「食に関する本」のシリーズで
『食品の研究―アメリカのスーパーマーケット』(ヴィンス・ステートン著 北濃秋子(きたの・あきこ)訳 1995 晶文社)を紹介しました。ところでこの本を買った1995年というと、私は外資系に勤めていて英語必須の生活だったので、英語の勉強も兼ねてこの本の原書 "CAN YOU TRUST A TOMATO IN JANUARY? The Hidden Life of Groceries and Other Secrets of the Supermarket Revealed at Last" (Vince Staten 1993; 1994 Simon & Schuster N.Y. (Touchstone Book) )も買ってひととおり読みました(楽しい勉強!)。で、今回訳書と一緒に原書も紹介しようと思って最初の方をペラペラめくってみていたら、この日本語版は訳がいまひとつよろしくないことに気づきました。あまり重要でないと(勝手に)判断した部分は訳してなかったり、原文の内容をよく検討しないで適当に内容を変えちゃったり、難しくもない部分をあっさり誤訳してたり…政策論争の本とか学術書でなく楽しみに読む本とはいえ、プロの仕事としては問題ありと思います。
1.たとえば、
原文:Occasionally we get a coupon in the mail that's adrressed to us and not to Occupants.(pp.31-32)
訳文:わが家にも時おり、クーポン券が入ったダイレクトメールが舞い込む。(p.30上段)
日本語だけ見ると問題のない訳文ですが、よく見ると原文の and not to Occupants が訳されてない。実はこのすぐ後に顧客の属性をデータベース化して、たとえば犬を飼っている人だけにドッグフードのクーポン券を郵送する会社の事業が紹介されていて、ここはその伏線なので、著者もわざわざ
and not to Occupants と駄目押ししてるんですね。ダイレクトメールが
漠然と「お住まいの皆様 Occupants へ」ではなく名指し to us で来るということを訳しておかないと、せっかくの著者の配慮が生きません。
2.さらにそのような属性データベース方式で送るクーポン券に関する文
原文:Research has shown that these kinds of coupons are redeemed three to five times as often as newspaper coupons.(p.32)
訳文:調査によると、この方式のクーポン券は送付5回につき3回利用されており、これは新聞掲載クーポンと同じ利用頻度である。(p.30上段)
これは文法的にも完全な誤訳。正解は
「調査によると、この方式のクーポン券は新聞掲載のクーポン券の3倍から5倍の頻度で利用されている。」です。高校レベルですね。おそらく下訳をアルバイトにやらせたのでしょうが、原文とチェックすれば一目瞭然だし、そもそも新聞掲載クーポンと同じ利用頻度なら、誰がわざわざ費用と手間をかけて顧客の属性データベースなんか作りますか?訳文だけ読んでもおかしいと思うでしょう。
3.場所は前後しますがクーポン関連でもうひとつ。
原文:We aren't religious in our coupon use, not like those coupon-crazy women you see on
PM Magazine, the ones with basements full of old cereal boxes and milk cartons, the ones who save a hundred dollars a week by redeeming stacks and stacks of coupons.(p.31)
訳文:『PMマガジン』に紹介されていたあのクーポン狂の主婦たち――地下室をシリアル食品の空箱や牛乳パックでいっぱいにし、途方もない数のクーポン券で週に100ドルも節約している人たち――とは違って、私たちはクーポン券の効用の信仰者ではない。(p.29下段)
訳文が実に平明にこなれている点は私もお手本にしたいです。しかし「地下室をシリアル食品の
空箱」でいっぱいにする、という点が引っかかりませんか?デパートの包装紙とか裏が白いチラシとかお菓子の空き缶とか包みのヒモとかを「また何かに使えるから」と押入れいっぱいに貯め込んでいたウチの祖母じゃあるまいし、だいたいシリアルの空箱なんてふにゃふにゃで「また何かに使える」わけでもないのだから、さっさと燃えるゴミか資源回収に出せばいいんじゃない?
そこで原文を見ると、「空箱」とは書いてない。貯まっているのは「
old cereal boxes and milk cartons 古いシリアルの箱と牛乳パック」です。「古い」という語がついているのは、こういう人たちはシリアルや牛乳のクーポンをもらうと宗教的な熱心さでそれらを必ず全部使ってしまうので、食べないうちに古くなってしまったシリアルや牛乳の(中身が入ったままの)箱やパックが地下室いっぱいに貯まっているということなんじゃないでしょうか。空箱なら捨てるけれど、中身が入っているので捨てられずに貯まっちゃって、religious という語はそのように現世的な損得を超越してクーポンに絶対的に帰依した無我の境地に対して用いられているのだと思いますね、読み込みすぎかも知れませんけど。
それと「地下室を古いシリアルの箱と牛乳パックでいっぱいにしている人たち」と「途方もない数のクーポン券で週に100ドルも節約している人たち」は、原文では the ones 〜, the ones 〜 と並列に書かれているので、訳文が示唆するように二つの仕業を一人の人が行う必要は必ずしもないわけで、そこも踏まえて訳文を訂正すると
試訳:『PMマガジン』に紹介されていたあのクーポン狂の主婦たち――開けないまま古くなってしまったシリアル食品の箱や牛乳パックで地下室をいっぱいにしたり、途方もない数のクーポン券で週に100ドルも節約したりしている人たち――とは違って、私たちはクーポン券の効用の信者ではない。 たまたまめくってみた2ページほどで全体を推し量るのは軽率かも知れませんが、この2ページの間に3箇所の「?」はちょっと多すぎる。下訳者、翻訳者、編集者がそれぞれ当たり前に、きちんとした仕事をしていれば、こういうことにはならないと思いますが。
内容が面白い本であるだけに、残念です。