2016.02.16 Tuesday
最近読んだ本:『音楽の鑑賞 ―職場の音楽アルバム解説―』(文部省社会教育局 昭和25(1950))
本書によると、戦後復興が一段落したかと思われる昭和25(1950)年、国が労働者教育の一環としてレコードアルバムを企画・作成し、労働組合を通じて各会社に配ったことがあったというのです。そんなことがあったとは私は全く知りませんでしたし、ネット上をちょっと探してみましたがこれに関する情報は見当たらず、文科省のHPで公開されている「学制百年史」にもこれに関する記述はありませんでした。埋もれた歴史発掘か?
本書の「序」に本書出版の事情が説明されているので、まずはこれを引用します。
1950年といえば、それに伴う戦争特需がその後の高度経済成長の基盤となったともいわれる朝鮮戦争(1950〜1953、現在休戦中)の始まった年。日本はまだ連合国軍の占領統治下にあり、この年には連合国軍最高司令官マッカーサーの要請により警察予備隊(後に保安隊を経て陸上自衛隊に改組)が発足、第1回さっぽろ雪まつり開催、2リーグ制となったプロ野球で初の日本シリーズ開催(毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)が優勝)、「サントリーオールド」「江戸むらさき」発売、池田勇人蔵相(当時)の「貧乏人は麦を食え」発言等がありました。
ところでネット上の資料によると、この年のレコード(SP盤)の価格は170円、人事院の「国家公務員の初任給の変遷(行政職俸給表(一))によると、大卒程度に相当する六級職の初任給は昭和24年4月から昭和25年12月までは4,233円でした。つまり当時のSPレコードは大卒の初任給を全部つぎ込んでも25枚は買えなかったわけです。現在ではどうかと見てみると、先ほどの人事院資料では平成27年度の大卒初任給は総合職181,200円、一般職176,700円ですから、CD1枚を1,800円とすると100枚くらい買えそうです。しかもSP盤は片面3分からせいぜい5分程度、両面でその倍ですから、大卒初任給をつぎ込んで25枚買ったって演奏時間は最大250分程度で、CDなら3〜4枚分に過ぎません。当時のレコードというのは大変高価なものだったのです。
そのような高価なレコードをこの時期に、しかもこのときに配布した第一集で22面すなわち11枚組のアルバムにして配布した理由や経緯は本書からは詳しくはわかりませんが、GHQ(連合国軍総司令部)の指導とともに、国民精神総動員運動や敵性音楽(=米英の音楽、特にジャズや軽音楽)の禁止への反省と反動、また戦後怒涛の勢いで無秩序的に流入したであろう娯楽音楽の当時の社会に対する影響への懸念等が考えられます。組合組織を通して配布したというのも異例で、GHQの指導や当時の労働運動の状況(この年にGHQの主導で、労働組合のナショナルセンターとして反共色の強い「総評」(日本労働組合総評議会)が結成される)との関連があったのでしょうか。とにかく1950年はまだ連合国軍の占領下ですから、現在では考えられないような政策も行われ得たもののようです。
本書の「第四章 職場の音楽アルバムの構想」には、この職場の音楽アルバムの構想について次のように述べられています。
「全体で5回、60枚くらい」とはお金の面でも時間・労力の面でもけっこうな規模と言えるでしょう。しかもここに言う「音楽鑑賞の教科課程」は後で見る通り、中世から20世紀までのクラシック音楽、世界の民謡、映画音楽やダンス音楽等までを網羅し非常に広い範囲に開かれた、今日見ても立派なものであると思います。ただ実際にこのアルバムが完結したのかどうかは、今のところ私は確認できていないのですが。
本書はB6判、上に示した「序」と目次等を除いた本文123ページの冊子で、内容は音楽鑑賞の意義とその方法について述べる「前編 音楽鑑賞の手引き」と、配布した職場の音楽アルバムの構成と曲の解説等について述べる「後編 職場の音楽アルバムの解説」の二部構成。参考のために目次と小見出しを示します。
本書の「序」に本書出版の事情が説明されているので、まずはこれを引用します。
序
今日では音楽は、あらゆる階層をとわず生活の一部となつているが、終戦後現在にいたるまで、外来の音楽をほとんど無批判、無反省に取り入れた結果、音楽自体のもついろいろな特色が曲解せられて、低給な面に特に強い影響を与えてきている。
そこで文部省においては、本省に設置されてある労働者教育分科審議会でこの問題について、協議した結果、労働者に対して、より健全な音楽を与え、その教養を高める一助として、さきに職場の音楽レコードアルバムを編集し、これを組合組織を通して全国的に配布した。
そしてさらにこのレコードの曲目その他についての解説と、音楽の鑑賞について、本書を作成して広く頒布することとした次第である。
昭和二十五年七月
文部省社会教育局
※文中の「なつているが」「低給な」は原文のままそこで文部省においては、本省に設置されてある労働者教育分科審議会でこの問題について、協議した結果、労働者に対して、より健全な音楽を与え、その教養を高める一助として、さきに職場の音楽レコードアルバムを編集し、これを組合組織を通して全国的に配布した。
