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最近読んだ本:『日本人の音楽教育』(ロナルド・カヴァイエ 西山志風(にしやま・しふ) 1987 新潮選書)
 裏表紙側のカバーに音楽評論家の遠山一行(とおやま・かずゆき)氏の短評が載っているので、そこから引用します。
 
(前略)イギリスから音楽学校の教師として我が国に来た若いピアニストであるカヴァイエさんは、自分の眼にうつった光景を率直に語っている。それは、日本の音楽家たちにもある意味ではわかっていることだが、状況は変わらずに進んでゆく。私はこの本を、むしろ、自分の子供にピアノを習わせるお母様たちに読んでいただきたいと思う。音楽教育、ピアノ教育についての具体的な―そして有益な―指針も少なくないが、何よりもカヴァイエさんのもった素朴なおどろきや疑問や忠告を成心なく受け入れて状況を変革する力は―専門家よりも―そうした人々の手のなかにあるとおもうからである。

 遠山氏の文中に「若い」とありますが、略歴によるとカヴァイエ氏は出版時に36歳。ウィンチェスター音楽院を経て王立音楽院(RCM:Royal Collage of Music。英国には「王立音楽院」と訳される教育機関が二つある。もう一つはRAM:Royal Academy of Music)を修了後、ハノーヴァー音楽大学、リスト音楽院で学び、武蔵野音楽大学の招きで1979年にやはりピアニストである夫人のヴァレリア・セルヴァンスキーさんとともに来日し、1986年帰英とのこと。本書は言語学者の西山志風(にしやま・しふ)氏とカヴァイエ氏の対談という体裁をとっていますが、実際には1984年4月から1985年11月にかけて10回にわたって行われた対話(1回あたり約2時間)をもとに、その後の質疑や追加の対話、カヴァイエ氏の帰英後の文通等によって補足・編集して対談の形にまとめられたものだそうです。

 本書の目次は次のとおり。本書は目次だけで5ページとっていますが、これは章立てだけでなく文中の小見出しまで拾っているためで、この小見出しが詳細につけられているので、本書のおおよその内容を知ることができます(その分長いのでご注意!)。
序章 日本の音楽事情
高度成長する日本における「西洋音楽」/日本は音楽大国か?

第一章 「音楽する」ということ

第二章 子供とピアノ教育
 音楽にかかわる初心
入門前にピアノは適切か/まず歌うこと、そしてリコーダーに親しむ/音楽的な環境づくり/楽譜を読むことと自由な音楽表現
 絶対音感について
絶対音感は必要か/音楽的に「良い耳」とは/イギリスの場合
 ピアノを始める年齢
六歳以下の子供には無理?/十一歳で初めてピアノにふれたカヴァイエ
 テクニックについて
テクニックと音楽との関係/「ナチュラル・テクニック」とは/テクニックと教材の問題/筋肉の運動についての正しい科学的知識/親指の第一関節はどこ?
 ヨーロッパ文化の理解の重要性
西洋音楽の本質とヨーロッパ文化/「ダンテソナタ」を弾いても『神曲』は読んだことがない・・・/指揮者チェリビダッケの言葉から/日本人の子供にとって遠い存在の西洋文化/あるピアノ科教授いわく「わたしは室内楽がきらいです」
 初心者のテキストについて
「バイエル」使用は日本だけという不思議/良いテキストとは/「メトード・ローズ」の問題点/クルタークの「遊び」とルンツェの教則本(その現代性!)/子供にさまざまな試みと体験を/「ハノン」の間違った練習法/「ツェルニー」は三流の音楽作品?/シューマンの忠告
 練習する子供にとってもっとも大切なことは?
ピアノを弾くことが片時も義務・労苦であってはならない/どこまでも芸術行為としてのみピアノに向かうべし/「子供に芸術を教える」ということについて/子供にとって最良の教師とは

第三章 音楽教育とメソッドについて
 鈴木メソッドについて
鈴木メソッドの二つの側面/母国語を話すがごとくだれでも楽器を演奏することができるか?/モデル演奏のコピーは妥当な方法か?/あまりにも単純なメソッド/早期器楽教育は必要か?/ひとつのこころ(「こころ」に傍点)か、それともひとつの機械(「機械」に傍点)か?/日本の伝統音楽の学習方法
 コダーイ・メソッドについて
「コダーイ・メソッド」の理念/こころで歌うこと/音楽家としての基礎能力/なんのための耳の訓練?
 「音楽的テクニック」の意味
「はじめはテクニックだけの練習を、あとで楽曲を」?/真の音楽的テクニックとは/千代の富士はピアノで大きな音が出せるか?/アレキザンダー・テクニックについて/ピアニストは顎(あご)に気をつけよ/辛抱強い日本の子供たち

