この街には昔から 悪い噂があった
誰も口にしたがらない 悪い噂があった
やがて時が流れて 人々は噂を忘れた
やがて時が流れて 噂は誰も知らない噂になった
(以下略)
実はこれ、ベートーヴェンの交響曲第4番の第1楽章にある、ある音符のことなのですよ…
この曲には昔から 悪い音符があった
誰も音にしたがらない 悪い音符があった
やがて時が流れて 人々は音符を忘れた
やがて時が流れて 音符は誰も弾かない音符になった
その音符とは、第1楽章が長い序奏を経て Allegro vivace の主部に入り、第1主題の提示も第2主題の提示も終えて、そろそろ提示部が閉じられようとする第183小節の頭、チェロとコントラバスに書かれている低いF音(ファ)の四分音符です。この音符は初版以来ほぼ全ての出版譜に印刷されてきたし、またベートーヴェン自身の自筆譜を含む全ての一次資料にも明白に記されているにも関わらず、古(いにしえ)の巨匠から現在の新進気鋭の若手までひっくるめて、この音符を音にし録音に残した指揮者は、私の知る限りあの革命児ニコラウス・アーノンクールただ一人(私が聞いていないだけで実際には他にもいるかも知れませんが、とにかくごく少数)です。
ちゃんとベートーヴェン自身が書いたことがはっきりしているのに、これほど身元の確かな音符なのに、なぜ誰も音にしないのか?この音符を弾くと何か祟りが?「天空の城ラピュタ」の「バルス!」的なことが?ああっ、ホールが倒壊するぅ〜!?
〈譜例は第1楽章の第180小節以降。問題の音符は最下段のチェロ / コントラバスのパートに書かれている、赤で囲った四分音符。もちろんパート譜にもはっきり印刷されています。〉
演奏の全体を通じて丁寧にしっかりと取り組まれ、個々の部分の音楽の面白さや表情、さらにそれらの変化・対照が鮮やかに表現されていて、幾分かは私の先入観のせいもあるでしょうが、マーラーの交響曲に対するのと同様のアプローチが感じられます。そうしたアプローチの結果として初期のブラームスの作品の特徴である「人懐(ひとなつ)っこさ」を表現するよりも、しっかりと確立された作品として、いわば「一人前の大人」な音楽に対するように扱っているなあ、と感じられました。速い楽章はしっかりと落ち着いたテンポで、ゆっくりの楽章は音楽の流れが感じられるようにやや速めのテンポで演奏されていて、全体に硬派な印象です。
ベルティーニの特徴がよく出ているなあと思われる箇所がありまして、それは第1番のセレナードの第1楽章の84小節から90小節にかけて(楽式的にいうと提示部の、第1主題が67小節から全オーケストラで確保されてから第2小節の提示に至る途中の推移部)、木管楽器に「たらら|たたたたら|たらら|たたたたら」というフレーズが繰り返されます(「|」は小節線ではなくフレーズの切れ目を表しています)。この「たらら」「たら」はスラーで、「たたた」は一音ずつ切って演奏するのですが、ベルティーニはこの「たたた」を「タッタッタッ」とスタッカートで吹かせています。譜面にはスタッカートの指示はなく、ここをこれほどはっきりとスタッカートで吹かせている演奏も他に聞いたことがないので、とても耳について「え、そこそんなにする?」と違和感を覚えます。
この謎はソナタ形式の再現部の相応箇所である387小節から395小節を聞くと解けます。ここの前半は「たららら|たららら」というスラー主体の滑らかなフレージングですが、391小節から「たらら|たたたたら」のフレージングが復活し、しかもここの「たたた」にはスタッカートを示す「・」がつけられているのです。つまりベルティーニは再現部のこのスタッカートを見て、それを提示部の(もともとスタッカートはついてない)「たたた」に遡及的に適用したと考えられるのです。うーん、これは気がつかなかった・・・さすがはマーラー指揮者、細部の読み取りと全体の構成に対する目配りがすごい!
全集本は中公文庫から文庫版で出版されていて(現在は絶版?)、私も文庫版全集を持っているので、当初は岩波現代文庫版にあま食指が動かなかったのだが、全集版ではなく初版本を底本としているらしいことを知って、俄然興味がわいてきた。
というのは、折口が本書巻頭の「口訳万葉集のはじめに」に次のように書いているからである。
「考証文を添える事の出来なかったのと、おなじ理由で、一語々々の詳らかな解説をすることは、避けねばならなかった。それで、為方なく、巻末に、名物・作者・語格索引を兼ねた、万葉辞書をつけることにしたが、これにも、万葉辞書として、独立の価値が持たせたい、というはかない欲望から、下巻の末の百五十頁ばかりに、纏めて出すことにした。此は、是非、参照して頂かねば、隈ない理会は得られまいと思う。(中略)とにかく、本文・訳文・辞書の三つは、始中終、対照して見て貰わねばならぬ。」(全集文庫本 pp.7, 9)
ところが全集本にはここで言われている「万葉辞書」に当たるものが見当たらない。全集本はもともと三巻本として出版された初版本を二巻に収めているのだが、その際に収録から外れたのか、そもそも「万葉辞書」そのものが初版本にもついていなかったのか、その辺の事情が全集本の解説には書かれていない。もし岩波現代文庫本が初版本に基づいているのなら、ひょっとすると全集盆にはない「万葉辞書」が下巻の末についているのかもしれないではないか。
そう思うと矢も盾もたまらず、最寄りのまあまあ大型書店であるイオンモールの中の書店を覗いてみたが、ここには目的のブツは置かれていなかった。そこで最近つくば市内にオープンしたコーチャンフォーという大型書店に行ってみると、果たしてここには在庫していたので、ドキドキしながら下巻(岩波現代文庫本は上・中・下の三巻構成)を手に取り、本文の最後を見た。しかしそこには全集本と同じく、万葉集の掉尾を飾る大伴家持の「新しき年のはじめの初春の、今日降る雪の、弥頻(いやし)け。吉言(よごと)」の歌があるばかりで、万葉辞書に相当するものはなかった。
これはどういうことか、下巻巻末の解説にも「万葉辞書」に関する言及はなかった。しかし念のために上巻の「口訳万葉集のはじめに」を見たところ、「…下巻の末の百五十頁ばかりに、纏めて出すことにした」の後に(本書には収録しなかった)という一文が加えられているのが見つかった。つまり初版本には「万葉辞書」があったのだが、何らかの理由で岩波現代文庫本には収められなかったということがわかったのだ。同様に「万葉辞書」を載せていない全集本にはこの種の注釈がないので、この点は岩波現代文庫本の方が親切である。しかしなぜこれが全集本にも岩波現代文庫本にも収録されなかったのか、その理由は残念ながらわからない。初版本そのものの「万葉辞書」の部分を見ればその理由が推測できるかもしれないし、全集刊行時の「月報」に何か書かれているかもしれない。引き続き注意してみたい。
※本書は Kindle 版で読んだので、引用箇所にページ数を付記しておりません。
ハンナ・アレントの『エルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』(1963)はいずれ読みたいと思っていますが、本書はその関連本として読みました。著者の村松剛(むらまつ・たけし)氏は1975年から筑波大学の教授を務めておられ、私も一コマだけですが授業を受けました。ご自身の著書『死の日本文學史』(1975)を用いての講義でしたが、品行方正で素直に生きてきた好青年(当時)にはよくわからない内容だったようで全く記憶になく、テキストとして買った同書(ハードカバーで結構なお値段でした)も売っ払ってしまいました。今なら読めるかも。
ナチスの絶滅収容所にユダヤ人を送り込む最高責任者であったアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は、第二次世界大戦終結後アルゼンチンで偽名を使って逃亡生活を送っていたが、1960年にモサド(イスラエルの情報機関)によって捕らえられてイスラエルに移送され、1961年の4月から12月にかけてイスラエルの国内法に基づいて裁判にかけられました。この裁判は国際的な注目を集め、村松氏は「サンデー毎日」誌の臨時特派員として前後一ヶ月あまりこの裁判を傍聴し、「サンデー毎日」誌にルポを連載したようです。
本書はそのルポではなく、裁判資料や裁判の速記録、アイヒマンの供述書などに基づいて書かれたもので、著者自身「個人的解釈がはいるのは、ある程度さけられないことですが、資料のないこと、あっても不確かなことは、一つも書いてはいません。」(「あとがき」―これは初出の角川新書版(1962)への「あとがき」だそうです)「解釈はべつとして事実に関しては、資料のないこと、あっても不確かなことは、一つも書かなかったつもりです。」(「アイヒマン裁判覚書―あとがきにかえて―」)と述べています。
ところで、土浦交響楽団のホームページの団員専用のコーナーに、今から24年前の若き日の私(と言っても30代半ばですが)が書いた、この曲に関するエッセイが載っています。おそらく1996年5月に行われた土浦交響楽団第33回定期演奏会に向けて書いたものを、その後に若干改訂してこちらに載せたものと思います。今となっては気恥ずかしいものですが、この機会に虫干しを兼ねてこちらに転載しようと思います。内容は当時のままでその後一切手を加えていないので、現在では誤りと思われる内容もあるかも知れませんが、興味のある方はご笑覧いただければと思います。
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すかいさん、というのは Sky(空)を連想させるおもしろい名前ですが、「皇海山」という表記とはうまくつながりません。木暮理太郎は上に書いたとおり山岳研究を盛んに行っていたので、この皇海山についても江戸時代の地誌から山名の変遷をたどっています。山をやる人には既に常識なのかも知れませんが、私はこれを読んで、初めて皇海山という名前の由来を知って感動したので、紹介しようと思います。
木暮によると、この山は江戸時代の史料には「さく山」「座句山」「サク山」と書かれているといいます(pp.313-4)。これが明治12年の史料になると「笄山。勢多郡ニテ之ヲサク山ト云。」と書かれます(p.314)。「笄」は音は「ケイ」、訓は「こうがい」と読む字なので、「笄山」は「こうがいやま」または「こうがいさん」と読んだものと思われ、それまでの「さくやま」または「さくさん」とは明らかに別系統の名前です。さらに明治21年の史料に「皇開山」という表記が出てきます(p.315)。「皇開」も「こうがい」への宛字(あてじ)でしょう。こうした「こうがい」への宛字の一つが現在使われている「皇海」であると見られます。
しかし本来「こうがい」であった「皇海」がなぜ、いつ頃から「すかい」と読まれるようになったのかは木暮先生にも調べがつかなかったと見えて、「スカイと呼ばれるようになったのはいつ頃からの事であるか知らないが、勿論最近の事であろうと思う。皇海が何かの原因でスカイと誤読されてそのまま通用するようになったものであろう。」(p.316)としています。そして「皇は「すめ、すめら」と読むから皇海をスカイと誤読することは有り得よう。(中略)コウガイがクワウガイと漢字をあてられることなどは、地方には稀でない例である。」(p.316)という説を出しています。
つまり「皇海山」と書いて「すかいさん」と読むのは木暮説に従えば「誤読」の結果であって、「こうがいさん」が歴史的に正しい呼称なのです。だから「すかいさん」の徒が、誰かがこの山を「こうがいさん」と呼ぶのを聞いて「ああ素人が」と嘲笑(わら)うのは本来はお門違いで、少なくとも歴史的には「すかいさん」の徒の方が宛字を誤読する愚を笑われても仕方がないことになります。ただ多勢に無勢、自分一人がこの山を「こうがいさん」と呼んだところで、「あああの山ね」と応じてくれる人がおそらくいないであろうことは遺憾です。
ところで上に揚げた木暮説の後半「コウガイがクワウガイと漢字をあてられる」(p.316)という部分は、「笄」と「皇海」ではそれぞれ仮名づかいが違うにもかかわらず「笄」の代わりに「皇海」という漢字があてられることに言及したものですが、近年の岩波文庫の緑帯の「旧仮名づかいを現代仮名づかいに改める。」という表記方針がここでは悪い方に働いて、文の意味がうまく通らなくなってしまっていることには触れておかなければならないでしょう。
「笄」の旧仮名づかいはコウガイではなく「カウガイ」で、「皇海」の旧仮名づかいは「クワウガイ」なので、現代仮名づかいに改める前の原文は「カウガイがクワウガイと漢字をあてられる」とあったはずです。旧仮名づかいを読める人なら、ここで「ああ仮名が違ってもそんなことにはお構いなしに、聞いた音(おと;ここではコーガイ)に漢字を当てたということだな」とピンと来るでしょうが、「コウガイがクワウガイと」では仮名づかいが新旧中途半端で、特に旧仮名づかいを読む準備のない読者には何のことやらわけがわからないのではないでしょうか。
こういうところをどう処理して原文の意図を読者に誤りなくわかりやすく伝えるかが編集者の腕の見せ所なのですから、杓子定規に「現代仮名づかいに改める」のではなく、たとえば「カウガイ(注:「笄」の旧仮名づかい)がクワウガイ(注:「皇海」の旧仮名づかい)と」と注を入れるなど、もうひと工夫してほしかったところです。
