雲と月と「ヨハネ受難曲」
 昨日(8月27日)は帰宅したらまだ明るかったので、買い物がてら散歩に出ました。1時間ほど歩いてくるつもりだったので、mp3プレーヤーで音楽を聴きながら歩くことにしました。曲は土曜日に途中まで聴いてそのままになっているバッハの「ヨハネ受難曲」。いささか季節はずれではありますが、「マタイ受難曲」ほど聴き込んでいないのが気になって聴き始めたのです。

 帰宅を急ぐ車が行き交う大通りを渡って大きな公園に入ると、とたんに人気(ひとけ)もなくなり、ツクツクボウシの声だけが響いてあたりは静かに暮れていきます。やがて公園を抜けて池のほとりに出ました。ふと右を見ると大きな円い月が出ています。空気がたっぷりと湿気を含んでいるせいで輪郭が少し滲んで、まるで東山魁夷の絵の月のようです。静かに満ち足りた月の姿です。

 そこからさらに歩いて緩い下り坂にかかると前方の視界が開けました。すると正面の空のやや低いところに大きなレンズ状の雲の塊が現れました。そしてその雲の塊の中では気流が乱れて激しい運動が起きているらしく、頻繁に雷が発生しているのです。「ヨハネ受難曲」を止めて雷鳴を聞こうとしましたが、その雲の塊は相当遠くにあるらしく、音は全く聞こえません。ただ雲の塊のあちこちが毎秒一回、あるいはもっと頻繁に、オレンジがかった色に点滅するばかりで、しばらく見ていても近づいてくる気配はありません。
 そこで私は少し安心して、その雲の塊を見ながら再び「ヨハネ受難曲」の続きを聴き始めました。先ほどまでやかましいほどに鳴いていたツクツクボウシはすっかり鳴き止んで、秋の虫たちの合唱が取って代わり、捕らえられたイエスはピラトの尋問を受けています。

  そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。
  イエスは答えられた。「あなたの言うとおり、わたしは王である。わた
  しは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世に
  きたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。
  ピラトはイエスに言った。「真理とは何か」。
(日本聖書教会発行 新約聖書(1954年改訳) ヨハネによる福音書第18章37-38)

 前方の彼方には乱流する大気の激しい運動を閉じ込めながら明滅する雲。右手には少し滲んだあくまでも静かな月。そんなにも対照的な現象を突きつけられながら「真理とは何か」とは。ひょっとして私がもっと霊感に満たされやすい性質(たち)であったならこの瞬間に何かの啓示を得たかも知れませんが、結局それは私には訪れませんでした。私は「ヨハネ受難曲」を止め、それでも何かしんみりした気持ちになって、今は秋の虫たちの声に満たされた公園を抜け、途中のスーパーで買い物をして帰りました。1時間半の散歩でした。

 
| 暮らしの中から | 12:59 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ハグロトンボの来ない夏
 去年のこの時期には会社の構内で毎日見られたハグロトンボが、この夏はほとんど見られません。今年確認できたのは8月15日(水)と翌16日(木)にそれぞれ一匹ずつだけ。この夏の異常な猛暑のせいなのか、梅雨の頃の低温のせいなのか、はたまたこの世はお精霊さまにも見放されてしまったのか…何があったのか心配になり、昼休みに近くの農業環境技術研究所へ様子を見に行ってみました。去年の夏に、この研究所を流れている農業用水の回りの草むらがハグロトンボの生息地であろうと目星をつけておいたのです。

 行ってみると、去年は腰くらいまで生い茂っていた農業用水の両岸の草むらが刈り倒されて、ショベルカー等の重機が入っています。どうやら何かの工事が行われているようです。すみかや餌がなくなるなどの環境の変化のために、ハグロトンボはここには住めなくなったのでしょう。7〜8メートルはあろうかというコンクリートの護岸の下の用水の流路にはカナムグラ等の茂みもありますが、残念ながらハグロトンボのお気にはめさなかったようです。

