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谷塚散策、のつもりが浅間神社にハマって・・・(埼玉県草加市)

 2017年1月28日(土)の午後、ふと思い立って埼玉県草加(そうか)市の谷塚(やつか)を訪れました。ここを訪れたのはいささかセンチメンタルな理由からですが、それはこの文章には関係ないので省きます。東武スカイツリーライン(伊勢崎線)に乗って北千住駅から6つめの「谷塚」駅に降り立ったのが午後4時を少し回った頃。6時過ぎから都内某所でオーケストラの練習があるので、谷塚にいられるのは1時間くらいです。

 

  高架の島式ホームから階段で下りて一つしかない改札を出ると、出口が東口と西口の二つありますが、何せ急に思い立って来たのでこの街のことは全くわかりません。まずはとりあえず両方の出口の様子を伺ってみることに。

 

 東口の方は出るとすぐに案内図があり、駅前はロータリーになっていて25階建ての大きなマンションがあったりと、けっこう開けている感じ。

<東口を出るとすぐ目に入るのが「草加市住居表示街区案内図」(右写真)。三角形の底辺の真ん中あたりに谷塚駅があり、右斜辺の青い帯は毛長川。この図は北を示す矢印が左を向いていることからわかるとおり上が東で、この図に正対したときに地図と実際の方位が合って見やすくなっています。ただ、この向きで背中側になる西口側は「谷塚町」という字があるだけで空白になっているのは、ちょっとなあ・・・西方面へ行く人は西口へ回ってくれということなのかな>

 

<「草加市住居表示街区案内図」の右側にもう一つ、「避難誘導案内板」という案内図がありました。この図は「草加市住居表示街区案内図」と違って、地図の上が北という一般的なルールにしたがって描かれているので、両方の案内図を突き合わせるにはちょっとアタマを使わないといけません。谷塚駅はこちらの図のほぼ中央にあり、その右側に広がる黄色の部分が「草加市住居表示街区案内図」の三角形のエリアの下半分にあたります。オレンジ色が駅の西側の谷塚町(やつかちょう)エリア、緑色は吉町(よしちょう)エリアです。>

 

 一方の西口は案内図もなくこじんまりしています。

<西口で目についたのがこの三角(実際にはこの角だけが尖った不等辺四角形)のビル。変形地を極限まで利用した結果であろうこの尖った部分の内側がどのように使われているのか興味あり。普通に物置みたいに使われているのか、ひょっとするとまさかの説教部屋とか?

 ・・・そういえば突然思い出しましたが、2年間お世話になった大学の学生宿舎の私が入った部屋は、ホームベースをタテに引き伸ばしたような五角形で、その尖った斜めの辺に窓がついていました。備え付けの机とベッドとスチールの本棚をどう置いたものか、しばし悩みました。んー、大学って自由だ(笑)。ちなみに学生宿舎の部屋の多くは普通の四角形で、五角形の部屋は少数です。念のため。>

 

 そこで再び東口の案内図をしばし眺め、東口からまっすぐ進んで県道49号足立越谷線と交わる交差点を右折し、夕暮れの水神橋に佇んで茜色に染まる毛長川の流れをぼんやり眺めてみることにしました。うん、こりゃ十分センチメンタルじゃろうて!

 さて、計画どおり東口からまっすぐ進み交差点を右折して県道49号足立越谷線に入るといきなり、その東側に神社を発見しました。私は旅先で神社があるとお参りすることにしていますので、この神社も無下に素通りするわけにはいきません。

 「節分祭追儺式」の大きな看板から、この神社が浅間神社(せんげんじんじゃ)であることがわかります。浅間神社が富士山信仰と結びついた神社であるということだけは予備知識として持っていましたが、実はこれまでの私の人生には浅間神社との接点がなく、お参りするのは今回が初めてです。富士山信仰と言えば富士講ですよ。ここにも地元の富士講関係の何かがあるかも知れません。わくわく〜。

<写真では残念ながら浅間神社の「浅」の字が隠れてしまいました・・・>

 