そしてさらにこのレコードの曲目その他についての解説と、音楽の鑑賞について、本書を作成して広く頒布することとした次第である。
昭和二十五年七月
文部省社会教育局
1950年といえば、それに伴う戦争特需がその後の高度経済成長の基盤となったともいわれる朝鮮戦争(1950〜1953、現在休戦中)の始まった年。日本はまだ連合国軍の占領統治下にあり、この年には連合国軍最高司令官マッカーサーの要請により警察予備隊(後に保安隊を経て陸上自衛隊に改組)が発足、第1回さっぽろ雪まつり開催、2リーグ制となったプロ野球で初の日本シリーズ開催(毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)が優勝)、「サントリーオールド」「江戸むらさき」発売、池田勇人蔵相(当時)の「貧乏人は麦を食え」発言等がありました。
ところでネット上の資料によると、この年のレコード(SP盤)の価格は170円、人事院の「国家公務員の初任給の変遷(行政職俸給表(一))によると、大卒程度に相当する六級職の初任給は昭和24年4月から昭和25年12月までは4,233円でした。つまり当時のSPレコードは大卒の初任給を全部つぎ込んでも25枚は買えなかったわけです。現在ではどうかと見てみると、先ほどの人事院資料では平成27年度の大卒初任給は総合職181,200円、一般職176,700円ですから、CD1枚を1,800円とすると100枚くらい買えそうです。しかもSP盤は片面3分からせいぜい5分程度、両面でその倍ですから、大卒初任給をつぎ込んで25枚買ったって演奏時間は最大250分程度で、CDなら3〜4枚分に過ぎません。当時のレコードというのは大変高価なものだったのです。
そのような高価なレコードをこの時期に、しかもこのときに配布した第一集で22面すなわち11枚組のアルバムにして配布した理由や経緯は本書からは詳しくはわかりませんが、GHQ(連合国軍総司令部)の指導とともに、国民精神総動員運動や敵性音楽(=米英の音楽、特にジャズや軽音楽)の禁止への反省と反動、また戦後怒涛の勢いで無秩序的に流入したであろう娯楽音楽の当時の社会に対する影響への懸念等が考えられます。組合組織を通して配布したというのも異例で、GHQの指導や当時の労働運動の状況(この年にGHQの主導で、労働組合のナショナルセンターとして反共色の強い「総評」(日本労働組合総評議会)が結成される)との関連があったのでしょうか。とにかく1950年はまだ連合国軍の占領下ですから、現在では考えられないような政策も行われ得たもののようです。
本書の「第四章 職場の音楽アルバムの構想」には、この職場の音楽アルバムの構想について次のように述べられています。
今度皆さんの音楽鑑賞力を向上させるため職場の音楽アルバムが編集されることになりました。そこで実際の音楽家や労働組合の人々が集まって委員会を作り、音楽アルバムを編集する基礎となるべき、音楽鑑賞の教科課程を作成し、それに基いてレコードの編集もすることとしました。わたくしたちは何回も会合して案を練り、ようやく教科課程とそれに基くアルバムの内容を決定したのです。したがってこのアルバムは一回だけで終ってしまうものではなく、全体で五回位にわたって刊行され、全部では六十枚くらいのものになる予定です。(以下略)
「全体で5回、60枚くらい」とはお金の面でも時間・労力の面でもけっこうな規模と言えるでしょう。しかもここに言う「音楽鑑賞の教科課程」は後で見る通り、中世から20世紀までのクラシック音楽、世界の民謡、映画音楽やダンス音楽等までを網羅し非常に広い範囲に開かれた、今日見ても立派なものであると思います。ただ実際にこのアルバムが完結したのかどうかは、今のところ私は確認できていないのですが。
本書はB6判、上に示した「序」と目次等を除いた本文123ページの冊子で、内容は音楽鑑賞の意義とその方法について述べる「前編 音楽鑑賞の手引き」と、配布した職場の音楽アルバムの構成と曲の解説等について述べる「後編 職場の音楽アルバムの解説」の二部構成。参考のために目次と小見出しを示します。
序
前編 音楽鑑賞の手引き
第一章 音楽はどうして作られるか
第四章 職場の音楽アルバムの構想
上に見られる通り、前編は音楽と社会との関係も視野に入れつつ音楽鑑賞の意義と望ましい態度を説き、後編の第四章は「職場の音楽アルバム」の全体像をカリキュラムの形で示しています。ここまでがいわば「職場の音楽アルバム」の総説に当たる部分です。これに続く第五・第六・第七・第八の各章はこのときに配布された音楽アルバム第一集全11枚でカバーしている分野の概説と、収録された各曲への解説となっています。
総説部分はもっぱら鑑賞を事とする好楽家が一通り心得ておくべき内容を網羅しており、特に前編の各章末に「討論の問題」が置かれているところを見ると、たとえば就業時間後に従業員が集まって、講師を選んで本書を講述するなり担当を決めて輪読するなりして座学を行った後に、全体でまたは小グループに分かれて「討論の問題」について討議するといった利用方法が考えられていたのかも知れません。本文の内容も「討論の問題」もかなり手応えのあるもので、音楽にあまり興味のない人にはけっこう負担になりそうです。少なくとも「仕事帰りにちょっと寄って音楽でも聞いてくか」といった雰囲気ではありません。労働者には就業時間後にもこれをがっちりやらせて、組合活動や労働運動に取り組むエネルギーを消耗・発散させるのが狙いか?・・・などと勘ぐってしまいます(笑)。
