フランチェスカッティの「スペイン交響曲」
フランチェスカッティ もう20年ほど前に亡くなってしまった人ですが、私はジノ・フランチェスカッティというヴァイオリニストのファンでした。何がいいって、まず音が美しい。楽器の奥まで鳴った潤いのある暖色系の音で、家にあった小さな再生装置で聞いてもじゅうぶん美音でした。さらに弾きっぷりが爽快。少しのよどみも曖昧さもなく、技術的な難しさなど微塵も感じさせず、太く力強い描線で鋼(はがね)のようにしなやかに、理屈っぽさもいじけたところもなく明るく大らかに歌うその演奏は、たとえ短調の曲でも基本的に変わることはありませんでした。

 少し前にラロの「スペイン交響曲」について書きましたが、私はずっとフランチェスカッティこそこの曲を弾くにふさわしいヴァイオリニストに違いないと睨んでいました。もちろん以前聞いていたアイザック・スターンのも申し分ない演奏ではありましたが、やはりあの音で、あの爽快な弾きっぷりで聞きたいと、ずっと思っていました。
 先日ようやくその願いが叶い、ミトロプーロス指揮のニューヨーク・フィルと組んだ演奏で、久恋のフランチェスカッティによる「スペイン交響曲」を聞くことができました。

 第三楽章が昔からの慣例どおりカットされているのは残念ですが、想像していたとおりの快演でした。譜面に書かれた当然鳴るべき音楽に加えて、自在な語り口やそこここのちょっとした身のこなしから、情熱的で誇り高く、時に艶(なまめ)かしいスペインのイメージがくっきりと立ち上り、音楽が停滞せず次から次へとわくわくさせてくれて、しかも音が美しい!特にもともと協奏曲の正規の楽章ではない第二楽章(スケルツァンド)の表情の変化のうまさ鮮やかさはまるで一人芝居を見るようで、これはもう極上のエンターテインメントですよ。こういう行き方でない「スペイン交響曲」もあります、と言うか、そちらの方が多いですが、フランチェスカッティ盤はこの曲聞くなら一度は聞きたい演奏だと思います。これで第三楽章があればもう言うことないんですがね〜。

| オーケストラ活動と音楽のこと | 11:02 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
ニッポニアというビール
ニッポニア表 以前「木内梅酒」を取り上げましたが、その製造元の木内酒造からちょっと珍しい地ビールが出ています。その名は「NIPPONIA(ニッポニア)」。日本でビール用に開発されたもののその後栽培が途絶えてしまった大麦「金子ゴールデン」とホップ「ソラチエース」を使って作ったというビールです。全国紙やIBS茨城放送などで取り上げられたので話には聞いていましたが、先日酒屋の店頭で見かけたのでさっそくお買い上げ。アルコール分6.5%とちょっと高めながら、550mlで788円となかなかよい値段でした。このビールについて詳しくはこちら

ニッポニア裏 ニッポニアと聞いてトリ屋さんが思い浮かべるのはトキなんですが(トキの学名は nipponia nippon)、これは木内酒造の「常陸野ネストビール」シリーズの商品なので、同ブランドのマスコットのふくろうの絵がついてます。ホップが利いてて苦味が強く、缶に口つけて水代わりにゴクゴク飲んじゃうアメリカの(本場のじゃない) Budweiser みたいなのの正反対というか、風味強め・アルコール高めで飲みごたえのあるビールです。私はいつも陶製の小ぶりのタンブラーでビール飲むので、色合いはちょっとわかりません。たぶん普通じゃないかな。
 材料の関係から限定販売かな〜と勝手に思っていましたが、今のところそうではなさそう。地ビールらしく味わいに特徴があるし、話題づくりにも一役買ってくれそうなので、ホームパーティーとか河原のバーベキューとか人の集まるときに何本か用意するとおもしろいのでは。逆にこればっかり何本も飲む人はそういないと思う。

<上左はボトル全景(表側)、下右は裏のラベル>

| 飲み食い、料理 | 09:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
わすれぐさを付けるのはなぜ
 以前わすれぐさ(ヤブカンゾウ)について書いたとき、折口信夫(おりくち・しのぶ)の『口訳万葉集』の巻第三の334番歌の読み下しが近年のそれと違っていることを書きました。以下その詳細について書きますが、けっこう込み入ったというか、面倒くさい話であることを予めお断りしておきます(^^;)。

