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最近読んだ本:『新編 日本思想史研究 村岡典嗣論文選』(村岡典嗣著 前田勉編 2004 平凡社 東洋文庫726)
 最初に、本文中では敬称を省略したことをお断りしておきます。

 本書を読むまでは、私にとって村岡典嗣(むらおか・つねつぐ)という人は岩波文庫の本居宣長(もとおり・のりなが)の著書の校訂者に過ぎませんでしたが、本書巻末の前田勉氏による解説によると、村岡は「日本思想史学の生みの親」(p.414)であり、そういえば最近読んだばかりの家永三郎『日本道徳思想史』(1954/1977 岩波全書)巻末の「参考文献補遺」にも名前がありました。曰く
 
通史ではないけれど、村岡典嗣「日本思想史研究」四冊にも、参照すべき論文が多く含まれている。特に方法論に関する論文は、津田前引書(注:津田左右吉『文学に現はれたる我が国民思想の研究』四冊をさす)の序文と共に、道徳思想史の方法論を考えるに当って教えられるところが多い。何といっても、津田・村岡両者は日本思想史学を独立の学問的体系として樹立した草創者であり、たといその学問の内容や思想的立脚点にまったく同意し得ないとしても、日本思想史を研究しようとする学徒は、まずこの両先学の業績から出発するのが順路であると思う。(家永『日本道徳思想史』 p.240)

このように、津田左右吉と並んで村岡典嗣の業績を讃えています。。
 ところが、おもしろいことに前田勉による本書解説には、逆に家永三郎に言及した部分があるのです。曰く
 
この点、家永三郎が、村岡は「概して研究の対象に温い同情を注ぎつつその精神の理解につとめ、短所の暴露よりも特色の発見に重きをおいた」と、「限界の指摘に重きをおいて仮借なき批判を急とした」津田左右吉と対比しつつ、指摘していることが参考になる(「日本思想史学の過去と将来」、『家永三郎集』第一巻)。(p.425)

とのこと。前田はこの点に関連して
 
思想家を分析する立場には、弁護士型と検察官型の二つのタイプがあるが(内田義彦「方法としての思想史」、『内田義彦著作集』六巻)、自己の人生観・世界観からする超越的批評をしばしば行っている津田左右吉は明らかに検察官型であったのにたいして、村岡は、「本人が口ごもっている言い分を何とか聞きただしてみよう、本人の自覚にあるものよりもいま少し明確にその言い分を聞いてみよう」(同右)とする弁護士型に属していたといえよう。(p.426)

とも述べています。同じジャンルに属する本同士ですから当たり前かも知れませんが、村岡典嗣と津田左右吉を仲立ちにして本書とその前に読んだ本とがけっこうピンポイントで響き合うというのは、ちょっとおもしろい経験でした。

<東洋文庫の常として、表紙・背・裏表紙は落ち着いたグリーンのクロス装で大変手触りがよい。表紙には書名をはじめ字は何もありませんが、背に金で書名・著者名等が押されているので、本棚から取り出すには困りません。>
 
 まずは例によって目次を転載します。ただし後の都合のため、各論文の執筆年(執筆年が示されていないものについては初出年)を( )に入れて補足します。

日本思想史の研究法について(1934)
愚管抄考(1927)
国学の学的性格(1939)
本居宣長の古伝説信仰の態度(1927)
本居宣長の臨終(1934)
復古神道に於ける幽冥観の変遷(1915)
平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響(1920)
平田篤胤が鈴家入門の史実とその解釈(1938)
徂徠学と宣長学の関係(1945)
市井の哲人司馬江漢―思想家としての司馬江漢(1930)
妙貞問答の吉利支丹文献として有する意義(1926)
日本倫理思想史上西洋思想との交渉(1941)
日本学者としての故チャンブレン教授(1935)
日本精神を論ず―敗戦の原因(1945)

解説
参考文献
村岡典嗣年譜
初出と底本

 目次によって本書の構成を見ると、最初に日本思想史の学問的性格を規定しその研究法について述べた、いわば日本思想史の総論に当たる「日本思想史の研究法について」を据え、その後に具体的研究成果である各論としての論文を排列してあります(最後の「日本精神を論ず―敗戦の原因」だけはやや性格を異にしており、これについては別に後述します)。しかし各論文の執筆年・初出年を見ると、この「総論から各論へ」という構成がクロノロジカルなものではなく、編者によって整えられたものであることがはっきりわかります。
 ことに冒頭論文「日本思想史の研究法について」(1934)の内容は、村岡が大学を卒業して最初に就職(1908)した日独郵報社の社員時代から始めた本居宣長研究の成果と、1924年に東北帝国大学法文学部教授に着任して日本思想史の講義を始めて以来10年間の経験の積み重ねとから掴み取られた独自のものとなっています。
 そこでここではこの冒頭論文に基づいて、日本思想史という学問に対する村岡の考え方をまとめておきたいと思います。

