この街には昔から 悪い噂があった
誰も口にしたがらない 悪い噂があった
やがて時が流れて 人々は噂を忘れた
やがて時が流れて 噂は誰も知らない噂になった
(以下略)
実はこれ、ベートーヴェンの交響曲第4番の第1楽章にある、ある音符のことなのですよ…
この曲には昔から 悪い音符があった
誰も音にしたがらない 悪い音符があった
やがて時が流れて 人々は音符を忘れた
やがて時が流れて 音符は誰も弾かない音符になった
その音符とは、第1楽章が長い序奏を経て Allegro vivace の主部に入り、第1主題の提示も第2主題の提示も終えて、そろそろ提示部が閉じられようとする第183小節の頭、チェロとコントラバスに書かれている低いF音(ファ)の四分音符です。この音符は初版以来ほぼ全ての出版譜に印刷されてきたし、またベートーヴェン自身の自筆譜を含む全ての一次資料にも明白に記されているにも関わらず、古(いにしえ)の巨匠から現在の新進気鋭の若手までひっくるめて、この音符を音にし録音に残した指揮者は、私の知る限りあの革命児ニコラウス・アーノンクールただ一人(私が聞いていないだけで実際には他にもいるかも知れませんが、とにかくごく少数)です。
ちゃんとベートーヴェン自身が書いたことがはっきりしているのに、これほど身元の確かな音符なのに、なぜ誰も音にしないのか?この音符を弾くと何か祟りが?「天空の城ラピュタ」の「バルス!」的なことが?ああっ、ホールが倒壊するぅ〜!?
〈譜例は第1楽章の第180小節以降。問題の音符は最下段のチェロ / コントラバスのパートに書かれている、赤で囲った四分音符。もちろんパート譜にもはっきり印刷されています。〉
演奏の全体を通じて丁寧にしっかりと取り組まれ、個々の部分の音楽の面白さや表情、さらにそれらの変化・対照が鮮やかに表現されていて、幾分かは私の先入観のせいもあるでしょうが、マーラーの交響曲に対するのと同様のアプローチが感じられます。そうしたアプローチの結果として初期のブラームスの作品の特徴である「人懐(ひとなつ)っこさ」を表現するよりも、しっかりと確立された作品として、いわば「一人前の大人」な音楽に対するように扱っているなあ、と感じられました。速い楽章はしっかりと落ち着いたテンポで、ゆっくりの楽章は音楽の流れが感じられるようにやや速めのテンポで演奏されていて、全体に硬派な印象です。
ベルティーニの特徴がよく出ているなあと思われる箇所がありまして、それは第1番のセレナードの第1楽章の84小節から90小節にかけて(楽式的にいうと提示部の、第1主題が67小節から全オーケストラで確保されてから第2小節の提示に至る途中の推移部)、木管楽器に「たらら|たたたたら|たらら|たたたたら」というフレーズが繰り返されます(「|」は小節線ではなくフレーズの切れ目を表しています)。この「たらら」「たら」はスラーで、「たたた」は一音ずつ切って演奏するのですが、ベルティーニはこの「たたた」を「タッタッタッ」とスタッカートで吹かせています。譜面にはスタッカートの指示はなく、ここをこれほどはっきりとスタッカートで吹かせている演奏も他に聞いたことがないので、とても耳について「え、そこそんなにする?」と違和感を覚えます。
この謎はソナタ形式の再現部の相応箇所である387小節から395小節を聞くと解けます。ここの前半は「たららら|たららら」というスラー主体の滑らかなフレージングですが、391小節から「たらら|たたたたら」のフレージングが復活し、しかもここの「たたた」にはスタッカートを示す「・」がつけられているのです。つまりベルティーニは再現部のこのスタッカートを見て、それを提示部の(もともとスタッカートはついてない)「たたた」に遡及的に適用したと考えられるのです。うーん、これは気がつかなかった・・・さすがはマーラー指揮者、細部の読み取りと全体の構成に対する目配りがすごい!