また第四章で提示されている音楽鑑賞カリキュラムは、音楽史を縦軸に、音楽の種類やジャンルを横軸にとったマトリックス状のもので、この時期一般労働者を対象にこれほど広範囲で系統立ったカリキュラムが構想されていたことに驚きました。せっかくですので、ここに紹介しておきましょう。
単元1 音楽の歴史的変遷
以上のとおり時代的には中世・ルネッサンスから現代まで(ただしカリキュラムの編成上は時代順ではなく「わたくしたちの現在の生活のうちで比較的触れる機会の多い時代の音楽から始め、最もなじみのない時代の音楽を最後に持っていくという方針」によって配列されている)、ジャンル的にはクラシック偏重ではありますがワールドミュージックやポップスにも目配りされていて、相当意欲的なものといえるのではないでしょうか。もっとも1950年という時期に中世・ルネッサンスの音楽やワールドミュージック系の音源がどれほど入手可能であったのか、現実性という点では疑問符がつきますが、少なくとも計画としてはなかなか行き届いたものであったと思います。
第四章の末尾には第一集に収録された曲目と演奏者その他の一覧表が載っていますので、見やすくするために漢数字をアラビア数字にした以外は、誤植や脱落も含めてできるだけ当時の表記のまま転載しておきます(左表)。なお(◯◯担当)の◯◯はレコード会社(第4単元の「テイチク」も同じ)、「12インチ」「10イ ンチ」はSP盤の直径で、12インチ盤(直径約30cm)は片面収録時間が約5分、10インチ盤(直径約25cm)は片面収録時間が約3分でした。
<ワルター / ニューヨーク・フィルやメンゲルベルク / コンセルトヘボウ、ストコフスキー / フィラデルフィアといった名指揮者と有名オーケストラ、戦前にベートーヴェンの弦楽四重奏曲を全曲録音した唯一の弦楽四重奏団であったハンガリーの名門レナーSQ、決定盤とうたわれたヒュッシュの「冬の旅」からの「菩提樹」やショパンの故国ポーランドの首相もつとめたパデレフスキーが弾くショパンなど、一曲一曲は短いが内容は濃い。当時の表記はナカグロ(「・」)を使わず読点(「、」)を使っていたのですね。>
しかしこの意欲的で、「全体で5回、60枚くらい」というこの時代にしては壮大と言ってもよいこの計画は、はたしてこのカリキュラムどおり運営され完結したのでしょうか。少なくとも本書発刊のタイミングで配布された第一集のアルバムからは、上に見るとおり「単元2 世界の音楽」は省かれています。
本書の「序」の日付の2年後の1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効して日本は主権を回復し、GHQによる占領が終わります。占領統治下で発足したこの計画が占領期間中にまたは占領終了後にまでまたがって完了したのか、あるいは占領終了とともにこの計画も雲散霧消したものか、今のところいずれともわかりません。
なお本書には編集上の不備や誤植・校正不足の箇所が多く見られます。たとえば上に引用した「討論の問題」を見ると、第一章・第二章では「で・ある・だ」調であるのに第三章のそれは「です・ます」調で統一がとれていませんし、促音の表記に「っ」「つ」が混用されていたり、「(〜して)見ましょう」と「(〜して)みましょう」が混用されていたりします。小見出しも第二章で「音楽を楽しむ」「音楽を理解する。」と句点(「。」)があったりなかったりします(上には修正して示しています)し、第三章の小見出しのうち(楽器について)は当然あるべき小見出しですが落ちています。そもそも表紙の副題が「―職場の音楽アルバムの解説―」なのに、表紙をめくったとびらの副題は「―職場の音楽アルバム解説―」で、「アルバム」と「解説」の間に「の」があったりなかったりするため、書名としては外題(表紙)を採るべきか内題(とびら)を採るべきかなんていう和書みたいなことになってしまっています。ちなみに和書の場合は原則としてなるべく本の中の方にあるタイトル、つまり内題を優先します(表紙や題簽は脱落しやすいため)。本書の場合は裏表紙に奥付があり、こちらには「の」がないので、多数決により結果として内題の「―職場の音楽アルバム解説―」を採用しました。
また誤植は非常に多く、たとえば第二章の最初の小見出しは「鑑賞助をける二つの要素」となっていて、「助」と「を」が入れ替わっていますし、第七章の本文には「フルート(ピッコロ)のみ横笛で(中略)オーボー(イングリッシュ−ホルン)は聖笛で(中略)クラリネット(バス−クラリネット)も聖笛で、明るいなめらから音が出ます。」とあり、オーボエやクラリネットは実は神聖にして侵すべからざる楽器だったのかと驚かされますが、おそらくこの「聖」は「竪(たて)」の誤植で、フルートの横笛に対して竪笛=縦笛であると言っているにすぎないと思われます。また「なめらから」は言うまでもなく「なめらかな」。ちなみに第七章の本文にはこの後に続いて「ファゴットまたはバスーン(コントラ−ファゴットまたはダブル−バスーン)は大きな丸太鼓のような型で」とあるのですが、これはもう誤植なんだか何なんだか見当もつきません・・・丸太鼓って!?