  鳥居をくぐると右手に立派な手水鉢(ちょうずばち)があります。柄杓も備え付けられているので、せっかくだから手と口を清めてお参りしようと近づいてみると、なんと水がありません。冬の関東地方は乾燥した晴天が続くので、手水鉢の水が涸れているのはしばしばあること。仕方なくそのまま拝殿に向かってお参りしてから拝殿の左手に回ってみると・・・

 

 ほら、早速ありました。昭和37年と昭和33年・35年の富士山登拝記念碑です(写真は昭和33年・35年のもの)。
 いずれも舟形の石の表面の一番上に富士山頂を象(かたど)った山形と○の中に「瀧」の字の印を配し、その左右に「北口」「登山」の文字、その下に年月日と先達・世話人以下数十名の氏名が刻まれています。写真の昭和33年・35年のものはそれぞれの年ごとに氏名を2段に刻んでいます。さすがに昭和30年代ともなると女人禁制なんていうことは言わなくなったと見えて、女性らしい名前もあります。いずれの年も日付は8月17日なので、ここの富士講が登拝するのは8月17日と決まっていたようです。登拝の段取りや宿泊その他の世話は現地の御師(おし)と呼ばれる人が取り仕切るので、この日付も御師との取り決めによるものでしょう。また碑に刻まれた「瀧」の字の由来を知りたいと思って後日調べたところによると、この旧・瀬崎村にあった講は「山玉丸瀧 瀬崎講」という名前らしく、そのため「○に瀧」の図柄を刻んだと思われます。山形と図柄を組み合わせたこうした印を「笠印」というそうです。

 

 ところがここの浅間神社はこれだけでは終わりません。拝殿に続く本殿の後ろ側にかなりの広さの境内が広がり、そこに実に様々なものが集まっているのです。その主なものは下浅間社・浅間稲荷社・疱瘡神の三社を合祀したお社、富士塚、瀬崎天神社、忠魂碑、庭園と力石といったものですが、その他にも江戸時代から戦前・戦後にわたるさまざまな石碑類が数知れず。ここは間違いなく谷塚のパワースポットですよ!

 それもそのはずで、これまた後で調べたところによると、この神社が面している通りは今でこそ県道49号足立越谷線という名で、何の変哲もないふうを装ってはいますが、その昔は五街道の一つである日光街道そのものだったのです。そしてこの神社も一説には江戸時代初期の寛永4(1627)年開基、明暦年間(1655-1657)に現在の地に移ったとされ、現在の本殿は天保13(1842)年に再建されたものであるとのことで、つまり400年近い歴史を持つ古社なのでありました。何も知らずにたまたま通りすがったこの一角に、江戸開府以来の歴史がぎゅっと詰まっていたのです。

 

<以下、境内の主要なものを時計回りにご紹介。まずは下浅間(しもせんげん)社・浅間稲荷(あさまいなり)社・疱瘡神(ほうそうがみ)を合祀したお社。鳥居の脇に立つ案内板に次のように書かれています( / は改行、( )内はふりがな、(ママ)はその直前の字が私のミスタイプではなく原文のままであることを表す)。

 

「合社御由緒 / 氏子の守神としての三社は江戸時代末期(文化年間)に合社され当時参道の一ノ鳥居近くに祭祀されていました / 昭和七年の旧日光街道整備拡幅に伴い現在地に移築し平成二十五年十一月に建替えされました / 下浅間社(しもせんげんしゃ) 御祭神「木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)」 / 参詣者は富士山登拝に倣いこの社を拝み次に浅間神社(上浅間)を参拝し最後に小御嶽神社(奥浅間)を拝しました / 浅間稲荷社(あさまいなりしゃ) 御祭神「倉稲(ママ)魂命(うかのみたまのみこと)」 / 本社の南に広がる浅間耕地名に由来し衣食住の祖神で産業の守護神と言われ当村宿組の人々が奉齋しました / 疱瘡神(ほうそうがみ) 御祭神「小(ママ)彦名命(すくなひこなのみこと)」 / 種疱(ママ)以前子を持つ親御達はこの病を恐れ疱瘡に罹った子の健康快復を願いこの神を祭祀信仰しました」

