<< 谷塚散策、のつもりが浅間神社にハマって・・・(埼玉県草加市) | main |
ブランデンブルク選帝侯とブランデンブルク辺境伯

 ここ一月ほど、ずっとバッハのブランデンブルク協奏曲のいろいろな演奏、中でも英国の音楽学者サーストン・ダート(1921〜1971)が関係した録音を中心に聞いていました。
 このダートのブランデンブルク協奏曲についてはまた別の記事で触れることにして、今回は別のネタで書きます。

 

 ヨハン・セバスティアン・バッハの全作品とそれぞれの作品に関する情報を網羅した「バッハ作品総目録」(Bach-Werke-Verzeichnis : BWV)はヴォルフガング・シュミーダーが編纂したもので、1950年に初版が刊行され、現在では1990年刊行の第2版が広く用いられています。しかしこれは当然のことながらドイツ語ですし、1990年以降の研究成果は反映されていません。

 そこで私は1997年に白水社の「バッハ叢書」(全10巻)の別巻2として刊行された『バッハ作品総目録』(角倉一朗・著)を愛用しております。箱に付けられた帯には「シュミーダーの作品目録(BWV)第二版を完全に凌駕した決定版総目録。」の大文字が眩しい!(写真)

 ところがこの「決定版総目録」の、よりにもよってバッハの管弦楽作品の代表作である「ブランデンブルク協奏曲」の解説に問題があることを発見してしまいました。しかも調べてみると、この問題なかなか奥が深い。今回は1871年のプロイセンによるドイツ統一のはるか前、神聖ローマ帝国の支配下にあって多くの領邦国家が分立し、30年戦争(1618−1648)による疲弊・荒廃から次第に立ち直りつつあったドイツの北東部、ブランデンブルク地方の歴史の片隅を訪ねます。ちょっとややこしい話にもなりますが、よろしかったらおつきあいください。


 白水社の『バッハ作品総目録』のブランデンブルク協奏曲(BWV1046−1051)の項目の最後にある【解説】(p.933:左写真)は非常に簡潔で、まず「◆1721年3月24日付けで、ブランデンブルク選帝侯 Christian Ludwig に献呈.」とあり、続いて異稿・転用関係を簡単に整理して示した後に「◆『ブランデンブルク協奏曲』という通称は Philipp Spitta バッハ評伝(1873)に由来する.」とあって、これで終わりです。本書はあくまでも作品目録であって解説書ではないので、作品に関する【解説】としては精選された正確な情報を簡潔明快に示せば足りるわけです。

 ブランデンブルクはベルリンを中心とするエルベ川とオーデル川にはさまれた地域、選帝侯とは神聖ローマ帝国皇帝の選挙権を持つ諸侯を指します。この選帝侯が支配する選帝侯領は、分割されず長子によって相続されること、貨幣鋳造権・関税徴収権・強化された裁判権など大幅な特権が認められることなどが定められ、神聖ローマ帝国領内にありながら事実上の独立国の様相を呈したと言われています。

 

 さて、ここに問題があります。Wikipedia の「ブランデンブルク統治者の一覧」というページで歴代のブランデンブルク選帝侯をチェックしてみると、その中に Christian Ludwig=クリスティアン・ルートヴィヒという名前を持つ人がないのです。曲の献呈が行われた1721年当時のブランデンブルク選帝侯はフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(在位1713−1740)で、クリスティアンでもルートヴィヒでもない赤の他人です。つまり白水社版『バッハ作品総目録』の【解説】の「ブランデンブルク選帝侯 Christian Ludwig に献呈.」という記述か、Wikipedia の「ブランデンブルク統治者の一覧」の内容のどちらかに疑問符が付いたわけです。
 幸いなことにこの曲にはバッハ自筆の献呈スコアが現存しています。そこでまずはこれに当たって、バッハが本当にクリスティアン・ルートヴィヒなる人物に献呈したのかどうかを確かめてみることにしました。

 

 献呈スコアの表紙には献辞が書かれていますI(左写真)。ところがこの献辞が当時の習慣に従ってフランス語で書かれているので始末が悪い。当該部分を書き出し、和訳を付します。なお「/」は改行を示します。

