いまこそ旅をおもう
 先週あたりから怒涛の勢いでブログを更新してますが、とにかく何か書きたくてうずうずして仕方がない。これは何かの欲求が満たされていないのではなかろうかとわが身を省みると、最近「旅分(たびぶん)」が不足しているような気がします。そうだ車の移動ばかりで「テツ分」も足りんのだ!
 元テツで地図好き写真好きの私は本来旅が大好きですが、最近何かと忙しいのとお金がないのとで旅に出てません。仕方なく合唱組曲「旅」(詞:田中清光/山之井慎 曲:佐藤眞)を聞きながら「行(ゆ)け 旅に いまこそ!」という歌詞に「そうだ、そうだ」と一人頷いたりしています。ホントいい曲なんだ、これ。
(ちなみにこの文章のタイトルもこの組曲の終曲「行こうふたたび」の歌詞から採ってます。)

 1962年に作曲されたこの曲で歌われるのはちょっと昔っぽい一人旅。普通列車や路線バスくらいは使うのでしょうが、基本的には歩くのを苦にせず、峠を越え渚を歩み村を抜け、ときどきは村のじさま(爺さま)と話もするが、好んで心を開く相手はお地蔵さんだったり青空だったり海だったりそば畑だったりという、まことにつつましい旅なのです。1970年に始まった国鉄(当時)の「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンから個人旅行が大衆化しますが、これはそれ以前の旅の姿だったのでしょう。
 思えば、かくいう私自身が旅をし始めたのもまさにその「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンとSLブームがきっかけだったので、リョコウのタイシューカ云々について大きな口を叩くつもりも資格もないんですが、私の旅スタイルはその頃から今まで普通列車や路線バスと歩きがメインの一人旅なので、既に当時からちっとばかし世間の流行に乗り遅れていたのかなぁ。

こんな感じだったかな 今でも思い出してぞくぞくする旅の景色があって、それがいつだったか、どこへ何をしに行ったのか思い出せないのですが、もうその日のうちに東京方面行きの列車に乗らないと周遊券の有効期間が切れてしまうという旅の最終日に、どうせなら一番遠くで上りの最終列車に乗ってやれと、大糸線だか信越線だかあのあたりの普通列車に乗って北へ向かっていたときのことです。
 乗客をほとんど降ろしてがらんとした列車が駅を出ると、窓の外は一面の畑らしく、それがとっぷりと暮れ果てて真っ暗な中、はるか遠くにぽつりぽつりと窓に灯りのついた家々が一列に固まって、それがゆっくりと後ろへ流れていきます。あのひとつひとつの窓の向こうにはひとつひとつそれぞれ違った暮らしがあって、人々が笑ったり話したり怒ったり泣いたりしているのだろうなと考えると、たいへん寂しく何だか泣きたくなるようで、旅とはこういうことなんだと思ったものでした。

 ああいう旅、寂しい旅、人の暮らしがゆかしく懐かしくなる旅をまたしたい。

※絵はイメージです(笑)。
| 地域とくらし、旅 | 22:22 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
祝『中華飲酒詩選』新装出版
東洋文庫版「中華飲酒詩選」 かなり以前に本ブログで「酒の肴にしたい本」として紹介した青木正児の著書2冊のうち、『中華飲酒詩選』が平凡社の東洋文庫から出版されていたことがわかりました(2008年4月 東洋文庫773 ISBN978-4-582-80773-8)。いやぁめでたいめでたい。平凡社のHPでの紹介文に曰く「稀代の中国文学者による、愛酒家必読、必携の書。」ですと。ふふふ嬉しいね。
 筑摩叢書版に比べて版型と文字がひとまわり小さく、また背中が硬い製本のため卓上にべたっと開いて左手に酒盃右手に肴という体勢がとりづらい(ほっとくと勝手に閉じちゃう)のが残念ですが、小さい版型は携行に便であり、手ざわりのよい緑のクロスのかかった慎ましく堅牢な製本は長く灯下独酌の友たり得ることでしょう。(写真は外箱)



 さてそうなると気がかりなのは「酒の肴にしたい本」で紹介したもう一冊『酒中趣』の行く末。その際述べたとおり筑摩叢書版『酒中趣』を構成する三部のうち「抱樽酒話(ほうそんしゅわ)」と「酒の肴」だけが岩波文庫の一冊として出版され、「酒顛(しゅてん)」が取り残されてしまったのです。しかしこの「酒顛」もやはり「稀代の中国文学者による、愛酒家必読、必携の書」なので、埋もれたままになってしまうのはあまりに惜しい。ぜひ篤志の書肆が手を挙げてくれることを望みます。
| 本のこと | 21:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
額田王「秋山我れは」の歌雑感
額田王
 刈り取りがすっかり終わって、ひこばえが季節外れの若緑色を見せている秋の田んぼを歩きながら、万葉集巻一の始めの方に載っている額田王の歌(第16番)を思い出しました。