 

 なお、鳥居をくぐるとすぐ左側にこの案内板と同一内容を刻んだ石碑がありますが、そちらの方では前文の最後が「社の老朽化に伴い平成二十五年十一月に建替え奉納がされました」となっており、また(ママ)を入れた字のうちの2ヶ所で「少彦名命」「種痘」となっています。また文末に「平成二十五癸巳年十一月十日御遷宮」という日付の後に文責・宮司以下関係者の氏名が刻まれています。>

 

<続いて、境内の一番東の奥にあるのが富士塚。鳥居の左側に石碑、右側に案内板があり、鳥居の奥に岩石を積み上げた塚があります。富士塚とはどういうものか、まずは案内板の説明を見てみましょう。

 

「市指定民俗文化財 / 瀬崎(せざき)の富士行(ママ)(ふじこう)及び富士塚(ふじつか) / 平成二十六年一月二十四日指定 / 草加市瀬崎三丁目三番二十四号 / 富士山を信仰する人々で組織された富士講は、各地で独自な展開を見せてきましたが、草加市域では旧瀬崎村で「冨士行」と呼ぶ一連の行為を伝え、今なお受け継がれています。 / 「冨士行」は、富士山頂で神霊に祈誓を捧げることのほか、地元では元日と七月一日(富士山の山開きの日)は浅間神社の拝殿で、その他の月は社務所で「オツタエ」と呼ぶ冨士の神霊を称える唱言が節を付けて唱えられます。 / 富士講の隆盛は、富士登山者の増加をもたらしましたが、当時の富士山は女人禁制で、しかも往復に相当の日数を要したため、容易に登れる山ではありませんでした。そこで、誰もが身軽に登山できるように築かれた富士山を、富士塚と呼んでいます。 / 瀬崎の富士塚は大正五年(一九一六)八月に竣工し、地元はもとより、近隣の富士講の講員が今なお巡拝に訪れています。 / 各地の富士講・富士塚が廃れていく中、往時に近い形で今に伝わる瀬崎の「冨士行」・「富士塚」は全国的に見ても貴重な存在であり、大切な文化遺産となっています。 / ※藤塚の規模・・高さ約四m、横幅十・四m、奥行八・六m / 平成二十六年六月 / 草加市教育委員会」

 

また鳥居の左側の石碑は案内板より新しく設置されたもので、富士塚の修復記念碑です。刻文は以下のとおり。

 

「市指定民俗文化財「瀬崎の富士塚」修復記念碑 / 瀬崎の富士塚は、明治四十年五月、浅間神社に合祀された天神社の跡地に、大正五年九月、浅間神社の奥宮として、地元の冨士行(ママ)の講員によって築造されました。 / 富士山の溶岩石でその山体を包み、富士山の五合目から山頂までの御姿を写しています。 / その後、昭和四十七年には、富士塚の山頂に浅間神社の御祭神「木花咲耶姫命」の姉神である「磐長姫命」を祀る小御嶽神社を勧請しています。 / 平成二十六年一月には、他に誇りうる貴重な文化遺産として、「瀬崎の冨士行」と共に草加市から民俗文化財の指定を受けています。  / ここに、百年前に築造された先人への思いと地域の歴史文化の継承に資するため、往時の姿への修復と環境整備を発起し、多くの皆様方からのご協賛を得て取組の完了を見るに至るものです。 / 塚の規模 奥行約八・六m / 横幅約十・四m / 山頂高 約約四・〇m / 石祠高 約五・三m / 修復工事 / 平成二十七年九月一日 仮遷座・工事安全祈願祭 / 平成二十八年二月二十日 遷座祭 / 平成二十八年二月二十一日 竣工報告祭」>

 

<鳥居の奥の富士塚全景。木の札が2本立っていて、左は「市指定民俗文化財 瀬崎の富士塚」というごく普通のものですが、右は「瀬崎の富士塚 / 登拝禁止 / 危険ですから富士塚に登らないで下さい / 富士塚の麓正面でご参拝下さい」と呼びかけています。さらにその手前のチェーンのかかった杭にも「富士塚にのぼってはいけません」という手書きの札が取り付けられています。もともと富士講の信仰の対象として作られたものですから、敬虔の態度を欠いて軽々しく土足にかけたりしてはいけませんね。

