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野岩線の旅
 年明け早々の2016年1月3日、栃木県日光から福島県会津に抜ける野岩(やがん)鉄道会津鬼怒川線と会津鉄道会津線に乗ってテツ分を補給してきました。野岩鉄道会津鬼怒川線(以下「野岩鉄道」)は東武鬼怒川線の新藤原(栃木県日光市)と会津高原尾瀬口(福島県南会津郡南会津町)とを結ぶ全長30.7kmの路線、会津鉄道会津線(以下「会津鉄道」)は会津高原尾瀬口と西若松(福島県会津若松市)とを結ぶ57.4kmの路線です。
 この日はJR常磐線で荒川沖から柏へ出て東武アーバンパークライン(野田線)に乗り換え、春日部から東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の直通快速列車に乗って東武日光線下今市から東武鬼怒川線に入り、新藤原から野岩鉄道を完乗し、会津鉄道の会津田島まで乗ってきました。この直通快速はセミクロスシート・トイレ付の快適な車両(東武6050系)で会津田島まで乗り換えなし、しかも運賃のみで特別料金不要という優れものです。会津への旅にお薦めですよ〜!

 あまり知られていないようですが、栃木県日光近くの今市(いまいち)と福島県会津若松は会津西街道によって古くから結ばれており、昔の宿場町の姿をよく残していて観光地としても人気があり重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている大内宿は、この街道の宿場です。現在では国道121号が会津西街道と呼ばれて今市と会津若松を結んでいます
 一方この区間の鉄道はというと、明治20年頃(1880年後半から1890年頃か)に県境一帯で敷設を希望する声が高まり、1904(明治39)年には国による測量も行われたらしく、1922(大正11)年に「栃木県今市ヨリ高徳ヲ経テ福島県田島ニ至ル鉄道」が改正鉄道敷設法による敷設予定線となりました(会津西街道のうちこの予定線に含まれていない会津若松−会津田島間は、これとは別に軽便鉄道法で計画されていた)。しかしこの予定線の実現はそれから64年後の1986(昭和61)年の野岩鉄道の開通まで待たなければなりませんでした。つまり東武線下今市−会津鉄道会津田島間を乗った今回の旅はこの今市−田島間の予定線をたどる旅であったわけですが、それと同時に、私の学生時代の思い出をたどる旅でもありました。私はこの沿線の旧・栃木県塩谷郡栗山村(現・栃木県日光市)をフィールドにして卒論を書いたので、このあたりはまんざら知らない土地でもなかったのです。

 まずはこの予定線の歴史関係を整理しておきましょう(左図参照)。会津側は軽便鉄道法によって1934(昭和9)年に開通していた国鉄会津線の西若松−会津田島間を延長する形で、1953(昭和28)年に会津田島−会津滝ノ原(現・会津高原尾瀬口)間が開通しました。これが今日の会津鉄道です。
 一方の栃木側はやや事情が複雑で、予定線の起点として想定されていたのは1890(明治23)年に開業していた国鉄日光線の今市駅でしたが、鬼怒川水力電気下滝発電所(現・東京電力鬼怒川発電所)の資材運搬を目的とした下野軌道が、予定線の構想に先立つ1917(大正6)年から1919(大正8)年にかけて、国鉄今市駅前に新たに設けた新今市駅から藤原(現・新藤原)駅までの間をいち早く開通させており、1929(昭和4)年には起点を新今市駅から東武日光線の下今市駅に変更しました。これが現在の東武鬼怒川線です。しかし残る新藤原−会津滝ノ原間はその後長く未開通のままでした。
 この区間については、おそらく地形や地質、当時の工事技術等の問題から、戦前には実質的な進展がありませんでした。戦後になって1957(昭和32)年の鉄道建設審議会で今市−会津滝ノ原間が調査線とされ、1962(昭和37)年には工事線に格上げされましたが、あくまでも国鉄日光線の今市駅を基点とするこの工事線と、既に下今市から新藤原まで鬼怒川線を運行していてこれと一部並走・競合することになる東武鉄道との間の調整が難航、1966(昭和41)年には栃木県側の接続点が未定のまま、見切り発車の形で福島県側から工事が開始されました。ところが全体の40%ほどまで工事が進行していた1980(昭和55)年12月に国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)が制定され、工事は凍結されてしまいます。
 しかしその間に、この路線の栃木県側の接続点を東武鬼怒川線の新藤原とし、国鉄でなく第3セクターによる運営とする調整が行われ、それを受けて翌年の1981(昭和56)年に福島県、栃木県、東武鉄道などが第3セクター「野岩鉄道株式会社」を設立、さらにその翌年の1982(昭和57)年初めには工事を再開し、予定線となってから64年間未開通のまま残っていたこの区間は、幾多の紆余曲折の末1986(昭和61)年10月9日に開通しました。この日地元には「悲願80年」という掲示や「祝開通 ばあちゃんやっと電車が通ったよ ぢいちゃん早く乗ってみべ」という手製の立て看板などが見られたそうです。80年は国による測量が行われたという1904(明治39)年を野岩線元年として数えたものでしょうか。県境一帯で鉄道敷設の声が高まったという明治20年、すなわち1887年を起点とすれば「悲願百年」ということになります。

