2009.01.24 Saturday
春という字は三人の日
このブログに「冬の音楽」というのをアップしたのは2007年11月8日のこと。その最後に「せっかくですから、立春の頃には続編「春の音楽」もやりましょうか。忘れなければ、ですが。」なんて書いておきながら、結局やりませんでした。実は忘れたわけではなく、原稿も途中まで書いたんですが、候補曲がブルックナーの交響曲第3番の第二楽章、ブラームスの交響曲第1番のやはり第二楽章、別宮貞雄(べっく・さだお)の「さくら横ちょう」くらいしか思い浮かばず、あまりぱっとしないので知らんぷりしてた、というのが真相(汗)。まあクラシックに限っても春の曲は既にいっぱいあるんで、今さらいいか、という気もしたし。
ところで、最近たまたま石野真子の「春ラ!ラ!ラ!」を聞きました。石野真子さんは実は私と同じ年の同じ月生まれなので、今年は私と同い年の年女なわけで、えーと36歳ね(鯖)。
<写真はEPシングルのジャケット。「春ラ!ラ!ラ!」がA面曲なんだが、配色の関係でタイトルがよく見えない・・・>
ご存知の方はご存知のとおり、この歌の歌詞はけっこうとんでもなくて、「春という字は三人の日と書きます」と始まるのはいいとして、その三人が突然あなた(=今のカレ)と私(=真子ちゃん)と真子ちゃんの元カレの三人のことになり、しかも真子ちゃんは一方的に「あなたも(元カレと)話が合うでしょう」と決めつけたあげく、「三人そろって春ラ!ラ!ラ!」なんて歌っちゃう。それって今のカレにしてみりゃえらく迷惑な話じゃないかい?さすが芦屋の社長令嬢、わしらシモジモの者どもとは感覚が違うの〜。
しかしこの歌、2番までは脳天気ですが、3番でちょっとトーンが変わる。「いつか会いたい人がいる 二度と会えない人もいる」とちょっと翳りのあるフレーズで始まり「時が流れてゆく前に 三人そろって春ラ!ラ!ラ!」で終わるこの3番は、春に愁い行く春を惜しむ、古くから和歌や漢詩や俳句に詠まれてきたような伝統的な美意識を下敷きにしてるんじゃないか?アイドルにイミシンな歌詞の歌を歌わせるのは常套手段としても、春愁・惜春や無常感まで織り込まれているとしたら、こりゃなかなか奥が深い。
もっともこの歌の「イミシン」を素直に読み解くと、けっきょく真子ちゃんはやっぱり元カレとヨリを戻したい、でも今のカレも嫌いじゃないの、だからみんなで仲良くしよ!、ということかと思われ、すると春愁惜春無常感云々はただの妄想、考えすぎ?ポイントは「時が流れてゆく前に」をどう読むか、かな。
「春の音楽」は歌モノでいこうかなぁ・・・(独り言)
ところで、最近たまたま石野真子の「春ラ!ラ!ラ!」を聞きました。石野真子さんは実は私と同じ年の同じ月生まれなので、今年は私と同い年の年女なわけで、えーと36歳ね(鯖)。
<写真はEPシングルのジャケット。「春ラ!ラ!ラ!」がA面曲なんだが、配色の関係でタイトルがよく見えない・・・>
ご存知の方はご存知のとおり、この歌の歌詞はけっこうとんでもなくて、「春という字は三人の日と書きます」と始まるのはいいとして、その三人が突然あなた(=今のカレ)と私(=真子ちゃん)と真子ちゃんの元カレの三人のことになり、しかも真子ちゃんは一方的に「あなたも(元カレと)話が合うでしょう」と決めつけたあげく、「三人そろって春ラ!ラ!ラ!」なんて歌っちゃう。それって今のカレにしてみりゃえらく迷惑な話じゃないかい?さすが芦屋の社長令嬢、わしらシモジモの者どもとは感覚が違うの〜。
しかしこの歌、2番までは脳天気ですが、3番でちょっとトーンが変わる。「いつか会いたい人がいる 二度と会えない人もいる」とちょっと翳りのあるフレーズで始まり「時が流れてゆく前に 三人そろって春ラ!ラ!ラ!」で終わるこの3番は、春に愁い行く春を惜しむ、古くから和歌や漢詩や俳句に詠まれてきたような伝統的な美意識を下敷きにしてるんじゃないか?アイドルにイミシンな歌詞の歌を歌わせるのは常套手段としても、春愁・惜春や無常感まで織り込まれているとしたら、こりゃなかなか奥が深い。
もっともこの歌の「イミシン」を素直に読み解くと、けっきょく真子ちゃんはやっぱり元カレとヨリを戻したい、でも今のカレも嫌いじゃないの、だからみんなで仲良くしよ!、ということかと思われ、すると春愁惜春無常感云々はただの妄想、考えすぎ?ポイントは「時が流れてゆく前に」をどう読むか、かな。
「春の音楽」は歌モノでいこうかなぁ・・・(独り言)