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土浦交響楽団第72回定期演奏会の演奏曲目について
 来る2016年5月29日につくば市のノバホールにて開催予する土浦交響楽団第72回定期演奏会で演奏する予定の曲目について、妄想を繰り広げてみました。

○古風なメヌエット(ラヴェル)
 冒頭から出る「たーあっ、たーあっ」というせかすような動機が音楽を前へ駆り立て、これに対して「たん・たん」と跳躍する決めつけるような動機が音楽を引き締める。メヌエット主部はこれらの動機があちこちに出てきて賑やかだが、そのたびに枠をはめられるような若干の窮屈さも漂う。

<左譜例が「たーあっ、たーあっ」動機(赤枠)、右譜例が「たん・たん」動機(青枠)。これらの動機は、譜面上にわかりやすく独立して書かれていることもありますが、一連のパッセージの途中にさり気なく織り込まれていることもあるので、演奏者は要注意です。>

 トリオ(と譜面には書いてないが、練習番号8で曲想が変わるところから冒頭が再現する前まで)ではこれらの動機が影をひそめ、音楽は伸びやかで穏やかな動きとなるが、そんな中にも練習番号11と14のあたりでクラリネット、ファゴットと弦の内声に例のせかすような動機が出て、いやな記憶、思い出したくない過去のようにつきまとう(左譜例)。続いてメヌエット主部が几帳面に再現される。

 メヌエット主部の練習番号2と18の前後に2拍子で動く部分があったりするが、原曲がピアノ曲だけに指10本でできないような複雑怪奇なことは書かれていないので、仕掛けが呑み込めれば単純明快、フランス音楽の真髄であるクラルテ clarté(明晰さ)とエレガンス élégance を満喫できる。
<右譜例は2拍子の動きの例。譜割りの関係で練習番号18前後の方を掲載しましたが、練習番号2前後も動きとしては全く同じです。アウフタクトがあるのでちょっと見にくいですが、3拍子が実質2小節ある中に2拍子の動きが3回繰り返されます。ヘミオラと呼ばれる形です。>
○交響曲第40番ト短調 K.550(モーツァルト)
  私はひそかに、交響曲第38番ニ長調「プラハ」K.504は陽気なオペラ・ブッファ、このト短調交響曲は悲劇的なオペラ・セリアのそれぞれの要素を交響曲に導入したものと思っている。モーツァルトは本質的に歌劇の作曲家だと思うからで、「プラハ」交響曲にはその作曲の経緯から言っても「フィガロの結婚」の気分が濃厚に溶け込んでいるし、ほぼ同時期に作曲が進められていたピアノ協奏曲第26番ニ長調「戴冠式」K.537もそうだろうと思う。ではト短調交響曲はどうか。モーツァルトの現存するオペラ・セリアの中には「これだ!」と名指しできるような適当なものが見当たらないようだ。しかし私は、たとえばピアノ協奏曲第24番ハ短調 K.503にも、やはり悲劇的なものを感じる。ト短調交響曲とハ短調協奏曲は実際の歌劇には結実しなかったもののモーツァルトが抱き続けていた悲劇的なものを共有しているのではないだろうか。そう考えるとこの2曲の短調交響曲・協奏曲の「悲劇」セットが、「プラハ」+「戴冠式」の「フィガロ」セットと好一対になる。
 ト短調交響曲では、まず第一楽章の展開部の119小節のアウフタクトから159小節までが、ソプラノ(木管)・テノール(高弦)・バリトン(低弦)による三重唱を思わせる。私はこの部分に、二人の男からの誘いを受けながら終始これを拒み続ける女といった場面を妄想する。
 また第一楽章の再現部、191−192小節のバスの動き(左譜例)が喜劇「劇場支配人」のための音楽K.486の序曲の冒頭と同一の音型であることも、私がこの曲に「お芝居」の臭いを感じる要因になっている。もっともこの音型は「劇場支配人」特有のものではなく、交響曲第36番「リンツ」K.425の第一楽章にも頻出するので、あるいはモーツァルトの常套句のようなものかも知れないが。



<左譜例は歌劇「劇場支配人」序曲の冒頭、右譜例は交響曲第36番ハ長調「リンツ」の第一楽章39-44小節。いずれも移動ドで「ドミソドミレミド|シドレドシラシソ」(「リンツ」だけは後半が「シドレドシラソファ」)という同じ動きをしています。>