  ところで私が栃木県の旧・栗山村でフィールドワークしながら卒論を書いていたのは、建設工事が再開された1982(昭和57)年のことでした。旧・栗山村は五十里(いかり)湖の西方に427.37平方キロメートルという広大な面積(栃木県内の自治体では最大で、その90%以上は山林)をもって広がる山村でしたが、野岩鉄道は実際には村の東端をかすめるように通るだけで、旧村域内の駅も湯西川温泉駅ただ一つだけです。そして私のフィールドは村内西南部の野門(のかど)という集落で、野岩鉄道のルートからは大きく外れていました(図参照)。それでも野門集落に住む複数の人々から野岩線という言葉が聞かれ、たとえ自分たちの集落はルートから外れていても、野岩鉄道の開通が村の振興によい影響を与えるであろうという期待が見て取れました。
 それ以来30数年、私は野門集落はおろか旧・栗山村をも訪れておりません。せめて車窓からなりとも、野岩線の開通を待ちわびていた旧・栗山村の今日の姿を見たいというのが今回の旅のもう一つの目的でした。
 さて、ずいぶん前置きが長くなってしまいました。1月3日の旅を振り返ってみましょう。
 野岩鉄道・会津鉄道直通の東武線快速は下今市駅で東武日光行きの車両を切り離し、東武鬼怒川線に入り、すぐに大谷(だいや)川を渡ります。この冬はこれまでずっと暖冬でこの日もほぼ快晴無風で暖かく、ここまで全く雪を見ません。大谷川から男体山を見ても雪は少なく、周囲の山も枯れ木色ばかりが目立ちます。私が通っていた30数年前の栗山村野門では、冬の朝起きると廊下の洗面所の水道の蛇口から滴る水が、屋内にもかかわらず石筍のような氷柱となっていましたが、この冬はどうなのでしょうか。あの静かな集落で、人々はどのような正月を祝っているのでしょうか。

<(左)大谷川から男体山方面を望む。窓ガラス越しに撮っているので多少車内が写り込んでいます。>

<(右)30数年前に訪れた旧・栗山村野門での写真より。バスは一日に3往復、冬の朝は屋内でも水道からの滴が凍る寒さ(水道が凍結してしまうので水は一晩中止めない)でした。ちなみに写真は白黒ですが、いくら30数年前でもカラー写真は普及してました・・・というか、当時は白黒よりもカラーネガフィルムの方が一般的で、白黒はお金がなくてフィルム代・現像代・プリント代をケチる人か、特別な表現意図を持っている人が使うものでした。私の場合はもちろん前者で、この写真も現像・プリントとも写真を趣味にしていた友人にやってもらったものです。>