<左写真がファゴットまたはバスーン(左側)とコントラファゴットまたはダブルバスーン(右側)、右写真が大きな丸太鼓。>
日本語だけでなく作曲家の名前等の外国語の原綴のアルファベットにも誤りが多く、Ludurig von Beethoven や Karl Marianon Waber, Telix Medelssohn=Berthoedy といった具合。当時は手書きの原稿を見て文選工が活字を拾い植字工が版に組み上げる工程をとるので、原稿の字が汚いと誤植が多くなりますが、本書の場合校正があまりできてない、少なくとも本文の内容がわかっている人が校正をしていないらしいことがありありと見て取れ、あまり手間や時間をかけずに急いで出版したらしく思われます。
完結したかどうかわからない壮大な計画、よほど急いで出版されたらしい解説書・・・この「職場の音楽アルバム」はなかなか謎めいておりますよ。今後も気をつけてみたいです。
(以下2016.2.18追記)
本文に書いたとおり、本書第七章の本文には「ファゴットまたはバスーン(コントラ−ファゴットまたはダブル−バスーン)は大きな丸太鼓のような型で」(p.110)とあり、これが何となく心にひっかかっていましたが、先日私の妄想回路が働いて「これはもともと「大きな丸太のような」となっていたのを、実際のファゴットやコントラファゴットを見たことがない人が「楽器なのに丸太はないだろう、きっと太鼓の間違いでは?」と考えて、勝手に「鼓」の字を加えてしまったのではないか」という仮説をはじき出しました。
本文中に掲げた写真ですと楽器の大きさがちょっとわかりませんが、こちらの写真の中央のお二人が楽器の全体がわかるように差し出してくださっているのがファゴット(左)とコントラファゴット(右)です(この写真は大阪フィルハーモニー交響楽団のホームページに掲載されているもの((C)飯島隆)を拝借いたしました)。これでおわかりのとおりかなり大きな、というか長い楽器で、見たことがない人には「大きな丸太のような」と説明しても、あながち的外れではなかろうと思われます。またこの楽器名 Fagotto(イタリア語)に「薪の束」という意味があるといわれていることも、「丸太のような」という比喩の伏線になっていたかもしれません。
ところで、この「ファゴット=薪の束」説は Wikipedia にも紹介されていて、オケ関係者の間では半ば定説となっていますが、手元の伊和辞典(野上素一編『新伊和辞典(増補版)』白水社 1964/1981)には Fagotto の訳語として「1. 包み、(布に)包んだもの。2. ぶかっこうな身なりの人;ぎこちない人。3.[音] バスーン、ファゴット。4.[音] バスーン奏者。 fare 〜 ある場所から立ち去る。un 〜 di stracci 一束のぼろ布。」とあるだけで、「薪の束」という意味は見当たりません。おそらく昔の辞書に「(薪などの)束」というような訳語があったのを、誰かが面白がって「ファゴットは「薪の束」って意味なんだぜ!」と言いふらしたのではないでしょうか。しかもファゴットという楽器自体が木製の管を折り曲げて束ねた構造で、いかにも「薪の束」という形容がぴったりなので、それが伝播・伝承して今に至ったものと思われます。しかし手元の辞書で見る限り本来の意味は「包み」とか「束」で、この語自体に「薪」という含意はありません。「ファゴット=薪の束」は都市伝説ならぬオケ伝説、楽隊伝説というべきでしょう。
閑話休題。本書を通読してみると「前編 音楽鑑賞の手引き」の部分に「今わたくしは社会が鑑賞という活動の形で芸術創造に参加するということをお話ししたのですが」(p.11)とか「私は音楽鑑賞を助けるものとして、音楽理論と音楽史の二つを挙げ、それの大体について説明して来ました。」(p.41)といった具合に「わたくし」「私」という一人称が数回出てきます。本書には著者に関する記載が一切なく、「文部省」または「文部省社会教育局」が編集出版したという体裁を取っているので、この「わたくし」「私」という一人称は奇妙に映ります。おそらく文部省社会教育局内には音楽に関して十分な知識を持っている人物がいなかったので、誰か専門家に執筆を依頼してそれをそのまま印刷に付したのではないでしょうか。一方「後編 職場の音楽アルバムの解説」は内容が既成の事実や知識を客観的に述べるものなので「わたくし」「私」は使われていませんが、前編を執筆した専門家が後編も執筆したか、少なくとも深く関わっていたと考えるのは自然なことと思われます。