本書は基本的に往復書簡集です。柳田がシャグジという名の路傍の神について抱いた疑問を、学問仲間で「東京人類学雑誌」等の常連でもあった山中笑(やまなか・えみ、後にえむ;山中共古とも号す)に問い合わせた手紙から始まります。その後文通先は歴史学・東洋史の白鳥庫吉(しらとり・くらきち)、地理学・考古学・被差別部落研究など幅広い学的関心と問題意識を持った歴史学者の喜田貞吉(きだ・さだきち)、民話採集者で「遠野物語」の話者の佐々木繁(ささき・しげる;佐々木喜善、佐々木鏡石とも)などへ広がり、その総数は34通に上っています。
書簡集という体裁のため本文は候文(そうろうぶん)の手紙の連続で、要所に注が加えられているものの、論文のように「問題提起・考察・結論・今後の展望」といった形にまとまっているわけでは全くありません。一応「シャグジとはどういう神か」という大テーマはあるものの、手紙をやり取りするうちに柳田もその相手も、少しでも関連があるのではないかと思われる事柄を次々に提出していき、話題は神道からも仏教からも道教からもはみ出した「雑神」全般に広がって、あたかも「共同研究・シャグジ論」をまとめる上での舞台裏の様相を呈しており、しかもその「共同研究・シャグジ論」は前述のとおりついにまとまらないままに終わってしまうのです。
さすがの柳田もこれだけで成書として出版するには忍びなかったと見え、本文の前に「概要」として書簡中に現れた主要なトピックをいくつかのグループに分けたものを付けており、これが「共同研究・シャグジ論」の梗概とも見られ得ます。しかしそれとても実質的にはグループ分けされたトピックとそれに言及した手紙が載っているページを示しただけの一種の目次で、何らの考察も加えられておらず、いわば幹から多くの枝葉を出した大木がそのまま切り倒されて横たわっているようなもので、一々の枝葉を避けて幹だけをたどるもよし、逆に枝葉を細々(こまごま)とたどって自分なりの問題を見つけるもよし、読み取り方は各読者に任せられていると言えましょう。
もしも枝葉を避けて幹だけをたどるのであれば、最後の3通の書簡「32 柳田より中山氏へ」「33 柳田より緒方翁へ」「34 松岡輝夫氏へ」は読んだ方がよいと思います。この3通はいずれもこの往復書簡集をまとめて出版する考えを述べており、議論の収束を意図して一応の結論めいたものをとりまとめようとしていることがうかがわれるからです。勿論それ以外の一々の書簡も読むに如くはありません。候文の書簡の書き方が実例でわかりますし笑。
本書の著者の赤松啓介は1909(明治42)年生まれの民俗学者で、戦前は独学で民俗学的調査を行うかたわら非合法時代の日本共産党に入党し、収監されたこともあるといい、戦後は神戸市史編集委員、神戸市埋蔵文化財調査嘱託などを務め、差別・夜這い(性愛)・百姓一揆など、従来の民俗学が扱ってこなかった分野の研究を行いました。
本書は三笠全書の一冊として刊行されたもので、著者の「はしがき」にあるように「何よりも一般的な知識を提供したかったので、そのような配慮から民俗学のすべてに亘る一応の提起を企図した」(p. 3 原書は旧字・旧かなづかいだが引用は新字・新かなづかいに改めた。以下同じ)ということなので、戦前の1938(昭和13:実際には日中戦争はこの前年の1937(昭和12)の盧溝橋事件から始まっているが)年の日本民俗学の状況を知りたいと思って読み始めました。
一応本書の目次を掲げます。漢数字はアラビア数字に改めました。
はしがき
第1章 民俗学発達の史的展望
第1節 民俗学の胎生と発達
1. 民俗学のの典型的発達
2. 民族学の特徴的形成
3. 科学的建設の萌芽
第2節 日本に於ける発達
1. 幕藩末期における萌芽
2. 人類学に於ける胎生
3. 郷土研究に於ける形成
第3節 最近の情勢と動向
1. 民俗学としての成立
2. 民俗学の転換と動向
第2章 民俗学の対象と方法
第1節 民俗学の対象
1. 民間伝承とは何か
2. 歴史性及び社会性
3. 民俗学の目的
第2節 民俗学の方法
1. 方法の多様に就て
2. 相違と一致の比較
3. 発展と運動の結合
第3節 民俗学の技術
1. 採取技術の発達
2. 調査技術の形成
3. 組織技術の胎生
第3章 伝承の停滞と運動
第1節 封建習俗の残存と崩壊 ―生産諸関係―
1. 村の文化
2. 村の生産
3. 村の工業
4. 村の商業
第2節 封建習俗の残存と崩壊 ―社会的機構・社会的意識―
1. 村の組織
2. 村の共同
3. 村の崩壊
第3節 俗信の集団的調査に就て
1. はしがき
2. 採取資料
3. 整理と考察
あとがきとして
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夏四月、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の、賀茂神社(かものやしろ)を拝(おろが)み奉(まつ)りし時に、便(すなわ)ち相坂山(おうさかやま)を越え、近江の海を望み見て、晩頭(ゆうぐれ)に還(かえ)り来て作れる歌一首
木綿畳(ゆうたたみ)手向(たむけ)の山を今日越えていづれの野辺に廬(いおり)せむわれ
(万葉集巻第六 1017)
※訓読は中西進『万葉集 全訳注原文付』(昭和53から58(1978から1983)年 講談社文庫)に拠り、( )に包んだ振り仮名は新仮名遣いとしました。
歌の題詞(歌の前にあって歌が詠まれた状況や背景を説明する文)によると、これは大和朝廷の有力豪族である大伴家の坂上郎女が、ある年の四月に山城国の賀茂神社に参拝した際、ついでに足を伸ばして逢坂山の峠に立って近江の海(琵琶湖)を望見し、夕刻になって賀茂神社近くの宿所に帰って来た際に作った歌ということです。歌の意味は
木綿を重ねて畳んだ木綿畳(ゆうだたみ)を峠の神に手向けて旅の安全を祈る、その手向けの山を今日は越えてきて、さて、どこの野辺に仮の廬を結んで一夜を過ごそうか、私たちは
というもの。歌の最後の「われ」は単数の「私」のように聞こえますが、原文は「吾等」とあり複数。当時貴族が、まして女性が、一人旅をすることはあり得ず、必ず伴の者がついて一行となる習いでした。
そうしたことは承知の上でなお私は、この歌の「われ」を坂上郎女自身の一人称と見たいのです。「吾等」という集団的な発想ではなく、後期万葉を代表する優れた女流歌人であったこの人の、その繊細で鋭利な感覚で感じ取られた畏(おそ)れや慄(おのの)きの主体であるところの、一人の「わたし」と見たいと思うのです。
先日のこと、例によって古書を漁っていたら、ひときわ異彩を放つ古風な表紙の冊子を発見。あまりに達筆なため書名が読めませんでしたが、『前橋繁昌記』です。花をつけた桜の幹を斜めに配し、書名もそれに合わせて斜めにレイアウトしてあるのがなかなか斬新。白抜きの円の中には前橋市街と榛名山でしょうか、赤い四角の中には明治時代の前橋に富をもたらした生糸が描かれています。書名『前橋繁昌記』の下の字は「以文會発行」と読めます。
本書は明治24(1891)年に群馬県東群馬郡前橋町(現・前橋市)の以文会が発行した『前橋繁昌記』を、前橋市の群馬県立図書館内の「みやま文庫」が昭和49(1974)年に復刻したもので、「前橋繁昌記の解題を兼ねて」と「みやま文庫刊行のことば」が巻末に付け加えられている他は、原本をそのまま再現しています。そのため旧仮名遣いなのは勿論、変体仮名や合字が多用されており文体も明治の文語文なので、慣れないとなかなか読みづらいと思いますが、前橋に縁のない私が読んでも興味深く面白い内容を含んでいます。明治時代の前橋の街の空気を感じることができる貴重な史料と思われます。
まずは目次を掲げます。原本は旧字ですが新字に直します。また各項目の頭に「一(ひとつ)」が付いていますが省きます。(ママ)は用字・用語が原本どおりであることを示します。( )は私が補った字です。
叙文(ママ)
前橋旧城の由来並に県庁の沿革
前橋繁昌の由来並に幅員戸口の事
市街変遷の事
前橋の気候
群馬県庁並に県会議場の事
地方裁判所並に区裁判所の管轄
公証人、代言人、執達吏、並に扣所ノ心得
東照宮並に招魂祠、臨江閣、風呂川、知事の官宅と市中有志者姓名、岩神飛石、笹の湯、求全舘、磯部温泉、大渡
附 光厳寺古墳、国分寺旧墟
師範学校、中学校
集成学舘 並に諸私立学校
大林区並に群馬苗圃
利根橋 附 惣社明神の由来
監獄署の事
龍海院並に是字寺の縁起
上毛新聞並に印刷業の人名
病院、並に医師、産婆、薬剤師、薬舘、薬種商の姓名商号
郡役所並に直税署、間税署
警察署と管区の件
前橋町役場と公民、町会、納税者の事
市中各小学校の話 本屋 筆墨店
神社仏閣基督教会堂と宗教現時の体裁
郵便、電信、(ママ)
各銀行、物産、改良の二会社及び其の状況
製糸会社、製糸家及び其状況
上毛養蚕新古比較評
四ノ仲買 生糸、繭、屑物、蛹
五ノ市場 生糸、繭、桑、魚、青物
諸種の会社
諸種の会
勧工場、劇場、寄席
前橋停車場、双子山、弾正林、元の仕置場
上毛馬車鉄道並に片石、橘山、箱田神社
旅店案内、人力車道里の事
前橋名所の志ほり 天野の藤
煉瓦製作場並に屠牛場
料理店の案内に芸妓の品行論
附 西洋料理、すし、牛店、蕎麦、蒲焼
(これ以下は本書中の図版の名称)
前橋市街全図 附 古城図
旧侯入部の図
知事出勤の図
県庁の図
東照宮の図
臨江閣の図
楽水園の図
岩神の図
龍海院是字寺の図
利根橋並に監獄署の景
味噌附饅頭の図
糸挽工女の図、並に熨斗買の図
八幡、神明、八坂の三景
師範学校の図
中学校の図
桐華組の図
交水社の図
昇立社の図
三九銀行の図
繭市場の図
勧工場の図
敷島、愛宕、劇場の図
田中町停車場並に上毛馬車停車場の図
(原書の「前橋繁昌記目録」は以上)
洋銘酒 原野屋広告と原書奥付
以文会広告
公証人高橋賢の「稟告」(広告)
前橋求全舘鉱泉広告
前橋繁昌記の解題を兼ねて(萩原 進)
みやま文庫刊行のことば
「おっこンないで」とは勿論「(階段を踏み外して)落ちないで」という意味に違いない。そして「おっこンないで」のンはおそらく撥音便(たとえば「積む」の連用形「積みて」が「積ンで」、「読む」の連用形「読みて」が「読ンで」になる等の発音の変化をいう)であろう。もしそうなら元の動詞は何だろう。それはおそらく「おっこる」という形なのではなかろうかと考えた。
さらにその「おっこる」の「おっ」の部分は関東方言で多用される「お+促音の接頭語」(たとえば「オッぱじめる(始める)」「オッころぶ(転ぶ)「オッぺしょる(へし折る)」等の「オッ」)ではないかと考えた。もしそうなら接頭語が付く前の本来の動詞は何だろうか。単純に「おっ」を除けば「こる」が残るが、「こる」という語が「落ちる」という意味を持つのだろうか。どうも違和感がある。
そこで思い出した。「落ちる」の関東方言で「おっこちる」という語がある。この語はふつう「落っこちる」と書いて、つまり最初の「お」が「落ちる」の「お」だと思われているのだが、あれも実は「落ちる」に関東方言の「お+促音の接頭語」が付いたものなのではないだろうか。
ただし、もしそうであれば「おっ落ちる」という形になるが、「おっお」という音の連なりは発音しにくいので、発音しやすくするため仮に k の子音をはさんで「おっ・k・落ちる → おっこちる」となったものではないだろうか(これを「k仮説)と呼ぶことにする)。
そこでこの「k仮説」を先ほどの「おっこる」に適用してみると、「お+促音の接頭語+k」を取り除いた形は「おる」になる・・・なんだ、「おる」なら「下りる・降りる」の古語「下る・降る」そのものじゃないか!つまり「おる」に「お+促音+k」の接頭語を加えることで、その内容の「下りる」に勢いと強さが加わり、結果として「落ちる」という意味を表すことになったと考えられるのだ。
帰宅後に「落ちる」という意味の茨城方言「おっこる」が実在することを確認した(たとえばこちらの該当箇所)。
あとは私の「k仮説」が正しいことが検証されれば、茨城方言「おっこる」が、実は由緒正しい古語「おる」にまっすぐつながる語ということになるわけだ。
「何?「おっこる」?そんなの聞いたこともないね。どーせイバラキの田舎の方言でしょ?へへ」なんて思ってるそこいらここいらのアナタたち!どうせ皆、茨城の事バカにしてんだっぺよ。おめえら、いつまでも調子に乗ってんじゃねーかんな!((C) 赤プル)(笑)
〈上2枚は第1番・第4番、下2枚は第2番・第3番のそれぞれの表面・裏面の写真です。〉
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まず1枚めは中世のフランスの作曲家アダム・ドゥ・ラ・アレ Adam de la Halle の作品と13、14世紀の舞曲集。といってもクリーム色の表紙を見ても、すぐにはその内容がわかりません。まずアルヒーフの大きなロゴと「ドイツ・グラモフォン社の音楽史研究スタジオ」という名乗り(と言うのか?)があり、その下に「研究部門 II 中世中期(1100-1350)」、さらにその下に3列に分かれて「シリーズA:トゥルバドール、トゥルヴェールとミンネゼンガー」「シリーズB:遊興芸人の音楽」「シリーズC:1300年までの初期多声音楽」と研究部門の下位分類が示されて、その下にようやく作曲者と曲名が一番小さい字で印刷されています・・・と、おや、曲名が日本語になっている!そうです、これは日本グラモフォン株式会社から発行された日本語版のLPなんです。例の「一文」にも書きましたが、私が子どもの頃に見ていたグレーを基調としたジャケットのアルヒーフのLPは「ドイツ直輸入盤」という帯が麗々しくかけられていて、その帯と日本語解説(これは別紙に印刷して挟み込まれたもの)以外は100%ドイツ製でしたが、そうなる前のこの黄色いジャケットの時代には日本語版があったのです。これは初めて知りました。ちなみにLPの中心のレーベルも日本語が印刷された日本語版仕様です。すげえ。