 折口の読み下しと近年の読み下しの違いは、忘れ草を使う人の気持ちの違いとなって表れています。折口の読み下しは次のとおり。

 萱草(ワスレグサ)我が紐につく。香具山の古りにし里を忘れぬがため

 これに対して近年(ここでは例として講談社文庫の中西進『万葉集 全訳注原文付 (一)』に拠ります)の読み下しはこうなっています。

 わすれ草(くさ)わが紐に付く香具山の故(ふ)りにし里を忘れむがため

 漢字だけで書かれた原文を漢字かな混じりに移す過程で生じた用語の違いもありますが、それは本質的な違いではない。決定的に違うのは「忘れがため」と「忘れがため」の「ぬ」と「む」。このたった一字で歌意ががらりと違ってしまいます。今仮にこの歌の第五句を「忘れぬがため」と読んでいる諸本を「ぬ」派、「忘れむがため」と読んでいる諸本を「む」派と名づけて、それぞれの解釈を見てみましょう。

「ぬ」派
 自分が持っている「万葉集」のうち「ぬ」派に属するのは次の諸本。( )内の年号は初版の発行年。なお旧漢字の書名は勝手ながら新漢字に改めました。
・折口信夫『口訳万葉集(上)』(大正5(1916))
・佐佐木信綱 編『新訂新訓万葉集 上巻』(岩波文庫 昭和2(1927))
・佐佐木信綱 編『白文万葉集 上巻』(岩波文庫 1930)
・武田祐吉 校註『万葉集 上巻』(角川文庫 昭和29(1954))
 この派の読み下しによれば、忘れ草を紐に付けるのは香具山の古りにし里を「忘れないため」です(「ぬ」は打ち消しの助動詞)。しかし「忘れないために忘れ草を付ける」という言い方はやや通じ難い。なぜなら「ため」には「目的」(例:二人のため世界はあるの)と「理由」(例:風邪のため欠席した)の二義があるからです。「ぬ」派はこの「ため」を「理由」と見て、「忘れ(られ)ないから」と解きます。もう都ではなくなった飛鳥の里がたまらなく懐かしい、しかしいくら思ってももう戻ることはできないのだから、いっそのこと忘れてしまいたい、でも忘れられなくて思い出すたびに辛い、だから忘れ草の力を借りて忘れよう、というのが「ぬ」派の解釈です。

「む」派
 一方「む」派に属するのは次の諸本。旧漢字の書名は新漢字に改めております。
・中西進『万葉集 全訳注原文付 (一)』(講談社文庫 昭和53(1978))
・伊藤博(いとう・はく)校注『万葉集 上巻』(角川文庫 昭和60(1985))
・伊藤博『万葉集 釈注 二』(集英社文庫ヘリテージシリーズ 2005)
 この派の読みでは、忘れ草を紐に付けるのは香具山の古りにし里を「忘れようとして」です。「む」は意志を表す助動詞で、「ため」を「目的」と読むわけです。この読みでは「ぬ」派の「でも忘れられなくて思い出すたびに辛い、だから」という屈折がなく、「忘れるために忘れ草を付ける」というのですから、論旨明快で合理的です。

 以上のような両派の違いを整理してみると、次のようになります。
「ぬ」派(折口、佐佐木、武田ら)
   忘れ草を付けるのは「忘れぬ(打ち消し)・が・ため(理由)」
   ⇒「忘れ(られ)ないから」忘れ草を付ける
「む」派(中西、伊藤ら)
   忘れ草を付けるのは「忘れむ(意志)・が・ため(目的)」
   ⇒「忘れようとして、忘れるために」忘れ草を付ける
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| 国語・国文 | 22:19 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
東京プロムナード・フィルハーモニカー合宿 in 河口湖
 土浦交響楽団・東京サロンオーケストラと並んで私が団員となっている第三のオーケストラ、東京プロムナードフィルハーモニカーの合宿に、7月17日(土)の夕方から19日(月・祝)の朝にかけて参加しました。場所は河口湖。河口湖には今年の4月にも東京サロンオーケストラの合宿で来ていますが、そのときは3ヶ月後にまた来ることになろうとは思っていませんでした。