この写真は塚の正面ですが、左側に回ると「富士塚登山道 男坂」、反対の右側に回ると「富士塚 御胎内」「富士塚登山道 女坂」が設けられていて、それぞれ木の札が立っています。>

 

<さらにこの富士塚の左手奥に、最新の登拝記念碑がありました。碑面には「富士山登山参拝記念 / 平成二十八年丙申歳八月十七日登拝 / 瀬崎講社」という題字と、山頂の形の下に○に瀧の字の例の笠印が刻まれ、さらに大先達・先達・氏子総代・責任総代・宮司・相談役・山先達・副先達・世話人以下50数名の名前(うち約20名は女性らしい)と、施工した石材店が刻まれています。平成二十八(2016)年って昨年ですよ。先ほどの案内板にもあったとおり、富士行は「今なお受け継がれて」いるのですね。すばらしい!>

 

<富士塚の右手に瀬崎天神社の祠があります。鳥居内側の札には「瀬崎天神社 / 平成二十八年二月吉日 造営」とあり、これだけ読むとごく最近勧請したものかと思われますが、実は写真の「お賽銭」の箱の陰に「瀬崎天神社 御由緒」という石碑がありまして(ああ写真がヘタだ ^^;;)それによると江戸時代の元禄年中に勧請されたものらしい。碑文は以下のとおり。

 

「瀬崎天神社 御由緒 / 当社の由緒は定かならずも、現存する棟札によると元禄時代に勧請されたことが推定されます。 / 明治初期の記録には「天神社社格平社・社地竪十八間・横十六間・面積二百八十七坪」「村の西方に在り菅原道眞公を祀る・祭日九月二十五日」と記されています。 / 拝殿の間口は二間、屋根は草葺の寄棟造り、本殿は草葺の一間社流造り、明治二年の銘を持つ石鳥居が建てられ、文学の神・学問の神とされる御祭神は、多くの人々によって崇敬されてきたことが伝えられています。 / その後、明治四十年五月十三日、浅間神社に合祀され、御祭神である菅原道眞公坐像と伝来の棟札は浅間神社に納められ、境内地も同社に編入し、大正五年には浅間神社の奥宮として富士塚が築造されています。 / 平成二十八年二月、市指定民俗文化財「瀬崎の富士塚」修復に際し、此処ゆかりの地に改めて社殿が造影されるものです。 / 平成貳拾八年丙申貳月吉日 / 浅間神社氏子中」。
 

 先ほどの富士塚修復記念碑にも記されていましたが、この瀬崎天神社はもともと今の富士塚の場所にあったものの、明治40年に浅間神社に合祀され、大正5年になってその跡地に富士塚が築かれたというわけで、今の姿だけ見ると天神社は富士塚の脇に小さく遠慮がちにいらっしゃるようですが、本来は富士塚よりも古い由緒あるお社なのですね。もちろんこちらにも参拝いたしました。>

 

<瀬崎天神社の手前に大きな黒御影石の「忠魂碑」があります。忠魂碑は明治以来の戦争に出征して亡くなった人々を記念しその義勇と国への忠誠を讃えたもので、日本各地にありますが、その多くは戦前ないし戦中に建てられたものです。ところがここの忠魂碑は後述するとおり、ちょっと趣が違うようです。

碑の最上部に右書きで「忠魂碑」と大書し、その左に細字で「靖国神社 / 宮司松平永芳謹書」とあり、その下が碑文の本文です。本文は以下のとおり。

 