ジャケットを裏返してみると、全面を使って「ドイツグラモフォン音楽史研究室 アルヒーヴレコードの分類について」という、研究部門とその下位分類のシリーズの一覧が掲載されています。その冒頭の「緒言」がこのレーベルの志すところを実に格調高く簡潔に述べているので、ここに摘記します。
「過去の音楽的遺産は汲みつくし難いものであるが、今日まで次のような原因からレコードに吹込まれる機会はきわめて少なかつた。即ち、初期の音楽は古典及び現代音楽に比べて演奏会での演奏は殆ど行われず、また時代が遡るほど楽曲の解釈が困難になるからである。
ドイツ・グラモフォン社では、かような事情から音楽史研究室を創設したのであるが、ここで行われていることは西欧音楽初期即ち7世紀頃のグレゴリアン・チャントからモーツァルトの青年時代に至る約1000年の変遷を、専門家並びに愛好家のためにアルヒーヴ・レコードとして録音することであつた。
これまでの試みと異ることは、ここでは音楽史中一定の範囲に限つてその実例となるものを順次並べるということよりも、むしろその芸術的香気が今日まで漂いつづけている永遠の音楽を、教育的な意図や一定の範囲に縛られずにレコード上に再現することを目論んでいるということである。
音楽史スタジオは、この企画を音楽学、芸術、技術の各点から今日成し得る最高の型(ママ)で完成すべく、全楽曲を
原譜を基礎としたオリジナルな形態で
歴史的な楽器を使用し、最初のスタイル通りの演奏で
評判の演奏家の手による生き生きした演奏で最新の音響技術を動員した録音で
提供するものである。」
岩波文庫巻末の「読書子に寄す」を思い起こさせる高い調子が懐かしい。ジャケット裏にはこれに続いて各研究部門とシリーズが列記されていますが、それぞれの研究部門の前に付された短い説明はちょっとした西洋音楽史の体をなし、勉強になります。
ジャケットは見開きになっていて、曲目解説は内側片面に印刷されています。例の「一文」に書いたように、アルヒーフレーベルの特徴は楽曲や演奏者、録音等に関する詳細を記載した「カルテ」にありますが、どうやら当時の日本語版にはこの「カルテ」は付かなかったようで、演奏された個々の楽曲、演奏者(サフォード・ケープ指揮プロ・ムジカ・アンティクァ)のメンバーや使用楽器、演奏に使用したテクスト、録音場所は楽曲解説の中に書かれています。録音年月日の記述が抜けていますが、LP盤の真ん中のレーベルに「DATUM 23.9.1953」とあるので1953年の録音であることがわかります。モノラル録音で音質は良好です。
演奏内容は、現在の何でもアリアリの(時にちょっとお下品な?)スタイルとは一線を画すやや抑制的なもので、歌唱はヴィブラートあり、器楽曲はフィドルなどオリジナルのレプリカも使われていて、やはりヴィブラートあり。
舞曲にはノリのよい演奏もあるものの、こうしたスタイルの演奏に慣れていた当時の古楽愛好家の耳には、あの鬼才デイヴィッド・マンロウの登場はさぞかしショッキングであったろうと思われました。実際私がマンロウの演奏で聞いたことがある曲もこのLPに含まれていますが、あの天衣無縫なドライブ感とは別物です。しかしここに聞く、うぶで慎ましい、しかし未開拓の分野の音楽に触れていく喜びをたたえた演奏も間違いなく歴史の1ページであり、それ自体まことに懐かしく好ましいものでした。
これまで個々の建築を見て「モダニズムだ」とか「表現主義ふう」とか、あるいは「看板建築に銅板が使われているのは関東大震災の影響だ」とか「アーチ型の窓があるので関東大震災後の復興小学校じゃないだろうか」などと、断片的な知識をもとに知ったふうなことを言ったり書いたりしてきましたが、自分が目にする建築の大多数を占める明治時代以降の西洋建築を歴史的に通観してみたことはありませんでした。たまたま今年の3月に本書が出版されたので、渡りに舟と購入・・・しようとしたのですが、なぜか都内の書店にも置かれていなくて、最終的には八重洲ブックセンターの、それも講談社選書メチエのコーナーにはなく建築書の売り場でようやく発見しました。
目次を見てわかるとおり、本書を読む上での前提となる知識や用語の定義について述べる序章の後が大きく2部に分かれます。第1部が「国家的段階」で、時代的には明治維新から1970年に行われた大阪万博の前までの約100年をカバーします。この時期については従来から通史が存在したようです。第2部が「ポスト国家的段階」で、時代的には1970年以降の約50年をカバーします。建築に対する国家のイニシアチブが消失し、建築家の進む方向が拡散的になった時期です。本書の巻頭の目次は、序章以外は私自身が後で内容を振り返るには簡単すぎるので、本文中の小見出しを併記することにしました。なお漢数字を算用数字に改めたものがあります。
はじめに
序章
1 建築の保守性とその例外としての日本近代
2 世界的な近代建築の普及と日本の特殊性
3 通史の不在と現在の見え難さ
4 三つの着眼
持続的変化/二つの近代化/二つの段階
第1部 国家的段階
第1章 明治維新と体系的な西洋式建築の導入
前提としての明治維新/幕末の状況が規定した維新後の方向/不平等条約と西洋式建築の導入/進歩派長州閥と初期の西洋式建築導入/初期の西洋式建築の導入プロセス/誰が西洋式建築を必要としたか
第2章 非体系的な西洋式建築の導入
開国後の産業建築/開国後の居留地の建築/北海道の開拓使と関係したアメリカの影響/擬洋風建築/非体系的西洋式建築の系譜の収束
第3章 国家と建築家
国家による建築家の育成/国家が建築家に与えた職務/国家お抱えの建築家/明治の建築家の実情/明治の建築家の主体性
第4章 明治期における西洋式建築需要の到達点
明治建築の急速な成熟/明治建築の到達点
第5章 直訳的受容から日本固有の建築へ
様式論争/〈日本の様式〉とナショナル・ロマンティシズム/建築論の役割/合理主義の確立/工学的建築への転回/「構造派」/上からの都市化と下からの都市化/テクノクラートとしての建築家/都市への視野の拡張
第6章 近代化の進行と下からの近代化の立ち上がり
素材の近代化と普及/都市化と建築の近代化の進行/建築家の増大と大正期の成果/「新しい商館建築」/「看板建築」/高度な大工の技術/生活改善運動
第7章 近代建築の受容と建築家の指向の分岐
近代建築の国際的な状況/分離派建築会/新興建築運動の連鎖/マヴォ/創宇社建築会/新興建築家聯盟など/今和次郎のバラック装飾社/私的な領域における多様なスタイルの展開/村野藤吾の例外的性格/帝冠様式/〈日本=モダニズム神話〉とタウトの日本滞在/ナショナル・ロマンティシズムとしての〈日本の様式〉とその限界
第8章 総動員体制とテクノクラシー
日本工作文化聯盟/満州における建築家の活動/丹下健三と西山夘三/「国家の建築家」の責任
第9章 戦災復興と近代建築の隆盛
NAUと近代建築論争/終戦から1950年代前半まで/レッドパージと伝統論争/建研連と五期会/1950年代後半から70年まで/未来都市の提案
第10章 建築生産の産業化と建築家のマイノリティ化
建築産業の成長/建築基準法の制定と建築家の法的地位/建築技術の高度化と合理化/住宅生産の近代化/フリーランスの建築家のイニシアティブの喪失/「日本の建築家」
第11章 国家的段階の終わり
第2部 ポスト国家的段階
第1章 ポスト国家的段階の初期設定
建築の領域における異議申し立て/大阪万博/国家が進めていた建築の公共性とその空白
第2章 発散的な多様化と分断の露呈
都市からの撤退/虚構の崩壊/1970年代の建築と住宅/巨大建築論争と「その社会が建築を創る」/「平和な時代の野武士達」と「私的全体性の模索」
第3章 新世代の建築家のリアリティと磯崎新
住宅というテーマ/住宅以外への進出/建築のための建築
第4章 定着した分断とそれをまたぐもの
メディアで問われたこと/組織の建築家/ギャップのかたわらに見られた地道な実践
第5章 バブルの時代
消費される建築/私有化される都市/都市を取り返す動き/祝祭の裏側
第6章 1990年代以降の展開と日本人建築家の国際的な活躍
建築の本来性/平面への注目/質感への集中/インクルーシブな建築/みんなの家/磯崎新の国際的な活動
第7章 ポスト国家的段階の中間決算
〈規範〉の150年
注
あとがき
図版出典
構成
全体は簡潔なソナタ形式
序奏:1-24小節 Sostenuto ma non troppo 3/2拍子 ヘ短調
大きく2つの部分に分かれる
A:1-12小節 前半Aaと後半Abに分かれる
Aa:1-7小節 フェルマータに続いて出る動機は主部の第2主題、それに続く動機は主部の第1主題にそれぞれ発展する。序奏をあまり遅いテンポで演奏すると、2-3小節の動機と第2主題の動機2aとの関連がわかりづらくなる。
譜例(左)は曲の冒頭1-3小節で赤枠内が2-3小節の動機。(右)は82-83小節の第2主題の動機2a。このように譜面を並べてみると赤枠内の動機どうしの関連は一目瞭然だが、あまりテンポが違うと音だけ聞いてこの関連に気づくことは容易ではない。
Ab:8-12小節 Aaの確保とBを導入するための転調(ヘ短調→変ニ長調)。Aaのシングルfに対してffとなりフェルマータが減衰しないので、Aaより苛烈な音楽となる。
B:13-24小節 主部の第1主題に発展する動機を繰り返しながら主調のヘ短調を確立する。
]]>本書は新書判で、松本健一による「解題」が9ページ、目次と凡例が3ページ、本文が341ページと、それほど大部の本ではありませんが、内容はなかなかに読み応えがあり、さらに私の方に当時の状況や空気感、また竹内論文を読む上での前提となる知識や理解の不足があるために、読書と読後感のまとめに相当時間がかかりました。
読後感を大変大雑把に言えば、本書の第I部の内容をなす座談会そのものは、「近代の超克」というテーマに対して座談会としての統一見解や何らかの結論を出すには至っておらず、そういう意味では失敗だったということになります。
しかし座談会としては失敗だったにもかかわらず、なぜ「近代の超克」が戦争とファシズムの象徴としての「悪名」を負うことになったのか、という問題意識から書かれたのが第II部をなす竹内論文で、「近代の超克」というテーマについてさまざまな視点からアプローチしています。
なお、本記事は全文敬称略とさせていただきます。
]]>
1) 戦争経験のある人々が同様の経験を持つ人々に語りかける「体験」の時代(1950年代から60年代)
2) 経験を有する人々がそれを持たない人々に語り伝える「証言」の時代(1970年前後)
3) 戦争経験を持たない人々がそれまでに書き留められ語り伝えられた戦争経験を検証し再構成する「記憶」の時代(1990年前後)
の3つの時代に分け、それぞれの時代がどのように「アジア・太平洋戦争」をとらえてきたかを叙述していきます。
等が挙げられています。もっとも最後の点に関して著者は「私はこのことは、学術書にとってポジティブな変化だと思っていて、本は、狭い専門家間でのコミュニケーションではなく、専門を越えたコミュニケーションのメディアとしての重要な役割を担うようになったと主張しています」(p. 9)とのこと。
こうした問題意識から書かれた本書の対象としては、まずは大学生・大学院生、さらには「できれば高校生にも学術的な著作に親しんでほしい」(p. 12)と挙げられていますが、私のような市井の凡夫が読んでも大変面白かったし、著者も最終的には「本書を通じて、多くの学生、研究者、市民の方々が、「知識基盤社会」としての21世紀に生きるための技法について考えていただければ幸いです。」(p. 13)と書かれているので、要するに誰が読んでもOKよ、ということですね。
省みれば私と「女学生」との初めての出会いは、大学のオーケストラの打ち上げで先輩が披露した歌でした。
向こう通るは女学生
3人並んだその中で
ひときわ目立つは真ん中の
色はホワイト目はパチリ
口元きりりと引き締まり
あふれるばかりの愛らしさ
マイネフラウにするのなら
これから一生懸命勉強して
ロンドン、パリを股にかけ
フィラデルフィアの大学を
優等で卒業した時にゃ
あの娘(こ)はとっくに他人(ひと)の妻
残念だ 残念だ 残念だ
また探そ
以上は1番で、先輩は2番も披露してくれたのですが、そちらの歌詞は1番よりも差し障りがあるので載せません。マイネフラウ(meine Frau:私の妻)というドイツ語が古風で、若き日の私はさすがに東京高師以来の流れをくむ大学だと感動したのですが、実は大学のオーケストラに関しては東京教育大からの楽譜も楽器も引き継がれたものがほとんどなく、少なくともその時点で東京高師からの流れは、あったとしても一度断絶していると見られるので、そんな中この歌だけが脈々と引き継がれてきたのかどうかはいささか怪しい、と今の私は思っています。その先輩が自主的にどこからか引き継いできたのではないだろうか。
