『中国文学における孤独感』を思い切り自分に引き付けて読み取ったこと
 先日「今読んでいる本たち」に挙げた本たちのうち、『うつ病の現在』は思ったとおり早々に読了し、『中国文学における孤独感』を昨日読了しました。この『中国文学における孤独感』は読んで感ずるところ、思うところがいくつもあり、特に陶淵明と李白についてはこれまでの自分の認識を改めさせられるなど大変感銘深いものでしたが、それとは別に、私は著者の著作態度から、クラシック音楽を演奏する際の「解釈」ということについて考える点がありました。そのことは本書の内容そのものとは直接関係のないことですから、ここに書いてしまっても、これから本書を読もうとする方にとってのネタバレには当るまいと思います。

 クラシックというジャンルの音楽は exact music 、すなわち作曲者が書いた譜面を書かれているとおりに演奏する約束のものです。そこで演奏者は読み落しや読み違いがないように気をつけて譜面を読み、譜面どおりに演奏するように努めます。「どうせならこうやった方がカッコいいじゃん!」とむやみに改変して演奏することは、少なくともタテマエ上は認められておりません。
 ところで譜面にはその曲の全てが書き込まれるわけではありません。メトロノームが発明・実用化されて、テンポに関してはある程度数字で表すことができるようになりましたが、たとえばある音が何Hzで、強さが何dBで、持続時間が何秒でといった風には書かれていませんし、ある動機がどこから派生したとか、何を表しているとか、この曲で何を表現したいとか、聞く人にどんなことを伝えたいかといったことも明示的に書かれてはいません。ということは、タテマエとしては「譜面どおりに」と言いながら、演奏者はどういう音をどのように鳴らすか、何をどのようにして表現するかといったことを、常に自ら判断し実行しなければなりません。ここではこのような判断を総合的に行うことを「解釈」と言っておきます。

 私は著者が対象としている詩句を深く読み解き、そこから明確で力強い結論を引き出していることに感銘を受けたのですが、そのことについては著者が「あとがき」で次のように述べています。

(引用開始)
 ところで、古人の作品を読むには、できるだけその作者の立場に身をおくようにつとめて、読まなければならない。古人の作品を批評するには、現代の尺度をもってして、かろがろしくその非をあげつろうことなく、その作品がその時代でつとめた役割をよく認めてやらなければならない。このようなことは、概念としてうすうす心得ていても、さて具体的の仕事にかかってみると、凡俗にはなかなかその通りにはゆきかねる。
 いま私が中国の古代の作家たちをとりあげて、その孤独感をかれこれと穿鑿《せんさく》したものの、それはわずかな手がかりをもとにして、勝手な解釈をつけたのに過ぎないから、当の本人は、全く心外のこととして 「何を見当はずれをいうか」と、さぞかしせせら笑っておることであろう。こう思うと、まことに面映《おもはゆ》い限りである。
(引用終了)

 なるほど・・・と私は大いに頷いたのですが、それと同時にこれと同じことがクラシック音楽における「解釈」についても言えるのではないかと思ったのです。引用した文章の前段は古典にアプローチするものの心構えであり、後段は現実にはその心構えだけでは足りず「勝手な解釈をつけ」ざるを得ない現実を述べています。しかし何らかの結論らしきものをつかみ出そうとするのならば、たとえ多少は作歌なり作曲家なりに対して面映い思いをしようとも、「わずかな手がかりをもとにして、勝手な解釈をつけ」ることは避けられないし、むしろ避けてはいけないと言っておられるのであろうと、私は読みました。

 また例は挙げませんが、「附録」として収載されている「中国文学における融合性」も、譜面から音楽を読み取る作業にとって有用な示唆に富む文章だと思いました。

 実際のところ、譜面に書いてあることをとりあえず音にするだけなら、テンポが速くて指が回らないとか特定の音が出しにくいとかいった技術的な問題を除けば、それほど難しいことではありません。書かれた指示を見落とさない・誤読しない注意力があればできるものです。しかし上述のとおり譜面に書かれていることがその曲の全てを尽くさない以上、表現の細部を磨き内容をえぐるのは奏者の「解釈」に委ねられなければなりません。そうした「解釈」を、「わずかな手がかりをもとにして、勝手な解釈をつけ」ることを、怠ったりためらったり逃げたりしていては、力強い結論は得られない、というメッセージを、私は本書から読み取りました。
 いや、本当は以前からそう考えてはいたのですが、ときどき「本当にそれでいいのか?」と疑心暗鬼に陥ることがあったのを、本書によって肩を叩かれ背中を押された思いがしたのです。思い切り自分に引き付けた読み方で、著者にはそれこそ「何を見当はずれをいうか」と呆れられるかも知れませんが。
| 本のこと | 10:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
今読んでいる本たち
読み中の本たち 私は以前から本を何冊かいっぺんに読み始めちゃうことがときどきありまして、先週から今週にかけてまたそれをやっちゃいました。というわけで、今読み中の本たち。