 東武鬼怒川線は大谷川を渡ってすぐの大谷向(だいやむこう)から大桑(おおくわ)、新高徳(しんたかとく)といった昔の宿場の名前の駅を拾いながら、会津西街道に沿って鬼怒川の谷を遡っていきます。鬼怒川温泉(きぬがわおんせん)は私が通った野門集落を通る栗山村営バス(現在は日光市営バス)の発着駅で、反対側のホームにはJR直通の新宿行き特急列車が停車していました。便利になったものです。しかし鬼怒川温泉駅から次の鬼怒川公園駅の間の左手の道路沿いには廃業して廃墟化した旅館が数軒見られ、胸が痛みました。
 やがて列車は東武鬼怒川線の終着駅で、やはり会津西街道の宿場の名を取った新藤原に到着しました。ここから会津高原尾瀬口までの間が野岩鉄道です。列車は併結していた新藤原止まりの後ろ2両を切り離し、2両編成となりました。この日の車内は比較的空いていましたが、たどたどしい日本語を話すアジア系と日本人を帯同した欧米系の2組の外国人旅行者が乗っていました。日光や鬼怒川温泉といったメジャーな観光地ならばまだしも、こんなローカル線で外国人旅行者と乗り合わせるとは思っていませんでした。
<写真は会津田島直通の快速列車(東武6050系)の後端。新藤原でここ止まりの後ろ2両を切り離し、野岩鉄道の車掌が乗り込んだところ。2両編成の連結部分と貫通式の運転台上部に行き先表示板がある。東武線内は行き先の違う列車(東武日光行き・新藤原行き・会津田島行き)を連結して運行するので、この表示板はありがたい。>

 ここまでは鬼怒川の谷が比較的広く、東武鬼怒川線と会津西街道はほぼ並行しながら走ってきましたが、この先は谷が狭く屈曲も多くなります。会津西街道はここからもさらに鬼怒川とその支流である男鹿川の谷に沿って行きますが、野岩鉄道はところどころ谷を離れてトンネルで谷の屈曲をショートカットしながら進みます。
 新藤原を出るとすぐに、ここから先はSuica・PASMOの範囲外のため目的地までの運賃を車内で現金精算するよう車内放送があり、車掌が回ってきます。私は東武柏駅をSuicaで入ってからずっとそのまま乗ってきたので、新藤原から目的地の会津田島までの乗車券をここで購入し、柏から新藤原までは帰りにカード利用可能な駅で精算することになります。車掌は乗車券と一緒に、発駅から新藤原までが未収受・要精算である旨の連絡票をくれました。
 野岩鉄道は前述のとおり谷をショートカットしながら標高を上げていくためトンネルが多く、新藤原の次の駅の龍王峡(りゅうおうきょう)や、旧・栗山村内唯一の駅である湯西川温泉(ゆにしがわおんせん)はトンネル内の駅です。
<写真は湯西川温泉駅のホーム。野岩線は単線なのでこの駅もホームは片側1面しかなく、上り列車も下り列車も同じホームを使います。このときは上りを待つお客さんが多かった。写真では明るく写っていますが実際にはホームはかなり暗く、出口へ続く通路の電飾がもっと鮮やかでした。車内も盛大に写り込んでしまっていますね。>

 湯西川温泉駅を出ると、それぞれ鬼怒川の支流である湯西川と男鹿(おじか)川が流れ込む五十里(いかり)湖の湖面が見えます。ここでもまだ雪は見えません。
 しかしさらにトンネルをいくつかくぐりながら標高を上げていくうちに、最初は日の当たらない渓間にはだらに残る雪が見え、標高約650mの中三依温泉(なかみよりおんせん)駅を過ぎると、日が当たる窓外の林床も雪に覆われてきます。なお野岩鉄道は単線のため、中三依温泉の次の上三依塩原温泉口(かみみよりしおばらおんせんぐち)駅で列車交換(行き違い)が行われます。