練習風景 練習はいわゆる普通の練習で、特に書くこともないのですが(笑)、合奏以外に個人練習の時間がとれて私にはありがたかったし、これまであまりお付き合いのなかったメンバーとも練習や夜の部でだいぶ親睦が深まりました。もっとも夜の部の詳細は翌日に記憶が欠落している部分があり、まあ細かいことは言わないで・・・(笑)
 そうそう、本番聞きに来てくださいね〜。

東京プロムナード・フィルハーモニカー 第3回 定期演奏会
日時:2010年9月11日(土)
場所:行徳文化ホールI&I
曲目:歌劇「オベロン」序曲(ウェーバー)
   ピアノ協奏曲第24番(モーツァルト)
   交響曲第7番(ベートーヴェン)
指揮:佐藤 迪
ピアノ:大月礼子

桜荘 さて、当ブログとしてはここからが実質的な本文でして(笑)、せっかく河口湖まで来たのですから、朝食前に宿の付近を散歩しました。今回の宿は旅館「桜荘」さん。3階に防音の音楽ホールがあり、練習はそこで行いました。

旅館前から富士山宿の前に出れば夏の黒い富士山が見え、5分も歩けば河口湖に出られます。
河口湖梅雨明け直後で三日間とも天気は上々。朝から日差しが強くて暑かったですが、夕方日が沈むと涼しい風が吹いてきてさわやか。夕方ぶらりと外に出てみると、蚊にも刺されず快適でした。暮れていく富士山を見ると登山道沿いの光の帯や山小屋の灯りが見えて感動しましたが、その時は残念ながらカメラを持っていなかった(痛恨)。
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| オーケストラ活動と音楽のこと | 06:48 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
わすれぐさ
 わすれぐさ(忘れ草)という草が、万葉集以来和歌や俳句に詠まれています。それは思うとつらくなる物事や人のことを忘れさせてくれるという草で、たとえば万葉集には

萓草(わすれぐさ)我が紐につく。香具山の古りにし里を忘れぬがため。(巻第三 334)
歌意:私の住んで居た、香具山の辺の故郷を忘れないので、萓草をば、自分の着物の紐にとりつけて、どうかして忘れようとつとめて居る。

などと歌われています。ちなみに歌と歌意は、私をして万葉集研究志望から日本民俗学へと翻意させた張本人・折口信夫の「口訳万葉集」(大正5年、同6年。折口信夫全集第四巻・第五巻に収める)から引用しております(原文は旧字旧かな)。
 しかし残念なことに、こちらから思いを寄せるばかりで「あふ」(古語なので旧かなづかいです。ただ単に「会う」だけでなく、親しくお付き合いすることも含まれる)ことの難しいあの人あのお方、このまま思い続けていては身も心もどうかなってしまいそうで、せめて今この一瞬でもいいから忘れさせてほしいその人のことには効果がなかったようで、後の巻では

萓草(わすれぐさ)垣もしみみに植えたれど、醜(しこ)の醜草。尚恋いにけり。(巻十二 3062)
歌意:物忘れをする為に、垣根に一杯になる迄、萓草を植えたけれど、鈍(どん)な莫迦(ばか)な草奴(め)だ。自分はまだ、いとしい人に焦れて居ることだ。

と、八つ当たり気味の悪口を頂戴してます(^^;)。名前が似ている忘れな草(勿忘草)とは効能が全然違うので要注意。

ヤブカンゾウ この忘れ草の正体はヤブカンゾウということになっています。なぁんだヤブカンゾウか、なんて言っては少々かわいそうですが、つらいことを忘れさせるという不思議な力を持っている(らしい)割にはその辺に当たり前に咲く花で、私の身近なところでも、毎年6月から7月にかけて田んぼの畔などに咲きます。ユリに似てちょっとくちゃくちゃした感じの濃い黄橙色の花は、緑一色の水田風景の中で一際鮮やかでよく目立ちます。

