「擬古楽派」参上!
 この前の日曜日の「N響アワー」でサー・ロジャー・ノリントン指揮、石坂団十郎のチェロによるエルガーの「チェロ協奏曲」第一楽章の一部が放送されましたが、この演奏は聞いていて居心地の悪いものでした。部分的にしか放送されなかったのですが、その原因の大半は、オケだけでなくソロまでほとんどノン・ヴィブラートで演奏して(させられて?)いたことにあります。その後に同じくノリントン指揮で庄司紗矢香がソロを弾いたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲が流れ、やはりほとんどノン・ヴィブラートでの演奏でしたが、こちらは違和感がありません。ベートーヴェンの音楽自体がこうしたピリオド系の奏法に合っているから、あるいは我々がピリオド系の演奏によるベートーヴェンになじみ、受け容れているからです。
 一方、石坂のエルガーは、怪しい音程と咽喉が詰まったように苦しそうな音のために音楽が壊れる瞬間があちこちにありました。音量が必要な大ホールだったこと、あまり弓を返せないフレーズの長い音楽だったことなど、チェロのノン・ヴィブラート奏法には不利な条件が揃っていたのは確かで、もっと小さいホールで演奏すれば余裕をもって細やかな表現ができたのではないでしょうか。
 しかしながらもっと大きな、というか今日的な問題は、この曲を敢えてノン・ヴィブラートで演奏するという、そのこと自体にあります。

<エルガー自身の指揮によるCD<表>
CD表

<エルガー自身の指揮によるCD 裏>
CD裏
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| オーケストラ活動と音楽のこと | 23:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
今日の道端の花
 昨日からつくばもぐっと暖かくなりました。これまでは寒さと強い風のために出不精を決め込んでいましたが、こう暖かくなっては部屋の中にじっとしているわけにはいきません。というわけで、今日の昼休み、さっそくデジカメ片手に散歩に出ました。

<ヒメオドリコソウ>
ヒメオドリコソウ

先月から気の早いオオイヌノフグリが咲き、ハコベ、ヒメオドリコソウ、ホトケノザなども見られるようになった道を、今日は暖かい日を浴びて、ちょっとゆっくり歩いてみました。

<ホトケノザ>
ホトケノザ

フキノトウも出ていましたが、開く前の食べられる状態のときは目立たないので、いつも花が開いてからしか見つけることができません。残念。でも日の光に向かって精一杯開いた可憐な萼を見られたので、まぁ、いいか。

<フキノトウ>
フキノトウ

一回り歩いてきたら、会社の近くの芝生で若い人たちがバレーボールを楽しんでいました。

花のみか 人の心も 春ならし
(ならし=なるらしの約、「であるようだ」の意)
| 身近な自然 | 22:29 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
私がスタニスラフスキー『俳優修業』を読むわけ
 スタニスラフスキイ著、山田肇訳『俳優修業』第一部(未来社 1956/1975新装版)を読んでいます。まだ読み始めたばかりですが大変面白い、というかinspiringな本で、ひょっとすると今後長期にわたって影響を受けることになるかも知れません。

 オケ関係者でスタニスラフスキーという名前を知っている人はあまり多くないと思いますが、彼の演劇理論・理念は「スタニスラフスキー・システム」と呼ばれており、その内容を知りたければ、まずはこの『俳優修業』を読むべし、ということになっているようです。
 この本は「僕」=演劇学校のある生徒の日記の形をとっており、「僕」が先生役の演出家トルツォフや他の生徒たちとの交流の中で俳優として成長していく過程を描いています。では、別に俳優でも演出家でもなく劇団関係者でもない私が、なぜこんな畑違いの本を読んでいるのでしょうか?私はかつて楽隊の一員としてある劇団と関わっていたので、スタニスラフスキー・システムという言葉だけは聞いたことがありました。そして最近になって、こんなことを考えるようになったのです。「スタニスラフスキー・システムとやら…、演劇界では知らぬ者とてないと言われるくらいだ、それ相応のシロモノに違いない。…こりゃひょっとすると同じステージ上のperforming artであるオーケストラにも応用できるのでは?」(あぁ何て三文芝居風(汗))。つまりは「ここに何か金目のモノはないかいな」くらいの下心たっぷりで読み始めたわけです。
 ところが、見事にハマってしまいました。
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| 本のこと | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
バッハの世俗カンタータと「パロディ」
 先日、近所の店でバーゲン品のCDを見ていたら、J.S.バッハの世俗カンタータ集(Brilliant Classics 8枚セットで¥2,153、原盤は旧東独エテルナ=現Edel)を見つけ早速購入しました。
 白水社のパッハ叢書別巻2『バッハ作品総目録』(角倉一朗著)には異稿や消失作品も含めて世俗カンタータが51曲挙げられていますが、この8枚セットは「結婚カンタータ」「コーヒー・カンタータ」「農民カンタータ」「狩のカンタータ」等の有名どころは勿論のこと、消失作品や断片を除く作品の大部分の16曲(BWV36c, 201〜215)を収めています。演奏はペーター・シュライアー指揮のKammerorchester Berlin(ベルリン室内管弦楽団)にBerliner Solisten(ベルリン・ゾリステン)の合唱、ソリストとしてシュライアー自身をはじめエディト・マティスやテオ・アーダムらが参加しており、最近はやりのピリオド系とは異なりますが小編成の生き生きとしたアンサンブルの中に曲によってはそこはかとないユーモアも漂いなかなかの好演。付属リーフレットは曲目解説など全くなくドイツ語歌詞のみで対訳もなしというのは少々厳しいですが、値段が値段だけにそこは我慢しなければなりますまい。
 世俗カンタータからは多くの曲が「パロディ」という手法によって私の好きな「クリスマス・オラトリオ」に転用されているということなのでぜひその原曲を聞きたいし、LPを処分してしまった「コーヒー・カンタータ」「農民カンタータ」との再会も楽しみです。