私がその次に出会ったのは、ワルトトイフェルのワルツ「女学生」です。しかしこのワルツの題名「女学生」は、オリジナルタイトルの Estudiantina を辞書も引かずに生半可で断片的な知識で誤訳・捏造したもので、曲自体は女学生とは全く関係ないものであることは以前このブログに書きました。しかし当時のへっぽこ文化人にそのような誤訳をさせるほどに、「女学生」という存在は圧倒的だったということなのでしょうね。
というわけで、本書です。土浦にある行きつけの古書店で購入。新刊と見紛うほどの美本です。
著者の稲垣氏は1956年広島県生まれで京都大学教育学部教育社会学科卒業、同大学院教育学研究科博士課程退学。滋賀大学助教授、京都大学助教授を経て、本書出版当時は京都大学大学院教育学研究科教授、放送大学客員教授。「あとがき」によると、
私にとって、最も身近な「女学生」は母である。吉屋信子と夏目漱石を愛読し、手紙やスピーチに独特の感情表現を込め、ミッション・スクールと修道院に憧れ、女学校時代の友人とファーストネームで呼び合う「万年女学生」の母に対して、面白さと同時に身内ならではの気恥ずかしさも感じてきたものである。戦中・戦後にかかる時期に女学校時代を過ごしたことがかえって「女学生らしさ」への思いを強めてきた面もあるのだろう。女学校を卒業しても維持されてきたこうした「女学生っぽさ」やそれを支える「女学生文化」がどのようなものだったのかという関心と同時に、それに対する私自身のややアンビヴァレントな思いが、本書をまとめるきっかけになったかもしれない。(p. 226)
ということなので、本書を書くのにこの方以上に適任の方はあるまい、と思われます。
一方でそれを読んだ私はというと、上述のエピソードのような出会いをし、さらに2018年3月から6月にかけて東京都文京区の弥生美術館で開かれた「セーラー服と女学生 〜イラストと服飾資料で解き明かす、その秘密〜」展に行き、同名書籍(展覧会のカタログとしても読めるという)も読んで、いったい戦前・戦中の女学校・女学生とはどういう人たちだったのかという興味はずっと抱いていたわけで、本書と私との出会いは、まあ歴史の必然であったわけです(何を大げさな!)。なお戦後の女子高等教育については、もう14年前のことになりますがちょっとだけ調べたことがあります。
新刊書(古本屋じゃない普通の本屋で買った本という意味)を読んだのは数ヶ月ぶりです。私は多摩の歴史や地理に興味があるので、玉川上水のことがたくさん出ているといいなと思って買ったのですが、玉川上水の成立について触れているのは23ページから26ページの約3ページ半だけでした。
本書の構成を知るために目次を掲げます。なお年次や年数、数量等は本書では漢数字ですが、章立ての一、二・・・と区別するため半角アラビア数字に変更しました。また章立てのローマ数字は機種依存文字のため、ここでは半角アルファベットの組み合わせで表示しています。
I 江戸の暮らしの中の水
一 江戸の発展と水道の建設
徳川氏入国ごろの江戸
下町の水道、山の手の水道
明暦大火後の都市計画と水道拡張
享保年間の水道再編成
二 完成された江戸水道の給水システム
江戸水道の構造と給水方法
水量管理・水質管理
江戸の市民生活と水道利用
II江戸から東京へ
一 文明開化と水道改良の機運
江戸(東京)市内の急変
玉川上水の通船問題
明治初年の市内給水状態
二 近代水道創設前夜
上水の水質調査と衛生取り締まり開始
改良水道の調査と計画
急を告げる飲み水の危機
コレラ大量発生による水道改良の促進
改良水道設計案の決定―市区改正と水道事業
三 永くかかった水道改良工事
浄水工場・給水工場の位置変更
改良水道着工以前のつまずき
前代未聞の式典
四 文明開化の水
創設水道の通水開始
水の出る不思議な柱
改良水道(欧米式有圧上水道)の給水システム
III 変わりゆく都市生活と水道
一 いちじるしく手間どった水道拡張
―大正2年より昭和12年に至る24ヵ年継続事業
村山貯水池計画に始まる拡張工事
村山貯水池の構造
都市の急速な発展と旺盛な水需要
二 震災被害と復旧および拡張工事の推移
大正10年の強震による全市断水
大正12年関東大震災による水道施設の被害と復旧
施設の改善と水道復興速成工事
山口貯水池の築造
三 市域拡張と町村水道・民営水道の合併・買収
市域拡張前後の郊外水道
町村水道・民営水道の合併・買収
10万栓の水道増加計画
IV 戦争と水道
一 戦時下の水道
需要水量増加に対する拡張計画
戦時生活と水道
水道の防衛対策
戦災による被害
二 終戦直後の水道
戦災被害復旧と給水不良対策
進駐軍の指令による塩素滅菌の強化
渇水対策と水害復旧
戦後の水道復興計画と拡張事業の再開
V 戦後の都市生活と水道
一 都市の復興と給水需要の増大
二 水道拡張工事の進行
三 累年の水不足と制限給水
四 変貌する東京の水道地図
―多摩川系中心から利根川径が主流に
五 江東地区の地盤沈下対策と市街地再開発
―下水処理水再利用による工業用水道の建設など
六 新宿副都心計画による淀橋浄水場の移転
七 広域水道(三多摩水道の一元化)
八 水需要の抑制と新しい水源を求めて
―迫られる発想の転換、節水型社会の創造へ
あとがき
参考文献
この形での歌唱は、たとえばこちらで聞くことができます。
一方、同じ「青春歌年鑑」シリーズの「青春歌年鑑 '66 BEST30」(以下「BEST30」という)に収められている録音では、同じ箇所が譜例2のように歌われています。
Wikipedia によると、同じ「青春歌年鑑」シリーズのアルバムに同じ曲が異なったバージョンで収録されているのはままあることらしく、この他に私が気づいたところでは、「フランシーヌの場合」(新谷のり子)の「総集編」に収められているバージョンも、よく聞くギター1本とストリングスによるしみじみしたものではなく、あっと驚く明るく派手派手な、初めて聞くアレンジです。イントロクイズに出されたら絶対正解できない自信があります!(何威張ってんだか笑)
]]>
さて、上の仮説が正しいとすると、佐渡の子どもたちはかつてネコヤナギを「犬の子、猫の子」と呼んでいたことになるが、それはどういうことだろうか。
ご存知のとおりネコヤナギの花芽は春が近づくと芽鱗を脱ぎ捨てて真っ白に輝く綿毛に包まれた姿を見せる。日本海のただ中に孤立して冬の激しい季節風と波浪をまともに受ける佐渡に暮らす子どもたちは、うれしい春の訪れを告げるこのふわふわとした美しい綿毛に包まれた一つ一つの花芽を愛おしみ、大きさや形のわずかな違いを捉えては「これは犬の子」「これは猫の子」と興じたのではなかっただろうか。
「インネコネコネコ=犬の子猫の子」説はあくまでも私一己の仮説であって、検証された事実ではない。しかし方言の背後にそれを言い伝えてきた人々の暮らしぶりと心の動きを読み取ろうとすることは、まことに興趣尽きない営みであり、冷たく乾いた風に吹きさらされてひび割れた心を耕して新鮮な空気と潤いを通わせようとする試みでもある。
今回は前回の補足です。前回でユーミンの『あの日にかえりたい』(1975年)の中の「青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう」を取り上げました。その時には「青春の後ろ姿」について、岩崎宏美の『思秋期』(1977年)や森田公一とトップギャランの『青春時代』(1976年)を引き合いに出して考えてみたんですが、もう少し歌詞の内容を掘り下げてみると、『あの日にかえりたい』と『思秋期』『青春時代』とは、大雑把にいえば過ぎ去った青春を懐かしむ、愛おしむという意味でほぼ同じ内容の歌ではあるけれども、その問題意識というか、注目している点が違うのです。ここでは『思秋期』を取り上げて、その違いを見てみたいと思います。
「青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう」(『あの日にかえりたい』)と「青春は忘れもの 過ぎてから気がつく」(『思秋期』)には、「青春」「忘れ」という共通のワードが2つもあり、「後ろ姿」と「過ぎてから気がつく」も実質的に同じことといってもよいのですが、この2つの歌詞の内容は実はけっこう違います。
まず「青春は忘れもの 過ぎてから気がつく」(『思秋期』)の方は、「青春は忘れもの」という静的な記述が主な内容で「過ぎてから気がつく」は「忘れもの」の説明として付け足されています。
これに対して「青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう」(『あの日にかえりたい』)の方は、『思秋期』では「忘れもの」の補足説明に過ぎなかった「過ぎてから気がつく」に相当する「(人はみな)忘れてしまう」という動作の方に力点があり、逆に『思秋期』の主文であった「青春は忘れもの」に相当する「青春の後ろ姿」は、こちらでは「忘れてしまう」の目的語として置かれているに過ぎません。
この2曲の違いをもう一つ挙げるなら、『思秋期』では「お元気ですがみなさん いつか逢いましょう」と何の屈託もなくあけっぴろげに素のままで再会を待ち望んでいるのに対して、『あの日にかえりたい』では「あの頃のわたしに戻って あなたに会いたい」と言ってます。今の素のままで、ではなく「あの頃のわたしに戻って」という条件節が付いているのです。
ユーミンの同じ時期の名曲に『卒業写真』(1975年)があります。この曲と『あの日にかえりたい』を並べてみると、「青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう」「あの頃のわたしに戻って あなたに会いたい」という歌詞の意味がはっきりしてきます。そのヒントは『卒業写真』の「人ごみに流されて 変わってゆく私を あなたはときどき 遠くでしかって」という部分です。「人ごみに流されて変わってゆく」(『卒業写真』)と「青春の後ろ姿を忘れてしまう」(『あの日にかえりたい』)とは、同じことをいっているのです。それは「自分があの頃から変わってしまった」という自覚の悲しみと後悔、そしてもう戻れない絶望感が入り混じった気持ちなのです。
本当は「あの頃のわたしに戻ってあなたに会いたい」けれど、それはもうできない。だからせめて私が変わっていくのを「ときどき遠くで叱って」ほしいと思う。そして「あの頃の生き方を あなたは忘れないで」(『卒業写真』)と願う。それが「私の青春そのもの」だから。そうでないと本当に「青春の後ろ姿を忘れてしまう」から。
『思秋期』や『青春時代』には「忘れてしまう」ことに対するこうした屈折した気持ちは盛り込まれていませんし、そもそも「過ぎてから気がつく」「後からほのぼの思う」という動作の方向は「忘れてしまう」とは逆を向いている。そこがユーミンの歌との違いということになります。そして後悔や絶望という陰に縁取られて、青春の姿はいっそうまぶしいのです。
ところで『卒業写真』の「あの頃の生き方を あなたは忘れないで」というフレーズは、実はそれほど独特なものではなく、たとえばかぐや姫 / 風の『22才の別れ』(1974年)には「あなたはあなたのままで 変わらずにいてください そのままで」という歌詞がありますし、今は思い出せませんが演歌にも類似の歌詞があったような気がします。しかも並べてみると、みんな女から男への言葉として書かれている。ひょっとして「私のことはどうでもあなたは変わらずにいてね」というのは、「おんな歌」の定型的な歌詞なのか?まあそれはまたいずれ機会があったら考えてみましょう。
【後ろ姿】
荒井由実時代のユーミンの『あの日にかえりたい』(1975年)の歌詞にズキッときます。例えば「悩みなき昨日の微笑み わけもなく憎らしいのよ」なんて、そんなこと思ったこともない自分大好き脳天気な自分がまるで馬鹿に思えたし、「光る風 草の波間を 駆け抜ける私が見える」の生々しさに息を呑みもしました。そんな中で一番ドキッとしたのはBメロ(いわゆるサビ)の「青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう」ですね。「青春の後ろ姿」って言われて、そう言えば青春の思い出の脳内映像っていつも笑顔とか涙顔とかで、親友や好きだった人の後ろ姿ってどんなだったっけ、思い出せないな、確かに。
もっともここでの「青春の後ろ姿」はそんな具体的・直接的なことじゃなくて、例えば岩崎宏美の『思秋期』(1977年)の「青春は忘れ物 過ぎてから気がつく」という、その時は夢中で気づかなくて、後になって初めて「あれがそうだったのか」と気づくしかない、そういうことかな。そういえば森田公一とトップギャランの『青春時代』(1976年)にも「青春時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの」とあります。個人的には「青春時代」という語は「平安時代」みたいなコトバに聞こえて違和感あるんですが、「後からほのぼの思うもの」はよくわかる。いずれにしても青春が過ぎ去ってしまったことに後から気づいて呆然と見送っている、って感じかな。