「今茲に、西南の役、日清、日露両戦役、更に、日支事変を経て、大東亜戦争の終結を契機として、一億同胞が平和にして豊かなる良き時代を享受し得るは、一に戦争犠牲者に依って、培われたからである。 / 当瀬崎町に於ても、戦争勃発と同時に召集令状を受けたる屈強の青壮年多数が、家を後にして凍りつく厳冬の荒野に、灼熱の赤道直下に、将た又果てしなき太平洋の彼方に悪戦苦闘して、祖国の安泰を念じつゝ奮闘せしも、遂に五拾参名の勇士が異国の地に散華せられたのである。真に痛恨の極みであり衷心より御冥福を祈念すると共に、私達を始めとして、後世の人達が戦争の悲劇を肝に銘じ、再びこの惨事を繰り返す事のなきよう凡ゆる総意と、叡知を結集して行く事を御誓い申し上げる次第である。 / 茲に戦没者の氏名を刻して、後世に伝えるべく碑を建立す / 昭和六十一年三月吉日 / 忠魂碑建設委員会」

 

この本文の下に戦歿者と戦歿年月日が刻まれています。早い方は明治10(1877)年、遅い方は昭和23(1948)年に亡くなっています。一般に終戦の日とされている昭和20(1945)年8月15日より後に亡くなっている方も8人いらしゃいます。

建立が昭和61(1986)年というのは、忠魂碑としては例外的に大変新しい部類に入ると思います。しかもこの忠魂碑は全体が金網入りの柵で囲われ、さらに柵の内側に次のような内容の看板が掲げられています。これは他ではちょっと見られない特徴かと思います。

 

「(日の丸)真理 / 激動し変転する歴史の流れの中に / 道一筋につらなるいく多の人達が / 万斛の思いを抱いて死んでいった。 / しかし、 / 大地ふかく打ちこまれた悲願は消えない。 / 抑圧されたアジア解放のために / その厳粛なる誓いに / 生命を捧げた魂に幸あれ。 / ああ真理よ、あなたは我が心の中にある。 / その啓示にしたがって我は進む。 / パール判事」

 

パール判事とは太平洋戦争の戦争犯罪人を裁く極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)の判事を務め、「全員無罪」の少数意見を書いたラダ・ビノード・パール氏(パル判事とも呼ばれる)のことと思われ、この人ならこの詩を書いてもおかしくない気がしますが、私はこの詩の出典を承知していません。この機会にその少数意見「パル判決書」についても勉強してみようかな。>

 

<忠魂碑の右手にはこじんまりとした庭園が作られ、その一隅に卵型の大きな石が5つ転がっていて、札が立っています。曰く「力石」。札の内容は以下のとおり。

 

「瀬崎浅間神社の力石(ちからいし) / 力石は「さし石」とも言われ、江戸期中頃から / 重量物の運搬に携わる若衆の力競べが / 始まりと伝えられています / 当社には五基の力石が保存され、三基が寛政年間前後に活躍した力持ち「山谷田中巳之助」の奉納であり、この瀬崎では、西南ノ役の勇士「福田巳之助」が当時、神社境内にあった力石を全部持ち上げたと伝えられています / (重さ一貫目は現在の約三.七五キロに相当) / 昔は、腕力が仕事の上で大いに役立ったので / 力持ちが尊重され、米俵一俵(約六十キロ)を / 担ぐことが大人の仲間入りの条件であったとも / 言われ、力石は庶民生活の一面を物語る / 民族(ママ)資料でもある」

 

力石が神社に奉納されているのは、私も茨城県土浦市東崎(とうざき)の鷲(わし)神社で見たことがありますので、それほど珍しいことではないと思います。>

 

<やはり庭園の横で発見した物件。「瀬崎講社登嶽記念碑」と「冨士登山記念碑移設」碑。まずは右側の「冨士登山記念碑移設」碑の碑文から見てみましょう。

 

「冨士登山記念碑移設 / 今般、平成天皇御即位を挙げられる良い年を記念して、当地冨士講員が / 相図り、永年の間冨士吉田市の御師大番城様の邸内に先代の方々が / 奉納された登山記念碑が今般大番城様のご都合により、当浅間神社 / 境内に移設する事になり、並木定男殿の奉納された庭園の完成と同時に / 移設を完了致しました。 就ては古い歴史のある瀬崎冨士講社を / 次の世代に伝える為に之の記念碑を建立せり / 御大典記念 / 平成二年四月吉日」