全集本は中公文庫から文庫版で出版されていて(現在は絶版?)、私も文庫版全集を持っているので、当初は岩波現代文庫版にあま食指が動かなかったのだが、全集版ではなく初版本を底本としているらしいことを知って、俄然興味がわいてきた。
というのは、折口が本書巻頭の「口訳万葉集のはじめに」に次のように書いているからである。
「考証文を添える事の出来なかったのと、おなじ理由で、一語々々の詳らかな解説をすることは、避けねばならなかった。それで、為方なく、巻末に、名物・作者・語格索引を兼ねた、万葉辞書をつけることにしたが、これにも、万葉辞書として、独立の価値が持たせたい、というはかない欲望から、下巻の末の百五十頁ばかりに、纏めて出すことにした。此は、是非、参照して頂かねば、隈ない理会は得られまいと思う。(中略)とにかく、本文・訳文・辞書の三つは、始中終、対照して見て貰わねばならぬ。」(全集文庫本 pp.7, 9)
ところが全集本にはここで言われている「万葉辞書」に当たるものが見当たらない。全集本はもともと三巻本として出版された初版本を二巻に収めているのだが、その際に収録から外れたのか、そもそも「万葉辞書」そのものが初版本にもついていなかったのか、その辺の事情が全集本の解説には書かれていない。もし岩波現代文庫本が初版本に基づいているのなら、ひょっとすると全集盆にはない「万葉辞書」が下巻の末についているのかもしれないではないか。
そう思うと矢も盾もたまらず、最寄りのまあまあ大型書店であるイオンモールの中の書店を覗いてみたが、ここには目的のブツは置かれていなかった。そこで最近つくば市内にオープンしたコーチャンフォーという大型書店に行ってみると、果たしてここには在庫していたので、ドキドキしながら下巻(岩波現代文庫本は上・中・下の三巻構成)を手に取り、本文の最後を見た。しかしそこには全集本と同じく、万葉集の掉尾を飾る大伴家持の「新しき年のはじめの初春の、今日降る雪の、弥頻(いやし)け。吉言(よごと)」の歌があるばかりで、万葉辞書に相当するものはなかった。
これはどういうことか、下巻巻末の解説にも「万葉辞書」に関する言及はなかった。しかし念のために上巻の「口訳万葉集のはじめに」を見たところ、「…下巻の末の百五十頁ばかりに、纏めて出すことにした」の後に(本書には収録しなかった)という一文が加えられているのが見つかった。つまり初版本には「万葉辞書」があったのだが、何らかの理由で岩波現代文庫本には収められなかったということがわかったのだ。同様に「万葉辞書」を載せていない全集本にはこの種の注釈がないので、この点は岩波現代文庫本の方が親切である。しかしなぜこれが全集本にも岩波現代文庫本にも収録されなかったのか、その理由は残念ながらわからない。初版本そのものの「万葉辞書」の部分を見ればその理由が推測できるかもしれないし、全集刊行時の「月報」に何か書かれているかもしれない。引き続き注意してみたい。
※本書は Kindle 版で読んだので、引用箇所にページ数を付記しておりません。
ハンナ・アレントの『エルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告』(1963)はいずれ読みたいと思っていますが、本書はその関連本として読みました。著者の村松剛(むらまつ・たけし)氏は1975年から筑波大学の教授を務めておられ、私も一コマだけですが授業を受けました。ご自身の著書『死の日本文學史』(1975)を用いての講義でしたが、品行方正で素直に生きてきた好青年(当時)にはよくわからない内容だったようで全く記憶になく、テキストとして買った同書(ハードカバーで結構なお値段でした)も売っ払ってしまいました。今なら読めるかも。
ナチスの絶滅収容所にユダヤ人を送り込む最高責任者であったアドルフ・アイヒマン親衛隊中佐は、第二次世界大戦終結後アルゼンチンで偽名を使って逃亡生活を送っていたが、1960年にモサド(イスラエルの情報機関)によって捕らえられてイスラエルに移送され、1961年の4月から12月にかけてイスラエルの国内法に基づいて裁判にかけられました。この裁判は国際的な注目を集め、村松氏は「サンデー毎日」誌の臨時特派員として前後一ヶ月あまりこの裁判を傍聴し、「サンデー毎日」誌にルポを連載したようです。