ところで「後ろ姿」という言葉から印象的に思い出される歌に、『ウナ・セラ・ディ東京』(1964年)があります。おーっと、いきなり10年以上も遡ってしまった。さすがに3歳当時のことは全く覚えていないので Wikipedia によりますと、この曲はもともと『東京たそがれ』というタイトルで、1963年にザ・ピーナッツが歌ってリリースされたそうです。さっそく YouTube でこの『東京たそがれ』を確認してみました。こういうことがすぐできるのは時代の恩恵ですね。聞いてみると確かに同じ曲ですが、クライマックスの「とても淋しい」のところの大きなルバート(溜め)がなく、アレンジも地味でちょっと陰気な感じです。そのためかこの曲は当初あまりヒットしなかったそうですが、翌1964年に「カンツォーネの女王」として知られたミルバ Milva が来日してこの曲を歌ったところ大ブームとなり、ザ・ピーナッツも曲調とアレンジを変えて『ウナ・セラ・ディ東京』として再リリースしてヒットとなったとのこと。
私の記憶にあるのはこのザ・ピーナッツの『ウナ・セラ・ディ東京』ですが、ミルバの日本語の歌唱もよく覚えています。よく言えばしっとり、悪く言うとしんねりむっつりしたザ・ピーナッツの歌い方よりも、ミルバのストレートな歌い方の方が私は好き、というか、「女王」の歌唱にはもうただただ圧倒されますね。
この『東京たそがれ』改め『ウナ・セラ・ディ東京』は、静かなAメロ−情熱的なBメロ−静かなAメロという三部構成で、Bメロにクライマックスが置かれ、その後に戻ってきた静かなAメロに「街はいつでも 後ろ姿の 幸せばかり」という歌詞が与えられています。この「後ろ姿の幸せ」には、過ぎ去ってしまった幸せを見送っているという含意もあります(最初のAメロの歌詞に「いけない人じゃないのに どうして別れたのかしら」とある)が、「(街は)いつでも」「(後ろ姿の幸せ)ばかり」という語が入っているために、街中の幸せという幸せがみんな自分に背を向けているような、自分があらゆる幸せから拒否されているような、そんな私の絶望的な哀しみが惻々と胸に迫ります。
ところで私はBメロの歌詞を「あの人はもう私のことを 忘れたのかしら」、戻ってきたAメロの歌詞を「街はいつでも 後ろ姿の 幸せばかりね」と覚えていたのですが、今回改めてザ・ピーナッツ(『ウナ・セラ・ディ東京』『東京たそがれ』)とミルバのオリジナル盤を YouTube で聞き直してみたら、いずれの音源もそれぞれ「忘れたかしら」「幸せばかり」と歌っていますし、岩谷時子さんの原歌詞もこのとおりです。うーむ、記憶ってなんだろう・・・考えてみると「忘れたのかしら」はその直前のAメロの歌詞「別れたのかしら」に引きずられて、また「幸せばかりね」は歌詞の世界のあまりの絶望感に呑まれて、それぞれ私の脳内で勝手に「の」「ね」が付加されたものとも思われますが、これも歌の力というものでしょうか。
というわけで、私の昭和歌謡独り言の第1回はこれできれいに終わるはずでしたが、今回 YouTube で音源を探しているうちに衝撃的な事実を知ってしまいました。「街はいつでも 後ろ姿の 幸せばかり」というこの世紀の名歌詞は、なんとその場しのぎの苦し紛れから生まれたというのです。いやまあそれは言い過ぎとしても、作詞者の岩谷時子さんご本人がそのようなことをお話になっていらっしゃいます。詳しくはこちらの動画をご覧いただきたいのですが、これには驚きました。
しかしふと目に入ったサラリーマンの後ろ姿から不滅の歌詞を探り当てた岩谷さんといい、懐旧談の初回からいきなり衝撃の事実に出会ってしまった私といい、世の中はそうそう後ろ姿ばかりでもないようですね。はい、おしまい。
実はこれの直前に聞いたアバド指揮マーラー・チェンバー・オーケストラの演奏が印象に残っているので(やはりそれだけのインパクトのある演奏だったのですねアバドのは)どうしても比較してしまうのですが、入念に組み立てられ丁寧に仕上げられながら少しもこせつかず懐(ふところ)の深さが印象的なアバドの演奏に対して、この演奏は元気で明るくて、その代わり細かい仕上げはもう一つで少々荒っぽく、時として一本調子に聞こえてしまいます。素朴で飾り気がないのはよいのですが、あまりにあっけらかんとしていて、もうちょっと何かないの?と言いたくなります。
まあ20代半ばの青年の作品へのアプローチとして、あまりに重厚だったり彫琢しすぎたりするのもいかがか、という考え方もあり得ますから、この演奏くらいすっきりと飾り気ないのも、それはそれでよいのかも知れないと思わないでもありません。たとえば第1番の第3楽章は2/4拍子で書かれていて、初回のボンガルツのところでやや詳細に述べたとおり、楽譜どおり1小節を2つに振るか、それとも8分音符単位で4つに振るかという問題があるわけですが、ここでのフランシスはブラームスが書いたとおり素直に1小節を2つで振っている気配があり、その結果音楽が停滞することなく、よいテンポでさわやかに進んでいきます。
それ以外の楽章も、第2番の第1楽章のテンポが Allegro moderato という指定から受ける感じよりはやや遅めなのが気になることを除けば、テンポも中庸で特に目立った主張やこだわりがありそうでもなく、その結果として健康的で素朴でおおらかな音楽が流れていきます。しかしそれを聞いている私は、ちょっとした音符への無頓着さや音形の訴えのなさに、どこか肩透かしを食ったような物足りなさを覚えています。音楽が滞りなく流れていくのは確かに大事なことだけれども、それ以上の何かがあってもいい、あってほしいと思うのですが・・・。
そんなわけで、指揮者のフランシスとミラノのオーケストラの皆さんには大変申し訳ないのですが、私はこの演奏を聞きながら、かえって直前に聞いたアバドとマーラー・チェンバーの演奏のすごさを改めて思い知ることになってしまったようで、そのおかげでこのレビューもまことに薄いものになってしまいました。
これはこのプロジェクトにとっては決してよいことではありません。特定の演奏に囚われていては、それ以外の多くの演奏を虚心に聞いていくことはできないのです。アバドの呪いといってもよいかも知れません。実に困ったことです。
次回はガリ・ベルティーニ指揮のウィーン交響楽団の演奏を聞く予定です。果たしてベルティーニはアバドの呪いを解いてくれるのか?
というわけで今回のCDのご紹介。クラウディオ・アバド指揮マーラー・チェンバー・オーケストラによる演奏で、2006年3月と4月にイタリアはレッジョ・エミリアという街のテアトロ・カヴァレリッツァとテアトロ・ムニチパーレ・ロモロ・ヴァッリにおけるライブ録音となっております。足掛け2ヶ月で収録場所も2ヶ所でライブ録音とはこれ如何に?ですが、このデータはカップリングのシューマンのチェロ協奏曲(独奏はナタリア・グートマン)も含めてのもので、コンサートの内容や曲ごとの録音の詳細は不明です。録音を聞いたところでは不自然な編集の痕跡や会場ノイズには気が付きませんでしたし、拍手も入っていません。もちろん演奏上の大きな傷もありません。ドイツ・グラモフォン(DG)の476 5786という番号のCDです。
というわけで、まずはこの曲の最も印象的な部分、シュプレヒコール云々が歌いこまれて何回も何回も繰り返されるリフレインを聞いてみましょう。歌詞としては一連ですが、付された旋律によって前半と後半に分けて書いてみます。
シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
変わらない夢を 流れに求めて
時の流れを止めて 変わらない夢を
見たがる者たちと 戦うため
この「シュプレヒコールの波」という歌詞から、昭和おやじな私がすぐに思い浮かべるのは「安保闘争」や「大学紛争」ですが、実はこれらは1970年代の初めにはほぼ終息していて(安保闘争は日米安全保障条約締結をめぐる1959年から60年にかけてと、その10年後の自動延長を阻止しようとする1969年から70年にかけての2回行われ、大学紛争を象徴する東大安田講堂事件は1969年1月)、もちろん歌自体はアルバム発売より前に作られているわけですが、それにしても1970年代初めと1978年4月という発売時期との間には大きな隔たりがあります。では1978年当時に世間を騒がせていた「闘争」は何だったかというと、それは成田空港の開港をめぐる「三里塚闘争」でした。これは1968年頃から学生たちを巻き込んで激化し、1977年4月から5月にかけての妨害鉄塔撤去をめぐる反対運動で大きな盛り上がりを迎えます。中島みゆきが実際に見聞し、歌の中に織り込んだ「シュプレヒコール」は、おそらくこの時のものだったのでしょう。
さて、ここには「変わらない夢」という同じ語句が前半と後半にそれぞれ出てきます。しかし同じ語句でありながら、前半の「変わらない夢」と後半の「変わらない夢」の内容は実は正反対と言っていいくらいに違っていると思われます。
順序は逆になりますが、まず後半の「変わらない夢」を見ているのは誰なのかを考えてみましょう。それは「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる者たち」です。ここでは「時の流れを止めて」という句に注目して「守旧派」と言っておきましょう。そしてその夢とは「昔ながらの価値観を貫くこと」であり、その行動原理は「保守・反動」ということになりましょう。。
これに対して前半の「変わらない夢」を見ているのは「その夢を流れに求めて「守旧派」と戦うために通り過ぎてゆくシュプレヒコールの波」です。ここでは「流れに求めて」という句に着目して「進歩派」と呼んでおきましょう。そしてその夢の内容は「旧弊に囚われない新しい価値観」であり、その行動原理は「自由・改革」といったものであろうと思われます。
つまりこのリフレインは、自由・改革を掲げる進歩派と、保守・反動を旨とする守旧派との対立を描いたものということになります。最初に見たとおり中島みゆきが実際に見ていたのは三里塚闘争のデモだったと考えられますが、歴史を遡れば、安保闘争も大学紛争もやはり進歩派と守旧派との対立であり闘争であったわけで、つまりこのリフレインが描く情景は目前の三里塚闘争のそれにとどまらず、戦後日本を一貫してきた闘争を昇華した象徴的なものであると見ることもできるでしょう。
(以下コメント内容)
本宿駅と推定しているところに住んでいた者です。
ホームの残骸のコンクリートの塊が多く残されていた所が駅のはずで、あなたの推定場所よりやや右です。
線路北側に東西に走っている道があり、本宿村の主要道の一つです。
小学校東のマンション群の昔は、別荘です。林の中に日本風の立派な建物があり庭もたいしたものです。子供のころ中に入ってドングリをひろいました。別荘主はどこかの商社の人らしく、子供は府中の明星学園に通ってました。ここに別荘を建てたのは、崖上で富士山の見晴らしがよく、眼下には稲穂やレンゲ畑がきれいだからです。ここの傾斜は大昔(鎌倉、室町時代)多摩川が流れていて、川が削り取った後です。鎌倉幕府が滅びたきっかけの足利軍との大決戦があった分倍河原の戦いはこの少し東です。
以上
(コメント内容終わり)
上のコメントより、本宿駅は私が推定した場所(都道府中・町田線バイパスが南武線をアンダークロスしているところの真上)よりもやや右、つまり東側にあったらしいことと、私が「豪農の母屋か」と推定した府中五小の東隣の、現在はマンション群になっている一画は、もとは別荘であったことがわかりました。
この一画に関するコメントの「林の中に日本風の立派な建物があり庭もたいしたもの」という記述は、1947年撮影の空中写真に対する10年前の私の所見「今ではマンション群が建っているところが、当時は大きな社寺でもあったのか、学校とほぼ同じ面積の木立に囲まれた一画になっていました。しかも写真によっては、この一画のほぼ中央に大きな屋敷のような建物が写っているようにも見える」とよく一致しています。当時は高い建物はなかったので、ここから彼方に富士山も見え、逆S字型の中坂を下りた府中崖線下の多摩川の沖積平野に広がる水田も広く見渡せたことでしょう・・・としばらくの間当時の風景を想像してしまいました。
その後このコメントをいただいた方(仮にA様としましょう)から、さらに以下のような補足情報をいただくことができました。
貴重な情報をお寄せくださったA様には、改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。
さて、A様からいただいた補足情報で触れられていた「本宿駅に向かう道」が、いたく私の興味をそそりました。実はこの辺りは10年前の実地調査の際にあまりの暑さにメゲて調べ残していたエリアで、その際に私自身が「宿題」として「調べ残したバイパス入口の東側(府中寄り)の線路北側に、ひょっとしたら駅へのアプローチの名残があるかも知れないが、どうかなぁ・・・「本宿駅→」なんて書いてある案内板がさり気なく残ってるとか、「行くゅしんほ りよ はかちた」(昔だから横書きは右からね)の切符が落ちてるとか・・・あるわけないか。」と書いていました。やっぱり駅へのアプローチは残っていたのか!?これは10年前の宿題をやりに現地に行くしかないでしょ!
