本のこと | 14:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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