Dedidees / A Son Altesse Royalle / Monseigneur / CRETIEN Louis. / Marggraf de Brandenbourg &c. &c. &c:
(ブランデンブールの辺境伯 etc. etc, etc: CRETIEN Louis. 殿下に献呈)

 

 「etc. etc. etc:」は他の称号を省略したものかと思われます。Brandenbourg は Brandenburg のフランス語風綴り。また原文で Marggraf となっている語は現在のドイツ語では Markgraf と綴られ「辺境伯」の意。え?「選帝侯」じゃなかったの?やっぱり例の【解説】は間違ってたのか!と思いましたが、事実はそれほど単純ではありませんでした。
 「辺境伯」というのは元々フランク王国の国境付近に防備のため配置された地方長官で、その重要性に鑑みて他の地方長官よりも大きな領土と強大な権限が与えられ、後に「辺境伯」は爵位(公と伯の間の侯に相当)となりました。そしてブランデンブルク選帝侯は1157年以来続いてきたブランデンブルク辺境伯が1356年に任命されたものなので、つまりブランデンブルクにおいては神聖ローマ帝国皇帝の選挙人である「選帝侯」の爵位が「辺境伯」、すなわち「選帝侯」は必ず「辺境伯」なので、バッハが Marggraf=Markgraf「辺境伯」と書いている人物を【解説】が「選帝侯」としたことは、訳としては誤っていますが事実関係としては問題がないように思われます。

 問題は肝心の人名で、フランス語形になっているのでややこしい。しかし CRETIEN は綴りの似ている Chretien が「クリスチャン(キリスト教徒)」という意味であることから人名のクリスティアンに相当すると思われますし、Louis. はベートーヴェンが自分の名をイタリア語で Luigi van Beethoven と書いているのを見た記憶があり、こちらはルートヴィヒに相当すると思われるので、バッハが「クリスティアン・ルートヴィヒ」のつもりで CRETIEN Louis. と書いていることは間違いなさそうです。
 なお献呈スコアには献辞の他に献呈の経緯を書いた文章が添えられていますが、そちらの宛名(写真)も献辞とほぼ同じ A Son Altesse Royalle / Monseigneur / Cretien Louis / Marggraf de Brandenbourg &c. &c. &c: となっています。

 

 というわけで、問題は結局振り出しに戻ってきました。つまり Wikipedia から知られる献呈当時のブランデンブルク選帝侯=辺境伯はフリードリヒ・ヴィルヘルム1世であるのに、バッハが献呈先として献辞に記したブランデンブールの辺境伯の名がクリスティアン・ルートヴィヒであるのはなぜか?ということです。

 

 ところで、Wikipedia の情報が玉石混交で項目によっては信頼性が低いのは周知の事実で、上に紹介した「ブランデンブルク統治者の一覧」もその記述内容をよく見るとどうやらその例にもれないようです。
 まず渦中の人物である献呈当時のブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は「フリードリヒ3世の息子」とされていますが、そのフリードリヒ3世なる人物はこの表の中に見当たらず、どこの何者かわかりません。上述したとおり選帝侯領は分割不可・長子相続ですから、父親はこの表のどこかにいるはずなのですが・・・。
 実はこの表では先代の名が「フリードリヒ1世」となっていますが、これはこの人のプロイセン王としての称号(1701年即位)で、ブランデンブルク選帝侯になった当時はフリードリヒ3世と名乗っており、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はそのときに生まれた息子だったのです。ですから「ブランデンブルク統治者」としてはフリードリヒ3世と表示するのが本来なわけで、はい、父親発見。
 これ以外にも、その次の代のフリードリヒ2世は「フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の息子」とされているのにフリードリヒ2世の次の代がその「フリードリヒ・ヴィルヘルム2世」だし、そのフリードリヒ・ヴィルヘルム2世の父とされる「フリードリヒ4世」なる人物もこの表には見当たらない。極めつけはその次の代で最後のブランデンブルク選帝侯であるフリードリヒ・ヴィルヘルム3世が「フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の息子」、つまり自分自身の息子(!?)という、まるで落語の「粗忽長屋」みたいな話になってる(爆笑)。
 上で見たように、ブランデンブルク選帝侯は後にプロイセン王その他の領主を兼務して称号が途中で変わることがあったし、息子に恵まれないとお家が絶えないように養子を取ったり何だりするのは日本もドイツも同じでしょうから、父親の名がこの表の中に見当たらないというのはそういった事情もあるのでしょう。しかしフリードリヒとかヴィルヘルムとかは日本で言えば鈴木さん・佐藤さんなみに多く見られる名前なのだし、少なくともどこの家のフリードリヒさん、どこの領主のヴィルヘルムさんなんだかをきちんと書いておいてもらわないと上記のとおり訳がわからないことになり、情報としての価値は低いと言わざるを得ません。

