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配達だより:02. ハス田

 週に3〜4日、夕食用の弁当やおかず、食材等を宅配するパートに出ています。センターに出勤してお弁当や食材を積み込んだら、私が担当するコースはまず土浦市の北東、霞ヶ浦湖畔の台地上の集落へ向かいます。土浦市近辺の霞ヶ浦湖畔には標高3〜4メートルの沖積低地が霞ヶ浦を縁取り、その背後に関東ローム層を載せた標高25〜30メートルほどの洪積台地が広がります。低地と台地の境は比高約20メートルの段丘をなしていて、台地上へ登る道はけっこうな急坂です。湖畔の低地は湿潤で水田に適し、一方背後の台地は多くは畑ないし森林ですが、台地の間を刻む谷には水田も見られます。それが本シリーズの「01. キジ」の舞台にもなった「谷津田」です。

 

<今回扱う区域の概略図。左下に青い楕円で囲ったのがJR常磐線の土浦駅。右側の大きい赤い四角で囲ったのが今回前半で扱う霞ヶ浦湖畔の沖積低地とその背後の洪積台地。左側の小さい赤い四角で囲ったのは後半で扱う土浦市街の北側の住宅地。>
 

 この霞ヶ浦湖畔の湿潤な沖積低地は古くから水田として利用されてきたであろうと思われますが、現在ではレンコンを栽培するハス田が一面に広がり、土浦は日本一のレンコン生産地とされています。常陸国風土記の香島郡の条には「其(=香島の大神)の社の南、郡家の北に沼尾池(ぬまのをのいけ)あり。古老の曰へらく、神世に天より流れ来し水沼(みぬま)なりと。生(お)へる蓮根(はちす)、味気(あぢはひ)太(いと)異(こと)に、甘美(うま)きこと、他所(よそ)のものに絶(すぐ)れたり。病める者、此の沼の蓮(はちす)を食へば、早く差(い)えて験あり。」(『風土記』武田祐吉編 1937 岩波文庫による。なお字体は現行の字体に変えました)とあり、レンコンが古代から食されていたことがわかりますが、土浦近辺の霞ヶ浦湖畔での栽培は昭和45(1970)年から始まった政府によるコメの生産調整に伴う転作事業によって飛躍的に伸びたようです。そしてこの霞ヶ浦湖畔に広がるハス田が、今ちょうど花の時期なのです。

  土浦駅東口から県道263号土浦港線を北へしばらく進み土浦の市街を出外れると、道の両側には一面にハス田が広がります。
ハス田の中をしばらく進み、交差する国道354号土浦バイパスを右折、その先の信号を左折してハス田を分けるように進んでいくと、やがて洪積台地の縁について走る県道118号石岡田伏土浦線にぶつかります。この道は洪積台地と沖積低地の境目をなす段丘斜面の直下に沿って走っているので、右折して南西方向に進んで行くと、右手にハス田、左手に段丘斜面という対照的な風景が広がり、集落は低湿な沖積地にはほとんどなく、台地の段丘斜面直下のこの道沿いに伸びる集落と、段丘斜面を登り切った台地上に展開する集落の二種類に分かれます。

 

<右の図の左下隅の「湖北(一)」と「湖北(二)」の間を通って北東へ進み境川に沿って走るのが県道263号土浦港線。「境川」の字のすぐ上の交差点を右折して赤い道=国道354号土浦バイパスに入り、左折して黄色い道=県道118号石岡田伏土浦線にぶつかります。この道の北東側が台地、南西側が沖積低地で、青い楕円で囲った「手野町」はこの道沿いに沿って伸びており、一方「田村町」は段丘斜面から離れた台地上にあって、これら二つの集落の立地が大きく異なっていることがわかります。また「田村町」の東側の「おおつ野」は段丘斜面からさらに離れた台地の奥に最近計画的に開発されつつある住宅地で、土浦の市街地にあった土浦協同病院という大きな病院も移転してきました。>

 

<左写真:国道354号土浦バイパスから県道118号石岡田伏土浦線方向を望む。ハス田の向こうに見えている集落は「手野町」で、木造黒瓦の古くからの民家が見られます。その背後に台地が控えています。>
 

<右写真:台地から下りる道の途中から低地に広がるハス田と霞ヶ浦、その向こうに土浦市街を望む。道端にあるどっしりした黒瓦の民家の屋根が美しい。台地上に霞ヶ浦に向かって大きく視界が開けている場所があれば、眼下に一面に広がるハス田が一望できるはずですが、残念ながらそういうビューポイントはまだ発見できていません。>
 

<左写真:ハス田に咲くハスの花。 以前はピンク色の花も見かけましたが、 今この辺のハス田で見られるのは白い花ばかりです。おそらく今最も食用に適した品種なのでしょう。彩りとしては葉の緑に白い花だけでは少々寂しく、やはりピンクの花もほしいところですが、経済的な価値にはなかなか対抗できません。

泥の中からすっくりと茎を伸ばして汚れのない花をぽっかりと開くハスは仏教で浄土の象徴とされ、蓮華のモチーフは仏像や仏具の至る所に見られます。霞ヶ浦湖畔に広がるハス田一面に紅白の蓮華が咲きそろい、彼方にそびえる筑波山の山並み越しに来迎印を結ぶ巨大な金色(こんじき)の阿弥陀如来の上半身を現したなら、それは古くからある山越し阿弥陀図、山越し阿弥陀像の土浦版となりましょう。もっとも筑波山を西方浄土の東門に真向かうとするのは若干方角がおかしいようではありますが・・・誰か描きませんか?>