中国文学における孤独感(斯波六郎)
 岩波文庫で出ていますが、今読んでいるのはネット上にあるもの(だから写真には写ってない)。きちんと読むなら紙の本の方が絶対読みやすいよなぁと思いつつも、PCのデスクトップの端に開いて仕事の合間にチラ見していますが、実に読み応えがあって思わず夢中で読んでしまいます。特に今読んでいる「陶淵明」の章は、自分が以前から陶淵明を何となく好きだったその理由が「ほら、こういうことだったんだろう?」と明らかに説かれていて、その痛快さに一々うなずきながらも、一度に読んでしまうのが惜しくて、少しずつ少しずつ読んでは楽しみを引き伸ばしています。それ以外にも胸の熱くなる箇所がいくつもあり…やっぱり本買おう!


うつ病の現在(佐古泰司+飯島裕一 講談社現代新書 2013)
 今月の新刊書です。日曜日の午後に買って読み始めましたが、たぶん今日中に読み終わります。信濃毎日新聞「くらし面」に2012年1月から2013年3月まで35回にわたって連載された記事をまとめたもので、著者は編集局文化部の記者と編集委員。専門家や現場の医師が直接書いたものではないという点が本書の特徴かと思います。本書の最後には専門家2名(野村総一郎・防衛医科大学校病院長と鷲塚伸介・信州大学医学部准教授)の対談(司会者あり)が収められていますが、まだそこまで読み進めていません。
 もともとが新聞記事らしくルポが中心で、患者目線や医療従事者・専門家目線で固定して書かれているわけではありません。そこが私のような、友人・知人に患者がいてうつ病に関心はあるが、今まさに直接うつ病やその患者と向かい合っているわけではない立場の人間にとって読みやすい理由であろうと思います。全体は次のような章立てで、新しい情報を盛り込んだやさしい概説書といった感じです。

 第1章 現代型のうつ病
 第2章 従来型うつ病
 第3章 従来型うつ病の診断と治療
 第4章 従来型うつ病をめぐって
 第5章 うつ病と似た病気
 第6章 患者と家族を支える
 巻末対談 「うつ病の時代」を生きる 野村総一郎・鷲塚伸介


諸子新鈔 全(積文館編輯部・編 昭和4初版・昭和16五版 積文館書店)
 古書で買いました。いわゆる諸子百家の諸子のうち管子・荀子・孫子・呉子・韓非子・老子・荘子・列子・墨子の九子の書から数章ずつを抜き出したもので、訓点(一、二、レなど)は付いていますが送り仮名や振り仮名はなく、なかなか硬派です(笑)。私は老子は持っているが未読、それ以外の諸子の皆さんにもこれまでまったく縁がなく、たまたま上に書いた「中国文学における孤独感」に荘子に関する言及もあったので、古書店の店頭で見つけて「これはいい!」と購入。中国三千年の知恵が税込420円ですもん。
 裏表紙に「豫科三乙 牧野大英」と墨書されており、本文最終ページの余白に

  アルプの雪の精をとり
   自覚の意気は青春の
  若き胸より迸(ほとばし)る
   理想に燃えたつ紅の
  勝負の風に船出して
   進め怒涛を何かせん

という新体詩ふうの一節が鉛筆で、いずれも端正な楷書で書き込まれています。ああ、青春だねえ!