 ところで、世俗カンタータから「クリスマス・オラトリオ」や「マルコ受難曲」(消失)のような教会用作品への転用、すなわち「パロディ」について、いつかどこかで「バッハにおいて世俗カンタータから教会用作品への転用はあるがその逆がないのは、俗を聖へ引き上げようとする彼の信仰心のなせる業である」という主旨の評論を読んだような気がするのですが、今日の昼休み中に、「俗」から「聖」への転用ならデュファイの「ミサ・スラ・ファス・エ・パル」(「もしも私の顔が青いなら」によるミサ曲」)やパレストリーナの「ミサ・ロム・アルメ」(「武装した人」によるミサ曲)のような先例があることにはたと思い当たりました。ということはバッハの「パロディ」はこうした先例に倣って行われた可能性もあり、全面的にバッハの個人的な信仰心の賜物とすることはできないのではないかと思った次第です。

 ちなみに「マルコ受難曲」は、作品そのものは消失したけれども世俗カンタータBWV198「侯妃よ、さらに一条の光を」その他から復元が試みられ、CDも出ています。
| オーケストラ活動と音楽のこと | 22:59 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
スメタナ「モルダウ」のスコアリング
 この春夏シーズンに演奏する予定の曲にスメタナの交響詩「モルダウ」があります。曲はよく聞いているしとっつきやすく思われましたが、この機会にスコアを購入して見てみたところ、そのスコアリングの細かさ、入念さに驚かされました。
 *なお、今回使用したスコアは音楽之友社版(出版社曰く「スプラフォン版をもとに、各種スコアを参照して製作したオリジナル版」とのこと)です。スプラフォン版は原典版かあるいはそれに近い性格のものらしく、慣用版およびそれに従った演奏とは異なるところがあるようです。お含みおきください。

【譜例1】
モルダウ冒頭フルート たとえば冒頭のフルートの音型【譜例1】ですが、最後の音にくさび点とアクセントが付いていて、それ以前の音とは明確に区別されています。川の源流の一番最初の雫が膨らんでぽたりと滴る、そんなイメージなのでしょうか。CDなどで聞いても単なるひとかたまりの上行音型に聞こえることがほとんどですが、もしこの版による演奏であればそれは間違い、というか譜面の読み込みまたは表現が不完全であると言わざるを得ません。

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| オーケストラ活動と音楽のこと | 22:11 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「たのしいひなまつり」
 ♪あかりをつけましょ ぼんぼりに
  おはなをあげましょ もものはな♪

 平日は車で家と会社とを往復するだけの毎日ですが、今日はラジオから「たのしいひなまつり」の歌が流れてきました。普通なら新暦の3月3日には露地では咲かない桃の花も、記録的な暖冬の今年はひょっとするとどこかで咲いているかもしれません。
 私と弟しか子供がいなかった私の家では、ひな祭りをしたことはありません。ごく幼い頃に近所の女の子の家のひな祭りに招かれたような気もしますが、あれは基本的に女の子だけでやるものなので、それがどんなようすで、参加者はどんな心持がするものなのか、男である私にとってはちょっとした神秘です。
 
 民俗学的には民間信仰のさまざまな要素を指摘することのできるひな祭りですが、

 ♪きものをきがえて おびしめて
  きょうはわたしも はれすがた
  はるのやよいの  このよきひ
  なによりうれしい ひなまつり♪

 「たのしいひなまつり」のこのあたりが、「女の子」のお祭りとしてのひな祭りへの思いというか心持というか、を推し量る手がかりでしょうか。一年に一度だけお雛さま・お内裏さまの前に晴れの着物姿で進み出て行う女の子だけの祭り。しかもこの子のお姉さんはお嫁に行ってしまって家にはいない(♪およめにいらした ねえさまに よくにたかんじょの しろいかお♪)ので、この子がこの家のひな祭りの、いわば祭主、斎王なのですから、子供なりに緊張と誇らしさと責任感と、それと同時に甘やかな懐かしさも感じているのではないか。「なによりうれしい ひなまつり」という最終行の歌詞もそれなりに高揚感を感じますが、何となく字数合わせみたいな匂いもするようだし(笑)、覗き見ることを許されなかった元オトコの子としては、やっぱりもう少し神秘的な感じがしてほしいのですよ(って、勝手な思い込み?)
| 暮らしの中から | 21:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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