 

 さて、そんな Wikipedia ですが、何せ手元に他の資料がないのでとりあえずはこれに拠るとして、ブランデンブルク統治者だけでなくその関係者にまで手を広げてクリスティアン・ルートヴィヒなる人物を捜索してみると、その名の人物が二人みつかりました。
 まず最初のクリスティアン・ルートヴィヒは、ブランデンブルク協奏曲献呈当時の選帝侯であったフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の祖父にあたるフリードリヒ・ヴィルヘルム(在位1640−1688;「大選帝侯」と呼ばれた)の2度目の結婚相手のドロテア・ゾフィーの前の夫であったブラウンシュヴァイク=リューネブルク公クリスティアン・ルートヴィヒ(1622−1665)。つまり献呈者のバッハから見ると「献呈当時の選帝侯の祖父=「大選帝侯」の2度目の妻の前夫」に当たる人です。しかしこのクリスティアン・ルートヴィヒ氏は1721年の献呈当時にはもう亡くなっているので、献辞に現れるクリスティアン・ルートヴィヒはこの人ではあり得ません。

 

 二人目のクリスティアン・ルートヴィヒは、上に出てきた「大選帝侯」フリードリヒ・ヴィルヘルムと彼の2度目の妻ドロテア・ゾフィーとの間に生まれた子で、ハルバーシュタット侯領の総督を務めたとされるクリスティアン・ルートヴィヒ(1677−1734)。この人は世代的には献呈当時の選帝侯の父の世代ということになりますが、「大選帝侯」とドロテア・ゾフィーとの結婚に関する Wikipedia に気になる記述があったので、まずはその部分を引用します。

 

ドロテアは選帝侯家を継げない自分の産んだ息子達の財産を確保するため、シュヴェートとヴィルデンブルフ(現在のポーランド領スフォブニツァ)の領地を購入した。1701年に継子の選帝侯フリードリヒ3世がプロイセンの王となった際、ドロテアの産んだ息子達もプロイセンの王子(Prinz in Preusen)及びブランデンブルク辺境伯(Markgraf zu Brandenburg)の称号を与えられた。(Wikipedia 「フリードリヒ・ヴィルヘルム(ブランデンブルク選帝侯)」の 「2 子女−2.2 2度目の結婚」参照)

 

 「大選帝侯」はドロテア・ゾフィーと結婚する前、前妻との間に既に5男1女を設けており、長男は生まれた翌年に早世、次男も19歳で亡くなったが3男のフリードリヒ(後の選帝侯フリードリヒ3世=プロイセン王フリードリヒ1世)以下が健在だったため、ドロテアの息子たちには選帝侯を継ぐ可能性がありませんでした。しかし上の記述によると、神聖ローマ帝国皇帝の選挙人たる「選帝侯」にはなれないドロテアの息子たち(ここにクリスティアン・ルートヴィヒも含まれる)も、「ブランデンブルク辺境伯」を名乗ることはできたというのです。
 さあ、ここでバッハの献辞をもう一度思い出してみましょう。バッハはこの協奏曲のセットを「A Son Altesse Royalle Monseigneur CRETIEN Louis. Marggraf de Brandenbourg &c. &c. &c: ブランデンブールの辺境伯 etc. etc, etc: CRETIEN Louis. 殿下」に献呈していました。ということは、

 