一方、本書には編集上の不備や誤植が多く校正が不十分であることは本文に書いたとおりです。おそらく上述の専門家の仕事は原稿の執筆までで終わりで、その後の編集や校正は、特に音楽に関して詳しいわけではない文部省の担当者だけで行われたものでしょう。
そこでここからが私の得意な「妄想」ですが(笑)、専門家が執筆した原稿には、ファゴットやコントラファゴットに関して上述のとおり「大きな丸太のような」となっていたと思われます。ところが編集・校正に携わった文部省の担当者はあいにくファゴットやコントラファゴットの実物や演奏風景を見たことがなく、原稿を見て「えっ、だって楽器でしょ?!楽器が丸太なんておかしいでしょ!」とびっくりしてしまった。当時の日本を占領統治していた米英でもどちらかというと上流社会の文化に属するオーケストラの楽器が丸太なんて、という思い込みもあったかも知れません。とにかく担当者は丸太はおかしい!と思い込んでしまった。そこで原稿を執筆した専門家に確認すればよかったのですが、本文に書いたとおり本書はかなり急いで出版されたようで、今どこにいるかわからないセンセイをつかまえて問い合わせる時間も惜しかった。今と違ってケータイなんかないし、「序」にあるとおり職場の音楽アルバムの現物はすでに配布されていたようなので、その解説書である本書も遅滞なく出版しなければならなかったのでしょう。そこで担当者は原稿を見ながら考えた。考えて考えて閃いた。「丸太・・・太・・・そうだ楽器なら太鼓だ!センセイの原稿に「鼓」が抜けてるんだ!」そうして原稿あるいは校正用のゲラ刷りには「鼓」の文字が加えられ、それが急いで印刷に回された・・・
以上、妄想でした。専門家が書いたにしては「大きな丸太鼓」は明らかにおかしいが、原稿やゲラ等の物証が見られない以上、その原因は妄想するしかないわけで、まあそれもまた楽しいですね。
前編 音楽鑑賞の手引き
第一章 音楽はどうして作られるか
音楽の特徴−音楽と社会−音楽の三つの活動(作曲・演奏・鑑賞)−音楽の鑑賞
なお本章の最後に「討論の問題」として次の5つが提示されています(表記は原文のまま)。
- わが国の流行歌・歌謡曲はどういう社会的基盤から発生しているか。そしてそれはどのような本質を持った音楽だろうか。
- 流行歌・歌謡曲はほんとうの民衆音楽といえるだろうか。
- 本当の民衆音楽はどのようにして生れるべきだろうか。
- ジヤズ音楽はどういう社会的基盤の上に生れたものだろうか。
- ジヤズ音楽とわが国の流行歌とは、どういう関係にあるだろうか。
鑑賞にふくまれる三つの活動(楽しむ・理解・批判)−音楽を楽しむ−音楽を理解する−音楽を批判する−鑑賞活動の創造性−解釈の多様性−音楽鑑賞の要点(感覚美・精神美・形式美)−感覚美の味わい方−形式美の味わい方−音楽の歴史的研究−むすび
本章の「討論の問題」は以下の5つです。
- 音楽鑑賞と生活態度、環境との関係。
- やさしい音楽、むずかしい音楽というのは、どういう鑑賞のあり方から生れるのだろうか。
- 一般的な教養と、音楽の鑑賞力との関係について。
- 日本において、音楽の発達が不振である理由。
- 個人の音楽鑑賞の創造性と、音楽解説または音楽批評との関係。
鑑賞を助ける二つの要素(音楽理論・音楽史)−音楽理論の内容(リズム・旋律・和声・形式・楽器)−リズムについて−旋律について−和声について−形式について−(楽器について)−音楽史について
本章の「討論の問題」は次の7つ(表記は原文のまま)。
- 音楽鑑賞を深めるために、どうして音楽理論や音楽史の知識が必要なのでしょうか。
- 四分の二拍子・四分の三拍子・四分の四拍子・八分の六拍子などの曲を見つけそれらの拍子がどんなふうにちがっているか味わつて見ましょう。
- いろいろな性格の旋律をえらび出し、その美しさについて、研究して見ましょう。
- 心持の高められるような旋律とたい廃的な気持をおこさせる旋律とは、どんな音楽のうちにあるかさがしてみましょう。
- 和声のない日本の音楽と和声を持った西洋の音楽とでは、どんなふうにちがった印象を与えるかを研究してみましょう。
- 対照と再現とはどうして必要なのでしょうか。また簡単な曲について対照と再現とを研究してごらんなさい。