 村岡はまず思想史を「文化史の意識的方面であり、而して又、厳密な意味での学問史や哲学史の前史である」(p.12)と規定し、その中における「日本」思想史の性格を、儒教や仏教、西洋思想等の「外来の思想を摂取し、その構成要素としつゝも、その間に、何等か日本的なものを発展し来つたところ、そこに、日本思想史の目標をおかねばならぬ」(pp.13-14)としました。
 その一方で思想史の学問的性質について、その指向するところが18世紀末から19世紀にかけてドイツで成立したフィロロギイ(Philologie)すなわち文献学に近いと指摘し、文献学の学的意義として「人間の精神から産出されたもの、即ち認識されたものの認識」というベエク(アウグスト・ベック(またはベーク) August Boeckh)の言葉を挙げ、「即ちそは、訓詁注釈的の形式的語学的研究を準備として、古文献の内容、即ち思想を認識するを任務とするので、その所謂認識する思想の内容は、人間意識のあらゆる範囲に亙るにも拘らず、その認識が、あくまでも再認識たる点に於いて、哲学やその他の学問そのものとは異なる。而してその再認識、即ち認識の再現たる性質に於いて、どこまでも主観的産出とは別に、客観的再産出たるところに、その学的特質を有する」(pp.14-15) と敷衍しています。
 このように思想史の指向するところを「(他人に主観的に)認識されたものの(客観的な再)認識」であるフィロロギイにとり、研究者自身の主観的産出から峻別したところに村岡の思想史の特徴があり、文頭に紹介した前田勉の解説が村岡を「検察官型」ではなく「弁護士型」としたことも思い合わされますが、村岡は自らが考える日本思想史と性質的に共通する学問として、ドイツの文献学に加えてもう一つの学問を引き合いに出します。それは本居宣長の国学でした。
 
而してこのフィロロギイと同種の学問として、我国に於いて、独立に発達し、立派に成立を遂げたものが古学、もしくは国学であり、ベエクと相並んで、その完成者たるものが本居宣長である。本居の国学は、古語、古文を明らめて古意を明らめる文献学である。彼が本文の文頭に言及した初山踏(うひやまぶみ)のうちに、自己の学問を定義して、「古学とは、すべて後世の説にかゝはらず、何事も古書によりて、その本を考へ、上代の事をつまびらかに明らむる学問なり。」となし、さらにこの自覚のもとに、上古、中古の古典、即ち古事記や源氏物語などの研究によつて実行したところは、十分な意味で、フィロロギイと一致し、よく古典の形式的語学的研究から入つて、古典のふくむその時代の思想の闡明に至つてゐる。是に於いて、フィロロギイが、大体に於いて古代思想史であり得たとほゞ同じ意味で、国学はわが上古又中古の思想史であり得た。国学はかくて日本古代思想史てふ概念とほゞ一致する。(p.15)

 このようにドイツ文献学と並んで、彼自身が早くから研究に取り組んできた本居宣長の国学にもその成立と学的性質を負っているところに、村岡の日本思想史の特色があります。
 村岡は早稲田大学で西洋哲学を学び、1906年に卒業した後約1年間は独逸新教神学校で神学に関する英語・独語の講義を聴講しており、またルイ・オーギュスト・サバティエ『宗教哲学概論』やヴィルヘルム・ヴィンデルバント『近世哲学史』の訳業にも携わったので、これらの過程のどこかでアウグスト・ベックの文献学に触れたものと考えられます。そして日独郵報社時代に始めた本居宣長研究(当時本居宣長はほとんど知られておらず、村岡自身「本居宣長全集といふものが出たが、あれをすつかり読んで研究した人はまだないやうだと言はれたのに刺激され、一つやつてみやうと始めたわけです」と言ったという(p.416))が、著者の中でベックの文献学と化学反応を起こし、そこに村岡の日本思想史の原型が現れたのであろうと思われます。