後に「ブランデンブルク協奏曲」と呼ばれることになるこの様々な楽器のための6曲の協奏曲は、白水社版『バッハ作品総目録』にあるように「ブランデンブルク選帝侯」に献呈されたのではない。バッハは当時の「ブランデンブルク選帝侯」フリードリヒ・ヴィルヘルム1世とは別人の「ブランデンブルク辺境伯」、すなわち「大選帝侯」とドロテア・ゾフィーの息子クリスティアン・ルートヴィヒに献呈したのである。

 

ということになります。

 

 実はこれは既に周知のことで、たとえば1956年にハインリヒ・ベセラーが書いた新バッハ全集のブランデンブルク協奏曲の序文には「これらの協奏曲の依頼主は大選帝侯の末子、ブランデンブルク辺境伯クリスティアン・ルートヴィヒ(1677−1734年)であった。」と明記されています(音楽之友社刊の日本語版による)。また手元にあるブランデンブルク協奏曲の国内版CDのライナーノート数種や解説本の多くも献呈先を「ブランデンブルク辺境伯」と正しく表記しており、「ブランデンブルクの領主」といった曖昧な表現のものもありましたが、「ブランデンブルク選帝侯」としているものは見当たりませんでした。
 語形は多少違うもののそのまま訳せば「辺境伯」となる Marggraf(= Markgraf)を、白水社版『バッハ作品総目録』の【解説】がなぜあえて「選帝侯」としたのかは不明ですが、いずれにせよ「ブランデンブルク選帝侯 Christian Ludwig に献呈」という記述は、著者がブランデンブルク辺境伯とブランデンブルク選帝侯を同一人物と誤認したことによる誤記なのです。確かにブランデンブルク選帝侯はブランデンブルク辺境伯なのですが、献呈当時にはブランデンブルク選帝侯ではないブランデンブルク辺境伯が複数名存在し、実際にバッハがブランデンブルク協奏曲を献呈したのは、その選帝侯ではない辺境伯のうちの一人だったわけで、つまり「選帝侯は辺境伯である」という命題は真でも、その逆の「辺境伯は選帝侯である」という命題は真ではなかった。今回はまさに「逆は必ずしも真ならず」を地で行く事案でありました。

 

 日本の音楽界で選帝侯や辺境伯といった語に対する理解が曖昧であったことが今回の問題の原因の一つと思われますが、ブランデンブルク選帝侯とブランデンブルク辺境伯については私も今回調べてみて初めていろいろとわかったような次第。「ブランデンブルク協奏曲」のような押しも押されぬ超々大々有名曲に関しても、まだまだわからないこと、曖昧なことがあるのですね。

| オーケストラ活動と音楽のこと | 08:32 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
コメント
コメントする









この記事のトラックバックURL
http://hoch.jugem.jp/trackback/854
トラックバック

CALENDAR

S M T W T F S
  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  
<< August 2017 >>

SELECTED ENTRIES

CATEGORIES

ARCHIVES

RECENT COMMENT

  • 最近読んだ本:『新編 日本思想史研究 村岡典嗣論文選』(村岡典嗣著 前田勉編 2004 平凡社 東洋文庫726)
    ほーほ (07/02)
  • 最近読んだ本:『新編 日本思想史研究 村岡典嗣論文選』(村岡典嗣著 前田勉編 2004 平凡社 東洋文庫726)
    古賀達也 (07/01)
  • 自転車で行った栄・小田集落
    ほーほ (04/22)
  • 自転車で行った栄・小田集落
    あい (04/21)
  • 配達だより:01. キジ
    ほーほ (04/19)
  • 配達だより:01. キジ
    とらのすけ (04/17)
  • 「カントリー・ロード / Take me home, country roads 」の歌詞再び
    ほーほ (03/04)
  • 「カントリー・ロード / Take me home, country roads 」の歌詞再び
    gomuboatの釣り人 (03/04)
  • 2014年2月奈良行き 7.登美ヶ丘から大阪経由東京へ エピローグ
    ほーほ (12/22)
  • 2014年2月奈良行き 7.登美ヶ丘から大阪経由東京へ エピローグ
    AK (12/16)

RECENT TRACKBACK

MOBILE

qrcode

LINKS

PROFILE

SEARCH