 列車が上三依塩原温泉口を出るとすぐに、いよいよ県境を越える山王トンネルに入ります。ここは会津西街道と野岩鉄道が最も離れる地点で、会津西街道は男鹿川の支流である峠沢をつめて山王峠を越え、会津側から山王峠に向かう山王川の谷へ出るのに対し、旧・国鉄会津線の終着駅であった会津滝ノ原(現・会津高原尾瀬口)駅はその一つ西隣の、より広い荒海(あらかい)川の谷にあるため、野岩鉄道はここでそれまで会津西街道と付いたり離れたりしながら遡ってきた男鹿川の谷を離れて、全長3441mと野岩鉄道の中で最も長い山王トンネルで山王川と荒海川を分ける尾根を越えながら県境も越えていくのです。

<地図の中央、大きなひし形のように見える右側の線の国道121号が会津西街道、左側の線が野岩鉄道。野岩鉄道はトンネルの中で県境を越えるので実感がありませんが、トンネルを出るとそこはもう福島県です。ちなみに野岩鉄道の「野」は栃木県の旧国名「下野」(しもつけ)の「野」、「岩」は福島県の旧名「岩代」(いわしろ)の「岩」。栃木と福島を結ぶ鉄道そのまんまの名前です。>

 トンネルを出ると野岩鉄道と会津鉄道が接続する会津高原尾瀬口駅に到着します。この駅は元は旧・国鉄会津線の終着駅であった旧・会津滝ノ原駅で、時間に余裕があれば下車して旧国鉄時代の痕跡など探りたいところです。この日はそのような余裕はなく、車窓からホームをちらりと見ることしかできませんでしたが、テツ的にはここはぜひとも降りるべき駅です(理由は後述)。

 会津高原尾瀬口から先へ延びる会津鉄道の路線は前述のとおり旧・国鉄会津線のものです。この区間が比較的早く開通していたのは、広くて平坦な阿賀川の谷を走るために工事が容易であったためでしょう。会津鉄道は会津高原尾瀬口を出てからしばらく荒海川の谷を走りますが、やがて山王峠を越えてきた会津西街道が走る山王川の谷が右手から合流すると、川は阿賀川と名を変えてやがて谷も広くなり、ここから会津田島までの間はそれまでの野岩線とはうって変わって、平坦な広い谷間を会津西街道とほぼぴったりと寄り添って走ります。写真は線路と並走する会津西街道で、ここでは鉄道の進行方向左側を走っていますが、右側を走る区間もあります。
 会津に入ってからは集落や田畑にも雪が残っているのが見られ、さすがに会津は東北だけあって北関東(栃木)とは違うなと感じました(右写真)。

 私の乗った列車はお昼少し前の11時43分に会津田島に着きました。ここから先は電化されていないので、電車での直通運転はここで終わりです。
 会津へ来るのが目的の旅であったならばある程度下調べもしてきたのですが、今回の旅は主な目的が野岩鉄道の完乗というテツ旅で、会津田島には「これまで会津には来たことないし、雪も見たいし、とりあえず列車の終点まで乗ってみべえ」という、まあいささか安直な態度で下調べもせずに来てしまったので、ここがどういう町で何があるのか全くわかりません。しかしせっかくここまで来ておきながら何もしないでとんぼ返りというのも勿体ないし、町をぶらぶらしてどこかでお昼を食べよう(個人的には駅そば希望)と思い、とりあえずあてもなくぶらついてみることにしました。

<左写真はここまで乗って来た快速電車の最後尾ですが、折り返し運転のため行き先表示は浅草行きに変更済み、ヘッドランプを点灯して先頭車両の顔になってました。。
右写真はここまで乗って来た快速に乗務していた車掌さん。ホームから降りて線路を渡り彼方に去って行きました。正面は会津鉄道「会津浪漫号」のお座敷車両。土・日・祝日は定期運行していることが多いのですが、この日は定期運行はありませんでした。>

