昨年暮れに見に行った「
赤瀬川原平の芸術原論展」があまりに印象深かったので、その勢いで買って読み、大変面白かった。私の場合「面白い本」は
1) 面白いので一気に読んでしまう本
2) 面白いのでわざと少しずつ読んで読了を引き延ばす本
の2種類に分かれます。本書は後者でした。
<写真は表紙。椹木野衣(さわらぎ・のい)氏の解説の前に「本書は1988年7月岩波書店より刊行された。底本として、岩波同時代ライブラリー版(1991年刊)を使用した。」と記されており、オリジナルの「あとがき」・「同時代ライブラリー版に寄せて」・「岩波現代文庫版あとがき」の三つのあとがきが収載されています。しかも岩波現代文庫版は2006年5月刊ですが私が購入したのは2014年11月の第2刷で、その証としてカバーの裏見返し側にある著者紹介の最後に「2014年没。」の一文が加わっています。古書になると普通は初版初刷が高価ですが、本書の場合はこのカバーの一文ゆえに第2刷も高くなるんじゃないだろうか。売らないけど(後述)。>
本書については、著者自身が「岩波現代文庫版あとがき」の中で次のように述べています。
さてこの『芸術原論』だけど、これは原理原論を書き下したものではない。文筆業というものは、いろんなメディアにいろんなことを書く。それがときどき磁石を使ったみたいに集められて本になる。そんなことを繰り返しながらもどうしてもふつうの磁石にくっつかずに残ってしまうものがある。ちょっと重かったり、理屈が勝ちすぎていたり、論理に偏りすぎていたりして、所在なく散らばっている。でもいずれもどこか遠くで共通するものがあり、あらためて芸術という磁石を持ち出したら、全部くっついてきたというのが本書の素材となっている。(p.332)
まったくそのとおりで、本書には1980年から1988年にかけて雑誌・新聞等に発表された文章が集められ、
I 芸術の素
II 在来の美
III 脱芸術的考察
IV 路の感覚
V 芸術原論
の5部にまとめられています。
著者一流の味わい深い指摘や表現に富んだ味わい深い文章が集められていて、私にとっては折に触れて何度も読み返したい一冊です。特に印象派への独特の評価には「なるほど!」と感心させられましたし、「若いころは前衛一筋、日本文化のワビ・サビなどは退行的なものとしか考えられず、まったくの無視をきめこんできた」(p.281)著者が、トマソンや路上観察を通じて発見した芸術が利休のそれ(「芸術」という言葉は使っていないけれども)とあまりにも符合することに気付いて洩らした「じつに思いがけぬことである。芸術の前衛一本道を抜け出てきた先が、利休のお茶室の床下から床上にまで上り込んでしまうとは。」(p.317)という感慨は大変印象深いものでした。
思えば私はたまたま手に取った写真雑誌に載っていた「トマソン」をきっかけにこの人の文章と出会い、この人に導かれて美術や芸術一般に対する目を開かれ、面白く感じるようになったのでした。たまたま昨年の11月頃に『ダダ・シュルレアリスムの時代』(塚原 史著 1988/2003 ちくま学芸文庫)という本を、これも大変面白く読みましたが、そもそもダダやトリスタン・ツァラへの関心もやはりこの人がきっかけになっていたのでした。
<右は『ダダ・シュルレアリスムの時代』表紙。これも面白かったので付箋がけっこういっぱい入っています。「〜の時代」とあるとおり、ダダとシュルレアリスムという芸術運動が当時の時代の中でどのように生まれ、どのように展開したかという観点から書かれています。>
私にとっては紛れもなく芸術上の「師」でありました。