 農業環境技術研究所はこの用水の両岸に分かれて展開しているので、用水は厳密には研究所の構内ではありませんが、筑波研究学園都市にある研究所の多くは相当な面積の緑地、というか空き地を抱え込んでいて、私はこの空き地が筑波研究学園都市の環境保全に大きな役割を果たしていると見ています。たとえば、最近は見に行っていませんがJAXA(独立行政法人宇宙航空研究開発機構)の筑波宇宙センターにはキジが繁殖していましたし、高層気象研究所構内の池はカモの越冬地になっています。筑波研究学園都市内に散在する大小の公園もこうした役割を果たしていますが、研究所構内の空き地や水面は公園と違って人の立ち入りがあまりないので、ワンランク上の環境保全効果が望めると思われます。
 もちろんこうした環境保全はあくまでも副次的効果であって各研究所の設置目的ではないので、こうした空き地への新たな施設の設置や工事に反対することはできないのですが、残念なことではあります。
| 身近な自然 | 21:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
新潟のなす
 先日、拙宅の最寄のスーパーに買い物に行って青果売り場を見たら、なすのコーナーには「なす」「長なす」「米なす」の3種類が置いてありました。茨城では標準的な品揃えかと思います。
 一方、8月14日に新潟市西区内野町の食品スーパーに行ったところ、そこにはただの「なす」という名前の商品はなく、棚に並んでいたのは
やきなす
丸なす
十全なす
米なす
えんぴつなす
水なす
でした。大きさも形もいろいろなナスが並んでいるのは、私にはちょっとした驚きでした。写真を撮ってくればよかったのですが、ふつうスーパーの店内撮影は禁止されているので遠慮してしまいました。次回はぜひ隙を見て…(おいおい ^^;)

 新潟県のホームページによると、新潟県はなすの栽培面積では日本一を誇り、県民は日本一なすを食べていると言われているらしいです。先ほどの品種を見ても、全国区の「米なす」を除いては、みんな新潟ローカルな品種と思われます。おそらく調理方法に応じて使い分けがあるのでしょう。新潟人は「なすグルメ」ですね。

 なすには泉州水なすとか京野菜の賀茂なす、小型で辛子漬にする山形の民田(みんでん)なす等ブランド化した地方品種もありますが、全国各地の地方品種の多くは他に知られることなく地元で消費されていると思われます。ずいぶん昔ですが鹿児島県の串木野へ仕事で行ったときには、八百屋さんの店頭で30cmくらいもありそうで細長い、うなぎみたいななすが売られているのを見てびっくりしました。
 お土産屋さんの店頭に並ぶ名物や名産品とは別に、ぶらりと立ち寄ったローカルのスーパーや個人商店で、見慣れない野菜やら魚やらがふつうに当たり前の顔して並んでいるのに出会うのは旅の楽しみのひとつですし、そうした地元の産物が根付いている土地の暮らしぶりはゆかしいものです。
| 地域とくらし、旅 | 22:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
新潟下越地方の鬼瓦
見なれない鬼瓦 8月13日(月)に、妻の実家のある新潟市から宮城県白石(しろいし)市へ車で行ったときのことです。新潟から新潟バイパスで新発田(しばた)へ向かい、そこから国道290号で胎内市を経由して国道113号(小国街道)を利用したのですが、新発田からの国道290号線沿いの民家の屋根の鬼瓦が、3本の円筒が突き出しているような、これまであまり見たことのない形のものであることに気づきました。その後白石では特に注意していなかったのですが、妻の実家近くの新潟市西区内野(うちの)町まで戻ってきてみると、ここでもあちこちの屋根にあの見なれない鬼瓦が乗っているのです。これは新潟の下越地方に特有の形なのだろうかと思い、翌日の14日の午前中に内野の町を歩いてみました。

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| 地域とくらし、旅 | 22:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
セミの幼虫は歩いていった
 本日(8月11日)の夕方、買い物がてら散歩に出て、ちょうど午後6時ごろに並木大橋を並木側から梅園側に渡ってきたところでふと足元を見ると、なんとセミの幼虫が道を横切って歩いていました。抜け殻は毎日のように目にしていますが、生きて動いている幼虫を見たのは記憶にある限りでは初めてです。抜け殻はからからに乾いていますが幼虫はもっと湿った感じで色も薄め、コガネムシやカナブンが歩くくらいの速さで道を横切って、道端の雑木林の中へと消えて行きました。

 彼または彼女(幼虫は特に性別はないのかな?)はおそらく今夜、羽化という生涯の一大事を行うのです。抗(あらが)うことのできない本能の呼びかけに応えて、土の中でのおそらく比較的安穏な生活を捨て、次の世代に命を渡すための短く激しい生活へと、後戻りのできない一歩を踏み出したのです。
 この時期になると、地上での短い生活を終えた成虫の死骸や、まだ肢をわずかに動かしてはいるけれどももう飛ぶこともできず、気の早い蟻がたかるに任せてただ死を待つばかりの成虫を見かけることが多くなります。そんな中、残された短い生涯を精一杯生きるために歩いていった一匹の幼虫の幸運を祈ります。
| 身近な自然 | 19:24 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
ブルックナー「ロマンティック」の原典版IV/3
IV/3背表紙
<スコアの背表紙 IV./3と3.Fassung 1888の文字が眩しい!…というか、写真が暗い!(すみません…)>