本書はそのルポではなく、裁判資料や裁判の速記録、アイヒマンの供述書などに基づいて書かれたもので、著者自身「個人的解釈がはいるのは、ある程度さけられないことですが、資料のないこと、あっても不確かなことは、一つも書いてはいません。」(「あとがき」―これは初出の角川新書版(1962)への「あとがき」だそうです)「解釈はべつとして事実に関しては、資料のないこと、あっても不確かなことは、一つも書かなかったつもりです。」(「アイヒマン裁判覚書―あとがきにかえて―」)と述べています。
ところで、土浦交響楽団のホームページの団員専用のコーナーに、今から24年前の若き日の私(と言っても30代半ばですが)が書いた、この曲に関するエッセイが載っています。おそらく1996年5月に行われた土浦交響楽団第33回定期演奏会に向けて書いたものを、その後に若干改訂してこちらに載せたものと思います。今となっては気恥ずかしいものですが、この機会に虫干しを兼ねてこちらに転載しようと思います。内容は当時のままでその後一切手を加えていないので、現在では誤りと思われる内容もあるかも知れませんが、興味のある方はご笑覧いただければと思います。
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すかいさん、というのは Sky(空)を連想させるおもしろい名前ですが、「皇海山」という表記とはうまくつながりません。木暮理太郎は上に書いたとおり山岳研究を盛んに行っていたので、この皇海山についても江戸時代の地誌から山名の変遷をたどっています。山をやる人には既に常識なのかも知れませんが、私はこれを読んで、初めて皇海山という名前の由来を知って感動したので、紹介しようと思います。
木暮によると、この山は江戸時代の史料には「さく山」「座句山」「サク山」と書かれているといいます(pp.313-4)。これが明治12年の史料になると「笄山。勢多郡ニテ之ヲサク山ト云。」と書かれます(p.314)。「笄」は音は「ケイ」、訓は「こうがい」と読む字なので、「笄山」は「こうがいやま」または「こうがいさん」と読んだものと思われ、それまでの「さくやま」または「さくさん」とは明らかに別系統の名前です。さらに明治21年の史料に「皇開山」という表記が出てきます(p.315)。「皇開」も「こうがい」への宛字(あてじ)でしょう。こうした「こうがい」への宛字の一つが現在使われている「皇海」であると見られます。
しかし本来「こうがい」であった「皇海」がなぜ、いつ頃から「すかい」と読まれるようになったのかは木暮先生にも調べがつかなかったと見えて、「スカイと呼ばれるようになったのはいつ頃からの事であるか知らないが、勿論最近の事であろうと思う。皇海が何かの原因でスカイと誤読されてそのまま通用するようになったものであろう。」(p.316)としています。そして「皇は「すめ、すめら」と読むから皇海をスカイと誤読することは有り得よう。(中略)コウガイがクワウガイと漢字をあてられることなどは、地方には稀でない例である。」(p.316)という説を出しています。
つまり「皇海山」と書いて「すかいさん」と読むのは木暮説に従えば「誤読」の結果であって、「こうがいさん」が歴史的に正しい呼称なのです。だから「すかいさん」の徒が、誰かがこの山を「こうがいさん」と呼ぶのを聞いて「ああ素人が」と嘲笑(わら)うのは本来はお門違いで、少なくとも歴史的には「すかいさん」の徒の方が宛字を誤読する愚を笑われても仕方がないことになります。ただ多勢に無勢、自分一人がこの山を「こうがいさん」と呼んだところで、「あああの山ね」と応じてくれる人がおそらくいないであろうことは遺憾です。
ところで上に揚げた木暮説の後半「コウガイがクワウガイと漢字をあてられる」(p.316)という部分は、「笄」と「皇海」ではそれぞれ仮名づかいが違うにもかかわらず「笄」の代わりに「皇海」という漢字があてられることに言及したものですが、近年の岩波文庫の緑帯の「旧仮名づかいを現代仮名づかいに改める。」という表記方針がここでは悪い方に働いて、文の意味がうまく通らなくなってしまっていることには触れておかなければならないでしょう。
「笄」の旧仮名づかいはコウガイではなく「カウガイ」で、「皇海」の旧仮名づかいは「クワウガイ」なので、現代仮名づかいに改める前の原文は「カウガイがクワウガイと漢字をあてられる」とあったはずです。旧仮名づかいを読める人なら、ここで「ああ仮名が違ってもそんなことにはお構いなしに、聞いた音(おと;ここではコーガイ)に漢字を当てたということだな」とピンと来るでしょうが、「コウガイがクワウガイと」では仮名づかいが新旧中途半端で、特に旧仮名づかいを読む準備のない読者には何のことやらわけがわからないのではないでしょうか。