 改札を出ると左手に待合室と出札口があり、正面は出口、右手は売店を経て同じ建物にある会津田島ステーションプラザ(物産販売店、観光案内所など)に続き、2階にレストランがあります。お目当ての駅そばなさそうで、ちょっと残念。
<写真は改札口を出てから振り向いて撮ったので、待合室と出札口は写真右手(画面から切れている)、ステーションプラザは左側(これまた画面外)。出札口には券売機はなく全て手売りのようでした。これで切符は硬券、改札口はパンチで入鋏だとテツ度は一気に沸騰点!ですがさすがにそれはなく(笑)、切符は軟券、改札はスタンプでした(後に切符の写真あり)。>

 駅舎の外へ出てみると天気は曇りながら無風でそれほど寒くもありません。駅前や通りには雪はなく、家の間の路地みたいな通りに屋根から落ちたらしい雪が散っている程度です。誰かに聞いてみようかと思いつつうっかり聞きそびれましたが、ここでも今年の冬は暖かいようです。
<写真は会津田島駅の外観。大きな建物ですが、駅はこの写真の向かって右側1/4くらい(駅名看板のあるあたり)の1階部分だけで、それより左側の1階は会津田島ステーションプラザ。2階の右半分はレストラン、左半分はステーションプラザの事務室といった感じ。建物のちょうど真ん中あたりに1階から2階へ上がる階段があり、この階段の踊り場(1階から数段上がって階段が折れ曲がる所)に立つとホームに止まっている列車がすぐ近くに見えるので、そこはちょっとしたお見送りポイントになっているようで、座席に座った家族?友人?に手を振っている方がいらっしゃいました。>

<というわけで、あてもなくぶらぶら歩きの始まり。上の写真からもわかるとおり駅前にはあまり人がいないので、それなら街道の方へ行けばにぎわっているのではなかろうかと思い、まずは駅の少し南側を走る会津西街道の国道121号の方へ歩きます。
写真は国道へ行く途中で駅を振り返って撮ったもの。バスが来てますが、何せ予習してないので、どっち方面のどれくらい離れたどんな所へ行くバスなのか全くわかりません。しかもこの道も人が出歩いてない。>


<国道121号(会津西街道)へ出て栃木県側を見た図。車はそこそこ走っていますが、やはり人の姿はほとんどありません。>

<同じく国道121号で会津若松方面を見た図。帰宅後に地図など見てみたら、この国道のもう一本南側の通り沿いに役所だのお寺だのがあり、そっちの方が昔の街道っぽいんじゃないかなぁという感じを受けました。人出がありそうなスーパー等の大型商業施設もこの辺にはなさそうです。>

<それでも国道沿いにこんな建物がありました。後で調べるとこれは会津田島祇園祭で運行される四つの大屋台(西屋台・上屋台・中屋台・本屋台)のうちの中屋台の格納庫です。この会津田島祇園祭は国の重要無形民俗文化財に指定されているもので、輪番制の「お党屋(とうや)」という組織で運営される、なかなか古風で厳格なお祭りのようです。

<国道を少し歩いて駅まで戻ってくると、駅建物の西の方にSL( Steam Locomotive;蒸気機関車)が展示されているというので、そちらへ行ってみると写真のような説明版がありました。C11は日本の蒸気機関車の中では小さい方で、長大編成や重い貨物を牽引したり長距離を走るのには向きませんが、小回りがきくので、幹線ではない会津線のような路線には適していました。
私は小学生の頃、友人の影響でSLと時刻表からテツによろめいたクチなので、久しぶりにC11の雄姿を見て行こうと思って展示されている方へ回りますと・・・

・・・まあ、露天では冬場は雪が積もったり凍ったりいろいろと大変でしょうから、たとえ雄姿は見られなかったとしても、これは大切に保存されていると考えるべきでしょう。>