ヤブカンゾウ花アップ この草が忘れ草と呼ばれるわけは、もともと原産地の中国でこの草が「忘憂草」、憂いを忘れる草とされていたからで、たとえば周代の成立とされる「詩経」の中に「ケン草*」(萓草(カンゾウ)と通音)という書き方で登場しています。このケン草が出てくるのは東方に兵として出征した夫の身の上を思う妻が「どこかでケン草(=萓草)を探して裏庭に植えよう、ひたすらあなたのことを思っていると病気になりそうだから」と歌う詩なので、周代すなわち紀元前7世紀以前から、この草が憂いを忘れさせると考えられていたことがわかります。なぜそう考えられたかはこの歌からはわかりませんが、想像するに花の色も形もぱぁっと鮮やかで、思わず憂いを忘れてにっこりしてしまいそうだからかな?
 *ケンは「援」のてへんに代えてごんべんを書く字で、字義は1. いつわる 2. わすれる。ここはもちろん2. の意味。
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| 国語・国文 | 11:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ハンゲショウ
 ハンゲショウの話はややこしくて、まず「ハンゲショウ」という植物があります。また「半夏生」という日があります。さらに「半夏(はんげ)」という植物がハンゲショウとは別にあります。うーむなんじゃらほい。

 中国から来た暦の上の「半夏生」は、もともと二十四節気をさらに細分化した七十二候の一つで、半夏(はんげ)が生えてくる日なんだそうだ。今のカレンダーでは7月2日頃に当たります。で、その日に生えてくるという半夏とはカラスビシャクのことだと言われております。以前いた会社の近くで、7月の初め頃にカラスビシャクが出ているのを発見し「おお〜ほんとに半夏が生えてるよ!」と感動したことがあります。残念ながらカメラ持ってなかったので写真は撮ってませんが。

ハンゲショウハンゲショウ群落 さて、今日の主役はカタカナのハンゲショウ。会社の近くで発見しました。見てのとおり花穂の近くの葉が白くなっています。ドクダミ科だそうで、そういわれるとドクダミの花と作りが似ています(左の写真の下の方にドクダミも写ってる)。ただしドクダミは花びらに見えるくらいしっかりした4枚の総苞が穂状花序を取り囲んでいるのに対し、ハンゲショウは穂状花序の周りの白いのは明らかに葉です。しかも白くなるのは花序ごとに1、2枚だけのようですね。あの白くなる葉っぱたちがある日穂状花序を引き立てるという役割に目覚めて、そちらの方に特化していき、やがてドクダミになったのかな?

ハンゲショウ裏 白い葉は一枚全部が白いのではなく、裏は緑色なのです。このことから「片白草(かたしろくさ)」とも呼ばれ、表だけ化粧して裏は化粧してないから「半化粧」なのだという説もあります。さらに、白くなった葉は花が終わると緑になっていくらしい。忘れなければときどきチェックしてみよう。

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| 身近な自然 | 23:06 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
遊ぶために生まれてきたのは誰ですか

 「梁塵秘抄」に収められた歌の中で「遊びをせんとや生(うま)れけむ、戯れせんとや生(むま)れけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ。 」が最も知られているのは、やはりそれが現代の我々にも素直に共感できる歌だからです。専門家の立場からは、たとえば「遊び」とか「動(ゆる)がるれ」について、作歌当時の観念や信仰に基づいた解釈が種々なされておりますが、現代の我々の立場からは、無心に遊ぶ子どもの声や姿に思わず心が動く、日々の心配事やらしがらみやらあれやこれやをえいやと投げ打って、自分もあの無心さ、あの全能感に浸りたいという、かなえられることのない憧れの歌ということになるのでしょう。

 ところで先日聞いたラジオ番組では、冒頭の「遊びをせんとや生(うま)れけむ、戯れせんとや生(むま)れけん、」が、子供についての言葉と解釈されていました。つまり「子供というものは遊びをするために生まれたのだろうか、戯れをしようとして生まれたのだろうか」というわけです。それまで私は、これは歌っている本人のことで、「遊ぶ子供の声に身が揺るぐほど感応してしまう私は、本当は遊びをするために生まれたのだろうか、戯れをしようとして生まれたのではないだろうか」という歌だと捉えていたので、この放送を聞いて「なるほど、そういう見方もあるのか」と気づかされました。
 しかし私は、自分自身が遊ぶために生まれてきたせいか(^^;)、この「遊びをせんとや」云々が子供だけのことを言っているというふうにはどうしても取れません。必ずや「揺るぐ我が身」も対象に含まれているに違いない。
 ああ、そうか!今まで私は「我が身」のことしか考えていなかった、遊ぶ子供の声は聞いていても子供の姿は見ていなかった、遊ぶ子供を実体として、実在として捉えてはいなかったのです。確かにそれでは片手落ちである。子供が遊んでいる、その声を聞いて揺らいでいる我が身もここにある、ということは「遊びをせんとや」云々は子供も我が身も包摂した言い方であるはずです。たとえばこんなふうに。
 「人はみんな遊びをするために生まれてきたのだろうか、戯れをしようと生まれてきたのではないだろうか、子供が遊んでいる、そしてその声を聞くと、我が身も揺らぐよ」