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1枚は沖縄出身のバンド BEGIN が開発した「一五一会」(四字熟語の変換ミスではありません)という楽器の伴奏でフォークソングの名曲の数々を歌った「With みんなの一五一会 〜フォークソング編」(テイチクエンタテインメント TECI-1106)というアルバム。インストの1曲を除いて10曲を石川ひとみが歌い、伴奏は夫君の山田直毅が弾く一五一会その他と、曲によっては BEGIN の上地等のアコーディオンが加わります。
このCDの帯のキャッチに「「なごり雪」、「神田川」、「悲しくてやりきれない」…心に残るスタンダート・フォークソングを一五一会にてカバー。」とあるように、このアルバムは一五一会という新しい楽器のプロモーションを目的とした「一五一会シリーズ」の一枚という位置づけで、伴奏は一五一会をフィーチャーした薄いものなので、その分石川ひとみの歌唱がくっきりと浮き上がり、じっくりと楽しめる仕上がりになっています。収録曲は以下の11曲です。
1. 汀(みぎわ)※一五一会のソロによるインスト
2. まちぶせ
3. 真夜中のギター
4. 悲しくてやりきれない
5. 亜麻色の髪の乙女
6. 神田川
7. あなたの心に
8. なごり雪
9. 白い冬
10. 岬めぐり
11. 風にのせて
最後の「風にのせて」は石川ひとみの作詞、山田直毅作曲のオリジナル曲ですが、それ以外は自身の「まちぶせ」を含むカバー曲で、私の世代 ≒ ひっちゃん(石川ひとみの愛称)の世代には懐かしい曲ばかりですね。
]]> 世の中がまだ昭和であった頃、大学を卒業後東京の会社に就職して数年経ち暮らしにも若干余裕が出てきた私には、多摩の御岳山(みたけさん)が気に入って、違ったルートで何回も登ったり降りたりしていた時期がありました。そんなある日、御岳山から南の方へ、馬頭刈(まずかり)尾根をたどって五日市(いつかいち)に降りたことがありましたが、そのときはどこでどう間違ったものかルートを外れてしまい、目の下に見える林道めがけて小さな崖をへずり下り、夕方になってようやく五日市の街に入ったものの、街の外れにある国鉄(現・JR東日本)の駅までがひどく遠く感じられたことを思い出します。
本書を読むことになった直接のきっかけは、先日送られてきた母校の高校の同窓会紙に、母校の大先輩にあたる著者が近著である本書をご紹介されていたからですが、あの時の体験から「ほう、五日市がねえ」と書名に反応したせいもあります。
雪隠書目の一つ、松枝茂夫・和田武司訳注『陶淵明全集』(岩波文庫)もようやく下巻に進み、いよいよ私の大好きな「読山海経(山海経を読む)」にかかりました。これは初夏の風が爽やかに吹き抜ける一室で、神話伝説を盛った古代中国の地理書である「山海経」を繙(ひもと)いている陶淵明が、興のおもむくままに経中のエピソードに付した五言詩を13首集めたものです。この13首のうち最も知られているのが「精衛銜微木 将以填滄海(精衛(せいえい)微木(びぼく)を銜(ふく)み 将(まさ)に以て滄海を填(うず)めんとす)」で始まる第10首「其十」でしょう。
ところでこれの次の節は「形天舞干戚 猛志固常在(形天(けいてん)干戚(かんせき)を舞わし 猛志(もうし)固(もと)より常に在り)」と続くのですが、この「舞」字に付けた「舞わし」という訓には実にゆかしいものがあります。この字は鈴木虎雄『陶淵明詩解』にも同じく「(干戚を)舞はす」(旧仮名遣い)と訓んであり、おそらく古くからの訓なのでしょう。ただし松枝・和田がこの句の解を「形天という獣は、盾と斧をふりまわして」としているのに対し、鈴木が「又形天といふふしぎなものは(首が断ちきられても目と口があつて)盾や斧をとつて舞ををどるといふ」としているのはやや厳密を欠くようです。形天が自分で舞をおどるのなら「舞はす」ではなく「舞ふ」と訓むべきで、「干戚を舞はす」と訓んだ以上は松枝・和田の解のように「盾と斧をふりまわ」すと解するのが穏当でしょう。思うに鈴木は「舞わす / 舞はす」という語に馴染みがなかったのではないでしょうか。
(なお文中敬称は略し、引用文は新字・新かなに改めました。)
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上述のとおりテキストにした金谷本は、朱熹の「集注」の説を参考にしながらも必ずしもそれに従っているとは限らず、解釈が「集注」のそれと時々食い違うことがあります。まだ読み始めたばかりですが、早くも面白い食い違いに出会いました。それは学而第一の第八章についてのものです。
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こちらから向こうが見えているのだから
向こうからもこちらが見えているはずだし
私の作業の音も向こうへ聞こえているはずだけれども
それでもシジュウカラはこちらを憚る様子もなく
一心に枝を叩き続けているし
私もそれ以上はシジュウカラの様子をうかがわず
お届けする品物のセットを続けている。
お互いに邪魔もしないし遠慮もしないと
言わず語らずのうちに申し合わせができている。
それはシジュウカラと私の頭上に
私たち持たざる者どもを厳酷に統(す)べる
かの戒律が確然と掲げられているからなのだ。
曰く「働かざる者 食うべからず」。
おいシジュウカラ
うまい昼飯を食おうな!
山腹に展開する宗徳寺の墓地を見てから再び旧青梅街道に出て、青梅駅方面に戻る途中、釣具店発見。そうそう、青梅からは多摩川も近いのです。この日は訪ねませんでしたが、多摩川河畔には郷土博物館や釜の淵公園、市立美術館、「雪おんな縁(ゆかり)の地」碑などがあるようです。
旧青梅街道を歩いて「青梅麦酒」まで戻ってきました。ここまで来ればあとは駅まで戻るだけ(実際にはそうではなかったが)だし、けっこう上り下りして一汗かいたし、何より暑いし、というわけで迷わず入店。
この旅行記の「その1」で言及した「拡大号 青梅線・五日市線の旅 2018 SUMMER」や、まさにこの日にゲットした「中央線が好きだ。magazine vol.19 2018(クラフトビールの夏がきた!)」といったJRの旅行情報パンフレットで繰り返し紹介されているので、満員だったり行列してたりしてたらどうしよう、と心配していましたが、行ってみると店内には家族連れ1組と一人ビールのおじさんだけで、窓際のテーブルを独占できました。
ビールもフードもワンショット(注文の都度現金払い)で、レジで注文と支払いを済ませると、ビールはすぐ横のディスペンサーからグラスに注いで溢れた泡の上部をナイフで払って手渡してくれ、フードはでき次第テーブルまで持ってきてくれます。私はまず奥多摩の VERTERE のIPA(インディアンペールエール)とおまかせ三種盛り(この日は焼き枝豆とグリルドソーセージと、あーもう一つは・・・えーと野菜の何か!)を頼み、喉を潤しながらこの日にゲットした地図やパンフレット類をじっくりチェックしました。
ウッディでシンプルな内装、同じく飾り気のないイス、というかスツールとテーブル、静かで明るい店内。家族連れは話が弾んでいるようですが、一人ビールのおじさんはナッツとビールを相手にゆったりと読書中。確かにここでは「ふぅー」と息を吐いて体の力を抜いて、適度な一人感を感じられます。時刻はこの時点で午後1時ぐらいだったかな。旅先でのんびり昼ビール、いいね!あまり快適だったのでもう一杯、「多満自慢」の石川酒造(福生市)のダークだったかな、をいただきました。
ここ、いいですよ。また行きたい。みなさまもぜひご贔屓に!
青梅駅前のロータリーから南へ伸びる大通りを少し歩くとすぐに旧青梅街道と交差するので、交差点を左へ折れて、東の方、立川方面へ歩きます。天気がよくて日向は暑く、日陰になる通りの南側の方が歩きやすいです。
通りにはいかにも昭和を感じさせる商店の建物が並び、さらに昭和の映画の看板が掛かっていて、なるほど「昭和レトロの町」ですね。
この写真だとちょっと見にくいんですが、3軒並んだお店の一番左のお店は「間坂屋紙店」というお店です。実際には紙だけじゃなくて文房具や事務用品も売ってるんですが、昔は紙(おそらく洋紙)や便箋、ノートといった紙製品だけで商売が成り立った時代もあったのかも知れませんね。そしてこのお店の店名、まさかの「まさか屋」さん、ですか?
歩道にはこのようなタイルがはまっている部分もあり、何だか街全体がドレスアップしている感じがあります。「劇場型の街並み」とでもいいましょうか。劇場型というと何だか特殊詐欺の手口みたいですが、こういう劇場型は大歓迎です。
商店の店先で一杯ひっかける、じゃない一息入れる昭和の少女二人・・・いやいや、今は平成30年ですから。
別にヤラセでもモデル撮影でも何でもない絶対非演出の完全ドキュメント(大げさな笑)なんですが、お店のたたずまいがいかにも昭和レトロなだけに、絵になりすぎですね。欲を言えば絞り開放で後ボケの絵にしたかったですが、そこはコンデジなもので・・・いや、いっそ白黒にしちゃってもよかったかな。うんうん、これはやっぱり「劇場型の街並み」の力ですよ。
「ここは歩道乗り上げ駐車禁止です」という看板が見えます。この通りの歩道には縁石がなく建物の前の歩道が切り下げてあるだけで、歩道と車道の段差もそれほど高くないので、地元の方の車は段差をそれほど気にする風でもなく、けっこう大胆に歩道に乗り上げてきます(私の普段の生活圏内の歩道にはほぼ縁石があって歩道乗り上げはほとんどないので、最初はちょっとびっくりしました)。それでこういう看板が必要になるのでしょうが、かと言って縁石でがっちり車を締め出すわけでもなく、車の側もそこは遠慮するという阿吽の呼吸がまたなんともいい感じです。
今回の青梅訪問の最重要目的である「青梅麦酒」はすぐに見つかりました。青梅駅から旧青梅街道に出て東へ50mほど行くと通りの南側にあります。店名の看板はないが「カネボウチェーン店 いたや」という日除けが目印。正面ガラス戸に「青梅麦酒」と書いてあります。しかし「あったー♪」と喜んで早速入って呑んじゃうと街歩きに支障が出そうなので、ここはぐっとこらえて帰りに立ち寄ることにします。
なお、観光案内所で紹介された青梅赤塚不二夫会館・昭和幻燈館・昭和レトロ商品博物館もこの旧青梅街道沿いにあります。しかし私はこの3館にはあまり興味がわかず、特にこの日は初めて訪れた街のいろいろな姿を見たかったので、博物館系は遠慮しました。すみません、へそ曲がりなんです
]]>リコーダーのサークルで今練習中の曲の中に、16世紀フランスの作曲家 Pierre Passereau ピエール・パセローの "Il est bel et bon?" という曲があります。原曲は歌詞のついたシャンソンで、これをリコーダー四重奏に編曲した譜面の邦題は「私のいい人」となっています。原題を直訳すると「彼はイケメンで性格がいい?」といった感じなので、「私のいい人」という邦題は、私のような昭和おやじには演歌の某曲を強力に連想させる点と、「イケメン」に当たる bel が訳されていない点を除けば、ほぼ問題なさそうです。それにしてもついつい「雨雨」とか言いたくなるんですよねぇ。
ところで前述のとおりこの曲はもともと歌詞がついているのですが、リコーダー用の譜面には歌詞はついていません。これまでは曲をさらうのでいっぱいいっぱいで全く気にしてませんでしたが、やや余裕が出てきたので「これってそもそもどんな歌なんだろう」と思い、ネットで検索してみると、小杉元雄氏の仏和対訳がヒットしました。この対訳から、ここには和訳だけを引用します。
うちの亭主はお人好し
うちの亭主は男前でお人好し
同じ地方の二人の女が話している
御亭主はいい人なの?