冬こもり 春さり来れば
鳴かずありし 鳥も来鳴きぬ 咲かずありし 花も咲けれど
山を茂(し)み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 
秋山の 木の葉を見ては
黄葉(もみち)をば 取りてぞ偲ふ 青きをば 置きてぞ嘆く
そこし恨(うら)めし 秋山我れは *1

 詞書によると、天智天皇が臣下に命じて「春山の万花の艶」と「秋山の千葉の彩」を争わせたときに詠んだ歌なのだそうで、天皇の意を汲んで春山と秋山の両方を立てつつ、あたかも漢詩のように対句と脚韻を駆使して春と秋を相似形に構成した技巧の冴えとシンメトリックに整った格調の高さ、そして最後にきっぱりと「秋山我れは」と判じてみせる鮮やかさが印象深い一首。額田王は山ふところに分け入ってものを近々と手に取り、見つめて気持ちを通わせることができる秋に軍配を上げたのでした。
<図は安田靫彦「飛鳥の春の額田王」(一部)>

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| 国語・国文 | 22:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
今はもうない建物〜土浦市の木像映画館「霞浦劇場(かほげきじょう)」
霞浦劇場1霞浦劇場2
 土浦の「国体道路」(通称)は、土浦駅から亀城公園(きじょうこうえん・土浦城址)へ向かう亀城通りから神立(かんだつ)方面へ分かれる通りで、沿線には土浦郵便局や土浦税務署、ショッピングセンター「ピアタウン土浦」などもあり、交通量は比較的多いです。
 亀城通りから分かれてその国体道路をほんの数百メートル行ったところに、車では見落としそうな細い枝道があります。そしてその細道の奥には、ぽっとそこだけ時間が止まっているような一画がありました。手書きで「霞浦劇場」(「浦」はこのときは欠落)と大書した看板を掲げ、色鮮やかに塗られたこの建物は、ほとんど人通りのないこの一角にはひどく場違いな雰囲気ながら、お向かいの呑み屋さんと思われる「ウルワシ」ともども、「これは何かある!」と確信させずにはおかない圧倒的な存在感でした。

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| 地域とくらし、旅 | 23:29 | comments(14) | trackbacks(0) | pookmark |
なんでRなの?
 日本語の「ら行」(らりるれろ)はローマ字表記では R を当てることになっていますが、なぜ R なのか不思議に思いませんか? L の方がずっと日本語の「ら行」の音に近いのに・・・だいたい英語のあの R の音は日本語には絶対ない音なんで、アメリカ人がローマ字つづりの日本語を発音するとすごく変。え?「えいきへいぶゎ」?・・・あぁ、「あきはばら」ね、そうそう二重母音もやめてね。
 私の乏しい外国語経験では、舌先を緊張させ口腔内の中途半端なところに置いて発音するあの R の音は英語特有のもので、フランス語、ドイツ語、イタリア語などの R は舌先や口蓋垂(のどひこ、のどちんこ)で出す一種の振動音。英語でもお芝居とか舞台で発音するときにはこちらの音を使うこともあるみたいですが、いわゆる「巻き舌」、管楽器のフラッターの音、または水なしでうがいする音ですね。
 そんなわけで、江戸末期から明治初頭に日本にやってきた外国人がアルファベットによる日本語表記を試みたとき相手をした日本人がたまたま「ってやんでぇべらぼうめ、するってぇと何かい、おめぇさんとこのその、めめずがのたくったみてぇな字でもって、こちとらのしゃべったことを書いてみようってぇ魂胆かい?こいつぁめえった(「参った」の音便)、恐れ入谷の鬼子母神でぃ」みたいな人で、やたら巻き舌でまくし立てたのを R で表記したのではないか、なんて考えてみたこともあったんですが、その後「日葡辞書」(1603年長崎で出版、来日したイエズス会の宣教師によって編纂された)で既に R が使われていることを知りました。「日葡辞書」や「きりしたん版」は16世紀末の西日本の言葉・発音に基づいているので、「べるるるぁんめぇ」の巻き舌説は成り立たないようです。

