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バッハ「フーガの技法」付属のコラール
 バッハの「フーガの技法」BWV1080 は最後のフーガが中断したままの未完の作品ですが、バッハの死の翌年に出版された初版には、この未完のフーガの後に続けて「われ苦しみの極みにあるとき Wenn wir in höchsten Nöten sein」または「汝の玉座の前に今やわれは歩み出て Vor deinen Thron tret ich hiermit」という4声のオルガンコラール(ダブルネームになっているのは同じ旋律に異なった2種類の歌詞がついていることによる)が印刷されています。このコラールは「フーガの技法」とは全く別に書かれたもので、内容も「フーガの技法」とは関係がなく、しかもニ短調の「フーガの技法」に対してト長調=下属調の同主調というやや縁遠い、続けて演奏するには座りの悪い調性であるせいもあるのでしょう、「フーガの技法」の録音は世上に数多(あまた)あるもののこのコラールは収録されていないことが多く、私が6種類持っている「フーガの技法」の録音の中でもこのコラールを収録しているのは1種類しかありません。新バッハ全集の「フーガの技法」の序文でも「最後のコラールは元来《フーガの技法》に属する曲ではないけれども、初版にならってここでも付加しておいた。」(音楽之友社版による)と完全に継子(ままこ)扱いですし、初版の序文にも「最後の未完のフーガの穴埋めとしてここに加えた」という内容のことが書かれているそうで、私もこのコラールは単なる埋め草と思っていて、わざわざ聞いたことはありませんでした。

<左は新バッハ全集「フーガの技法」(音楽之友社版)に収載されているコラールの最初のページ。左肩の注のHandschrift は手稿譜、Erstausgabe は初版のこと。この注からこのコラールの手稿譜は口述として不完全な状態で現存していること(途中までで中断しているらしい、後述)、初版には「われ苦しみの極みにあるとき Wenn wir in höchsten Noethen sein」というタイトルで収録されていることがわかります(古いドイツ語らしく Nöten の綴りが今と違う)。その下に「Canto Fermo in Canto」とあるのは定旋律(コラール主題)がソプラノ声部に出てくることを示します。楽譜全体は初版の状態を示しており、楽譜の中にはさまれた Handschrft: [楽譜] は手稿譜が初版と異なっている箇所で手稿譜がどのようになっているかを示しています。>

 ところで最近また「フーガの技法」の録音を入手しました(好きやねぇ ^^;)。エマーソン弦楽四重奏団による録音(DG 474 495-2:右写真)で、本来弦楽四重奏用に書かれたわけではない「フーガの技法」をなるべく譜面に忠実に演奏するために、通常のヴィオラより低音側が拡張されたテノール・ヴィオラという楽器を使用するなど凝った取り組みをしていて、演奏もとてもよい。で、この録音には例のコラールも収録されているので、ついでに・・・といった感じで何気なく聞いてみました。
 
  「フーガの技法」の最後、ヴィオラが演奏する未完のパッセージが(応答句を導くために)イ短調で無残にぶっつりと切れて沈黙があった後、一転してそれまでとは全く違う穏やかな音楽が流れ始めます。まずはヴィオラだけが単独で旋律を弾き始めます。ああ、フーガなんだ、と思いました。案の定ヴァイオリンが応答句で入ってくる・・・その瞬間、「おっ!」と驚きました。ヴァイオリンの応答句がヴィオラの旋律の反行形(上下転回された形)になっているのです。続いてチェロでヴィオラと同じ形の応答句が入ってきます。つまりコラール主題を支えるオブリガートが3声の反行フーガになっているのです。おおう、これはずいぶん手が込んでいるな!