第四章 音楽を聴く能力について
 日本の聴衆について
一般にクールな、演奏会の聴衆/声をたてて泣く歌舞伎の観客/音楽的教養不足/ホロヴィッツの東京でのリサイタル
 音楽的に大切な側面を聴く能力の欠如
鋭敏な耳―洗練された聴覚/「娘道成寺」における舞いの識別能力/技巧面に安易に感動する若い音楽学生たち/甦るロマンチック・スタイルの演奏―偉大なピアニストたち/サロンのフィーリングの種火と西洋文化の伝統/「聴く能力」のための教育は可能か?/再び“文化の壁”を前にして
 演奏会の意義はどこに?
なんのためのリサイタル?/陳腐な曲目/聴衆の質の多様性

第五章 音楽コンクールについて
 芸術家の人工的な製造
コンクール好きの日本人/短期間だけのコンサート・ピアニスト/政治的な審査(ばかげたコンクール)/巨大な音楽産業に利用され、つぶされる入賞者たち
 コンクールの年齢制限
偉大な芸術作品に対する侮辱/歌舞伎の場合/音楽における真の競争とは?

第六章 これでいいのか日本の音楽大学
 学内試験
音楽を点数で評価するナンセンス/曲の途中で「ストップ」をかける/音楽試験の審査の欠陥/試験がビッグ・ニュースになる日本社会/ペダルの使用を禁じた試験!?/シューマン、ショパンだらけの学内試験/シュトックハウゼンを学内試験で弾いてみては?
 学生について
おそろしいほど狭いレパートリー/試験からのプレッシャー/オペラを観ようともしないピアノ科学生/芸術的意欲と関心の欠如/西洋文化に関する広い教養と知識を!/だれでもチェンバロや古い時代のピアノにふれることのできる機会を!
 カリキュラムに大改革を
第二楽器・ピアノ以外の鍵盤楽器習得の重要性/「伴奏コース」「デュエットの講座」の充実を/体系的な音楽教授法の講座の必要性
 入学試験について
将来性、音楽性よりも技巧の審査か?/イギリスの場合/ギルドホール・スクールでの入試体験/冷淡な、非人間的な試験場の雰囲気
 教師の質について
古参教授の受けた教育水準―ドイツの二流ピアニストの下で?/まだまだ水準の低い日本の音楽大学/「日本の音楽大学は完全に凍りついている!」/留学帰りの若手教授陣の力不足/演奏活動を停止したピアノ科教授たち
 理想的なアカデミアを求めて
凍りついていない、柔軟なシステム/教師と学生とのあいだの大人のコニュニケーションの必要性

結びにかえて
楽曲に対する深い分析と総合的把握/日本人にとってあまりに遠い存在―「サラバンド」/ピアニストはまずなによりも音楽家であれ/現代音楽メディアの危険性

あとがき

 目次は以上です。
 本書を読む上で、まず本書が書かれ出版されたのが昭和62(1987)年、すなわち今から約30年、少なくとも四半世紀以上、一世代前であることに注意すべきでしょう。現在では日本のクラシック音楽界も社会全般も、ある面では大きく変わりある面ではほとんど変わらず、したがって本書の指摘も現在にそのまま当てはまるものもあり、当てはまらないものもあります。ただ全般的に本書の内容はカヴァイエ氏自身の体験や信条に基く具体的で真摯な考察や指摘であるため、皮相な観察や単なる好悪、情緒的な自己正当化など、ともすると大脳まで到達しない脊髄反射みたいなものを垂れ流す、うんざりするような「ココがダメだよ日本人!」的なものに堕することは免れていますし、その指摘のうちには聞くべきものも少なからずあります。
 ただ本書があくまでもヨーロッパ文化を至上とする視点で書かれているのに対して、現在の社会は文化を含めて多様性に価値を置くように変わってきていることから、この点ではやや狭量で固陋な印象を受けます(だからといってヨーロッパ文化に対する教養や知識が不要になったわけではありませんが)。
 また本書は対談という体裁をとっていますが、内容は対話をもとに補足・編集されたものであり、したがってこのとおりの対談が実際に行われたわけではありません。そのためあちこちに西山氏による「まとめ的な発言」が入るのですが、この実際に発話されていない「まとめ的な発言」を対話らしい体裁に整える上で、「(です)」という語尾がしばしば連続して用いられています。しかし「〜は〜ですね」「そして〜は〜なのですね」「しかし〜は〜ですね」といった具合に「(です)」が連続する、いわばたたみかけるような調子は、文章で読むと不自然で、気にならない方は気にならないのでしょうが私は違和感を感じました。対談という体裁は親しみやすさという点ではよいのですが、全編を対談の形にせず、内容によっては文章の形式を使い分けた方がよかったのではないかと思いました。
 またこの「まとめ的な発言」に、時々西山氏の「出しゃばり」的な内容が入るのも不快でした。たとえば次のような箇所があります。
 