おぼろ月夜本文おぼろ月夜 五編(南仙笑楚満人 文政10?)
 これも古書で、江戸時代の刊本です。以前「和本リテラシー」の記事の最後に「いっちょ「和本リテラシー」所有者の5001人目に挑戦してみようかな。」などと不敵につぶやいてみましたが、言ってしまったからにはカタチだけでもやらないと(笑)、というわけで、コレです。古書店の店頭でぱらぱらとめくってみると、少なくとも本文(右写真の左ページから始まる)は意外にいけそうな感触です。漢字の多くには親切にルビが振ってあるので、草書体の漢字がダメでもひらがなの変体仮名さえ読めれば話の大筋は追えそうな気がするのです。ただ変体仮名で「はしが記」と題されたやや大字の文章(写真の右ページで終わり)は本文の字体より筆字に近い感じで、これはやや難物かと。
 いきなり五編の上という話の途中だし、写真でもわかるとおりかなり虫喰いが激しく値札にも「大虫損」とありましたが、私としては字が読めるようになればいいのでこれで十分です。ひょっとしてこの税込420円(上の「諸子新鈔」と同値)の投資で和本リテラシー5001人目になれるかもよ!(笑)

 まあ後の2冊は長期戦ですな…。
| 本のこと | 00:00 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
森高千里「Alone」
森高The Singles 昨年の8月に敢行した「一人渡良瀬橋ツアー」の直後、森高千里の「The Singles」初回限定盤を買ったわけですが、このアルバムを聞くたびに気になるのが「Alone」という曲(作詞:森高千里 作曲:安田信二 1988年)。曲のスタイルも歌い方も当時の森高さんらしくなくて、私にはやまがたすみこさんの歌のように聞こえるのです。

 以前やまがたすみこさんの「ゴールデン☆ベスト」というアルバムについて書きましたが、この曲はそっちのアルバムに入っていても全然違和感がない、というかむしろそっちに入っていた方がしっくりくるんじゃないかと思われるくらい、森高さん離れしてますね。森高さん独特のやや耳につく「え段」の発音もこの曲に関しては目立たないし、発声も素直で声が豊かでいつもより太い感じだし。
 私が妄想するにこの曲は、初期の「GET SMILE」や「ザ・ミーハー」のスタイルから、もっと幅広くいろいろな歌を歌っていこうと試みる中での過渡的な産物なのではなかろうか。やまがたすみこさんもいろいろな歌い方に挑戦しながらさまざまなスタイルの歌を歌いこなしてきましたが、森高さんにもそういう時期があったのではないでしょうか。実際、翌年の「17才」(1989年;これも森高さんらしくない、過渡的な歌唱と思う)を経て「私がオバさんになっても」(1992年)「渡良瀬橋」「私の夏」「風に吹かれて」(いずれも1993年)等で初期の森高色を払拭した新しいスタイルを確立するまでに4年から5年を要しているわけで、おそらくその間にはいろいろな挑戦や試みがあったと思われます。あくまでも私の勝手な妄想ですけど。
このテのコンピレーションアルバムって、順番に通して聞いていくといろいろ妄想を巡らせることができて面白いです。

| 聞いて何か感じた曲、CD等 | 21:44 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ぼさぼさ頭(ブタナ)
※この文章は梅雨入りはしたものの空梅雨気味だった先週に書いたもので、だから綿毛の種が飛んでいく(今日のように雨や曇りだと種は飛ばない)のです。少々アップが遅れました。

 「社長がそっちの草刈りはどうなってる?と言ってたよ」と本社から電話があった。私の職場があるのは茨城県阿見(あみ)町の工業団地の一画で、周りは緑が豊富だし敷地内には建屋を拡張できるように空き地がとってあるので、草は生えたい放題生える。
 私は草刈りが嫌いだ。面倒くさいし、しんどいし、どうせまた生えてくるんだし…ということもあるが、それより何より草が生えて虫がいて鳥が来て、という環境が好きだから。それはあたかも万葉集の東歌(あずまうた)にある「おもしろき野をばな焼きそ(この趣のある野をどうか焼かないでください:春の初めの野焼きについての歌)」(巻十四 3452番歌)の心持ちで、あまり草刈り草刈りと口うるさく言われると密かに殺意(の小さいの)さえ覚える(^^;)。しかし勤め人の身としては、社長の「どうなってる?」に対して「嫌いだからやってません」とは言えない。仕方なく草刈り機を持ち出して、会社の入り口付近だけでもざっと刈ることにした。

