「ディスカバー、ディスカバー・ジャパン 「遠く」へ行きたい」展の図録を読み終えて、その印象が鮮やかなうちにもう一度展覧会を見ておきたいと、10月16日(木)の午後再び東京ステーションギャラリーを訪れました。今回の目的は図録の「II 「遠く」へ行きたい」の部に相当する展示、特に「遠くへ行きたい」のビデオ上映にあったので、図録の「I ディスカバー、ディスカバー・ジャパン」の部に相当する3階展示室の展示はほぼスルーで2階展示室へ直行。
<写真は今回ビデオ上映で見た「遠くへ行きたい」第124回「伊丹十三の天が近い村〜伊那谷の冬〜」(1973年2月25日放送)の舞台である下栗(しもぐり)集落。これは現在の様子ですが、40年前の1973年の映像では道も舗装されてないし家々も畑ももっと荒涼とした感じでした。>
いきなりですが図録から引用します。まずは「遠くへ行きたい」を制作するテレビマンユニオンのディレクターを務めた今野勉氏へのインタビューの一部です。
「ドキュメンタリーとは何か?」を考えざるをえなくなったのはね、『遠くへ行きたい』を撮っている間のことで、具体的には「伊丹十三の天が近い村」がきっかけだったと思います。我々が頼んでもいないのに村中で婚礼をやっちゃって、撮影せざるをえなくなった。それで撮影したはいいけれど、「こういうのってまずいんじゃないの?」っていうことになって(笑)しかしながら我々が頼んだわけじゃなくて、村人たちが自分たちの意思でやったわけだから、その村人たちの意思の結果としての出来事として示せればそれが真実なんじゃないかと、僕と伊丹さんでさんざん話し合ったわけです。この意思をどうやって伝えるか、表現するのかを考えることから、僕はドキュメンタリーの問題を意識するようになった気がしますね。」(p.171)
続いて、今野勉氏の『今野勉のテレビズム宣言』(1976年、フィルムアート社)から図録に引用されている一節。
「ぼくは伊丹さんと相談のうえ、その婚礼を視聴者に紹介するにあたって「たまたまわたしたちは、村の結婚式に出会った」というナレーションを入れた。そして婚礼を紹介し終わってから「実は、今のは、すべて、村の人のお芝居であった」と真相を告げた。[…]
このときの『遠くへ行きたい』の中で旅する伊丹十三は俳優であるし、村人のなかに紛れこんで花嫁になっているのはモデルだし、村人もお芝居をしているとすれば、世にいう“ドキュメンタリー”の用件(ママ)をこのシーンはまったくもちあわせていないといえる。
にもかかわらず、テレビのスタッフのために、村人がこぞって婚礼の式のお芝居に熱中したという事実(「事実」に傍点)を伝えることができる、というところに、ぼくらがつねに凝視していなければならない鍵があるのである。」(p.165 改行を変更しました)
上の二つの引用で問題になっているのは『遠くへ行きたい』の第124回「伊丹十三の天が近い村〜伊那谷の冬〜」(1973年2月25日放送)です。村を訪れた伊丹十三氏がたまたま行われた村の婚礼に立ち会った・・・はずなのに、最後に「実は今のは全部お芝居でした」とネタバレしちゃうというのですから、これは見たい!というわけで、今回はこれが会場でビデオ上映されているのを見に行ったのです。