こういうところをどう処理して原文の意図を読者に誤りなくわかりやすく伝えるかが編集者の腕の見せ所なのですから、杓子定規に「現代仮名づかいに改める」のではなく、たとえば「カウガイ(注:「笄」の旧仮名づかい)がクワウガイ(注:「皇海」の旧仮名づかい)と」と注を入れるなど、もうひと工夫してほしかったところです。
本書は基本的に往復書簡集です。柳田がシャグジという名の路傍の神について抱いた疑問を、学問仲間で「東京人類学雑誌」等の常連でもあった山中笑(やまなか・えみ、後にえむ;山中共古とも号す)に問い合わせた手紙から始まります。その後文通先は歴史学・東洋史の白鳥庫吉(しらとり・くらきち)、地理学・考古学・被差別部落研究など幅広い学的関心と問題意識を持った歴史学者の喜田貞吉(きだ・さだきち)、民話採集者で「遠野物語」の話者の佐々木繁(ささき・しげる;佐々木喜善、佐々木鏡石とも)などへ広がり、その総数は34通に上っています。
書簡集という体裁のため本文は候文(そうろうぶん)の手紙の連続で、要所に注が加えられているものの、論文のように「問題提起・考察・結論・今後の展望」といった形にまとまっているわけでは全くありません。一応「シャグジとはどういう神か」という大テーマはあるものの、手紙をやり取りするうちに柳田もその相手も、少しでも関連があるのではないかと思われる事柄を次々に提出していき、話題は神道からも仏教からも道教からもはみ出した「雑神」全般に広がって、あたかも「共同研究・シャグジ論」をまとめる上での舞台裏の様相を呈しており、しかもその「共同研究・シャグジ論」は前述のとおりついにまとまらないままに終わってしまうのです。
さすがの柳田もこれだけで成書として出版するには忍びなかったと見え、本文の前に「概要」として書簡中に現れた主要なトピックをいくつかのグループに分けたものを付けており、これが「共同研究・シャグジ論」の梗概とも見られ得ます。しかしそれとても実質的にはグループ分けされたトピックとそれに言及した手紙が載っているページを示しただけの一種の目次で、何らの考察も加えられておらず、いわば幹から多くの枝葉を出した大木がそのまま切り倒されて横たわっているようなもので、一々の枝葉を避けて幹だけをたどるもよし、逆に枝葉を細々(こまごま)とたどって自分なりの問題を見つけるもよし、読み取り方は各読者に任せられていると言えましょう。
もしも枝葉を避けて幹だけをたどるのであれば、最後の3通の書簡「32 柳田より中山氏へ」「33 柳田より緒方翁へ」「34 松岡輝夫氏へ」は読んだ方がよいと思います。この3通はいずれもこの往復書簡集をまとめて出版する考えを述べており、議論の収束を意図して一応の結論めいたものをとりまとめようとしていることがうかがわれるからです。勿論それ以外の一々の書簡も読むに如くはありません。候文の書簡の書き方が実例でわかりますし笑。
本書の著者の赤松啓介は1909(明治42)年生まれの民俗学者で、戦前は独学で民俗学的調査を行うかたわら非合法時代の日本共産党に入党し、収監されたこともあるといい、戦後は神戸市史編集委員、神戸市埋蔵文化財調査嘱託などを務め、差別・夜這い(性愛)・百姓一揆など、従来の民俗学が扱ってこなかった分野の研究を行いました。
本書は三笠全書の一冊として刊行されたもので、著者の「はしがき」にあるように「何よりも一般的な知識を提供したかったので、そのような配慮から民俗学のすべてに亘る一応の提起を企図した」(p. 3 原書は旧字・旧かなづかいだが引用は新字・新かなづかいに改めた。以下同じ)ということなので、戦前の1938(昭和13:実際には日中戦争はこの前年の1937(昭和12)の盧溝橋事件から始まっているが)年の日本民俗学の状況を知りたいと思って読み始めました。
一応本書の目次を掲げます。漢数字はアラビア数字に改めました。
はしがき
第1章 民俗学発達の史的展望
第1節 民俗学の胎生と発達
1. 民俗学のの典型的発達
2. 民族学の特徴的形成
3. 科学的建設の萌芽
第2節 日本に於ける発達
1. 幕藩末期における萌芽
2. 人類学に於ける胎生
3. 郷土研究に於ける形成
第3節 最近の情勢と動向
1. 民俗学としての成立
2. 民俗学の転換と動向
第2章 民俗学の対象と方法
第1節 民俗学の対象
1. 民間伝承とは何か
2. 歴史性及び社会性
3. 民俗学の目的
第2節 民俗学の方法
1. 方法の多様に就て
2. 相違と一致の比較
3. 発展と運動の結合
第3節 民俗学の技術