ブタナぼさぼさ頭 今頃になってタンポポのような黄色い花が咲いている植物を見かけたら、それはたいていブタナだ。ブタナはヨーロッパ原産の帰化植物で、その名前「豚菜」はフランスでの俗名 Salade de porc(ブタのサラダ)から来ているという。
 花はタンポポに似るがもっと油絵の具のような濃い黄色で、タンポポより小ぶりだが色が強いので輝くように目立つ。タンポポの花は風が吹いたらころころ転がっていきそうなくらい地表に近い低いところで咲き、花が終わってから茎を高く伸ばして白い綿毛の種を風に乗せて振りまくが、ブタナは30cm以上ある茎がいくつかに枝分かれしてその先に花をつけるので、高いところで咲く。おそらくタンポポの花期は早くまだ周囲の草が伸びていないので花を高くつける必要がない(その代わり大きく目立つ花をつける)のに対し、ブタナは花期がもっと遅く長いので、周囲の草に負けないよう高いところで花をつけることにしたのだろう。またタンポポが種をつけたところはふんわりとまあるい半透明の球形に見えるが、ブタナはもっと繊維が荒くやや茶色がかった綿毛を、まるでぼさぼさ頭のような感じにつける。花は小ぶりでもぱぁっと陽気で種は気取らないぼさぼさ頭、昔はタンポポモドキとも呼ばれたらしいが、モドキなんて付くくらいならあたしは豚菜でけっこうよと無粋な名前を意にも介さず、媚びずひがまず清々と生きるこの植物が私は好きだ。
<写真はブタナのぼさぼさ頭>

 草刈り機で入り口付近の草を刈る。花期の終わったオニノゲシ、若いオオマツヨイグサ、たくましく育ったヨモギやイネ科の植物らに混じってブタナも生えている。背が高く目につくので刈らないわけにはいかない。まだ花をつけているものもあるがぼさぼさ頭の綿毛になったものも多い。刃を入れると刈られて倒れるときに綿毛のついた種がぱぁっと散っていく。
 ぼさぼさ頭の種、お前たちの前途に幸いあれ!私はまだ花のままのお前たちの同胞を刈り倒さなければならないが、お前たちはここからどこへなりと飛んで行き、そこでまた黄金の花を輝かせ、私が斃したお前たちの同胞の分まで、媚びずひがまず清々と生きるがいいぞ!
(だがここへは戻って来るなよ、またお前たちを刈らなければならないからね)
| 身近な自然 | 22:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
カメラ割愛の記
 小学生の頃に父から譲られたコニカIIIから始まって、これまでにいろいろなカメラを使ってきました。ほとんどは壊れてしまったり下取り交換に出したりしてもう手元にはありませんが、それでも残っているものが何台かあります。特に社会人になって多少懐に余裕が出てきてからは、複数台のカメラを使い分けるという贅沢をするようになって所有台数が増えました。
 しかしカメラというものは使わずにただ置いておくと、やがて動きが渋くなったり電気部品が働かなくなったりして必ず具合が悪くなる。常時現役で使っていて、動く部分は動かし回路には電気を流している方が、よい状態で長く使えるようです。人間と似ています。

 そういう目で見てみると、日頃から手元にあるカメラを取っ替え引っ替え使ってどしどし写真を撮っているかといえばそんなことはなく、無聊をかこっているカメラが少なくありません。しかも中にはきちんと動かないものも出てきました。
 これはいけません。せっかく先人たちがいろいろと工夫して作り上げた知恵と技術の結晶というべきカメラを持ちながら、あたら死蔵したままダメにしてしまうなんて愚の骨頂、先人たちにも申し訳が立ちません。それくらいだったらこれらをもっと有効に使ってくれる人のところへやってしまった方がよいのだろうなあと思えてきました。
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| 写真とカメラ | 22:51 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
自分が出た演奏会:ピアッツァ・アルテ音楽教室25周年記念発表会
発表会プログラム 東京サロンオーケストラ第41回シンフォニックコンサートの翌週の6月9日(日)、以前からお付き合いのある堀部一寿(ほりべ・かずとし)さん主宰のピアッツァ・アルテ音楽教室25周年記念発表会に出演しました。
 ピアッツァ・アルテ音楽教室はつくば市にある音楽教室で平成元年開校。大学を卒業して一度はつくばを離れた私が転職して再びつくばに住み始めたのもこの年ですから、そういう意味では私とピアッツァ・アルテ音楽教室は同い年。堀部さん及びピアッツァ・アルテ音楽教室とお付き合いが始まったのは、堀部さんが音楽を担当されていた「劇団アルテ」を通じてでした。また今年の春からは堀部さんが指導するリコーダーアンサンブル「バード・リコーダー・アンサンブル」に加えていただいています。