- 音楽史にはどんな種類があるかを研究し、われわれはどういう見方を音楽に対してしなければならないかを討論してみましょう。
第四章 職場の音楽アルバムの構想
アルバム編集の動機と構想−教科課程−音楽鑑賞カリキュラム−単元とは−単元一(音楽の歴史的変遷)−楽史を取り扱う順序−第一課(18世紀後半の音楽)−第二課(19世紀前半の音楽)−第三課(18世紀前半の音楽)−第四課(19世紀後半の音楽)−第五課(20世紀の音楽)−単元二(世界の音楽)−単元三(音色の種類)−単元四(音楽の社会的効用−娯楽音楽・労働音楽・祝典音楽・行進音楽・映画音楽・ダンス音楽)−娯楽音楽−労働音楽−祝典音楽−行進音楽−映画音楽−ダンス音楽
第五章 十八世紀の音楽と代表的な作曲家及び作品
十八世紀の音楽−代表的な作曲家と主な作品−ハイドンの音楽−モーツァルトの音楽−ベートーヴェンの音楽
第六章 十九世紀前半の音楽と代表的な作曲家および作品
十九世紀の音楽−代表的な作曲家と主な作品−シューベルトの音楽−ウェーバーの音楽−ショパンの音楽
第七章 音色の種類とその実例および音楽の形式
器楽と声楽−管弦楽−吹奏楽−室内楽−声楽−曲目解説−音楽の形式−基本形式(一部形式・二部形式・三部形式・複合二部形式・複合三部形式・ロンド形式・ソナタ形式・変奏曲形式・幻想曲形式)−応用形式(カノンとフーゲ・組曲・セレナーデ・ソナータ・室内楽・交響曲・協奏曲・序曲・交響詩)
第八章 音楽の社会的効用上に見られる通り、前編は音楽と社会との関係も視野に入れつつ音楽鑑賞の意義と望ましい態度を説き、後編の第四章は「職場の音楽アルバム」の全体像をカリキュラムの形で示しています。ここまでがいわば「職場の音楽アルバム」の総説に当たる部分です。これに続く第五・第六・第七・第八の各章はこのときに配布された音楽アルバム第一集全11枚でカバーしている分野の概説と、収録された各曲への解説となっています。
総説部分はもっぱら鑑賞を事とする好楽家が一通り心得ておくべき内容を網羅しており、特に前編の各章末に「討論の問題」が置かれているところを見ると、たとえば就業時間後に従業員が集まって、講師を選んで本書を講述するなり担当を決めて輪読するなりして座学を行った後に、全体でまたは小グループに分かれて「討論の問題」について討議するといった利用方法が考えられていたのかも知れません。本文の内容も「討論の問題」もかなり手応えのあるもので、音楽にあまり興味のない人にはけっこう負担になりそうです。少なくとも「仕事帰りにちょっと寄って音楽でも聞いてくか」といった雰囲気ではありません。労働者には就業時間後にもこれをがっちりやらせて、組合活動や労働運動に取り組むエネルギーを消耗・発散させるのが狙いか?・・・などと勘ぐってしまいます(笑)。
また第四章で提示されている音楽鑑賞カリキュラムは、音楽史を縦軸に、音楽の種類やジャンルを横軸にとったマトリックス状のもので、この時期一般労働者を対象にこれほど広範囲で系統立ったカリキュラムが構想されていたことに驚きました。せっかくですので、ここに紹介しておきましょう。
単元1 音楽の歴史的変遷
第1課 18世紀後半の音楽
第2課 19世紀前半の音楽
第3課 18世紀前半の音楽
第4課 19世紀後半の音楽
第5課 20世紀の音楽
第6課 中世の音楽
第7課 文芸復興機の音楽
第8課 17世紀の音楽
単元2 世界の音楽
第2課 19世紀前半の音楽
第3課 18世紀前半の音楽
第4課 19世紀後半の音楽
第5課 20世紀の音楽
第6課 中世の音楽
第7課 文芸復興機の音楽
第8課 17世紀の音楽
各国の民謡、民謡的要素に基く芸術的音楽、各国の土俗的楽器による演奏
単元3 音色の種類
(1)楽器の音色
(2)人声の音色
単元4 音楽の社会的効用
(2)人声の音色
娯楽音楽・労働音楽・祝典音楽・行進音楽・映画音楽・ダンス音楽等
以上のとおり時代的には中世・ルネッサンスから現代まで(ただしカリキュラムの編成上は時代順ではなく「わたくしたちの現在の生活のうちで比較的触れる機会の多い時代の音楽から始め、最もなじみのない時代の音楽を最後に持っていくという方針」によって配列されている)、ジャンル的にはクラシック偏重ではありますがワールドミュージックやポップスにも目配りされていて、相当意欲的なものといえるのではないでしょうか。もっとも1950年という時期に中世・ルネッサンスの音楽やワールドミュージック系の音源がどれほど入手可能であったのか、現実性という点では疑問符がつきますが、少なくとも計画としてはなかなか行き届いたものであったと思います。
