昨年(2008年)7月13日をもって営業終了・全館閉店したJR土浦駅の駅ビル「Wing」が、1年後の2009年7月24日(金)に「ペルチ土浦」としてリニューアルオープンしました。駅の改札を出てすぐの駅ビルが全館閉店でいきなりシャッター通りでは、土浦の第一印象が暗くなってしまうと案じていたので、リニューアルオープンは朗報です。さっそくどんな具合か見に行くことにしました。
<写真はペルチ土浦の店内案内パンフ。B4判(でか!)全8ページオールカラーと力が入ってる。開店前に周辺各戸に配られ、今なら店内でも配布しています。表紙は開店告知のポスターと同じデザインですね。>
たまたま7月27日(月)に休みを取っていたので、自宅近くのバス停からバスで土浦駅へ向かい、11時前に到着。オープン直後の週末も明けて客足も一段落かな、と思っていたら、各フロアとも混雑こそしていないもののけっこう人が多い。よしよし、滑り出しは上々みたいだぞ(^o^)。ところでこの日は夏休み中とあって中・高生らしき若者の姿が目立つ中、なぜか中高年の男性も意外と多かったんですが、ひょっとして不況で仕事が少ないからですか?・・・(汗)
<建物両脇の茶色の面とシンボルマークの緑のワンポイントが全体を引き締めてます。閉店時の写真と見比べてみてください。>
<土浦駅のコンコース。やっぱり駅ビルが「いらっしゃいま〜せ〜」と迎えてくれると雰囲気が明るい・・・というか、これがあたりまえ、普通の姿なのだ。>
本書は、中味はよくわからないけれど「スローフード運動」というものに興味を持った著者が、北イタリアの田舎町ブラにあるスローフード協会の本部を単身訪ねるところから始まります。ところがせっかく訪ねた本部は翌日のイベントの準備でごった返していて、とてもまとまった説明を受けられる状況ではなく、断片的な話は聞けたものの、それではどうもピンとこない。そこで著者は本部での出会いやその人脈をたどって、実際にいろいろな人たちと食事をともにしながら、スローフード運動について考えていきます。
食事をともにする場面では各地のいろいろな料理やワイン、チーズなどが紹介され、もちろんそれぞれがおいしそうで、その場所を訪ねたりイベントに参加したくなりますが、それにもまして印象に残るのは、人と人が食事をともにして同じ時間を過ごすこと、一緒に食卓について同じものを食べ、飲み、語り合うことの楽しさ、おもしろさ、意味深さ。「スローフードとは何ぞや」みたいな正面切ったリクツっぽい話は最初に少しだけ、その代わり要点を突いたものがあるだけで、あとはスローフード運動のさまざまな側面が、それに携わる人々の話や姿を通して展開されていきますが、これがとにかくおもしろい。私がこのシリーズの原稿を書くときには、本は一度読んだ内容を思い出したり確認したりするために数箇所パラパラめくってみるだけなのがふつうですが、この本は一度読んでいるにもかかわらず読み始めたらおもしろくて、けっきょく最初から最後までしっかり読み通してしまいました。最後に読んでからけっこう時間がたっていたせいもありますけど(笑)。
バッハの「ああ、今やイエスは去ってしまった」は(第一部の最後で捕えられてしまった)イエスを空しく捜す娘(アルト)の嘆き「ああ、今やイエスは去ってしまった。再び見出すことが私にできるだろうか?」に合唱が「あなたの友はどこへ行ってしまったのか。だれにもまして美しいおとめよ。私たちも一緒に彼をさがしましょう。」(旧約・雅歌6章の1)と応え、しかし結局はイエスは見出されず、ドミナントで不完全終止します。
<J.S.バッハ「マタイ受難曲」第2部冒頭のアリア「ああ、今やエスは去ってしまった」の開始部分。器楽合奏と合唱はそれぞれ二つに分かれ、合奏体 I がイエスを探す娘を、II が娘を慰める合唱を担当するように書かれている。>
一方ブラームス4番の第四楽章では、第97小節からフルートが次のようなソロを吹きます。
1小節めでは上行する動機 a をわずかにリズムを変えて繰り言のように繰り返し、2小節めは1小節めとリズムは同じながら山形の旋律線で少し盛り上がりますが、この2小節からできているグループ A 全体の旋律は狭い音程の中を動いていて、まだ何事か呟いている状態。グループ B はグループ A と同じ作りですが、感情が高ぶって上行や山形の幅が大きく、呟きから訴えになり、その訴えは5小節めの前半でピークに達し、その後は動機 b がメリスマ的に、しかしぶつぶつに切れながら、フルートのあまり響かない音域で、しかし強弱の変化による豊かな表情を伴いつつ歌い収めます。以上がイエスを捜す娘の嘆き(ああ、今やイエスは去ってしまった)に相当すると思われる部分。