<上記本文をスコアで解説しますと、まず第3声部(ヴィオラが担当)が単独でト長調のフーガ主題を出します【左図の「フーガ主題」】。するとすぐに第2声部(第2ヴァイオリンが担当)がこれに応答しますが、普通のフーガの応答句ならばフーガ主題がそのままの形で、ただし属調(5度上の調)のニ長調で入ってくるはずなのに対して、この場合は応答句がフーガ主題の上行と下行を逆にした反行形で出てきます【左図の「応答句(反行)】。フーガ主題が全体として上に凸になっているのに対して、応答句(反行)はフーガ主題に対して上下線対称の形をとり、下に凸になっているのがおわかりでしょう。さらにそれを追いかけて第4声部(チェロが担当)がフーガ主題と同じ形で、ただし属調のニ長調で入ってきて、3つの声部が3声の反行フーガを展開します【左図の「応答句」】。その上に第1声部(第1ヴァイオリン)がコラール主題の第1節を歌います【左図の「コラール主題(第1節)」】。コラール主題が終わると、再びヴィオラから3声の反行フーガが始まります。>

 しかし驚きはそれだけではありませんでした。コラールの3節目(多くの場合コラール主題は4小節かける4節の16小節でできていて、この曲ではそれぞれの節ごとにオブリガートが先行する形をとります)が終わり4節目を先導するオブリガートが、やはり3声の反行フーガで現れますが、このときは最初に入ってくるヴィオラの声部は音価(音の長さ)が2倍に引き伸ばされて示され、これに対する応答句は従前どおりの音価で入ってきます。つまりこの部分のオブリガートは2種類の時価(音符の長さ)による反行フーガという、それまでよりさらに凝った作りになっている!

<再び上記本文をスコアで解説しますと、第1声部(第1ヴァイオリン)が【コラール主題(第3節)】を歌い終わるとすぐに第3声部(ヴィオラ)が新しいフーガ主題を出します。ところで、上で見たとおりこれまでのフーガ主題は8分音符の動きでしたが、今回のフーガ主題は4分音符の動き、つまり音の長さが2倍に引き伸ばされてゆったりとした動きになっているのです【フーガ主題(2倍音価】。しかし第2声部(第2ヴァイオリン)の【応答句(反行)】と第4声部(チェロ)の【応答句】はこの2倍音価には対応せず従来どおりの8分音符の動きで入ってくるので、この3声反行フーガは4分音符ベースと8分音符ベースの2種類の流れが共存することになります。これを「2種類の時価によるフーガ」といいます。なおここには出てきませんが、さらに主題が2倍に引き伸ばされて2分音符ベースで現れたり、逆に2倍に圧縮されて16分音符ベースで現れたりすると「3種類 / 4種類の時価によるフーガ」という、かなり錯綜した事態になります。ちなみにここでいう「時価」は「公開時の株価による日本郵政グループ全体の時価総額は・・・」とか、昔の中華料理屋さんのメニューにあった「鯉の丸揚げ甘酢あんかけ  時価」といったおカネの問題ではなく、音符の長さの問題ですので、念のため。>

 この演奏を初めて聞いた時には、まさかこんなことになっているとは夢にも思わなかったので、手元にスコアを用意していませんでした。目を閉じて聞き入っていると、真っ暗な宇宙空間でそれぞれ逆方向にゆっくりと回転する巨大な銀河系が見えました。

 その後改めてスコアを見てみると、やはり耳で聞いたとおりアルト(第2声部;このCDでは第2ヴァイオリンで演奏)、テノール(第3声部;ヴィオラで演奏)、バス(第4声部;チェロで演奏)による3声の反行フーガの上に、ソプラノ(第1声部;第1ヴァイオリンで演奏)でコラール主題が演奏される形をとっていて、このコラール全体が次のような構造になっていることが確認できました。( )内は小節数、Atはアウフタクトを示します。

(1から7)第1節を導くオブリガート:3声の反行フーガ
(8から11)コラール主題第1節
(12Atから19)第2節を導くオブリガート:3声の反行フーガ
(20Atから22)コラール主題第2節
(23Atから29)第3節を導くオブリガート:3声の反行フーガ
(30Atから32)コラール主題第3節
(33Atから40)第4節を導くオブリガート:2種類の時価による3声の反行フーガ
(41Atから45)コラール主題第4節