第四章の末尾には第一集に収録された曲目と演奏者その他の一覧表が載っていますので、見やすくするために漢数字をアラビア数字にした以外は、誤植や脱落も含めてできるだけ当時の表記のまま転載しておきます(左表)。なお(◯◯担当)の◯◯はレコード会社(第4単元の「テイチク」も同じ)、「12インチ」「10イ ンチ」はSP盤の直径で、12インチ盤(直径約30cm)は片面収録時間が約5分、10インチ盤(直径約25cm)は片面収録時間が約3分でした。
<ワルター / ニューヨーク・フィルやメンゲルベルク / コンセルトヘボウ、ストコフスキー / フィラデルフィアといった名指揮者と有名オーケストラ、戦前にベートーヴェンの弦楽四重奏曲を全曲録音した唯一の弦楽四重奏団であったハンガリーの名門レナーSQ、決定盤とうたわれたヒュッシュの「冬の旅」からの「菩提樹」やショパンの故国ポーランドの首相もつとめたパデレフスキーが弾くショパンなど、一曲一曲は短いが内容は濃い。当時の表記はナカグロ(「・」)を使わず読点(「、」)を使っていたのですね。>
しかしこの意欲的で、「全体で5回、60枚くらい」というこの時代にしては壮大と言ってもよいこの計画は、はたしてこのカリキュラムどおり運営され完結したのでしょうか。少なくとも本書発刊のタイミングで配布された第一集のアルバムからは、上に見るとおり「単元2 世界の音楽」は省かれています。
本書の「序」の日付の2年後の1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効して日本は主権を回復し、GHQによる占領が終わります。占領統治下で発足したこの計画が占領期間中にまたは占領終了後にまでまたがって完了したのか、あるいは占領終了とともにこの計画も雲散霧消したものか、今のところいずれともわかりません。
なお本書には編集上の不備や誤植・校正不足の箇所が多く見られます。たとえば上に引用した「討論の問題」を見ると、第一章・第二章では「で・ある・だ」調であるのに第三章のそれは「です・ます」調で統一がとれていませんし、促音の表記に「っ」「つ」が混用されていたり、「(〜して)見ましょう」と「(〜して)みましょう」が混用されていたりします。小見出しも第二章で「音楽を楽しむ」「音楽を理解する。」と句点(「。」)があったりなかったりします(上には修正して示しています)し、第三章の小見出しのうち(楽器について)は当然あるべき小見出しですが落ちています。そもそも表紙の副題が「―職場の音楽アルバムの解説―」なのに、表紙をめくったとびらの副題は「―職場の音楽アルバム解説―」で、「アルバム」と「解説」の間に「の」があったりなかったりするため、書名としては外題(表紙)を採るべきか内題(とびら)を採るべきかなんていう和書みたいなことになってしまっています。ちなみに和書の場合は原則としてなるべく本の中の方にあるタイトル、つまり内題を優先します(表紙や題簽は脱落しやすいため)。本書の場合は裏表紙に奥付があり、こちらには「の」がないので、多数決により結果として内題の「―職場の音楽アルバム解説―」を採用しました。
また誤植は非常に多く、たとえば第二章の最初の小見出しは「鑑賞助をける二つの要素」となっていて、「助」と「を」が入れ替わっていますし、第七章の本文には「フルート(ピッコロ)のみ横笛で(中略)オーボー(イングリッシュ−ホルン)は聖笛で(中略)クラリネット(バス−クラリネット)も聖笛で、明るいなめらから音が出ます。」とあり、オーボエやクラリネットは実は神聖にして侵すべからざる楽器だったのかと驚かされますが、おそらくこの「聖」は「竪(たて)」の誤植で、フルートの横笛に対して竪笛=縦笛であると言っているにすぎないと思われます。また「なめらから」は言うまでもなく「なめらかな」。ちなみに第七章の本文にはこの後に続いて「ファゴットまたはバスーン(コントラ−ファゴットまたはダブル−バスーン)は大きな丸太鼓のような型で」とあるのですが、これはもう誤植なんだか何なんだか見当もつきません・・・丸太鼓って!?