 というわけで、駅の周りを30分ほどぶらぶら歩いてみましたが、特に目ぼしいものはありませんでした。もっとも今回歩いたのは駅前から国道121号にかけてのごく狭い地域だけで、私などが喜ぶ「物件」が見つかりそうな、住宅や商店があってざわざわしている地域からは残念ながら少し離れていたようで・・・というか、後日発見したこちらの資料で見ると、私は一番何もない区域をさまよっていたようなのでした(苦笑)。
 また駅前の飲食店も「営業中」とはなっているものの、お昼時だというのにお客が出入りする気配がありません。おそらくこの辺りの方々はそれぞれのご家庭でお正月を祝っておられるのでしょう。さらに駅前にはコンビニもファミレスもチェーンの居酒屋等も見当たらず、よそ者の勝手な思い込みかも知れませんが、この土地では「会津」という言葉から受けるイメージどおりの、堅実で落ち着いた暮らしが営まれているように思われました。
 私は結局ステーションプラザ2階のレストラン「ヴォーノ」でハンバーグカレー850円を食べました。このレストランには家族連れを中心に、けっこうお客様が入ってました。

  さて、ちらっとですが町の様子も見たしお昼も済ませたし、後は来た道を戻るだけです。
<帰りに乗る列車。やはり東武6050系で各駅停車の新栃木行き。ちなみにこれは最後尾で、ヘッドランプは消灯、運転席の窓の下の赤ランプを点灯させています。>

<私は基本乗りテツで、自分が乗らない列車の写真を撮ることはあまりないのですが、これは窓の下の「あかべぇ」がいいアクセントになっているので撮りました。会津鉄道AT-550形。顔立ちは東武6050系に似ていますが非電化区間を走れるディーゼル車です。運転台わきにバックミラーが出ているのはちょっと珍しい。おそらくワンマン運転用でしょう。>

<会津田島で購入した切符。窓口での手売りですが軟券で、下側の丸いのが改札のスタンプ、小さい菱形のは車内検札のスタンプ。ちなみに買ったときは乗り換えが少ない方が楽かと思い北千住までの乗車券を買ったが、実際には春日部で野田線(アーバンパークライン)に乗り換えて柏経由で帰りました。>

 もっとも来た道を戻るだけとは言いながら、寝て帰るわけにはいきません。私は来るときずっと進行方向左側に座って窓外を見ていたので、帰りも進行方向左側、つまり行きとは逆側の窓からの景色を見ながら帰れば、同じルートとは言え来たときとは違うものが見えるはずです。そして今回はまさにこれが自分の中での大ヒットにつながりました。
 会津田島から会津高原尾瀬口までは来たときと大きな違いはありませんでした。ところが会津鉄道最後の駅、会津高原尾瀬口で、行きには見えなかった旧・国鉄会津線の遺構が目に飛び込んできたのです。あまり唐突に出現したのでカメラを取り出す暇がなく写真は撮れませんでしたが(常にカメラをスタンバイしてなかったのは、いかに撮りテツ・カメラ小僧でないとは言え失敗だった・・・ ^^;;)、それは転車台の遺構でした。雪があって転車台までの軌道は視認できませんでしたが、円形のピットと機関車を載せて回転する主桁が残っていました。いや〜、やっぱりテツ旅では寝ないで両側をしっかり見るべきですね。
 転車台というのはターンテーブルとも言い、機関車を載せたレール(主桁)ごとぐるりと回り舞台のように回転して方向変換させる設備で、蒸気機関車が列車を引いて走っていた時代の終着駅に必要なものでした。現在の電車は列車の両端に運転台があるので、運転手と車掌が交代すれば終着駅からそのまま折り返すことができますし、電気機関車のように機関車の両端に運転台がある機関車も、側線で機関車だけ客車の反対側へ持って行けば折り返し運転が可能です。ところが蒸気機関車は前向きの運転台しかありません。バックができないわけではありませんが、後ろ向いて長い距離を運転するのは無理です。そこで終着駅では蒸気機関車を切り離して転車台で180°向きを変えて折り返し運転させたのです。会津高原尾瀬口は旧・国鉄時代は会津線の終着駅で、会津田島駅の解説板で見たとおり会津線には1974(昭和49)年までC11型蒸気機関車が現役で走っていたので、転車台が必要でした。それから40年あまり、よく撤去されずに残っていたものです。もっとも不要設備の撤去は利益は生まずにお金だけかかるので、ローカル線の赤字に苦しんでいた当時の国鉄や会津線を継承した会津鉄道が財政的に豊かでなかったことが逆に幸いしたとも言えますね・・・。
 ところで帰宅してからネットでググってみたら、この転車台の情報がいくつか見つかりました。ホームからも見えるものの線路の向こうなので、基本的には近づけないようですが、こちらの記事によると、ひょっとすると今でも回るかも知れません(記事は約3年前のもの)。このようにネット等であらかじめ情報を得ておけば行きにも注意して見られたわけですが、逆に今回のように情報なしで現地に飛び込んで自分で「物件」を発見したときの喜びと興奮は格別で、これまた醍醐味ですね〜!
 というわけで、多少なりともテツっ気がある人は、野岩鉄道または会津鉄道に乗ったら必ず会津高原尾瀬口で降り、この転車台の遺構を見て先人の思いと労苦を偲び、また野岩鉄道の開通を喜ぶべし。

