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最近読んだ本:『山の思想史』(三田博雄・著 1973 岩波新書(青版)860 F104)
 書名からは、山に関する思想、つまり山というものがどのように考えられてきたかに関する通史かと思われそうですが、次に掲げる目次を見るとわかるとおり、本書は「I なぜ山へ登る」に続いて山に関係の深い人々9人を取り上げ、その各人の山に対する向き合い方とその遍歴を追ったものです。

I     なぜ山へ登る
II  北村透谷
III   志賀重昂
IV   木暮理汰郎
V    武田久吉
VI   田部重治
VII  大島亮吉
VIII 加藤文太郎
IX   高村光太郎
X    今西錦司
あとがき

  II 以下は各章で取り上げられている人の名前がそのまま出ていて内容が容易に想像されますが、I だけは人名ではなく「なぜ山へ登る」という総論めいたタイトルがつけられています。この章は『若きウェルテルの悩み』や多くの文学作品を書く一方で官僚として鉱山経営の事務等を取り仕切り、また自然科学の研究にも取り組んだゲーテを取り上げながら、本書の全体を通底する「科学技術と人の心とのそれぞれに宿るデーモンの克服」という基調を設定した章なのです。つまり II 以下の各章が本書の本論に当たりますが、「I なぜ山へ登る」の章は II 以下で扱う人々の人選やその取り上げ方といった本書の基調を定めた章でもあり、また論の進め方が私にはやや難解でもあったので、自分自身の復習を兼ねてここに紹介しておこうと思います。
 筆者はまずゲーテの詩「さすらい人の夜の歌」の一節を示した後、本文を次のように始めています(なお詩は改行されていますが、ここではスペースの節約のため改行位置を「 / 」で示してベタで打ちます)。
 
山々の頂に / 憩いあり、 / 木々の梢に / 風のそよぎの / けはいもなく / 森に小鳥も黙(もだ)しぬ。 / 待てよしばし、やがて / 汝れも憩わん。
 
 ヨーロッパの近代は科学技術の成立と、山登りでもってはじまる―レオナルト・ダ・ヴィンチの生涯が示しているように。
 そしてジェームズ・ワットの蒸気機関の完成、カートライトの力織機の発明と、アルプスの最高峰モン・ブラン(4807m)の初登頂(1786年8月7日)とは、同時であった。それはいずれも―科学技術も、山登りも、人間のデモーニッシュな活動の両極を代表しているからである。(pp.1-2)

 私は残念ながらダ・ヴィンチの生涯と科学技術の成立と山登りとの関連を示すエピソードを知りませんが、産業革命の立役者である蒸気機関及び力織機の完成・発明とモンブランの初登頂が、単に時期を同じくしてなされただけでなく、いずれも「人間のデモーニッシュな活動」によってなされたという主張は、私にはいささか耳新しいものでした。
 著者はこの宣言の後、冒頭に引用した「さすらい人の夜の歌」の作者であるゲーテに光を当て、「ゲーテの内面では、この山の歌と『ファウスト』第二部の終幕の場面(11557.l. ff)とが、たがいに呼応しあっていた」と書き、『ファウスト』の当該場面を引きます。
 
メフィスト (声をやや低くして)こっちの受けた報告は、掘割(Graben)のことではなくて、墓掘り(Grab)のことですがね。
ファウスト (モノローグ)山のふもとに沼沢地があって、その毒気が
せっかく拓(ひら)いた土地に大きな害をあたえている。
あの汚水のはけ口をつけるのが、
最後の仕事で、最大の仕事なのだ。
(引用は中略)
おれはそのような人間の、みごとな共同社会をながめながら、
自由の民と自由な土地に住みたい。
おれはかかる瞬間にむかって、
「まあ、待て。おまえは実に美しい」と叫びたい。
おれのこの世に残した痕(あと)は、もはや
永劫を経ても滅びはせぬ。
そうした高い幸福を予感して、
おれは最高の瞬間を味わうのだ。
(ファウスト、後ろに倒れる。死霊どもがそれを受けとめて、地上に横たえる)

開発の Graben が人類の Grab につながるというのが、ゲーテ生涯の制作の最大のテーマであったのである。(pp.3-5)