 今回の25周年記念発表会は第一部:フォークソング・童謡・シャンソン・台湾の歌・アカペラの部 第二部:リコーダーアンサンブルの部 第三部:合唱構成「ぞうれっしゃがやってきた」 第四部:ゴスペルの部 の全四部構成で、所要時間3時間半・出演者数延べ450名余という大がかりなもの。堀部さんが歌とリコーダーの指導を中心に、いかにエネルギッシュに活動されてきたかがわかります。
 第三部の合唱構成「ぞうれっしゃがやってきた」と第四部のゴスペルのうち4曲には、この発表会のために編成された「ピアッツァ・アルテ25周年メモリアル・オーケストラ」が出演。これには音大生、関城吹奏楽団と茨城交響楽団のメンバー、その他地元の演奏者が参加しました。
 私は第二部のリコーダーアンサンブルに「バード・リコーダー・アンサンブル」のメンバーとして、また合同演奏のコントラバス奏者として参加、さらに第三部と第四部に「ピアッツァ・アルテ25周年メモリアル・オーケストラ」のコントラバス奏者として出演しました。リハーサルも含めて忙しかった〜。

ピアッツァ・アルテ音楽教室25周年記念発表会
日時:2013年6月9日(日) 14:30開演(18:00終演予定)
場所:ノバホール(茨城県つくば市)
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| 自分が出演した演奏会 | 19:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
自分が出た演奏会:東京サロンオーケストラ第41回シンフォニックコンサート

プログラム表紙 梅雨入りして最初の土曜日ながら晴れ間も出て蒸し暑くもなくしのぎやすい一日となった6月1日の午後、板橋区立文化会館で東京サロンオーケストラ第41回シンフォニックコンサートが行われました。

 今回のコンサートでは指揮を務めました。このオケのシンフォニックコンサート(いわゆる定期演奏会に当たる)を振るのは2008年5月17日の第36回以来で、通算2度目です。今改めて5年前の記事を読み返してみると、腕立て・腹筋やってたりして我ながら初々しいなぁ、と(笑)。今回はスレたわけではないが、あの時より曲が難しかったし、やりたいことをやらせてもらって、余裕はなかったが手応えはあった、みたいな感じでした。

 曲が難しいというのは、まずドヴォルザークの交響曲第7番。よく演奏される8番・9番より手の込んだ書き方がしてあると思うし、第一楽章と第三楽章の6拍子はリズム的に難物だし、内容もやや晦渋というか、第一楽章で提出された問題が未解決のまま全曲を通じて持ち越され、第四楽章の苦闘を通じても解決には至らず、終わりの数小節に至ってようやく問題からの出口が予感され、そちらへ向かって最後のアプローチを歩み出す、と私には感じられます。とにかく大変シリアスな曲であることは確かです。
 そしてグリーグのピアノ協奏曲。何てったってピアノ協奏曲なのでソロの音符がいっぱい書いてあるし、古典派の協奏曲と違って曲中でテンポも頻繁に変わるので、ソリストとの合わせに神経使います。オーケストラの奏者としてなら協奏曲は何度もやっているし、内輪の演奏会では協奏曲のある楽章だけ取り出して指揮した経験もありますが、大きい演奏会で・公衆の面前で・協奏曲の全曲を・内輪の人間でないソリストで指揮するのは今回が初めてです。

 やりたいことをやらせてもらったというのは、ドヴォルザークの交響詩「真昼の魔女」について、演奏前に15分ほどこの曲の説明を入れさせてもらったこと。まずはプログラムに載せたエルベンの原詩と対照させながらドヴォルザークが原詩を交響詩に移す際にストーリーをより劇的なものに組みなおしていることをお話しし、さらにプログラムにこの曲に用いられているライトモチーフの中から4つを載せ、7箇所の取り出し演奏を交えて、ドヴォルザークがこの曲で用いた音楽的手法の一端をご紹介しました。実を言うとこの曲に用いられている様々な動機を「ライトモチーフ」と言い切っているものを見たことはないのですが、特に母親の嘆きを表す動機に顕著なように、変形されたり他の動機と重ね合わされたりして繰り返し使われるので、この曲の動機群をライトモチーフと扱っていいだろうと考えました。

東京サロンオーケストラ 第41回シンフォニックコンサート
日時:2013年6月1日(土) 13:00開場 13:30開演
場所:板橋区立文化会館大ホール(東京都板橋区)
曲目:交響詩「真昼の魔女」(ドヴォルザーク)
    ピアノ協奏曲イ短調(グリーグ)
    交響曲第7番ニ短調(ドヴォルザーク)
     アンコールとして
    パヴァーヌ(フォーレ)
    ヘンリー・マンシーニ・メドレー(マンシーニ)
独奏:入江かつら(Pf.)
指揮:金田 誠
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| 自分が出演した演奏会 | 18:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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