さらに冨士講先達と副先達5名の氏名があります。

 

この碑文により、瀬崎富士講の御師が富士吉田市の大番城(だいばんじょう)という屋号の家であったことがわかります。ところがこの大番城という御師は平成4(1992)年以前に廃業したという情報がネット上にあり、もしそれが本当だとすると「今般大番城様のご都合により」記念碑が移設されたというのも、それに関係するのかも知れません。

その移設された当の記念碑というのが左側に写っている「瀬崎講社登嶽記念碑」で、碑面には例の笠印の下に大きく「瀬崎講社登嶽記念碑」とあり、その左右にそれぞれ2名ずつ計4名の大先達の氏名、さらにその下に先達・副先達・世話人計15名の氏名が刻まれています。年月日は表面には記されていないようですが裏は見ていないので、これがいつのものか今はちょっとわかりません。>

 

 予習もせずに訪れた土地のたまたま立ち寄った神社で、これほどてんこ盛りの「物件」に出会おうとは思いもしませんでした。もうここまででお腹いっぱいといったところですが、ここにはさらにびっくりするような「物件」があったのです。それは「冨士浅間神社手洗石(てあらいいし)の高低測量几号(そくりょうきごう)」というもの。まずは説明板の説明(写真)をご覧ください。

 

 この説明板に紹介されている内務省地理寮が明治初期に行った東京・塩釜間の水準測量については私も聞いたことがあり、今もそのルート沿いに測量几号が刻まれた遺物がいくつか残されているという話も承知していましたが、まさか何の準備もなく思いつきで訪れたここ谷塚に、その貴重な遺物の一つが残されていたとは、奇遇というも愚かなり!かく千載一遇のチャンスに恵まれたる上は、どうしてもこの目でその几号を確かめなければ、今日ここへ何のために来たのかわからぬではありませぬか!(いや〜、少なくともこれのために来たんじゃなかったんだけど・・・)。

 

 ところがこの説明板にある「手洗石」というのがこの広い境内のどこにあるどれなのか、よくわかりません。案内板は一の鳥居から見て拝殿の右側に立っていて、当然「物件」の近くにあるはずですが、看板のすぐ近くには石造物は見当たりません。そこで辺りを探してみると、まさに「御手洗」と刻まれた石碑を発見しました。しめしめ、これか?(右写真)。

 

 ところがこの石碑の裏面には「于時(ときに)文久三年癸亥六月」とあり(左写真)、案内板の「慶応元年(一八六五)」という記述と合いません(文久3年は1863年)。うーむ残念、これではないのか。
その後しばらく周囲の石造物を物色するも、結局該当するものはこの日はついに発見できないまま撤退のやむなきに至りました(泣)。

 

 ところが後日ネットで調べてみると、この「手洗石」というのは、鳥居をくぐった直後に見た、あの水の涸れた手水鉢のことだったのです。あれ「手洗石」っていうのか・・・勉強になりました(「水盤」ともいうらしい)。しかも肝心の几号は手水鉢側面の下の方に刻まれていて、風化もありやや見にくいとか。そりゃあ一見さんには見つからんわけだわ。

 

 というわけで、結局私は浅間神社にすっかりハマったまま時間切れとなり、当初計画した夕暮れの水神橋に佇んで茜色に染まった毛長川云々もへったくれもなくなってしまいました。まあいい、今回は見られなかった測量几号の再確認と西口方面の散策も含めて、また来よう。

 それはそれとして、この浅間神社の一角はここ数年の間に集中的に整備が進んだようで、案内板等が大変充実していて有難かったです。草加市谷塚、いい所です。

 

 都心方向に向かう電車を待ちながら高架のホームから西を見ると美しい夕焼け空が広がっていました。ああこの空の色は心に焼き付けて、写真には撮らないでおこう・・・と思いました(おっとかろうじてセンチメンタルwww)だから夕焼け空の写真はありません。

 その代わりと言ってはなんですが、夕暮れ迫る谷塚駅東口はこんな感じでした(右写真)。

 

 

 

 

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