2008.11.27 Thursday
広瀬量平氏の訃報 〜「海はなかった」のこと〜
今朝(11月26日)の新聞で作曲家の広瀬量平氏のご逝去を知りました。広瀬量平氏といえば私の中では合唱組曲「海の詩」(岩間芳樹 作詩、1975年)、とりわけその第一曲の「海はなかった」の作曲者。「海はなかった」は高校のクラス対抗合唱大会*で優秀賞だか何だかを取り、その余勢を駆ってみんなで国立駅前のロータリーで歌った思い出の曲(当然アカペラ、ちなみに素面です、高校生だからね)・・・市民の皆様その節はご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした。<写真は合唱の方にはおなじみ、カワイ出版合唱曲シリーズの「海の詩」。>
写真の「海の詩」の楽譜の最初に載せられた広瀬氏の「「海の詩」のこと」という文章にもはっきりそうと書かれてはいませんが、「海はなかった」は公害の情景を扱ったものです。ところがたまたまネット上のある記事で、ちょっと前の高校生たち(質問は2004年10月ですが、回答者の方の経験はさらに数年前らしい)が、この歌を「戦争もの」あるいは「近未来の核戦争後の世界を描写した曲」と解釈していた / しようとしていたことを知りました。昔は真っ黒でところどころ赤かったり緑だったりする臭い川とか、なんだか色のついた煙がもくもく出てる煙突とか、いかにも体に悪そうな情景がわりと普通に見られたものですが、そうした経験を持たない1980年代も後半生まれと思しきこの人たちは、重い雲に閉ざされ渡り鳥たちが息絶えている世界のイメージを、何かで読んだりどこかで聞いたりしただけの「公害」という言葉と結びつけることがないようなのです。それはそうだね、当然だよねと思いながらも、私は30年前の高校生が「これは公害による汚染のことだ」とごく自然に理解した(よね?>同年代の元高校生たち!)その感覚が、今では通用しなくなっていることに、何と言うか、軽い眩暈(めまい)みたいなものを感じました。
あれほど社会全体を震撼させ、いつまでも抜けない棘のように折に触れて粘着質の痛みと苦味を感じさせ続けたあの「公害」、あれはいつの間にか、もう過去のものになったんだ・・・って。