うちの人は怒ったりぶったりしないのよ
家の仕事はなんでもするし
にわとりにえさもやる
おかげで私は楽しいことができるわけ
にわとりの鳴き声がまたおかしいのよ
コケット、コケット(浮気女)だって
何の意味かしら?
「何の意味かしら?」って、奥さ〜ん(笑)楽しいことができるんでしょ?(笑)しかも日本には瓜子姫のお話のように「鳥が鳴いて悪事をバラす」という伝承がありますが、彼の国にも同様な心意があるらしい・・・まあそれはおいといて、この歌詞の内容から原題の il(彼)は話者の夫をさすのであり、原題 Il est bel et bon は「うちの亭主は男前でお人好し」という意味なのであることがわかりました。
しかしそうだとすると、例の譜面の邦題「私のいい人」というのはちょっとどうなんだろうか?と思えてきました。「雨雨」じゃないけど(あ、ほんとの曲名は「雨の慕情」です、念のため ^^;)「私のいい人」という時はふつうは自分の夫「じゃない」人をさすのではないかと思うのですよ。「私のいい人」というと、少なくとも私のような昭和おやじは「そこはかとなくいけない・どことなくあぶない」感じを抱いてしまうのでありますね・・・まあ確かにこれはいけないあぶない歌らしいのではあるけれど・・・と考えているうちに、私の妄想スイッチが入ってヒラメキました。ひょっとするとこの「私のいい人」という邦題は「誤読」によって偶然生まれたのではないだろうか!?
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【第1楽章】
第1楽章は全曲の序章である。この楽章はブラームスが座右銘としていたという Frei aber Froh(自由に、しかも朗らかに)を表すモットー主題 F-A/As-F によって、ある人物像―ここではこの曲を初演した指揮者のハンス・リヒターに倣って「英雄」と呼ぼう―を提示する。第一楽章はこの「英雄」が人生の荒波を乗り切って現在に至ったさまを描写する。極めてドラマティックであり充実した楽章だが、全曲の中では序章にすぎない。
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「想い出のセレナーデ」(詞:山上路夫 / 曲:森田公一)は天地真理の11枚目のシングルとして1974年9月にリリースされたとのこと。私は天地真理のヒット曲の多くを一応リアルタイムで聞いてました(当時小学生)が、この曲から後は記憶がなく、ずっと後に学生になってから聞きました。その時にそれまでの歌とずいぶん違う雰囲気に「あーこの人はこの頃もう全盛期を過ぎてたのね〜」と思いましたが、それまでのヒット曲とは路線が違っていて、ちょっといい歌だな、とも思いました。
それから幾星霜、先日たまたま YouTube で石川ひとみのカバーを聞いて、そういえばオリジナルはどうだったかな、と聞いてみてびっくり、え、この歌こんなアップテンポの曲だったっけ!?
天地真理のオリジナルと石川ひとみのカバーは尺はほぼ同じ(カバーの方が後奏が少し長かったりはする)ですが、石川ひとみが4分余りをかけているところを天地真理は3分40秒弱で歌っていて、テンポではオリジナルが四分音符=ほぼ114、カバーは103〜104くらい。聴感上はけっこう違います。そうだ、そういえば天地真理のオリジナルのイントロで、ヴァイオリンの駆け上がりの6連符が速くて、弓が弦をしっかり噛まずに「ヒッ」と上滑りした音が入っていたよなぁと妙なディテールを思い出してもう一度聞いてみたら、しっかり入ってた(笑)。
さらにこの曲には浜田朱里のカバーもあって、今回はこの3種類を聞いてみました。
そんなわけで、「魔法の鏡」です。1976年の松竹映画「青春の構図」のテーマソングとして女優の早乙女愛が歌いました。作詞・作曲は荒井由実。YouTube ではこちらで聞けます。映画のテーマソングがアイドル歌謡なのか?という気がしないでもないですが、中森明菜や浜田朱里がカバーしているそうですし、YouTube には松田聖子の歌も上がっていますから、ジャンル的にはアイドル歌謡に入れていいんじゃないでしょうか。
歌は当然のことながら中森明菜や松田聖子の方がうまいのでしょうが、早乙女愛盤には何よりも独特な色合いの声の魅力があり、淡々として若干たどたどしい歌い方も荒井由実の器楽的な音の動きには合っていると思います。実はこの曲、リアルタイムで聞いたわけではなく、昔買ってあったコンピレーション・アルバムを流し聞いていて、何よりもこの声に「おっ!」と反応したので、仮に中森明菜の「歌姫」で聞いていたら、私のアンテナには引っかかってこなかったかもしれないという気がします。
ところで、この歌の歌詞についてはちょっと思うところがあります。サビの部分のオリジナルの歌詞は
あれが最初で最後の 本当の恋だから
あれが最初で最後の 本当の恋だから
で、同じ歌詞を2回繰り返していますが、私だったらここは
あれは最初で最後の 本当の恋だから
あれが最初で最後の 本当の恋だから
と変えますね。やや漠然とした「は」からもっと指示性の強い「が」に切り替わることで、歌詞も旋律もほぼ同じこのサビ2行の中に、ちょっとぽやんとした広角の絵からピシッとエッジの立った寄りの絵にぐっとズームアップするみたいな動きが生まれると思うのです。
ちなみにこのコンピレーションアルバムでもう一曲アンテナに引っかかってきたのが可愛かずみの「春感ムスメ」(1984)。こちらは何か中学生の歌みたいで「魔法の鏡」と全然違いますが、声質や歌い方はこの二人、どこかちょっと似てるんじゃないだろうか。悪いことしちゃ、ダメよ(笑)。
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ヨハン・セバスティアン・バッハの全作品とそれぞれの作品に関する情報を網羅した「バッハ作品総目録」(Bach-Werke-Verzeichnis : BWV)はヴォルフガング・シュミーダーが編纂したもので、1950年に初版が刊行され、現在では1990年刊行の第2版が広く用いられています。しかしこれは当然のことながらドイツ語ですし、1990年以降の研究成果は反映されていません。
そこで私は1997年に白水社の「バッハ叢書」(全10巻)の別巻2として刊行された『バッハ作品総目録』(角倉一朗・著)を愛用しております。箱に付けられた帯には「シュミーダーの作品目録(BWV)第二版を完全に凌駕した決定版総目録。」の大文字が眩しい!(写真)
ところがこの「決定版総目録」の、よりにもよってバッハの管弦楽作品の代表作である「ブランデンブルク協奏曲」の解説に問題があることを発見してしまいました。しかも調べてみると、この問題なかなか奥が深い。今回は1871年のプロイセンによるドイツ統一のはるか前、神聖ローマ帝国の支配下にあって多くの領邦国家が分立し、30年戦争(1618−1648)による疲弊・荒廃から次第に立ち直りつつあったドイツの北東部、ブランデンブルク地方の歴史の片隅を訪ねます。ちょっとややこしい話にもなりますが、よろしかったらおつきあいください。
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高架の島式ホームから階段で下りて一つしかない改札を出ると、出口が東口と西口の二つありますが、何せ急に思い立って来たのでこの街のことは全くわかりません。まずはとりあえず両方の出口の様子を伺ってみることに。
東口の方は出るとすぐに案内図があり、駅前はロータリーになっていて25階建ての大きなマンションがあったりと、けっこう開けている感じ。
<東口を出るとすぐ目に入るのが「草加市住居表示街区案内図」(右写真)。三角形の底辺の真ん中あたりに谷塚駅があり、右斜辺の青い帯は毛長川。この図は北を示す矢印が左を向いていることからわかるとおり上が東で、この図に正対したときに地図と実際の方位が合って見やすくなっています。ただ、この向きで背中側になる西口側は「谷塚町」という字があるだけで空白になっているのは、ちょっとなあ・・・西方面へ行く人は西口へ回ってくれということなのかな>
<「草加市住居表示街区案内図」の右側にもう一つ、「避難誘導案内板」という案内図がありました。この図は「草加市住居表示街区案内図」と違って、地図の上が北という一般的なルールにしたがって描かれているので、両方の案内図を突き合わせるにはちょっとアタマを使わないといけません。谷塚駅はこちらの図のほぼ中央にあり、その右側に広がる黄色の部分が「草加市住居表示街区案内図」の三角形のエリアの下半分にあたります。オレンジ色が駅の西側の谷塚町(やつかちょう)エリア、緑色は吉町(よしちょう)エリアです。>
<西口で目についたのがこの三角(実際にはこの角だけが尖った不等辺四角形)のビル。変形地を極限まで利用した結果であろうこの尖った部分の内側がどのように使われているのか興味あり。普通に物置みたいに使われているのか、ひょっとするとまさかの説教部屋とか?
・・・そういえば突然思い出しましたが、2年間お世話になった大学の学生宿舎の私が入った部屋は、ホームベースをタテに引き伸ばしたような五角形で、その尖った斜めの辺に窓がついていました。備え付けの机とベッドとスチールの本棚をどう置いたものか、しばし悩みました。んー、大学って自由だ(笑)。ちなみに学生宿舎の部屋の多くは普通の四角形で、五角形の部屋は少数です。念のため。>
そこで再び東口の案内図をしばし眺め、東口からまっすぐ進んで県道49号足立越谷線と交わる交差点を右折し、夕暮れの水神橋に佇んで茜色に染まる毛長川の流れをぼんやり眺めてみることにしました。うん、こりゃ十分センチメンタルじゃろうて!