 第四楽章はソナタ形式で書かれているが、その再現部がやはり悲劇を暗示する。まず第一主題は前半と後半に分かれていて、提示部ではこの前半と後半がそれぞれ反復され、やや変則的ながら機能的には主題の提示と確保を行っている(1-8小節 / 17-24小節がそれぞれ 9-16 / 25-32小節で反復)。しかし再現部では、主題の前半も後半も反復されず(207-214 / 215-222小節)主題の確保を省略、さらにそれに続く第二主題までの推移も再現部では短縮されて(提示部:33-70小節の38小節間、再現部:223-246小節の24小節間)、音楽はソナタ形式の再現部であるために必要で最小限のことだけをそそくさと済ませ、何かを目指してひたすら先を急ぐ。その先にあるのはもちろん第二主題の再現なのだが、この第二主題は提示部では長調(変ロ長調)で明るく、あえて言うなら愛らしく提示され(71-86小節)、それ以後小結尾まで変ロ長調の明るく喜ばしい調子で進むのに対し、再現部では短調(ト短調)で悲しげに、あえて言うなら変わり果てた姿で再現され(247-262小節)、それ以後の音楽は曲の終わりまでト短調の暗い音調で塗りつぶされる。しかも第一主題関連の再現は上で見たとおり必要最低限にまで短縮されていたのに対し、第二主題はその後の確保と小結尾への推移も含めて1小節たりとも省かれずにきっちり再現され(提示部:第二主題から小結尾の前まで71-116小節の46小節間、再現部:247-292小節までの46小節間)、そればかりか提示部では第二主題部の後すぐに小結尾(117-124小節)に入るのに対して、再現部では小結尾(301-308小節)に入る前に、提示部にはなかった8小節(293-300小節)が加えられている。この特別な8小節は、低弦からわき起こる上行音型がそのまま木管に受け取られて高みに至るも思い屈するように停滞し、再び訴えるような上行音型と停滞が繰り返されるもので、天まで届けとばかりの悲痛な慟哭と絶望を強く感じさせる。
 このように見てくると、この楽章でモーツァルトは「短調のソナタ形式の第二主題は、提示部では主調(この曲の場合ト短調)の平行調(=変ロ長調)で、再現部では主調(=ト短調)で出てくる」という古典派のソナタ形式の定型につけこんで、そこに例えば「愛らしく溌剌とした女性(提示部:変ロ長調)の死(再現部:ト短調)」というような悲劇を暗示し、そこに「特別な8小節」の慟哭を加えてその悲劇性を強調し、さらに聞く者の注意をその悲劇に集中させるために敢えて第一主題の再現を軽くしたのではないか、という妄想にどうしようもなく囚われてしまうのだ。

<左譜例の赤枠が「特別な8小節」(ちょっと見にくいですが、上段の7小節+下段の1小節です)。その後に提示部と同じ形の小結尾8小節(ただし提示部は変ロ長調だったがここはト短調)が続いて全曲を閉じます。なお譜例に見られるように最後に反復記号を置いてソナタ形式の後半を繰り返すのが「プラハ」交響曲以後のモーツァルトの交響曲の特徴で、これについては後で触れます。>

<上に述べた第四楽章の構成をわかりやすくするために、右の表を作成しました。表の「第一主題」と「第二主題までの推移」を第一主題部(表の二重線の左側)、それ以後「小結尾」の前までを第二主題部(二重線の右側)とすると、再現部では第一主題部が短縮されているのに対し、第二主題部は全く短縮されず、 さらに「特別な8小節」が加えられていて、第一主題部に比べて第二主題部が偏愛されていることが一目瞭然。>

 もちろん第一楽章の展開部は第一主題による三声の展開に過ぎず、第四楽章の第二主題の調性関係は短調のソナタ形式の定型をそのまま踏襲したものだし、再現部を提示部そのままではなく短縮して再現するのもよくあることで、どれも全然特別なことではない、と片付けてしまうことはできるし、アナリーゼとしてはそれが正しい態度であろう。それに第四楽章では、これは上にあげた「プラハ」以後のモーツァルトの全ての交響曲に見られるユニークな特徴なのだが、提示部だけでなくソナタ形式の後半、つまり例の十二音の推移を含む展開部と再現部にも反復が指定されていて(上の譜例の末尾参照)、そのこともこの楽章にドラマ的・単線的な物語展開をあてはめることを妨げる。なぜなら展開部と、とりわけ再現部をリピートすることは、一度ドラマが終わった直後に今見たばかりのドラマの後半とそのクライマックスをもう一度繰り返すことになるからだ。まあ、それも演出のしようによっては劇中劇みたいで面白いかも知れないが。
 しかしそうした反証はあっても、緩徐楽章でありながら流麗な旋律を欠いた第二楽章の異様に孤独な歩みや、舞踏性がなく単に三拍子であるがゆえにかろうじてメヌエットと呼ばれているにすぎないような第三楽章も含めて、これらの背後にはやはり何か悲劇的なものが感じられる。そしてそのような、本来は歌劇で扱われるべき悲劇性を、古典派の交響曲という純粋な器楽音楽の様式の枠内で表現したモーツァルトに私は打たれる。天才とはこうしたものであるのか、と。そして彼の本領はやはり歌劇であったのだろうという思いをますます深くする。
 あるいはこの悲劇性なるものは、ロマン派、特に後期ロマン派に毒された私が無理やりモーツァルトの音楽の中に後付けで押し込んだ捏造品なのだろうか?確かにそういう面もあるかも知れないが、しかし第四楽章のユニークな構成、特に短調で再現された第二主題への偏愛ぶりとあの「特別な8小節」の存在は、やはり何か特別なものの存在を示していると思われてならない。
 昨今は古典派の作品へのアプローチとして、ロマン派の特質である「文学的なものとのつながり」を断ち、この曲においても悲劇のヒの字も知りませんみたいなスタイルの演奏も聞かれるが、私にはそうしたスタイルの演奏が、この曲に感じられるであろう悲劇的要素を予め検出してそれらを残らず削り取り、そうした上で、え、悲劇性ですか、さぁそういったものはこのあたりでは見かけませんねときれいにとり繕ってみせる、いわばカマトト的なものに感じられることがある。もっともその辺は個々人の趣味の問題でもあって、多様な選択肢が併存していてほしいと思う。贅沢な話である。

○交響組曲「シェヘラザード」(リムスキー=コルサコフ)
 聞く側にとっては小説を読むような楽しさ。一方演奏する側にとっては、第一楽章だけはそれほど難しくないもののそれ以外の楽章はそれぞれに大小の難所があり、総合的なハードルは高い。しかしそのハードルを乗り越えても演奏したいという気にさせてくれる名曲と思う。
 この曲については以前書いたことがあるので、今はとりあえずそちらに譲り、これ以外の発見ないし妄想があったら、また続編を書きましょう。
 
| オーケストラ活動と音楽のこと | 09:49 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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