 この歌の「我が身さへこそ」という言い方も興味深いですが、これは未だ成案を得ないので、今回はここまで。

| 国語・国文 | 21:28 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
野平一郎氏のバッハ「シャコンヌ」編曲の動画発見
 7ヶ月ほど前に拙ブログで「野平一郎氏のバッハ「シャコンヌ」編曲 〜「ロマン派三者三様」補遺〜」として、野平一郎氏によるバッハ「シャコンヌ」の二つの編曲を紹介しました。そのうち、野平氏自ら「より古典的なスタイルによる一般的な意味での「編曲」」といわれる「4つのヴィオラのための《シャコンヌ》 Transformation I Ciaccona de Bach (2000)」 の動画を発見しました。
動画はこちら

 おそらく読饗の練習場でしょう、どちらかというと殺風景な場所で、演奏者は私服だし、最初の方には片づけか探し物かしていて逃げ遅れたらしいおじさまも写っているというぐあいで、絵的には迫力ないんですが、なんといっても曲が曲だし、一発録りゆえの傷はあってもヴィオラの魅力をたっぷり味わわせていただきました。よろしかったらご覧ください。
| オーケストラ活動と音楽のこと | 23:44 | comments(5) | trackbacks(0) | pookmark |
スペイン交響曲
 エドゥアール・ラロ(Edouard Lalo, 1823-1892)というフランスの作曲家が書いた「スペイン交響曲」という名のヴァイオリン協奏曲があります。いかにもスペインらしく情熱的でエキゾチックで、ジプシー風のところもある、私も大好きな曲です。
 どこから見ても立派なヴァイオリン協奏曲なのに「交響曲」と名乗っているのは、協奏曲はふつう速い−ゆっくり−速いという三つの楽章からできているのに、この曲は速い−スケルツァンド−インテルメッツォ(間奏曲)−ゆっくり−ロンド(速い)という五つの楽章を持っているからでしょう。標準的な交響曲は速い−ゆっくり−メヌエットまたはスケルツォ−速いという四楽章ですが、ベートーヴェンの「田園」とかベルリオーズの「幻想交響曲」、マーラーの「復活」、ショスタコーヴィチの第9番など五つの楽章を持つのもアリですから。「スペイン交響曲」の場合はふつうの三楽章の協奏曲の最初の「速い」と次の「ゆっくり」との間に、スケルツァンドとインテルメッツォが挿入されて五楽章になっていると考えられます。

 さて、来年東京サロンオーケストラでこの曲を演奏することになりました。本番はプロの指揮者が振りますが、しばらくは私が練習指揮者を勤めますので、今スコアを(ぼちぼちですが)読んでます。で、すぐに気づいたのは、その挿入された二つの楽章、スケルツァンドとインテルメッツォがなかなか難しいこと。特に第二楽章のスケルツァンドはアクセントの位置がどんどん変わるので、譜面を読みながら「あ三拍め、あ次二拍め、あ、いちと、にと、さんと」なんてやってると全然音楽についていけません。もう体に入れちゃうしかないな、って感じで、オーケストラは苦労しそうです。第三楽章のインテルメッツォも「演奏が難しいわりに演奏効果が上がらない」などと言われ、以前はカットされるのが慣例だったらしい。確かにブルックナー・リズムのハバネラ(何じゃそりゃ(笑))で決して簡単ではありませんが、オーケストラの立場からはたぶん第二楽章スケルツァンドの方が難しいよ。第三楽章が難しいというのはソロのことでしょう。しかし難しい(わりに演奏効果が上がらない)から演奏しなくてすんだなんて、いい時代でしたね〜(笑)。今ではカットされず全曲演奏されるのが普通で、私たちの演奏もそうなる予定。

 子どもの頃には父が買ったLPを聞いてました。たぶんアイザック・スターンとオーマンディ/フィラデルフィアのですが、これはまだ実家にあるのかどうか・・・もう40年近く聞いてませんが、記憶にしみ込んでますねぇ。今はグリュミオーのCDを聞いてます。素敵な曲ですよ〜。
| オーケストラ活動と音楽のこと | 22:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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