 

 

<右写真:ハス田の彼方に霞ヶ浦と対岸の阿見町方面を望む。阿見町もやはり霞ヶ浦沿いの沖積低地の背後に比高約20メートルの洪積台地が展開し、地形的にはこちらとほぼ同じ。台地の上面がみごとに平らなのが印象的。関東平野では地平線が見られます。>
 

 この段丘斜面の下にあるのと台地の上にあるのとの二種類の集落は、段丘斜面直下の集落は漁労と水田耕作、台地上の集落は畑作という、それぞれ異なったタイプの生業を営んできたのだろうと思われますが、これら二種類の集落の人々はどこから来てここに住み着いたたのでしょうか。どちらかの環境で住みあふれた人々が違う環境へと挑んで適応していったのか、それとももともと異なった生業を営むお互い無関係な人たちがそれぞれ別々に開いた集落がたまたま段丘斜面を境に隣り合っているだけなのでしょうか。そしてこの二種類の集落それぞれの間には信仰をなかだちにした交流や物資の交易等はあったのでしょうか。少なくとも集落名からは本村と枝村といった関係は見えてこないようだし、ひょっとすると集落の中の神社がそれぞれの種類の集落ではっきり違っていたりはしないだろうか・・・配達の仕事で車を走らせながらでも、こんなことを考えていると何となくロマンチックで楽しいです。まあ実際には調査なんてやりゃあしないでしょうけどね(笑)。

 

 ところで、日本一のレンコン産地という土浦の名誉がこの霞ヶ浦湖畔の沖積低地に広がる広大なハス田に支えられていることは間違いありませんが、土浦のハス田は湖畔の低地だけに分布しているわけではありません。配達の仕事を始めてから発見したのですが、実は土浦市内の住宅地の中にもハス田が見られるのです。

 

 土浦駅東口から県道263号土浦港線を北へ進み、今回は国道354号線土浦バイパスを先ほどとは逆に左折して土浦市の北側へ向かいます。
 やがて左手に「木田余(きだまり:茨城県の難読地名の一つです)町一区」、さらに「東真鍋町」の集落が広がります(それぞれ左の地図上に青い楕円で囲ってあります)。戸建てやマンションが混在する、ごく普通の市街地の住宅地ですが、地形図をよくよく見ると、国道354号とその南側にある市民会館(私が所属している土浦交響楽団のホームグラウンドである土浦市民会館。やはり青い楕円で囲いました)の北側の通りにはさまれた区域に、ぽつりぽつりと水田の記号が見られます。この記号は普通はコメの水田なのですが、ハス田が広がっている霞ヶ浦湖畔の低地上にもこの記号が一面に見られることからわかるとおり、地形図上はコメの水田もハス田もこの記号で示されます。で、先ほどの区域の水田の記号の正体は、コメの水田ではなくハス田なのです。

 

<右写真:上の地図の「東真鍋町」という字の辺りから南の市民会館方向を望む。ハス田の向こうに一戸建ての住宅やマンション、さらに大型店などが見えています。>
 

<左写真:同じく「東真鍋町」の辺りから、反対の北側を望む。本文で後述しますが、一戸建ての家やマンションの向こうが一段高くなってその上に住宅が見えているのがここでのポイント。>
 

<右写真:霞ヶ浦湖畔のハス田では白い花ばかりが目立ちましたが、ここ住宅地のハス田ではピンクの花も咲いていました。やはり美しい。>
 

 この区域では、なぜ住宅地の中にハス田が点在しているのでしょうか。この大きさの地図ではちょっと見にくいのですが、この区域の北側を限る国道354号(この辺りの区間は地元で「真鍋東通り」と呼ばれています)のさらに北側をよくよく見ると等高線が束になってこの道と並行して走っていて、道の北側が急斜面になっていることがわかり、この地図の左上にある「善応寺」という字の上側には標高24.3メートルの水準点や標高27.2メートルの三角点が見えます。一方この道の南側の高さはというと、これまたちょっと見にくいのですが、市民会館の北側の道が常磐線の線路に突き当たるところに標高3メートルを示す標高点があります。これらのことから、この住宅地の辺りはもともと霞ヶ浦湖畔の低地と同じく、比高約20メートルの台地(この台地は現在は木田余西台(きだまりにしだい)と呼ばれている)の下に広がる沖積低地であって、国道354号=真鍋東通りはその段丘斜面の直下を走っていることがわかります。つまり大きく見るとこの住宅地の辺りと霞ヶ浦湖畔の低地とはもともと地形的に一続きのものであって、住宅地になる前はここまでハス田が広がっていたであろうことが推定されます。そしてその後、南側の土浦市の市街化・宅地化の波が北上しこの区域にまで押し寄せてきて、ここに広がっていたであろうハス田を次第に虫食い状に侵食し、その結果宅地とハス田がまだら状に分布する現在の状況に至っている、ということではないでしょうか。
 霞ヶ浦湖畔のハス田が飛躍的に増えたのが1970年に始まったコメの生産調整に伴う転作事業以降だということなら、1970年以降しばらく経ってからの旧版地形図を見てこの区域に水田の記号があれば、それはハス田であると推定してほぼ間違いないでしょう。さらにそれ以後の旧版地形図を経時的に見ていけば、上に述べた「もともとここにあったハス田が南側から市街化・宅地化により侵食されて現在のまだら状の状況に至った」という仮説を検証することができるでしょう。まあ実際には検証なんてやりゃあしないでしょうけどね(笑)。

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