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今回は東京駅から上野東京ライン・宇都宮線の直通を利用。570円奮発してグリーン車に乗ってみました。2階建て車両の2階は車窓の眺めもよく、グリーン車にはモーターがついてないので静かで快適。何だか旅行気分。
蓮田駅は改札が一つで出口が東口と西口の二つ。東口の方が国道122号に面して賑やかなようなので、今回は東口側をぶらーりすることに。地図を持たないぶらぶら歩きながら、一応駅の東にある元荒川を目指します。広い幹線道路よりも一本入った静かな通りの方が「物件」が見つかりそうな気がするので、嗅覚の導くままに蓮田駅前からまっすぐ元荒川方面へ伸びる道の一本東側の道へ入り込みました。
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本書は原著の構成に従って、全体主義の要素となった「反ユダヤ主義」と「帝国主義」を順次検討し、それらが全体主義に結果したというクロノロジカルな構成をとっている。これはアーレントの問題意識が「(全体主義の)諸要素が急に結晶した出来事」(本書「注」p.10)にあったからで、つまりアーレントは諸要素が出そろえば必然的・自動的に全体主義になるわけではなく、何かの出来事をきっかけにしてそれら諸要素が一斉に結晶して全体主義になる、と考えていたようである。私は今回の読みではこの結晶過程をとらえ損なっている。要再読。
原著で扱われている「全体主義」はヒトラーのナチス・ドイツとスターリンのソヴィエト・ロシアである。ところで本書で「そもそも日本では―シベリアに抑留された兵士など一部の人々を例外とすれば―「全体主義」と正面から向き合ったことがなかった」(p.267)と指摘されているとおり、私自身にも全体主義に対するイメージがほとんどなかった。しかしアーレント自身やアーレントが読者として想定していたであろう1950年代の欧米人にとってヒトラーやスターリンの全体主義は決して他人事ではなく、自分たちが身をもって対決した、あるいは今対決している現実であったわけで、原著を読もうとする私を含む日本の読者はこの点でハンデを負っていると言えよう。
このハンデを軽減する手段として、カール・ヤスパースが原著ドイツ語版(1955)の序言で推奨したという、第一部「反ユダヤ主義」と第二部「帝国主義」をとばして全体主義を扱った第三部「全体主義」を先に読むという読み方も「あり」かと思われる。今回の読みでも、最も興味深く圧倒的な印象を与えられたのは原著の第三部「全体主義」及び初版の結語を扱った第四章「全体主義の成立」と第五章「イデオロギーとテロル」であった。
今回の読みは原著及び本書の内容を的確にとらえきれず、いささか皮相なものにとどまったため、いずれにしても要再読なのだが、それでも本書で示された全体主義の諸相やその分析からは、我々の現実生活の中にある様々な問題を考える上での示唆を得られたように思う。それは現実の問題を打ち当てて火花を出す火打ち石のようなものか。その火花を何に移しどんな炎に育てるのかは我々自身の問題となる。
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すると呼びかけられた◯◯くんらしい男子が、女子から大声で呼びかけられて照れくさかったのか、どことなくぎこちない動きで八坂通りを一高前の交差点まで戻ってきました。そして「ろっこく」(国道6号、水戸街道。しかし現在は土浦バイパスが国道6号で、一高前の旧・6号は国道125号になっている)をはさんで女子二人組に何か話しかけますが、残念ながら男子の低い声はよく通らないし、きっと彼もあまり声が出てないんじゃないかな、横断歩道の向こう側の女子の「えー、なにー、聞こえなーい」という声ばかりが聞こえてきます。やがて信号が変わり、女子二人は横断歩道を小走りに◯◯くんの側へ渡ってきましたが、私も車を出さなければならなかったので、その後この三人がどうなったかはわかりません。
♪ 青春はわすれもの 過ぎてから気がつく
(「思秋期」(作詞:阿久悠)より)
中学生、青春してるなあ。
]]>今回の記事は以前 Facebook で発信したもので、保管と検索の便のためにこちらに書き込んでおくものです。記事の日付は Facebook での発信日に合わせておきます。
先日オーケストラの練習に向かう車の中でラジオを聞いていたら、あみんの「待つわ」がかかりました。
あみんは名古屋の椙山(すぎやま)女学園大学で同級生同士だった岡本孝子と加藤晴子が結成したユニットで、1982年ヤマハのポプコンに「待つわ」(作詞・作曲:岡村孝子)で出場してグランプリを獲得。同年日本フォノグラムから発売された「待つわ」は大ヒットとなり、あみんはこの年の紅白にも出場しました。
で、さっそくですがこの歌のサビの歌詞はこうなのです。
私 待つわ いつまでも 待つわ
たとえあなたが ふり向いてくれなくても
待つわ いつまでも 待つわ
他の誰かに あなたがふられる日まで
初めてこの歌を聞いた時「怖ぇ」と思いました。オトコの子はばかだから、いろんなシチュエーションを次から次へと妄想はするものの、大抵はどれも現実性も実現可能性もない偶然頼みの夢物語みたいなのが多い。しかしこの歌詞は違います。「あなたがふられる日」にぴたりとピントが合っている。今日がその日であるかどうかを判断する指標が具体的で明確である。マーラーは「いつか私の時代が来る」と言ったそうですが、岡村さんは「あなたがふられた日に私の時代が来る」と言ったわけで、その違いは歴然。ひょっとすると既にこの時点で「あなたがふられた日」から後の具体的な戦略も立てられているのではないだろうか。
ここでふと、別の歌の歌詞が思い浮かびました。
あの娘がふられたと 噂にきいたけど
わたしは自分から 云いよったりしない
別の人がくれた ラブレター見せたり
偶然をよそおい 帰り道で待つわ
好きだったのよあなた 胸の奥でずっと
もうすぐわたしきっと あなたをふりむかせる
私が最初に買った車はスバルのマレノという排気量550cc(当時の規格はこうだった)・5ナンバー・ECVT(電子制御無段変速)の軽で、5〜6年乗りました。非力だった(一人で乗っていてもちょっと急な坂を登るときはエアコン切った)とはいえそこは乗用車なので、シートポジションの調整等乗り心地にはある程度の配慮があり、ホイールベースを長くとって車室の広さと安定性を増すためにタイヤが車体のほぼ四隅いっぱいについていました。
それに対して今乗っている軽トラは貨物車で荷物がお客様なので、運転手の乗り心地は二の次三の次。シートは固定だしサスも固いし、一応フロアシフトの3速(たぶん)オートマですが、惜しむらくはパワステじゃないので、ハンドル重いです。据え切り(停止したままハンドルだけ切る)なんて、軽だから不可能ではないがタイヤにも車にも良くないし、手首に負担かかるので、特に演奏会前はお勧めできません。据え切りでなくても交差点の左折右折のたびに腕だけでなく腹筋にも力入るし、直角以上の鋭角に曲がる時や最小半径で旋回する時(住宅地ではありがち)なんて、思わず坂本冬美さんふうにうなり入りで「♪ィよいしょと!」なんて口ずさんじゃいます(坂本冬美「祝い酒」)。
しかし軽トラというのは機能的には大変すぐれたもので、車幅が狭くあぜ道みたいな道も通れるし(こちら)、同じ軽でも軽乗用車と違って運転席の真下あたりにタイヤがついていてホイールベースが短いので小さい半径で回れ、農家の前庭に頭から乗り入れても切り返さないでくるくる回って前向きで出てこられるし(荷室があってルームミラーでは後ろが見えないのでバックでは出たくない)、土浦市街の城下町特有の入り組んだ細い道も自由自在。スマートではないががっしり頑丈で、どんな仕事も黙ってしっかりこなす、まさにワークホース workhorse です。
こういう性格の車だけに、強力なエアコンがオートで快適に効いたりシートポジションが自由に変えられたりハンドルが片手でくるくる回せたりすると、それはかえっておかしなものなんじゃないだろうか?(半分強がりか?)
ここ数日ムソルグスキーの交響詩「はげ山の一夜」の曲目紹介を書くために資料に当たっていました。手元にある『ON BOOKS SPECIAL 5 名曲ガイドシリーズ 管弦楽曲(下)ベルク→ワルトトイフェル』(音楽之友社 1984;以下「音友資料」という)と『Kleine Partitur No.23 交響詩曲「禿山の一夜」』(解説 溝部国光 日本楽譜出版社;以下「日譜資料」という)、"The Musician's Guide To Symphonic Music - Essays from the Eulenburg Scores" (Ed. Corey Field, Schott Music Corporation 1997;以下「オイレンブルク資料」という)だけでなく、Wikipedia の日本語版、英語版等ネットの情報も参考にしました。
これらの資料の多くがこの曲の作曲のきっかけとして「妖婆」という戯曲への付曲を挙げているのですが、問題はこの「妖婆」の作者の名前。音友資料、日譜資料、Wikipedia 日本語版など日本語の資料ではいずれも「メグデン」となっていて、日譜資料は「メグデン(Megden)」と綴りまで出しています。ところがオイレンブルク資料や Wikipedia 英語版など英語の資料ではいずれも Mengden となっていて、発音は「メングデン」ないし「メンデン」でしょうか。音も綴りも日本語の資料と一致しません。何じゃこりゃぁー!?
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作品の成立
とりあえず Wikipedia で調べたところによりますと、「アンダンテ・フェスティーヴォ」の弦楽四重奏版(JS 34a)はシベリウス57歳の1922年に作曲され、1930年にコントラバスを含む弦楽合奏(ティンパニを任意で加えることができる)用に編曲されたとのこと。弦楽四重奏版と弦楽合奏版は旋律・和声・構成等基本的に同一の音楽です。
なお1924年に作曲されたピアノのための「5つの印象的小品」Op.103 の第1曲「村の教会」に「アンダンテ・フェスティーヴォ」の旋律が引用されています(後述)。
楽曲の構成
全曲は81小節から成り、テンポの指示はありませんが曲名から Andante で演奏されることは明らかで、私が使ったスコアには演奏時間5分と表示されています。ト長調、2/2拍子で書かれており、曲中にテンポ変更の指示はなく、転調も途中4小節間だけ臨時記号で変ロ長調−イ長調に転調する以外はト長調−ホ短調という平行調間のそれに限られているのでシャープやフラットの増減もありません。全パートが同時にほぼ同じリズムで動くことが多く、和声的にもあまり複雑な和声や意表をついた進行は用いられていません。それらのことが相俟って、曲は全体に聖歌や賛美歌のような簡潔さと慎ましさをたたえており、フェスティーヴォ(祝祭的)という言葉から連想される華やかで浮き立つような感じは全くありません。前述のとおり「村の教会」というタイトルを持つピアノ曲に旋律が引用されていることから、むしろ宗教的なものが込められていると考えてよいのではないでしょうか。
ところで、先日この保冷箱を両手で捧げ持つ体勢で階段を上っていたところ、最後の一段でつまづいて前向きに倒れてしまいました。さらにその何件か後のお客様の玄関先でも段差につまづいて再び転倒。酔っ払っていて転んだことは数回ありましたが(恥)、白昼に素面で、しかも一日に二回というのは初めてです。その上両手がふさがっていたのでまともに膝を打ってしまって痛かった・・・。
年をとると筋力の低下等により自分で思っているよりもつま先が上がらなくなり、つまづいて転びやすくなるという話を聞いたことがありますが、いよいよ自分もそういう年になってきたのかなあ。しかもつまづくだけでなく、バランスを崩しても何とか持ちこたえて体勢を立て直す「粘り」みたいなものもきかなくなっていて、手もなく転びます。いかんいかん。皆様も足元にはお気をつけて。
<今回扱う区域の概略図。左下に青い楕円で囲ったのがJR常磐線の土浦駅。右側の大きい赤い四角で囲ったのが今回前半で扱う霞ヶ浦湖畔の沖積低地とその背後の洪積台地。左側の小さい赤い四角で囲ったのは後半で扱う土浦市街の北側の住宅地。>
この霞ヶ浦湖畔の湿潤な沖積低地は古くから水田として利用されてきたであろうと思われますが、現在ではレンコンを栽培するハス田が一面に広がり、土浦は日本一のレンコン生産地とされています。常陸国風土記の香島郡の条には「其(=香島の大神)の社の南、郡家の北に沼尾池(ぬまのをのいけ)あり。古老の曰へらく、神世に天より流れ来し水沼(みぬま)なりと。生(お)へる蓮根(はちす)、味気(あぢはひ)太(いと)異(こと)に、甘美(うま)きこと、他所(よそ)のものに絶(すぐ)れたり。病める者、此の沼の蓮(はちす)を食へば、早く差(い)えて験あり。」(『風土記』武田祐吉編 1937 岩波文庫による。なお字体は現行の字体に変えました)とあり、レンコンが古代から食されていたことがわかりますが、土浦近辺の霞ヶ浦湖畔での栽培は昭和45(1970)年から始まった政府によるコメの生産調整に伴う転作事業によって飛躍的に伸びたようです。そしてこの霞ヶ浦湖畔に広がるハス田が、今ちょうど花の時期なのです。
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6月下旬の晴れて暑い日のこと。土浦市郊外の板谷の谷津田(台地の間に谷状に入り込んだ低地を利用した水田)に接する斜面に展開する住宅地でキジを見ました。茨城ではキジは別に珍しい鳥ではなく、5月にはあちこちで声が聞かれますし、今はわかりませんが20年くらい前にはJAXAの筑波宇宙センター構内にいるのを何度か目撃しました。しかし奈良のシカじゃあるまいし、戸建てが密集する住宅地の目と鼻の先に出るというのは茨城でもちょっと珍しいと思います。
<以下の拙文だけではよくイメージできないと思うので、参考までに付近の地形図を示します。この図の下辺から赤い道が2本V字型に伸びていますが、左上へ走るのが国道125号で、一番左上の緑色のくりりんとしたのは常磐自動車道の土浦北インターチェンジ。一方右上へ走るのが国道6号(土浦バイパス)。その右に縦に走る黄色い道は旧国道6号(茨城でロッコクという)で、地図の下が土浦・東京方面、地図の上が水戸・いわき方面です。地図の中央を東西にほぼまっすぐ流れている川に沿って、南北を少し高い台地に挟まれながら伸びている水田が谷津田、四角い赤枠で囲ったのが問題の細道。>
今回の現場ですが、上の地形図に見られるとおり、この谷津田はほぼ東西方向に伸びており、谷津田の北側の台地、つまり谷津田への斜面が南向きで日当たりがよい方は比較的早くから(遅くても1970年代から)住宅地として開発されていました。一方谷津田の南側の台地の斜面には、北向きで日当たりが悪いためでしょう、宅地は全く見られず、現在に至るまで雑木やクズなどからなるヤブが残されており(特に地図の「都和(四)」という字のあたり)、自然度高いです。この日もホトトギスやウグイスの声が賑やかで、谷津田にはコサギかアマサギか、小型のサギが降り立って餌を漁っていました。昔はホタルがたくさん見られたそうです。
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