1. 採取技術の発達
2. 調査技術の形成
3. 組織技術の胎生
第3章 伝承の停滞と運動
第1節 封建習俗の残存と崩壊 ―生産諸関係―
1. 村の文化
2. 村の生産
3. 村の工業
4. 村の商業
第2節 封建習俗の残存と崩壊 ―社会的機構・社会的意識―
1. 村の組織
2. 村の共同
3. 村の崩壊
第3節 俗信の集団的調査に就て
1. はしがき
2. 採取資料
3. 整理と考察
あとがきとして
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夏四月、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の、賀茂神社(かものやしろ)を拝(おろが)み奉(まつ)りし時に、便(すなわ)ち相坂山(おうさかやま)を越え、近江の海を望み見て、晩頭(ゆうぐれ)に還(かえ)り来て作れる歌一首
木綿畳(ゆうたたみ)手向(たむけ)の山を今日越えていづれの野辺に廬(いおり)せむわれ
(万葉集巻第六 1017)
※訓読は中西進『万葉集 全訳注原文付』(昭和53から58(1978から1983)年 講談社文庫)に拠り、( )に包んだ振り仮名は新仮名遣いとしました。
歌の題詞(歌の前にあって歌が詠まれた状況や背景を説明する文)によると、これは大和朝廷の有力豪族である大伴家の坂上郎女が、ある年の四月に山城国の賀茂神社に参拝した際、ついでに足を伸ばして逢坂山の峠に立って近江の海(琵琶湖)を望見し、夕刻になって賀茂神社近くの宿所に帰って来た際に作った歌ということです。歌の意味は
木綿を重ねて畳んだ木綿畳(ゆうだたみ)を峠の神に手向けて旅の安全を祈る、その手向けの山を今日は越えてきて、さて、どこの野辺に仮の廬を結んで一夜を過ごそうか、私たちは
というもの。歌の最後の「われ」は単数の「私」のように聞こえますが、原文は「吾等」とあり複数。当時貴族が、まして女性が、一人旅をすることはあり得ず、必ず伴の者がついて一行となる習いでした。
そうしたことは承知の上でなお私は、この歌の「われ」を坂上郎女自身の一人称と見たいのです。「吾等」という集団的な発想ではなく、後期万葉を代表する優れた女流歌人であったこの人の、その繊細で鋭利な感覚で感じ取られた畏(おそ)れや慄(おのの)きの主体であるところの、一人の「わたし」と見たいと思うのです。
先日のこと、例によって古書を漁っていたら、ひときわ異彩を放つ古風な表紙の冊子を発見。あまりに達筆なため書名が読めませんでしたが、『前橋繁昌記』です。花をつけた桜の幹を斜めに配し、書名もそれに合わせて斜めにレイアウトしてあるのがなかなか斬新。白抜きの円の中には前橋市街と榛名山でしょうか、赤い四角の中には明治時代の前橋に富をもたらした生糸が描かれています。書名『前橋繁昌記』の下の字は「以文會発行」と読めます。
本書は明治24(1891)年に群馬県東群馬郡前橋町(現・前橋市)の以文会が発行した『前橋繁昌記』を、前橋市の群馬県立図書館内の「みやま文庫」が昭和49(1974)年に復刻したもので、「前橋繁昌記の解題を兼ねて」と「みやま文庫刊行のことば」が巻末に付け加えられている他は、原本をそのまま再現しています。そのため旧仮名遣いなのは勿論、変体仮名や合字が多用されており文体も明治の文語文なので、慣れないとなかなか読みづらいと思いますが、前橋に縁のない私が読んでも興味深く面白い内容を含んでいます。明治時代の前橋の街の空気を感じることができる貴重な史料と思われます。
まずは目次を掲げます。原本は旧字ですが新字に直します。また各項目の頭に「一(ひとつ)」が付いていますが省きます。(ママ)は用字・用語が原本どおりであることを示します。( )は私が補った字です。
叙文(ママ)
前橋旧城の由来並に県庁の沿革
前橋繁昌の由来並に幅員戸口の事
市街変遷の事
前橋の気候
群馬県庁並に県会議場の事
地方裁判所並に区裁判所の管轄
公証人、代言人、執達吏、並に扣所ノ心得
東照宮並に招魂祠、臨江閣、風呂川、知事の官宅と市中有志者姓名、岩神飛石、笹の湯、求全舘、磯部温泉、大渡
附 光厳寺古墳、国分寺旧墟
師範学校、中学校
集成学舘 並に諸私立学校
大林区並に群馬苗圃
利根橋 附 惣社明神の由来
監獄署の事
龍海院並に是字寺の縁起
上毛新聞並に印刷業の人名
病院、並に医師、産婆、薬剤師、薬舘、薬種商の姓名商号
郡役所並に直税署、間税署
警察署と管区の件
前橋町役場と公民、町会、納税者の事
市中各小学校の話 本屋 筆墨店