 というわけで、なぜ「ら行」が R なのか今もわかりません。L は常に「ら」行の子音とは限らず場合によって y 音に近くなったりする(普通は「ヴァリュー」と発音される value を「ヴァィユー」と発音するアメリカ人がいた。また tortilla は「トルティーヤ」または「トルティージャ」となる)から避けた?それとも最初にローマ字表記を考えた人が(左派 Leftist ではなく)右派 Rightist だった?いやわからんなぁ。
| ことばのこと | 13:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
今はもうない建物〜文京区小石川のお砂糖屋さん
えんま通り商店街の砂糖小売専門店
 東京ドームのまっすぐ北側、文京区小石川2丁目に源覚寺(げんかくじ)、通称「こんにゃくえんま」というお寺があります。このこんにゃくえんまのすぐ前を南北に走っている通り(千川通り)沿いに通称「えんま通り商店街」という商店街がありますが、今ではマンションやコインパーキングに蚕食されつつあります。
 5,6年前まで、ここに「砂糖小売専門店」がありました(写真の左側のお店、軒先の古びた看板に注目。今はマンションになってしまって現存せず)。何回か前を通ったことがありますが、本当に砂糖専門で、白や茶色や透明、半透明のいろいろな砂糖、水あめやシロップ類だけを扱っていました。そういえば、私が子どもの頃は既に時代遅れになりつつあったみたいですが、昔はお歳暮や贈答品に砂糖が使われていましたっけ。貴重品だったのね。
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| 地域とくらし、旅 | 22:38 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
何かあるんじゃないかと下心を持って音楽を聴く
 「田園」の第二楽章のエピソードとかドヴォルザークの「チェコ組曲」全体の構成とか「酒・女・歌」の序奏の内容とか、これまで曲の後ろに隠れているストーリーの発見みたいなことをときどき書いてきました。これらは本から引っ張ってきたとか誰かから聞いたとかではなく私自身のオリジナルなので、内容の良し悪しはともかくとして、自分としては愛着があります。
 自分では意識していないれど、私は曲を聴くときに、その曲をひとつのまとまったものとして成り立たせている「何か」を探しながら聴いてるみたいです。ただ音符が連なってるだけではなく何かのロジックでまとまっているはずだと思いながら聴いているらしい。強引なこじつけや自分勝手な思い込みはもちろんだめですが、特にロマン派以降の作品なら、作る方も何かしら意味なり内容なりを込めていることが多いだろうから、ひょっとしたら何かあるんじゃないかと下心を持ちながら聴くのも許されるのではないでしょうか、というか、許して(笑)。
| オーケストラ活動と音楽のこと | 20:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
自分が出た演奏会:第29回リハ並木祭 東京サロンオーケストラ恒例コンサート
リハ並木祭パンフ表紙 すがすがしい秋晴れの休日となった10月18日(土)、所沢の国立障害者リハビリテーションセンターで第29回リハ並木祭が行われ、東京サロンオーケストラが参加しました。
 今年は東京サロンオーケストラがリハ並木祭に初めて参加してから15年目になるそうで、1回目から毎年出演している私としてはそんなになるのかとちょっとびっくり。そういえば去年はどうだったかなと思ってブログを見返してみたら、ありました(ブログってこういうとき便利ですね〜)。そうか去年はふつうにコントラバス奏者で、しかも指揮者と司会は別だったんだっけ・・・当然一昨年もあるよなぁと思ってブログを見返してみたら、ありました(ブログってほんとにこういうとき(以下略)ちなみにその前はもうブログ以前のため記録なし)。なるほど一昨年も私はふつうにコントラバス弾いてたんだ。今年は指揮兼司会(と口笛吹き)を担当したので、指揮は2年ぶりだったわけだ。