「土浦交響楽団第58回定期演奏会」の最後の方にちらっと書きましたが、私はマタチッチ編曲の「神々の黄昏」組曲(マタチッチ指揮チェコ・フィル 1968年録音)が大好き。この盤の組曲は2曲からなり、大雑把に言って第1曲が楽劇「神々の黄昏」の冒頭から「ジークフリートのラインへの旅」まで、第2曲が「ブリュンヒルデの自己犠牲」から全曲の最後までのそれぞれを、管弦楽だけで演奏できるように編曲したものです。
<写真は1991年に「マタチッチの遺産―(1)」として5000枚限定発売された「楽劇《神々のたそがれ》組曲」 COCO7371(日本コロムビア)。上が表、右は裏面。24分40秒の組曲だけでCD1枚使ってるという豪華盤。同シリーズは1枚2,500円だったが、さすがに収録時間の短さが気になったと見えて、これのみ1枚1,300円で発売された。そうそう、当時の消費税率は3%だったのだ、どうでもいいけど。
この盤は限定盤ですが、現在はコンヴィチュニー指揮チェコ・フィルのワーグナー管弦楽曲集とカップリングされて再発売されている。コンヴィチュニーのワーグナーはマタチッチとは違うスタイルですが、悪くないよ。私は学生時代にLPで愛聴してました。>
ところで昨年、マタチッチ指揮のNHK交響楽団が1967年1月20日に東京文化会館で行った演奏会のライブのCDが出まして、これにもマタチッチ編曲の「神々の黄昏」が収録されているのですが、こちらは前記の2曲に加えて「ジークフリートの死と葬送行進曲」も入っています。レビューを見ると録音状態はともかく演奏は悪くなさそうなので、懐の苦しい折から無理してさっそくお買い上げ〜。
<マタチッチの芸術「ワーグナー・アーベント」KICC3073(KING)。帯に書いてあるキャッチがなかなか秀逸なので、こちらは帯付きで(上が表、右が裏面)。楽劇「神々のたそがれ」より(マタチッチ編)の「終曲」の始めの方にテープの劣化・損傷によると思しき音飛び・ノイズがありますが、気になりません。と言うか、こんなの気になるようでは、音は聞いてても音楽は聞いてないね。>
世の中には読みたくないけど読まなきゃならない本というのもありまして(汗)、私にとっては今回紹介する『変わる家族 変わる食卓―真実に破壊されるマーケティング常識』(岩村暢子 2003 勁草書房)がまさにそれ。食文化じゃなくて食物そのものだけに興味があるのならこんな本読まなくていいわけだけど、やはり私は「人はなぜそれをそうやって食べるのか」に興味があるし、確定した歴史的事実だけを問題にするのなら平和だけれども、今を生きる役に立たない歴史なんて意味がない、というか、歴史を今を生きるための役に立てられないのはただのアナクロ、怠け者の感傷趣味だと思っているから、やっぱり現代の食生活の一断面を示すものとして本書を読まないわけにはいきません。
私が本書を読みたくなかったのには、わけがあります。まず本書のサブタイトル―真実に破壊されるマーケティング常識―に注目していただきたい。本書はもともと食生活そのものを主題にした本ではなく、広告・企画制作会社の株式会社アサツー ディ・ケイが1998年から5年間にわたって実施した「食DRIVE」という一般家庭の食卓調査の結果をまとめたもので、本来はマーケティングの本なのです。ではなぜそうした調査を行い、なぜこの形、このタイミングで出版したか。それについては、三井物産戦略研究所の機関誌「The World Compass」2003年10月号の岩村氏へのインタビュー記事「食卓が語る日本の現在」がとてもわかりやすいので、目を通されることをお勧めしたいのですが、要するに同調査スタートのきっかけは「1960年生まれを境に従来のマーケティング手法やその結果が通用しなくなっている」という認識にあったのですね。ところが「1960年生まれ」って、実はモロに私なんだよねぇ(正確には1961年1月生まれだが、同級生は1960年生まれ)…自分が槍玉に上がってる本って、そりゃあやっぱり読みたくねぇべ(苦笑)。
というわけで、本書の場合「食」は「1960年生まれの断層」を示すひとつの指標だったわけですが、そのデータ(定性調査なので数字ではなく個々のケースの記述)の内容が「断層」以前の方々にとってあまりにショッキングだったために、「そんなバカな!ケシカラン!」という感情的な戸惑いや反発はもちろん、そのようなデータの分析結果の有効性への疑問・批判もけっこうあったようです。内容の一部の要約はこちらにありますが、本書にはもっと生々しいデータが写真つきで続々紹介されてるぞ。