神社仏閣基督教会堂と宗教現時の体裁
郵便、電信、(ママ)
各銀行、物産、改良の二会社及び其の状況
製糸会社、製糸家及び其状況
上毛養蚕新古比較評
四ノ仲買 生糸、繭、屑物、蛹
五ノ市場 生糸、繭、桑、魚、青物
諸種の会社
諸種の会
勧工場、劇場、寄席
前橋停車場、双子山、弾正林、元の仕置場
上毛馬車鉄道並に片石、橘山、箱田神社
旅店案内、人力車道里の事
前橋名所の志ほり 天野の藤
煉瓦製作場並に屠牛場
料理店の案内に芸妓の品行論
附 西洋料理、すし、牛店、蕎麦、蒲焼
(これ以下は本書中の図版の名称)
前橋市街全図 附 古城図
旧侯入部の図
知事出勤の図
県庁の図
東照宮の図
臨江閣の図
楽水園の図
岩神の図
龍海院是字寺の図
利根橋並に監獄署の景
味噌附饅頭の図
糸挽工女の図、並に熨斗買の図
八幡、神明、八坂の三景
師範学校の図
中学校の図
桐華組の図
交水社の図
昇立社の図
三九銀行の図
繭市場の図
勧工場の図
敷島、愛宕、劇場の図
田中町停車場並に上毛馬車停車場の図
(原書の「前橋繁昌記目録」は以上)
洋銘酒 原野屋広告と原書奥付
以文会広告
公証人高橋賢の「稟告」(広告)
前橋求全舘鉱泉広告
前橋繁昌記の解題を兼ねて(萩原 進)
みやま文庫刊行のことば
「おっこンないで」とは勿論「(階段を踏み外して)落ちないで」という意味に違いない。そして「おっこンないで」のンはおそらく撥音便(たとえば「積む」の連用形「積みて」が「積ンで」、「読む」の連用形「読みて」が「読ンで」になる等の発音の変化をいう)であろう。もしそうなら元の動詞は何だろう。それはおそらく「おっこる」という形なのではなかろうかと考えた。
さらにその「おっこる」の「おっ」の部分は関東方言で多用される「お+促音の接頭語」(たとえば「オッぱじめる(始める)」「オッころぶ(転ぶ)「オッぺしょる(へし折る)」等の「オッ」)ではないかと考えた。もしそうなら接頭語が付く前の本来の動詞は何だろうか。単純に「おっ」を除けば「こる」が残るが、「こる」という語が「落ちる」という意味を持つのだろうか。どうも違和感がある。
そこで思い出した。「落ちる」の関東方言で「おっこちる」という語がある。この語はふつう「落っこちる」と書いて、つまり最初の「お」が「落ちる」の「お」だと思われているのだが、あれも実は「落ちる」に関東方言の「お+促音の接頭語」が付いたものなのではないだろうか。
ただし、もしそうであれば「おっ落ちる」という形になるが、「おっお」という音の連なりは発音しにくいので、発音しやすくするため仮に k の子音をはさんで「おっ・k・落ちる → おっこちる」となったものではないだろうか(これを「k仮説)と呼ぶことにする)。
そこでこの「k仮説」を先ほどの「おっこる」に適用してみると、「お+促音の接頭語+k」を取り除いた形は「おる」になる・・・なんだ、「おる」なら「下りる・降りる」の古語「下る・降る」そのものじゃないか!つまり「おる」に「お+促音+k」の接頭語を加えることで、その内容の「下りる」に勢いと強さが加わり、結果として「落ちる」という意味を表すことになったと考えられるのだ。
帰宅後に「落ちる」という意味の茨城方言「おっこる」が実在することを確認した(たとえばこちらの該当箇所)。
あとは私の「k仮説」が正しいことが検証されれば、茨城方言「おっこる」が、実は由緒正しい古語「おる」にまっすぐつながる語ということになるわけだ。
「何?「おっこる」?そんなの聞いたこともないね。どーせイバラキの田舎の方言でしょ?へへ」なんて思ってるそこいらここいらのアナタたち!どうせ皆、茨城の事バカにしてんだっぺよ。おめえら、いつまでも調子に乗ってんじゃねーかんな!((C) 赤プル)(笑)
〈上2枚は第1番・第4番、下2枚は第2番・第3番のそれぞれの表面・裏面の写真です。〉
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まず1枚めは中世のフランスの作曲家アダム・ドゥ・ラ・アレ Adam de la Halle の作品と13、14世紀の舞曲集。といってもクリーム色の表紙を見ても、すぐにはその内容がわかりません。まずアルヒーフの大きなロゴと「ドイツ・グラモフォン社の音楽史研究スタジオ」という名乗り(と言うのか?)があり、その下に「研究部門 II 中世中期(1100-1350)」、さらにその下に3列に分かれて「シリーズA:トゥルバドール、トゥルヴェールとミンネゼンガー」「シリーズB:遊興芸人の音楽」「シリーズC:1300年までの初期多声音楽」と研究部門の下位分類が示されて、その下にようやく作曲者と曲名が一番小さい字で印刷されています・・・と、おや、曲名が日本語になっている!