 しかし村岡は、「けだしフィロロギイも国学も、その学問の性質上、ある古典、又古典によつて代表される個人や時代を、いはゞ一つの完結した単位と見て、寧ろ平面的に之を取扱ひ、之を内的発展の相に於いて見ることに、十分でなかつた。随つてある古典とある古典との関係に於いて、またある古典の内的関係に於いて、思想的発展を明らめるといふ点が、未だ十分でなかつた」(p.16)と指摘し、したがって宣長の国学やベックの文献学はそのままでは(日本)思想史ではあり得ず、それからさらに進んで「国学が史的文化学として完成された時、そこに日本思想史を見ることができる」(p.17)としました。
 それでは「史的文化学として完成され」るとはどういうことなのか。ここでようやく本論文の内容である「日本思想史の研究法」についての記述が現れます。すなわち「以上の如き日本思想史てふ概念の考察、殊にその具体的なる学問的指向からして、吾人はこの新しい学問の研究方法を、考へることが出来よう。即ちそは大別して二段となる。第一は文献学的段階であり、第二は史学的段階である」(pp.17-18)という二段階がそれです。つまり「与へられた資料なる文献を、正しい姿に於いて、また正しい系列に於いて、而して正しく解釈して、その文献の思想を再認識すること」(pp.22-23)が第一の「文献学的段階」であり、その正しく再認識された思想を「選択」によって歴史的に構成し、これを内的および外的条件による「発展」という観念によって完成させるのが第二の「史学的段階」です。「選択された資料について、かくの如き発展を明らめ来るとき、こゝに様々の関係のうちに一貫しつゝ展開して、最高価値即ち理想へと帰趨しゆく思想の道程が、明らかにされ、そこに思想史が成立する」(p.24)のです。
 村岡はこれに続けて「而してこゝに至ると研究者の主観的の活(はた)らきの関与する余地が、頗る多いと言はねばならぬ。けだし所謂発展は、研究者によつて考へ出されねばならない場合が多く、歴史は決して、例へば鉱脈が地中に伏在して、発掘を俟ってゐる如きものでない」(p,24)と、研究者が主体的に行う「洞察」の重要性を強調するとともに、それが「研究者の主観的の活らき」に因るものであると警告し、「しかも又歴史は、歴史たる限りに於いて、客観的妥当てふ条件が充たされねばならぬ。而してこの歴史的構成の主観性を妥当ならしむべき客観性は、いづこに求むべきかといへば、そはまた一つ一つに見ての史料に対する解釈の正当、その関係において見ての時間的系列の正当といふ如きである。資料たる文献の曲解や、その文献の間の時代的前後、また関係の有無の事実等の無視てふことは、あくまでも避けられねばならぬ」(p.24)と書いて、研究者が主体的に行わなければならない洞察といえども、必ず客観性に裏打ちされたものでなければならないという厳しさを保っています。まことに「弁護士型」の面目躍如というべきでしょう。

 上記のような特色を持った村岡の日本思想史の方法論の、少なくとも「文献学的段階」の原型は、上述のとおり著者が学生時代から携わってきた西洋哲学・西洋思想史と、大学卒業後早くから始められた本居宣長研究との交点に発生したと考えられ、したがって村岡の最初の著書である『本居宣長』の出版(1911 警醒社書店)時にはほぼできあがっていたであろうと考えられます。さらに、本書に収載されている論文のうち最も早い1915年の「復古神道に於ける幽冥観の変遷」においても、既に村岡の方法論の文献学的段階のみならず、史学的段階も兼ね備わっていることがはっきりと見て取れます。

 さて、本書には上でやや詳しく見た「日本思想史の研究法について」に続いて、総論に対する各論というべき12編の論文が収められています(前述のとおり「日本精神を論ず―敗戦の原因」は性格を異にするため、今はここに数えない)。中世の史書『愚管抄』の著作年代とその思想的特徴について述べた「愚管抄考」は現在の私の関心からはやや外れるのですが、それ以外の論文は大変興味深いものばかりで、「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」のように意表を突かれるものもありました。
 その中で私が最も興味を引かれたのは「市井の哲人司馬江漢―思想家としての司馬江漢」でした。私はこれまで洋画家としての司馬江漢しか知りませんでしたが、彼が「世俗に生きながら、山林を慕ふこと切に、名利を虚妄としながら、之に執着すること強く、諸欲を否定しながら、之を肯定するを敢へてした彼、否さういふ矛盾の自己を、さながらに意識しつゝも、必ずしも問題とはせず、否むしろ同時に両方面を主張し、更にそこに安住し得た所以には、万事をかうしたものなりと見る、自他一切に対する一種の風刺嘲詼の見地が存した」(p.233)という、誠に一筋縄ではいかない、厄介でしかも愛すべき人物であったことを示し、そうした彼の思想的内容を彼自身の生涯や時代の思潮など多方面から詳細に検討した本論文は、司馬江漢という人物に対する興味を強く掻き立てました。