第29回リハ並木祭 東京サロンオーケストラ恒例コンサート
日時:2008年10月18日(土) 14:00〜
場所;埼玉県所沢市 国立リハビリテーションセンター 講堂
曲目:序曲「詩人と農夫」(スッペ)
   狂った時計(Syncopated Clock)(アンダーソン)
   ホームストレッチ(アンダーソン)
   口笛吹きと犬(プライヤー)
  <素人指揮者コーナー>
   ラデツキー行進曲(シュトラウス)
  <楽団演奏>
   ワルツ「酒と女と音楽と」(Wein, Weib und Gesang)(シュトラウス)
   ポルカ「観光列車」(シュトラウス)
  <生オケコーナー>
   ひだまりの詩(詞:水野幸代 曲:日向敏文)
   アヴェ・ヴェルム・コルプス(モーツァルト)
   Fist Love(詞・曲:宇多田ヒカル)
   I Love you(詞・曲:尾崎豊)
   長い間(詞・曲:玉城千春)
  <みんなで歌いましょうコーナー>
   小さい秋みつけた(詞:サトウハチロー 曲:中田喜直)
   ビリーブ(詞・曲:杉本竜一)
  アンコールとして
   80日間世界一周(ヴィクター・ヤング)
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| 自分が出演した演奏会 | 19:53 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
アマチュアオーケストラのボウイング
 アマオケの弦セクションで常に問題になるのがボウイング(単に「弓(ゆみ)」と略すことも多い)。この言葉は「弦楽器を演奏する際の弓の使い方」という意味で使われることもある、というかその方が本来の用法でしょうが、ここで問題にするのはオーケストラで曲を演奏する際に、ひとつひとつの音符をダウン(弓の根元の方から弾き始める。ヴァイオリンやヴィオラでは文字通り上から下方向への動き。)で弾くのかアップ(弓の先の方から弾き始める、ダウンの反対の動き。)で弾くのか、ということです。
 決めた弓を各奏者は自分のパート譜に記号で書き込み、それに従って演奏します。各パートの奏者の弓の動きをそろえることは単に見た目の問題にとどまらず、曲の理解と表現をオーケストラ全体で共有するために必要なのです。ボウイングが違えば出てくる音や表現される内容が変わってくるからです。
Vnの弓(逆てこ)
 「弓を動かす向きが違うだけでそんなに変わるのか?」と思われるかもしれませんが、変わります。その一番の原因は弓の根元と先端で弦にかかる力の大きさが異なること(後述の【力学的特徴1】)にあります。弦楽器を演奏するときの弓は作用点と支点の距離が極端に長く、支点と力点の距離が極端に短い一種のてこ(というか、逆てこ)になっているのです。
 弓そのものの持つこうした物理的な非対称性に加えて、演奏者が人間であることによるさまざまな要因(後述の【生理的特徴】以下が含まれます。これらは人間のフィジカルな、あるいはメンタルな特性に起因すると考えられる要因で、たとえば機械に演奏させる場合はおそらく存在しないでしょう)が弓の使い方を規制します。ボウイングとは、そうしたもろもろの条件に寄り添ったりそれを乗り越えたりしながら音楽を表現しようとする営為の発現なのです(をを、大きく出たな(笑))。
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| オーケストラ活動と音楽のこと | 00:09 | comments(14) | trackbacks(0) | pookmark |
「動物の謝肉祭」のHarmonica
Pekinel ネット閲覧とテキスト作成に使っていたサブノートPCが逝ってしまい、ブログ更新に影響が出ています。さっさと修理すればいいわけですが、先立つものが・・・(貧)

 そんな状況でも好きなものにはついつい手が出てしまうもの。先日もラヴェルの「ラ・ヴァルス」の2台ピアノ版が聴きたくなって、iTunesでペキネル姉妹盤をダウンロード。ところがその余白に入っていたサン=サーンスの「動物の謝肉祭」(そっちがメインだろ(笑))の中の「水族館」が面白かった。というのは、この曲(と終曲)にはHARMONICAと指定されたパートがあり、私がこれまで聴いた盤ではチェレスタで弾いているのですが、ペキネル姉妹盤(オケはマレク・ヤノフスキ指揮のフランス国立放送フィル)ではいわゆるハーモニカなのか、何かリード系の楽器が使われているのです。
 このパートはもともとグラスハーモニカ(発明者のベンジャミン・フランクリンの命名はArmonica)が意図されており、その後この楽器が音量や機動性の面で弱かったために廃れたので現在では音が似ているチェレスタで代用されるというのが私の理解ですが、ペキネル / ヤノフスキはHARMONICAをストレートにハーモニカと読んだか、またはハーモニウム(Harmonium)と解釈したか、いずれにしてもリード楽器として扱っていて、私にとってはその解釈の良し悪しはともかく新鮮でした。(でも正解ではないと思う。)


Bruno Hoffmann グラスハーモニカ/ArmonicaについてはWikipediaが詳しく説明しています(項目名は「アルモニカ」)。モーツァルトの「グラスハーモニカ、フルート、オーボエ、ヴィオラ、チェロのためのアダージョとロンド ハ短調 KV.617」「グラスハーモニカのためのアダージョ ハ長調 KV.617a」などを往年の名手ブルーノ・ホフマンの演奏で聴いたことがあります(ホフマンの楽器は厳密にはWikipediaで言うグラス・ハープの改良型のようです)が、その音は力感や表情のまるでない、浮世離れした独特なもの。よくよく石鹸で洗って脂分をすっかり落とした指先を程よくぬらしてワイングラスの縁をそっとなでると「ひぃん」という音が出ますが、あれがこの楽器の音です。透明な水の中を重さも感情もなくゆっくりと泳ぎ回る魚の雰囲気にぴったりの音なのです。
<写真はブルーノ・ホフマンと彼の楽器>
| オーケストラ活動と音楽のこと | 22:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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