そうです、これは日本グラモフォン株式会社から発行された日本語版のLPなんです。例の「一文」にも書きましたが、私が子どもの頃に見ていたグレーを基調としたジャケットのアルヒーフのLPは「ドイツ直輸入盤」という帯が麗々しくかけられていて、その帯と日本語解説(これは別紙に印刷して挟み込まれたもの)以外は100%ドイツ製でしたが、そうなる前のこの黄色いジャケットの時代には日本語版があったのです。これは初めて知りました。ちなみにLPの中心のレーベルも日本語が印刷された日本語版仕様です。すげえ。
ジャケットを裏返してみると、全面を使って「ドイツグラモフォン音楽史研究室 アルヒーヴレコードの分類について」という、研究部門とその下位分類のシリーズの一覧が掲載されています。その冒頭の「緒言」がこのレーベルの志すところを実に格調高く簡潔に述べているので、ここに摘記します。
「過去の音楽的遺産は汲みつくし難いものであるが、今日まで次のような原因からレコードに吹込まれる機会はきわめて少なかつた。即ち、初期の音楽は古典及び現代音楽に比べて演奏会での演奏は殆ど行われず、また時代が遡るほど楽曲の解釈が困難になるからである。
ドイツ・グラモフォン社では、かような事情から音楽史研究室を創設したのであるが、ここで行われていることは西欧音楽初期即ち7世紀頃のグレゴリアン・チャントからモーツァルトの青年時代に至る約1000年の変遷を、専門家並びに愛好家のためにアルヒーヴ・レコードとして録音することであつた。
これまでの試みと異ることは、ここでは音楽史中一定の範囲に限つてその実例となるものを順次並べるということよりも、むしろその芸術的香気が今日まで漂いつづけている永遠の音楽を、教育的な意図や一定の範囲に縛られずにレコード上に再現することを目論んでいるということである。
音楽史スタジオは、この企画を音楽学、芸術、技術の各点から今日成し得る最高の型(ママ)で完成すべく、全楽曲を
原譜を基礎としたオリジナルな形態で
歴史的な楽器を使用し、最初のスタイル通りの演奏で
評判の演奏家の手による生き生きした演奏で最新の音響技術を動員した録音で
提供するものである。」
岩波文庫巻末の「読書子に寄す」を思い起こさせる高い調子が懐かしい。ジャケット裏にはこれに続いて各研究部門とシリーズが列記されていますが、それぞれの研究部門の前に付された短い説明はちょっとした西洋音楽史の体をなし、勉強になります。
ジャケットは見開きになっていて、曲目解説は内側片面に印刷されています。例の「一文」に書いたように、アルヒーフレーベルの特徴は楽曲や演奏者、録音等に関する詳細を記載した「カルテ」にありますが、どうやら当時の日本語版にはこの「カルテ」は付かなかったようで、演奏された個々の楽曲、演奏者(サフォード・ケープ指揮プロ・ムジカ・アンティクァ)のメンバーや使用楽器、演奏に使用したテクスト、録音場所は楽曲解説の中に書かれています。録音年月日の記述が抜けていますが、LP盤の真ん中のレーベルに「DATUM 23.9.1953」とあるので1953年の録音であることがわかります。モノラル録音で音質は良好です。
演奏内容は、現在の何でもアリアリの(時にちょっとお下品な?)スタイルとは一線を画すやや抑制的なもので、歌唱はヴィブラートあり、器楽曲はフィドルなどオリジナルのレプリカも使われていて、やはりヴィブラートあり。
舞曲にはノリのよい演奏もあるものの、こうしたスタイルの演奏に慣れていた当時の古楽愛好家の耳には、あの鬼才デイヴィッド・マンロウの登場はさぞかしショッキングであったろうと思われました。実際私がマンロウの演奏で聞いたことがある曲もこのLPに含まれていますが、あの天衣無縫なドライブ感とは別物です。しかしここに聞く、うぶで慎ましい、しかし未開拓の分野の音楽に触れていく喜びをたたえた演奏も間違いなく歴史の1ページであり、それ自体まことに懐かしく好ましいものでした。
これまで個々の建築を見て「モダニズムだ」とか「表現主義ふう」とか、あるいは「看板建築に銅板が使われているのは関東大震災の影響だ」とか「アーチ型の窓があるので関東大震災後の復興小学校じゃないだろうか」などと、断片的な知識をもとに知ったふうなことを言ったり書いたりしてきましたが、自分が目にする建築の大多数を占める明治時代以降の西洋建築を歴史的に通観してみたことはありませんでした。たまたま今年の3月に本書が出版されたので、渡りに舟と購入・・・しようとしたのですが、なぜか都内の書店にも置かれていなくて、最終的には八重洲ブックセンターの、それも講談社選書メチエのコーナーにはなく建築書の売り場でようやく発見しました。