 ちょうど1年前に書いた「ベーム/ザクセン国立歌劇場の「ロマンティック」ZYX盤」の中でブルックナーの交響曲第4番「ロマンティック」のノヴァーク版IV/3(国際ブルックナー協会全集版IV/3)について少しだけ触れましたが、実はしばらく前に誘惑に負けてスコアを買ってしまいました。
 これは1888年稿によっており、従来「改訂版」と呼ばれていた1889年出版の初版譜と基本的に同じものということです。念のために1888年稿準拠のオイレンブルクの旧版(Hans Ferdinand Redlich校訂、現在は絶版)と対照して何箇所かチェックした結果もそのとおりでした。それにしても、これまで「弟子たちが勝手に改訂を加えてブルックナーの意図を歪めたものだ」として貶められてきた「改訂版」のテキストが、国際ブルックナー協会の原典版全集の中のひとつとして、いわばお墨付きを与えられて出版されたことは、学問的には「当然そうなるべくしてなった」ということなのかもしれませんが、私のような一好楽家にとってはあたかも「昨日の敵は今日の友」を地で行ったように感じられ、相当な驚きでした。

クナッパーツブッシュ盤
<「改訂版」によるCDのご紹介 まずはクナッパーツブッシュ指揮ベルリン・フィルの1944.9.8のライブ録音 PREISER RECORDS 90226>

マタチッチ盤
<続いてマタチッチ指揮フィルハーモニア管弦楽団盤。なぜか第四楽章のシンバル(後述)がない! TESTAMENT SBT1050>

バイノーラル盤
<バイノーラル録音(珍)によるウィリアム・スタインバーグ指揮ピッツバーグ交響楽団盤 EMI 7 2435 66556 2 1

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| オーケストラ活動と音楽のこと | 00:15 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
妙なトラックバック
 このブログを始めて1年ちょっとになりますが、昨年の11月頃から妙なトラックバックがつくようになりました。そうしたトラックバックをつけてくるブログは、こちらの記事の中味は全然見ないで、特定のキーワードを含む記事を機械的に抽出しては片っ端からトラックバックをつけているとしか思えません。なぜなら内容的にまったく関係がないのです。しかもその数がなかなか多い。たとえば「最近の演奏会:東京サロンオーケストラ イブニングコンサート」に「審査が甘い比較の消費者金融情報館」なるブログから、また「団地の少子高齢化」に「★これは面白い!FXの知識がなくてもゲーム感覚で勝てる手法です!★」なるブログから、あまつさえ「キノコの日」にはなぜかアダルト関係のブログからトラックバックがつく始末(まあわからんでもないが…苦笑)。

 記事の内容と関係のないトラックバックをつけてくるこの手のブログは、概してどこのどういう人が作っているのか明らかでなく、単にトラックバックを束ねているだけでブログとしての実質的な内容がなかったり、そうでない風を装いながらも商品やサービスを売りつけようとする姿勢が露骨なものだったり、私の偏見かも知れませんが総じて内容がアヤシゲなものが多いように思われます。トラックバックやコメントがつくのは嬉しいのですが、そんなものなら願い下げです。Jugemのブログシステムはコメントやトラックバックがつくとそれらを非公開の状態にしたまま私に通知してきますので、私はアヤシイと判断したものは公開しないまま削除していますし、コメントでも公開しないで直接メール等で連絡した方がよいと判断したものは(連絡先がわかれば、ですが)そのようにしています。トラックバックは公開せず削除するものの方が断然多いのが実情です。迷惑トラックバック用フィルタなんてものはないのかなぁ。
| その他のできごとあれこれ | 22:31 | comments(1) | trackbacks(0) | pookmark |
ちげーよ
女ことばはどこへ消えたか?表紙 今『女ことばはどこへ消えたか?』(小林千草著 光文社新書310 2007年)という本を読んでいます。たいへん興味深く楽しみながら読んでいますが、冒頭で「ちげーよ」という言い方が紹介されています。平成13年に筆者が105人の女子短大生にアンケート調査したところ、45.7%が「違うよ」ということを「ちげーよ」と言うと答えており、その後その割合がさらに上がってきているようだというのです。
 私は「ちげーよ」を実際に耳にしたことはないのですが、筆者も書いているとおり「ちがう」の/au/という二重母音が融合する場合はふつう/o:/(つまり「ちごー」)になるので、「ちがう(よ)」から「ちげー(よ)」という変化は、実はちょっと不自然なのです。筆者はこの変化を「第一音節の「チ」が/i/という狭母音であることから、そちらに引っぱられると/e:/という母音への融合も可能となる。」(p.14)と説明していますが、私は「ちがう」が「ちげー」と変化して広く受容されるには単にその形が「可能となる」というだけでは不十分で、何か別の原因があったものと思うのです。

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| ことばのこと | 23:25 | comments(5) | trackbacks(0) | pookmark |

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