 最後に「日本精神を論ず―敗戦の原因」について触れなければなりません。これは元々論文として書かれたものではなく、文末の岡村自身による注がその事情を明らかにしています。曰く
 
右は昭和廿年九月十二日同十三日の両日、東北帝国大学法文学部第一教室に於いて、学生を主として、市民をも交へた聴衆に試みた特別講義を多少整理したものである。十一月中旬、秋田県仙北郡六郷村東根の坂本正二氏の家に寓して筆を執った。

 巻末の解説によると、この特別講義は空襲のために屋根が半分ほど壊れた階段教室で行われた「日本精神を論じて敗戦の原因に及ぶ」と題する講演で、学生教職員だけでなく市民も数多く聴講しており、「憲章や襟章を外した丸腰の軍服のままの復員者の姿」も見られたそうです。また「昭和廿(20)年九月十二日同十三日の両日」とありますが、これは同一内容の講演を二回行ったのではなく、一つの講演を二日に分けて行ったもので、全体は本書で36ページを要しています。上でやや詳しく紹介した冒頭論文「日本思想史の研究法について」が22ページ分なのと比べると、論文体と講述体との違いがあるとは言え、本講演が学術論文に匹敵し得る、相当長大なものであったことがわかります。終戦後まだ一ヶ月と経たないこの時期、戦災の傷跡生々しい会場で学生や一般市民を前に村岡は何を語ったのでしょうか。
 全体は4つの章に分かれ、「一」と「二」が1日目、「三」と「四」が2日目に行われています。各章にその内容を示すようなタイトルは付いていませんが、概ね次のような内容と構成を持っています。