目次を見てわかるとおり、本書を読む上での前提となる知識や用語の定義について述べる序章の後が大きく2部に分かれます。第1部が「国家的段階」で、時代的には明治維新から1970年に行われた大阪万博の前までの約100年をカバーします。この時期については従来から通史が存在したようです。第2部が「ポスト国家的段階」で、時代的には1970年以降の約50年をカバーします。建築に対する国家のイニシアチブが消失し、建築家の進む方向が拡散的になった時期です。本書の巻頭の目次は、序章以外は私自身が後で内容を振り返るには簡単すぎるので、本文中の小見出しを併記することにしました。なお漢数字を算用数字に改めたものがあります。
はじめに
序章
1 建築の保守性とその例外としての日本近代
2 世界的な近代建築の普及と日本の特殊性
3 通史の不在と現在の見え難さ
4 三つの着眼
持続的変化/二つの近代化/二つの段階
第1部 国家的段階
第1章 明治維新と体系的な西洋式建築の導入
前提としての明治維新/幕末の状況が規定した維新後の方向/不平等条約と西洋式建築の導入/進歩派長州閥と初期の西洋式建築導入/初期の西洋式建築の導入プロセス/誰が西洋式建築を必要としたか
第2章 非体系的な西洋式建築の導入
開国後の産業建築/開国後の居留地の建築/北海道の開拓使と関係したアメリカの影響/擬洋風建築/非体系的西洋式建築の系譜の収束
第3章 国家と建築家
国家による建築家の育成/国家が建築家に与えた職務/国家お抱えの建築家/明治の建築家の実情/明治の建築家の主体性
第4章 明治期における西洋式建築需要の到達点
明治建築の急速な成熟/明治建築の到達点
第5章 直訳的受容から日本固有の建築へ
様式論争/〈日本の様式〉とナショナル・ロマンティシズム/建築論の役割/合理主義の確立/工学的建築への転回/「構造派」/上からの都市化と下からの都市化/テクノクラートとしての建築家/都市への視野の拡張
第6章 近代化の進行と下からの近代化の立ち上がり
素材の近代化と普及/都市化と建築の近代化の進行/建築家の増大と大正期の成果/「新しい商館建築」/「看板建築」/高度な大工の技術/生活改善運動
第7章 近代建築の受容と建築家の指向の分岐
近代建築の国際的な状況/分離派建築会/新興建築運動の連鎖/マヴォ/創宇社建築会/新興建築家聯盟など/今和次郎のバラック装飾社/私的な領域における多様なスタイルの展開/村野藤吾の例外的性格/帝冠様式/〈日本=モダニズム神話〉とタウトの日本滞在/ナショナル・ロマンティシズムとしての〈日本の様式〉とその限界
第8章 総動員体制とテクノクラシー
日本工作文化聯盟/満州における建築家の活動/丹下健三と西山夘三/「国家の建築家」の責任
第9章 戦災復興と近代建築の隆盛
NAUと近代建築論争/終戦から1950年代前半まで/レッドパージと伝統論争/建研連と五期会/1950年代後半から70年まで/未来都市の提案
第10章 建築生産の産業化と建築家のマイノリティ化
建築産業の成長/建築基準法の制定と建築家の法的地位/建築技術の高度化と合理化/住宅生産の近代化/フリーランスの建築家のイニシアティブの喪失/「日本の建築家」
第11章 国家的段階の終わり
第2部 ポスト国家的段階
第1章 ポスト国家的段階の初期設定
建築の領域における異議申し立て/大阪万博/国家が進めていた建築の公共性とその空白
第2章 発散的な多様化と分断の露呈
都市からの撤退/虚構の崩壊/1970年代の建築と住宅/巨大建築論争と「その社会が建築を創る」/「平和な時代の野武士達」と「私的全体性の模索」
第3章 新世代の建築家のリアリティと磯崎新
住宅というテーマ/住宅以外への進出/建築のための建築
第4章 定着した分断とそれをまたぐもの
メディアで問われたこと/組織の建築家/ギャップのかたわらに見られた地道な実践
第5章 バブルの時代
消費される建築/私有化される都市/都市を取り返す動き/祝祭の裏側
第6章 1990年代以降の展開と日本人建築家の国際的な活躍
建築の本来性/平面への注目/質感への集中/インクルーシブな建築/みんなの家/磯崎新の国際的な活動
第7章 ポスト国家的段階の中間決算
〈規範〉の150年
注
あとがき
図版出典