 その後も進行方向左側車窓から怠りなく風景を眺めていましたが、これ以後はたいした所見はありませんでした。行きは快速で春日部から会津田島までちょうど3時間でしたが、帰りは会津田島13時12分発の新栃木行き各駅停車、新栃木16時07分発南栗橋行き各駅停車、南栗橋16時51分発長津田行き急行と乗り継ぎ春日部に着いたのが17時08分頃で所要時間は約4時間。新栃木発の各駅停車以後はいずれもロングシートのみの通勤型車両で、もちろんトイレもありません。この路線、乗るなら断然東武6050系の直通快速です。

 今回の旅は正月の3日という人出の多そうな時期であったにもかかわらず全て座れ、特に行きの快速では途中駅の春日部から乗ったにもかかわらずずっと4人掛けのボックスシートを独占できました。もっとも後方に連結されている東武日光行きは混んでいたようでしたが。
 ちなみに今回の旅のバックグラウンドになっていた「栃木県今市ヨリ高徳ヲ経テ福島県田島ニ至ル」予定線の出発地とされていた今市周辺には、新高徳と東北本線矢板(やいた)駅とを結んでいた東武矢板線(1929(昭和4)年開通、1959(昭和34)年廃止;学生時代にこの沿線の玉生(たまにゅう)の近くで合宿をしたことがあり、そのときに「昔はここを矢板線が走っていた」という話を地元の人から聞いた)の廃線跡探索や、今市から小百(こびゃく)川に沿って遡り小休戸(こやすと)集落を経て旧・栗山村の黒部(くろべ)や上栗山(かみくりやま)集落に至っていた道(野門での聞き取りによると昔はこの道が野門など旧・栗山村南部の集落からマチへ出るメインルートであったという)の探索など、まだまだ私の過去をかすめて過ぎた面白そうなお題が残っております。また改めて訪れる機会がありそうです。

<付録>
 テツ旅的項目ではありませんが、今回の旅で目にした民俗学的物件を報告しておきます。青いシートで包んだ三角錐状のものの上に青い枝を刺したもので、どうやら会津地方の「歳(さい)の神」の備えと思われ、ブルーシートで巻いてあるのは祭り当日までの保護のためと思われます。会津鉄道の沿線の田んぼの中や会津荒海(あいづあらかい)駅前広場など何ヶ所かで目にすることができました。

<左:田んぼの中で2基並んで立てられたもの。>

<右:会津荒海(と思う)駅前の広場に立てられたもの。こうして見るとかなり高さがあります。>

<会津荒海駅前広場のもの。別アングル。>
 
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