「一」  序言に当たり、敗戦の原因として国民精神すなわち本講演でいう「日本精神」への明瞭な認識と自覚の欠如を挙げる。いわば総括的な部分で、本章の内容は「ニ」と「三」で詳述され、「四」で再び総括される。
「二」  「日本精神」という語は当時様々な内容をこめて使われたが、本来の「日本精神」とは日本の歴史を生み出した精神であることを解明し、その内容として「国体」と「世界文化の摂取」を挙げる。
「三」  さらにそのような「日本精神」の根底をなす「国民的道義」の存在を説き、それが歴史の中で「あかき心、きよき心」「正直」「大和心、大和魂」といった形で発現してきたことを示す。また「日本精神」にはこれら道義としての普遍性とともに「動機主義的」傾向(「あかき心の潔白を、正直の無私を、大和心のうるはしさを、第一事とし、結果の如何については。之を考へるを必要とせず、むしろ敢へて之を問ふをいさぎよしとしない共通の傾向」p.403)と「感性主義的」傾向(「理性的よりはむしろ感情的であること」p.404)の二つの傾向があるとした上で、これら二つの特色を「一種の主観的性格」(p.404)として総括する。
 そしてこの「動機主義的」と「感性主義的」という特色が「或は単独的に或は相互相俟つて種々の長所や短所となって現れる」とし、その例として、特攻精神等に見られる「犠牲的精神の旺盛」、特定の理論や主義に束縛されたり拘泥せずよく大勢に応じて融通する「大乗的態度」(以上は長所としての発現)等、あるいは動機主義のあまり結果を軽視して自己の過信に陥る「独善的傾向」、殊に世界文化摂取の方面に現れる「軽信性」、主観性の反面である「客観性の蔑視や軽視」(以上は短所としての発現)等を挙げる。
「四」  以上の考察に基づき、今回の敗戦の原因の最も根本的なものは「日本精神」が独善的で客観的情勢を軽視ないし無視する短所として発現したところにあったとし、「この点からして厳密にいはば、敗戦は思想的に日本精神の自殺である」(p.408)と、敗戦の原因が歴史的に形成されてきた日本人の国民性そのものの中に胚胎していたことを指摘する。そしてこれを「日本精神の犯した若気の過ち」(p.408)と弁護しながら、「而してかかる過ちを犯さしめた原因としては、殊に指導者階級に於ける、日本精神に対する明瞭なる認識にもとづく叡智の欠乏が考えられるべく、遡つてその事あらしめた原因として、我国の学界に於ける、自国に対する真の学問的研究の未開拓や軽視が看過しえない。たとひ時局に乗じて、研究を標榜する、しかも宣伝を専らとする若干の機関などの急設は之を見たとはいへ(中略)我国に於ける自国の学問的研究の不振は、之を諸外国の同じ場合に比して、極めて著しいものがあつた。かかる専門的研究に於ける状態が、自ら国民一般や殊にその指導者たる人々の良識と叡智とに影響せざるを得ないことは明らかである」(pp.408-409)と述べて、日本の文化や歴史に現れた日本人独特の思想内容やその傾向に対する研究や認識の不足と、日本人自身がそうした研究を軽視したことを、日本思想史の研究者としての自らの非力を含めて厳しく断罪した。
 最後に「我々に課せられた新日本の建設」について、「国体のうちに世界文化を摂取して新たなる日本文化を創造して、以て世界に貢献するといふ、我々が歴史的大道を勇ましく進行する以外に存しない」(p.409)とし、具体的には日本精神、つまり「国体」と「世界文化の摂取」に基いた日本独自の民主主義の実現を挙げる。それは外国(具体的には当時日本を占領統治したアメリカ)の民主主義そのままの輸入ではアメリカの植民地になるに過ぎず、それは「真に世界文化に貢献する所以」ではないからで、「たとひ武装は解除されたとはいへ、道義に於いて、その他一切に於いて、独特の内容を有する美しい文化国となつて廃墟に立揚(たちあが)ることこそは、新しい日本のフェニックスの輝かしい任務である」(p.411)と将来の日本を予祝し、「新時代を背負つて立つべき学生諸君」に対して「諸君よ、男らしく敗戦の事実を認識して、あくまでも謙抑なれ。しかも十分に自重、いやしくも卑屈なることなかれ」(p.412)と呼びかけて2日間にわたった講演を締めくくる。

 以上、長くなってしまいましたが本講演の私なりの要約は以上です。
 村岡はこの講演の半年後、1946年3月30日に東北帝国大学を定年退官し、そのわずか2週間後の4月13日に61歳で亡くなるので、村岡の最晩年に、その永年にわたる研究の積み重ねを眼前の時局に適用してなされたこの講演は随所に inspiring かつ suggestive な議論や言詮があって、いろいろと考えさせられました。
 たとえば、私たち「戦争を知らない子供たち」が受けてきた戦後教育では、本講演中に頻繁に出てくる「国体」という語に「国民体育大会」以外の意味があったなんてことは露知らぬままに一生を終えることが予定されているらしく、私自身も当時の国体観念については『國體の本義』(文部省思想局 1937)の冒頭の定義「大日本帝國は、萬世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の國體である。而してこの大義に基づき、一大家族國家として億兆一心聖旨を奉體して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が國體の精華とするところである。」以上の理解は今のところないのですが、村岡が本講演の「四」の中で「吾人はまづ国体と民主主義の両者は、本質的に決して互ひに矛盾し、背反すべきものでないことを認識し、また互ひに矛盾し背反せしめざるやうに、調和せしむることを為さなければならぬ」(p.410)、つまり天皇制と民主主義は矛盾しない / させないという、日本国憲法(1947)を先取りするかのような見解を披露していることに打たれます。本講演が行われた1945年9月12日・13日の時点では国体の護持=天皇の地位の存続の可否は全く不明でしたが、著者は旧権力体制の維持や政治的な意図からは全く離れた立場から「「日本精神」、その中核になる天皇崇拝の観念」(「解説」p.435)の存続の必要を主張したのでした。
 その他にも戦前・戦中の諸情勢に対する怒りや問題点の指摘、ことに「ただ戦争遂行の目的の為に、自然科学を尊重して精神科学方面の真理の探求を軽視し、無視した当局をはじめ世情の大勢」(p.380)への危惧など、また「三」で展開されている「動機主義的」および「感性主義的」傾向の短所としての発現など、今日にも通じる問題意識が随所に感じとられ、大変に内容豊かで示唆に富む一編でありました。
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