(「―」はカヴァイエ氏の発言を示す)ここでの問題はこうです。もし「サラバンド」なるものを一度も聞いたことのないひとが、どうして「サラバンド」を弾くことができるでしょうか。わたしは、日本人と「サラバンド」との関係ほど遠い関係はない、と思っています。じつは「サラバンド」はわたしのような西洋人にとっても、かなり遠い存在なのですよ。(中略)
(「♪」は西山氏の発言を示す)たしかに、「サラバンド」の舞踏の光景を頭に描いて、その雰囲気を感じながら演奏するなんてことはだれも容易にはできませんものね。そして「サラバンド」にかぎらず、「アルマンド」も「ジーグ」も「クーラント」も「ガヴォット」も「メヌエット」もわたしたち日本人がその実際の舞踏に接する機会はまずありませんね。そして、「パスピエ」「パッサカリア」となるとどんな宮廷舞踊なのか想像できる日本人はまずいないと思います。
じつは、こんにちのヨーロッパ人にとってさえ、その種の舞踏に接する機会はほとんどありません。ですけれど、先日、ウィーン古典舞踊団が来日し、東京ですばらしいコンサートを開きましたね。そこでは「サラバンド」「メヌエット」「ガヴォット」「クーラント」「アルマンド」「ジーグ」「ブーレ」などの古典舞踊を専門家が演じてみせてくれました。(後略 pp.245-246)

 私が思うに、西山氏の発言のうち「そして、「パスピエ」「パッサカリア」となると」以下は完全に余計です。なぜならこれに続くカヴェイエ氏の発言には、いやそれだけでなく本書の最後まで、「パスピエ」「パッサカリア」は二度と出てこないのです。おそらく「パスピエ」は J.S.バッハの管弦楽組曲第1番やドビュッシーの「ベルガマスク組曲」で、また「パッサカリア」は J.S.バッハのオルガン曲「パッサカリアとフーガ」などで耳にする名前だけど、実は両方とも元々は宮廷舞踊なのだよ、という西山氏の、よく取れば親切心、悪く取ればただの知識自慢に過ぎず、いずれにしてもここには余計です。さらにこの前後で問題になっている「サラバンド」だって、本書の内容的には「日本の学生は曲に取り組む際の下準備が足りない」ということを示す一例として持ち出されたに過ぎないので、西山氏の発言の「そして「サラバンド」にかぎらず」以下も、本来は不要なのです。ここで古典舞曲をずらずら列挙し、あまつさえ「パスピエ」はまだしも、後期バロックでは舞曲性を失い変奏曲の一様式として認識されていた「パッサカリア」までも舞曲の例として持ち出すのは、読者の注意を話の筋からそらすだけで、百害あって一利なし。こんなところで実用にほど遠い知識をひけらかすなんて自己満足に過ぎません(←うわ〜厭味〜 ^^;;)。

 私はピアノやヴァイオリンなどのお稽古ごともしていないし、小・中・高校の授業以外の音楽の教育としては大学1年での「西洋音楽史」(担当:故・中村洪介教授)しか受けたことがないので、本書の音楽教育に関する内容には驚くことや新鮮なことがけっこうありましたし、第四章の「音楽を聴く能力」に関する内容には反発を覚える点もありましたが興味深い指摘もありました。とはいえ、本書がこのままこのとおりに現在に通用する内容ばかりでないのは上述のとおり。古書で300円(税込)で購入したので、モトは取ったかな。
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