以前
わすれぐさ(ヤブカンゾウ)について書いたとき、折口信夫(おりくち・しのぶ)の『口訳万葉集』の巻第三の334番歌の読み下しが近年のそれと違っていることを書きました。以下その詳細について書きますが、けっこう込み入ったというか、面倒くさい話であることを予めお断りしておきます(^^;)。
折口の読み下しと近年の読み下しの違いは、忘れ草を使う人の気持ちの違いとなって表れています。折口の読み下しは次のとおり。
萱草(ワスレグサ)我が紐につく。香具山の古りにし里を忘れぬがため
これに対して近年(ここでは例として講談社文庫の中西進『万葉集 全訳注原文付 (一)』に拠ります)の読み下しはこうなっています。
わすれ草(くさ)わが紐に付く香具山の故(ふ)りにし里を忘れむがため
漢字だけで書かれた原文を漢字かな混じりに移す過程で生じた用語の違いもありますが、それは本質的な違いではない。決定的に違うのは「忘れ
ぬがため」と「忘れ
むがため」の「ぬ」と「む」。このたった一字で歌意ががらりと違ってしまいます。今仮にこの歌の第五句を「忘れぬがため」と読んでいる諸本を
「ぬ」派、「忘れむがため」と読んでいる諸本を
「む」派と名づけて、それぞれの解釈を見てみましょう。
「ぬ」派
自分が持っている「万葉集」のうち「ぬ」派に属するのは次の諸本。( )内の年号は初版の発行年。なお旧漢字の書名は勝手ながら新漢字に改めました。
・折口信夫『口訳万葉集(上)』(大正5(1916))
・佐佐木信綱 編『新訂新訓万葉集 上巻』(岩波文庫 昭和2(1927))
・佐佐木信綱 編『白文万葉集 上巻』(岩波文庫 1930)
・武田祐吉 校註『万葉集 上巻』(角川文庫 昭和29(1954))
この派の読み下しによれば、忘れ草を紐に付けるのは香具山の古りにし里を「忘れないため」です(「ぬ」は打ち消しの助動詞)。しかし「忘れないために忘れ草を付ける」という言い方はやや通じ難い。なぜなら「ため」には「目的」(例:二人のため世界はあるの)と「理由」(例:風邪のため欠席した)の二義があるからです。「ぬ」派はこの「ため」を「理由」と見て、「忘れ(られ)ないから」と解きます。もう都ではなくなった飛鳥の里がたまらなく懐かしい、しかしいくら思ってももう戻ることはできないのだから、いっそのこと忘れてしまいたい、でも忘れられなくて思い出すたびに辛い、だから忘れ草の力を借りて忘れよう、というのが「ぬ」派の解釈です。
「む」派
一方「む」派に属するのは次の諸本。旧漢字の書名は新漢字に改めております。
・中西進『万葉集 全訳注原文付 (一)』(講談社文庫 昭和53(1978))
・伊藤博(いとう・はく)校注『万葉集 上巻』(角川文庫 昭和60(1985))
・伊藤博『万葉集 釈注 二』(集英社文庫ヘリテージシリーズ 2005)
この派の読みでは、忘れ草を紐に付けるのは香具山の古りにし里を「忘れようとして」です。「む」は意志を表す助動詞で、「ため」を「目的」と読むわけです。この読みでは「ぬ」派の「でも忘れられなくて思い出すたびに辛い、だから」という屈折がなく、「忘れるために忘れ草を付ける」というのですから、論旨明快で合理的です。
以上のような両派の違いを整理してみると、次のようになります。
「ぬ」派(折口、佐佐木、武田ら)
忘れ草を付けるのは「忘れぬ(打ち消し)・が・ため(理由)」
⇒「忘れ(られ)ないから」忘れ草を付ける
「む」派(中西、伊藤ら)
忘れ草を付けるのは「忘れむ(意志)・が・ため(目的)」
⇒「忘れようとして、忘れるために」忘れ草を付ける