 これに続いて量子力学の創始者として知られるウェルナー・ハイゼンベルクの「ゲーテはこの面[自然科学の技術的応用]でもまた、恐怖をはらいのけることができませんでした。つまり悪魔はそこで戯れの手を動かしているのではないかという恐怖であります。『ファウスト』の終幕で、活動的生活の富が、フィレーモンとバウチス夫婦の虐殺で、背理へ逆転してゆきます。悪魔の手が直接見えないようなところでもまたやはり、出来ごとは、悪魔のはたらきによっておびやかされます。ゲーテが認識していたのは、技術と自然科学との結合によるこの世の進歩的変革は阻止さるべくもなかったということであります」(pp.5-6)という発言等が紹介され、まずゲーテが科学技術の中に悪魔=デーモンの手を見ていたことが示されます。

 続いて著者は次のように続けます。ここは改行のみで節として切られていないため、一見次の節への推移部のように見えますが、実質的には話題が「科学技術とデーモン」から「人間とデーモン」へと切り替わる、一種の分水嶺となっています。
 
 ゲーテはデモーニッシュな人間についてたびたび語ったが、その原型はナポレオンであったらしい。フランス革命の前後に多くのデモーニッシュな人間が輩出した。彼らは自ら意識することなしに、彼の内なるデーモンに駆りたてられ、いわばメフィストに助けられたファウストのように、万事好運にめぐまれて、いとも易々と彼に課せられた世界史的使命なるものを達成する。いったんその使命が成就されるや、デーモンはその人間を見棄ててしまう。こうして無力となった彼には、もはや英雄的に没落する運命しか残らない。(中略)これらの同時代のデモーニッシュな人間たちのなかで、劇的な没落の運命を免れた唯一の例外は、ひとりゲーテあるのみであった。
 シュテファン・ツヴァイクは『デーモンとの闘争』(みすず書房、昭44)で、そのように論じ、それらのデモーニッシュな人間たちとゲーテとの違いをこう結論する。すなわち、彼らはいずれもデーモンに駆りたてられるデーモンの下僕にすぎなかったが、ゲーテだけはデーモンと格闘し、デーモンを組み伏せて、ついにデーモンの主人になることができたと。
デーモンの棲家は、ヨーロッパでは「山」ときまっているから、われわれも山に入らなければならない。(pp.7-8)

 こうして論点は「科学技術とデーモン」から「人間とデーモン」に移り、その舞台として「山」が設定されます。つまりこの直前まで『山の思想史』という書名とは全く関係のない話題を展開していた本章は、これまでの主役であったゲーテをそのまま媒介にしながら話題を転換し、ここでようやく「山」及び「思想」との関係を結ぶのです。この部分の論の進め方は論理的な展開というより飛躍に近く、先ほどの「分水嶺」が段落としてではなくただの改行扱いでぼかされていることと合わせて、やや難解で唐突。私は強引ながらみごとに飛び移られた綱渡りのような印象を受けました。
 ここからは『若きウェルテルの悩み』というデモーニッシュな小説を書いた、すなわちその時点ではツヴァイクの言う「デーモンの下僕」であったゲーテが、詩「冬のハルツ紀行」の旅とブロッケン山登頂の経験によってその疾風怒濤的な激情の嵐を克服し、ついにデーモンの主人となるに至ったことについての記述が続き、最後は次のように本章を結びます。
 
(略)このようにしてかつての「死にいたる病」を胸に抱いた青年ゲーテは、ワイマール前期十年余の間に「生きた自然」の観察者、つまりエコロジーの創始者の一人に成長してゆくのである。
 われわれの科学技術に乗り移っているデーモンを克服するには、やはりゲーテのように、自分の足で雪山に攀じ登り、自分の感覚で自然を体験するよりほか途がないのではなかろうか。(p.22)

 以上、長々と引用しましたが、要するに本書全体の序章にあたる「I なぜ山へ登る」では、「科学技術とデーモン」「人間とデーモン」「それらデーモンの克服」といった視点が示されます。そして次章以下の各章ではそれぞれ個々の人物を取り上げながら、同時に上に掲げた視点の一つ、または複数が、あるときはあからさまに、あるときは影が形に添うようにさりげなく見え隠れしながら、本書を単なる登山家紹介に終わらせないまとまりをもたらしています。つまり本書全体は「I なぜ山へ登る」で示された「デーモンの克服」というグラウンド・バスとその上に展開される9つの変奏から成る、一種のパッサカリアないしシャコンヌのような構成を取っているといえるでしょう。そして各変奏がデーモンの克服に成功した長調のものか、あるいはそれに失敗した短調のものなのかは、読んでのお楽しみ。
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