2013.06.29 Saturday
『中国文学における孤独感』を思い切り自分に引き付けて読み取ったこと
先日「今読んでいる本たち」に挙げた本たちのうち、『うつ病の現在』は思ったとおり早々に読了し、『中国文学における孤独感』を昨日読了しました。この『中国文学における孤独感』は読んで感ずるところ、思うところがいくつもあり、特に陶淵明と李白についてはこれまでの自分の認識を改めさせられるなど大変感銘深いものでしたが、それとは別に、私は著者の著作態度から、クラシック音楽を演奏する際の「解釈」ということについて考える点がありました。そのことは本書の内容そのものとは直接関係のないことですから、ここに書いてしまっても、これから本書を読もうとする方にとってのネタバレには当るまいと思います。
クラシックというジャンルの音楽は exact music 、すなわち作曲者が書いた譜面を書かれているとおりに演奏する約束のものです。そこで演奏者は読み落しや読み違いがないように気をつけて譜面を読み、譜面どおりに演奏するように努めます。「どうせならこうやった方がカッコいいじゃん!」とむやみに改変して演奏することは、少なくともタテマエ上は認められておりません。
ところで譜面にはその曲の全てが書き込まれるわけではありません。メトロノームが発明・実用化されて、テンポに関してはある程度数字で表すことができるようになりましたが、たとえばある音が何Hzで、強さが何dBで、持続時間が何秒でといった風には書かれていませんし、ある動機がどこから派生したとか、何を表しているとか、この曲で何を表現したいとか、聞く人にどんなことを伝えたいかといったことも明示的に書かれてはいません。ということは、タテマエとしては「譜面どおりに」と言いながら、演奏者はどういう音をどのように鳴らすか、何をどのようにして表現するかといったことを、常に自ら判断し実行しなければなりません。ここではこのような判断を総合的に行うことを「解釈」と言っておきます。
私は著者が対象としている詩句を深く読み解き、そこから明確で力強い結論を引き出していることに感銘を受けたのですが、そのことについては著者が「あとがき」で次のように述べています。
(引用開始)
ところで、古人の作品を読むには、できるだけその作者の立場に身をおくようにつとめて、読まなければならない。古人の作品を批評するには、現代の尺度をもってして、かろがろしくその非をあげつろうことなく、その作品がその時代でつとめた役割をよく認めてやらなければならない。このようなことは、概念としてうすうす心得ていても、さて具体的の仕事にかかってみると、凡俗にはなかなかその通りにはゆきかねる。
いま私が中国の古代の作家たちをとりあげて、その孤独感をかれこれと穿鑿《せんさく》したものの、それはわずかな手がかりをもとにして、勝手な解釈をつけたのに過ぎないから、当の本人は、全く心外のこととして 「何を見当はずれをいうか」と、さぞかしせせら笑っておることであろう。こう思うと、まことに面映《おもはゆ》い限りである。
(引用終了)
なるほど・・・と私は大いに頷いたのですが、それと同時にこれと同じことがクラシック音楽における「解釈」についても言えるのではないかと思ったのです。引用した文章の前段は古典にアプローチするものの心構えであり、後段は現実にはその心構えだけでは足りず「勝手な解釈をつけ」ざるを得ない現実を述べています。しかし何らかの結論らしきものをつかみ出そうとするのならば、たとえ多少は作歌なり作曲家なりに対して面映い思いをしようとも、「わずかな手がかりをもとにして、勝手な解釈をつけ」ることは避けられないし、むしろ避けてはいけないと言っておられるのであろうと、私は読みました。
また例は挙げませんが、「附録」として収載されている「中国文学における融合性」も、譜面から音楽を読み取る作業にとって有用な示唆に富む文章だと思いました。
実際のところ、譜面に書いてあることをとりあえず音にするだけなら、テンポが速くて指が回らないとか特定の音が出しにくいとかいった技術的な問題を除けば、それほど難しいことではありません。書かれた指示を見落とさない・誤読しない注意力があればできるものです。しかし上述のとおり譜面に書かれていることがその曲の全てを尽くさない以上、表現の細部を磨き内容をえぐるのは奏者の「解釈」に委ねられなければなりません。そうした「解釈」を、「わずかな手がかりをもとにして、勝手な解釈をつけ」ることを、怠ったりためらったり逃げたりしていては、力強い結論は得られない、というメッセージを、私は本書から読み取りました。