<左写真がファゴットまたはバスーン(左側)とコントラファゴットまたはダブルバスーン(右側)、右写真が大きな丸太鼓。>
日本語だけでなく作曲家の名前等の外国語の原綴のアルファベットにも誤りが多く、Ludurig von Beethoven や Karl Marianon Waber, Telix Medelssohn=Berthoedy といった具合。当時は手書きの原稿を見て文選工が活字を拾い植字工が版に組み上げる工程をとるので、原稿の字が汚いと誤植が多くなりますが、本書の場合校正があまりできてない、少なくとも本文の内容がわかっている人が校正をしていないらしいことがありありと見て取れ、あまり手間や時間をかけずに急いで出版したらしく思われます。
完結したかどうかわからない壮大な計画、よほど急いで出版されたらしい解説書・・・この「職場の音楽アルバム」はなかなか謎めいておりますよ。今後も気をつけてみたいです。
(以下2016.2.18追記)
本文に書いたとおり、本書第七章の本文には「ファゴットまたはバスーン(コントラ−ファゴットまたはダブル−バスーン)は大きな丸太鼓のような型で」(p.110)とあり、これが何となく心にひっかかっていましたが、先日私の妄想回路が働いて「これはもともと「大きな丸太のような」となっていたのを、実際のファゴットやコントラファゴットを見たことがない人が「楽器なのに丸太はないだろう、きっと太鼓の間違いでは?」と考えて、勝手に「鼓」の字を加えてしまったのではないか」という仮説をはじき出しました。
本文中に掲げた写真ですと楽器の大きさがちょっとわかりませんが、こちらの写真の中央のお二人が楽器の全体がわかるように差し出してくださっているのがファゴット(左)とコントラファゴット(右)です(この写真は大阪フィルハーモニー交響楽団のホームページに掲載されているもの((C)飯島隆)を拝借いたしました)。これでおわかりのとおりかなり大きな、というか長い楽器で、見たことがない人には「大きな丸太のような」と説明しても、あながち的外れではなかろうと思われます。またこの楽器名 Fagotto(イタリア語)に「薪の束」という意味があるといわれていることも、「丸太のような」という比喩の伏線になっていたかもしれません。
ところで、この「ファゴット=薪の束」説は Wikipedia にも紹介されていて、オケ関係者の間では半ば定説となっていますが、手元の伊和辞典(野上素一編『新伊和辞典(増補版)』白水社 1964/1981)には Fagotto の訳語として「1. 包み、(布に)包んだもの。2. ぶかっこうな身なりの人;ぎこちない人。3.[音] バスーン、ファゴット。4.[音] バスーン奏者。 fare 〜 ある場所から立ち去る。un 〜 di stracci 一束のぼろ布。」とあるだけで、「薪の束」という意味は見当たりません。おそらく昔の辞書に「(薪などの)束」というような訳語があったのを、誰かが面白がって「ファゴットは「薪の束」って意味なんだぜ!」と言いふらしたのではないでしょうか。しかもファゴットという楽器自体が木製の管を折り曲げて束ねた構造で、いかにも「薪の束」という形容がぴったりなので、それが伝播・伝承して今に至ったものと思われます。しかし手元の辞書で見る限り本来の意味は「包み」とか「束」で、この語自体に「薪」という含意はありません。「ファゴット=薪の束」は都市伝説ならぬオケ伝説、楽隊伝説というべきでしょう。
閑話休題。本書を通読してみると「前編 音楽鑑賞の手引き」の部分に「今わたくしは社会が鑑賞という活動の形で芸術創造に参加するということをお話ししたのですが」(p.11)とか「私は音楽鑑賞を助けるものとして、音楽理論と音楽史の二つを挙げ、それの大体について説明して来ました。」(p.41)といった具合に「わたくし」「私」という一人称が数回出てきます。本書には著者に関する記載が一切なく、「文部省」または「文部省社会教育局」が編集出版したという体裁を取っているので、この「わたくし」「私」という一人称は奇妙に映ります。おそらく文部省社会教育局内には音楽に関して十分な知識を持っている人物がいなかったので、誰か専門家に執筆を依頼してそれをそのまま印刷に付したのではないでしょうか。一方「後編 職場の音楽アルバムの解説」は内容が既成の事実や知識を客観的に述べるものなので「わたくし」「私」は使われていませんが、前編を執筆した専門家が後編も執筆したか、少なくとも深く関わっていたと考えるのは自然なことと思われます。
一方、本書には編集上の不備や誤植が多く校正が不十分であることは本文に書いたとおりです。おそらく上述の専門家の仕事は原稿の執筆までで終わりで、その後の編集や校正は、特に音楽に関して詳しいわけではない文部省の担当者だけで行われたものでしょう。
そこでここからが私の得意な「妄想」ですが(笑)、専門家が執筆した原稿には、ファゴットやコントラファゴットに関して上述のとおり「大きな丸太のような」となっていたと思われます。ところが編集・校正に携わった文部省の担当者はあいにくファゴットやコントラファゴットの実物や演奏風景を見たことがなく、原稿を見て「えっ、だって楽器でしょ?!楽器が丸太なんておかしいでしょ!」とびっくりしてしまった。当時の日本を占領統治していた米英でもどちらかというと上流社会の文化に属するオーケストラの楽器が丸太なんて、という思い込みもあったかも知れません。とにかく担当者は丸太はおかしい!と思い込んでしまった。そこで原稿を執筆した専門家に確認すればよかったのですが、本文に書いたとおり本書はかなり急いで出版されたようで、今どこにいるかわからないセンセイをつかまえて問い合わせる時間も惜しかった。今と違ってケータイなんかないし、「序」にあるとおり職場の音楽アルバムの現物はすでに配布されていたようなので、その解説書である本書も遅滞なく出版しなければならなかったのでしょう。そこで担当者は原稿を見ながら考えた。考えて考えて閃いた。「丸太・・・太・・・そうだ楽器なら太鼓だ!センセイの原稿に「鼓」が抜けてるんだ!」そうして原稿あるいは校正用のゲラ刷りには「鼓」の文字が加えられ、それが急いで印刷に回された・・・
以上、妄想でした。専門家が書いたにしては「大きな丸太鼓」は明らかにおかしいが、原稿やゲラ等の物証が見られない以上、その原因は妄想するしかないわけで、まあそれもまた楽しいですね。