三つの楽章で書かれてはいますが、第一楽章は第二楽章の調(ハ短調)のドミナントで終わり、さらに第三楽章は第二楽章からアタッカで続けて演奏されるので、実質的には三つの部分から成る一曲と見てよいし、演奏時間も全部で10分弱。手元の「DER KLEINE KÖCHEL」にも
184 Sinfonie (Ouvertüre) Es-dur [Nr. 26]
すなわち交響曲(序曲)変ホ長調 [第26番] とあり、実際にモーツァルトの了承のもとに、他人が作曲した戯曲の序曲として使われたといいますから、おそらくモーツァルト自身もそういうつもりで書いたのでしょう。
こういう曲を聞くと、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハや前古典派のシンフォニアが思い出されます。ソナタ形式確立以前のこれらの曲は「中途半端な過渡期の音楽」と酷評されますが、それは対位法とソナタ形式というあまりにも豊かな遺産に安心して頼りきり満ち飽き、しかもそれらに代わる構成原理を打ち立てることに失敗し(十二音技法)放棄し(偶然性の音楽、ミニマルミュージック、4分33秒…)、結局未だにそれらを至上のものとしている / せざるを得ない現在の感性と、通俗的な単線発展的進歩史観からの一方的な見方に過ぎないのでは? 先入観を捨てて向き合ってみれば、定型がない分かえって多様で意外な展開の面白さがあり、緩徐楽章の歌だってみずみずしくじゅうぶん美しい。何より「僕の前に道はない 僕の後ろに道は出来る」みたいな創作衝動の発露の野放図さに打たれます。モーツァルトの初期の交響曲も結構ですが、実質的には前の世代のシンフォニアに属するこれらの曲が、もしもただ単にモーツァルトという「ブランド」だけで聞かれたり演奏されたりしているのなら、古典派以前のシンフォニアにも目を向けてみてはどうかなと思います。
<写真は BACH SONS (BRILLIANT 99785) お買い得価格のCD7枚セットで大バッハの4人の息子カール・フィリップ・エマヌエル、ヨハン・クリスティアン、ヴィルヘルム・フリーデマン、ヨハン・クリストフ・フリードリヒのシンフォニア、協奏曲、組曲(J.S.バッハの管弦楽組曲第5番 BWV1070と伝えられたもの)を収める。>
というわけで今回の本は"The Great Hot Sauce Book" (Jennifer Trainer Thompson著 2004 Ten Speed Press)。英語の本ですが主役は300種以上のソースの写真で、その横に材料やメーカーの説明、エピソードなどが書かれています。トイレでぱらぱらめくって見るのにいいかな〜と思って買ったのですが(なんて失礼な奴・・・)、これが意外におもしろかった。
※ちなみに中味の一部がこちらで見られます。
<著者が本書執筆の3年前に作った「ホットソースポスター」の一部が表紙になってます。著者のパントリーの棚を写したものだそうです。>
先日紹介した『豆腐百珍』について、ある方から「美味しんぼ」にも出ていたという情報をいただきました。ありがとうございます。私は「美味しんぼ」全然読んでないのですが、取材も相当しっかりされているようですね。
取材のしっかりした食の本ということで思い出したのが、今回紹介する『増補 江戸前鮨 仕入覚え書き』(長山一夫 2004 アシェット婦人画報社)です。私は江戸前鮨はド素人ですが、この本の情報は質・量ともにすごいと思いました。
一言で言うと、40年以上の経験を持つすし職人が、仕入と調理の経験に食材産地での現地調査の情報を加えて書いた鮨の本、ということになりますが、旬のネタ紹介+グルメリポートみたいな気楽なものを想像すると全然違います。
わが土浦交響楽団が春夏シーズンに演奏会を行っているつくば市のノバホール。1983年のオープン以来四半世紀にわたって、国の内外、プロ・アマの別を問わず、数多くの演奏家たちが数多くのコンサートを行ってきました。
ところでお客様からは見えないのですが、ホールの舞台袖や楽屋前の廊下の壁には、ここでコンサートを行ったアーティストたちがサインなどを残しているんです。始めの頃は舞台下手(しもて:客席から舞台を見て左側。「へた」ではない)の袖(ステージ脇の空間)だけに、それもかなりの大物アーティストだけが書いていたのですが、そのうち真似していろんな人・団体が書くようになって、今や無政府状態(^^;)。それらのうちの厳選物件をここでご紹介しましょう。
【現状】
下手袖の壁をうがって直接舞台に出られる扉。このあたりは軽井沢で言えば旧軽みたいな所で、早くから開けていた、というかサインが書かれていた場所ですね。ウィーン八重奏団やザクセン州立歌劇場をはじめとする錚々たるメンバーがぎゅうぎゅうひしめいていて、うわーまぶしい…