いや、本当は以前からそう考えてはいたのですが、ときどき「本当にそれでいいのか?」と疑心暗鬼に陥ることがあったのを、本書によって肩を叩かれ背中を押された思いがしたのです。思い切り自分に引き付けた読み方で、著者にはそれこそ「何を見当はずれをいうか」と呆れられるかも知れませんが。
クラシックというジャンルの音楽は exact music 、すなわち作曲者が書いた譜面を書かれているとおりに演奏する約束のものです。そこで演奏者は読み落しや読み違いがないように気をつけて譜面を読み、譜面どおりに演奏するように努めます。「どうせならこうやった方がカッコいいじゃん!」とむやみに改変して演奏することは、少なくともタテマエ上は認められておりません。
ところで譜面にはその曲の全てが書き込まれるわけではありません。メトロノームが発明・実用化されて、テンポに関してはある程度数字で表すことができるようになりましたが、たとえばある音が何Hzで、強さが何dBで、持続時間が何秒でといった風には書かれていませんし、ある動機がどこから派生したとか、何を表しているとか、この曲で何を表現したいとか、聞く人にどんなことを伝えたいかといったことも明示的に書かれてはいません。ということは、タテマエとしては「譜面どおりに」と言いながら、演奏者はどういう音をどのように鳴らすか、何をどのようにして表現するかといったことを、常に自ら判断し実行しなければなりません。ここではこのような判断を総合的に行うことを「解釈」と言っておきます。
私は著者が対象としている詩句を深く読み解き、そこから明確で力強い結論を引き出していることに感銘を受けたのですが、そのことについては著者が「あとがき」で次のように述べています。
(引用開始)
ところで、古人の作品を読むには、できるだけその作者の立場に身をおくようにつとめて、読まなければならない。古人の作品を批評するには、現代の尺度をもってして、かろがろしくその非をあげつろうことなく、その作品がその時代でつとめた役割をよく認めてやらなければならない。このようなことは、概念としてうすうす心得ていても、さて具体的の仕事にかかってみると、凡俗にはなかなかその通りにはゆきかねる。
いま私が中国の古代の作家たちをとりあげて、その孤独感をかれこれと穿鑿《せんさく》したものの、それはわずかな手がかりをもとにして、勝手な解釈をつけたのに過ぎないから、当の本人は、全く心外のこととして 「何を見当はずれをいうか」と、さぞかしせせら笑っておることであろう。こう思うと、まことに面映《おもはゆ》い限りである。
(引用終了)
なるほど・・・と私は大いに頷いたのですが、それと同時にこれと同じことがクラシック音楽における「解釈」についても言えるのではないかと思ったのです。引用した文章の前段は古典にアプローチするものの心構えであり、後段は現実にはその心構えだけでは足りず「勝手な解釈をつけ」ざるを得ない現実を述べています。しかし何らかの結論らしきものをつかみ出そうとするのならば、たとえ多少は作歌なり作曲家なりに対して面映い思いをしようとも、「わずかな手がかりをもとにして、勝手な解釈をつけ」ることは避けられないし、むしろ避けてはいけないと言っておられるのであろうと、私は読みました。
また例は挙げませんが、「附録」として収載されている「中国文学における融合性」も、譜面から音楽を読み取る作業にとって有用な示唆に富む文章だと思いました。
実際のところ、譜面に書いてあることをとりあえず音にするだけなら、テンポが速くて指が回らないとか特定の音が出しにくいとかいった技術的な問題を除けば、それほど難しいことではありません。書かれた指示を見落とさない・誤読しない注意力があればできるものです。しかし上述のとおり譜面に書かれていることがその曲の全てを尽くさない以上、表現の細部を磨き内容をえぐるのは奏者の「解釈」に委ねられなければなりません。そうした「解釈」を、「わずかな手がかりをもとにして、勝手な解釈をつけ」ることを、怠ったりためらったり逃げたりしていては、力強い結論は得られない、というメッセージを、私は本書から読み取りました。
いや、本当は以前からそう考えてはいたのですが、ときどき「本当にそれでいいのか?」と疑心暗鬼に陥ることがあったのを、本書によって肩を叩かれ背中を押された思いがしたのです。思い切り自分に引き付けた読み方で、著者にはそれこそ「何を見当はずれをいうか」と呆れられるかも知れませんが。