 以上のように、これまでただの埋め草だと思っていたコラールが、実は思いがけず手の込んだ構造を持っていたことがわかりました。ところが話はこれで終わりません。
 私はせっかくなのでこのコラールの内容を知りたいと思い、おそらく十数年ぶりくらいに『コラール名曲集』(中村太郎・宮嶋市郎 刊行年不明 全音楽譜出版社)を引っ張り出してきて、このコラールを探してみました。幸いに Wenn wir in höchsten Nöten sein の歌詞で4声の譜面が載っていました(右譜例)。なるほどなるほど・・・と見ていると、さらに驚きの発見があったのです。
『コラール名曲集』の4声コラールの最上声部が元々のコラール主題=原主題(下の譜例参照)なのですが、まずバッハのコラールのコラール主題は原主題そのままではなく、多少装飾・変形されていることがわかりました。しかしそれは些細なことで、私が驚いたのはそのコラール主題を先導するオブリガートのフーガ主題が、実はバッハが創作したものではなく、それぞれの節の原主題の音価を圧縮しただけの、実にシンプルにしてピュア、混じりっけなし100%原主題由来のものであったということです。ですから普段からコ ラールの旋律になじんでいる人なら、たとえ曲名(Wenn wir in höchsten Nöten sein)を告げられなくても、このオブリガートを聞いただけで「あ、あのコラールじゃないかな」と思うのではないでしょうか。

<まずコラールの原主題を左に示します。多くの例にもれず、このコラールも4小節かける4節の16小節から成ります。>

<次にコラールの各節ごとに原主題とバッハのオブリガートのフーガ主題を対照してみましょう。左の図はコラールの原主題を節ごとに掲げ、その下にバッハのコラールでその節を先導するオブリガートのフーガ主題を置いたものです。オブリガートのフーガ主題は常に第3声(テノール声部)で提示されますが、新バッハ全集ではこの声部をアルト譜表で表記しています。そのため見た目上はト音記号で表記されている原主題と1音ずれているように見えますが、音としては同じ音(厳密には1オクターブ違う同じ音)です。
フーガ主題は音価的に圧縮されているために、原主題のリズムとは正確に対応してはいませんが、音高と旋律の上行・下行は(1オクターブ違いで)原主題と正確に対応していることがわかります。>

 つまりバッハはここで、コラールの各節ごとというごく短いものではあるが、所与の原主題以外のものは一切使わずに3声の反行フーガ(しかもその一部は2種類の時価による)に導かれる4声コラールという、小さなガラス細工のような手の込んだ対位法的作品を創作したわけで、この作り方はフリードリヒ大王から与えられた「王の主題」から多様なカノンやフーガを展開した「音楽の捧げもの」BWV1079 や、曲集全体を一つのフーガ主題で統一した「フーガの技法」といったより大規模な作品と共通する意識、あたかも地に落ちた一粒の種から枝葉を茂らせた大樹が育つように、「限定された主題から多様な展開へ」という志向と共通したもののように思われます。
 このコラールは確かに「フーガの技法」本編とは関係のない作品ですが、ただの埋め草と思って今まで聞かないでいたのはもったいなかった。改めてこのコラールの構造を示します。

(1から7)第1節を導くオブリガート:原主題第1節に基く3声の反行フーガ
(8から11)コラール第1節:原主題第1節を少し変形
(12Atから19)第2節を導くオブリガート:原主題第2節に基く3声の反行フーガ
(20Atから22)コラール第2節:原主題第2節を少し変形
(23Atから29)第3節を導くオブリガート:原主題第3節に基く3声の反行フーガ
(30Atから32)コラール第3節:原主題第3節を少し変形
(33Atから40)第4節を導くオブリガート:原主題第4節に基く2種類の時価による3声の反行フーガ
(41Atから45)コラール第4節:原主題第4節を少し変形

 バッハはオルガンのために多くのコラール前奏曲を書いていますし、カンタータの終曲にもしばしば管弦楽のオブリガートを伴った合唱によるコラール楽章を置いています(たとえばカンタータ第147番「心と口と行いと生活と Herz und Mund und Tat und Leben」BWV147の終曲で歌われる「主よ、人の望みの喜びよ Jesus bleibet meine Freude」など)。このコラールはわずか45小節の小品ですが、その構造分析を通じてバッハのコラール作品の創作の一端を垣間見た気がしました。

<最後に、下のリンクでこのコラールのオルガンでの演奏を紹介しておきます。「フーガの技法」の序文には、このコラールはバッハが死の床で知人(女婿(娘の夫)で弟子のアルトニコルともいわれる)に口述したものとされていますが、ヴァイマル時代に書かれたコラールをライプツィヒ時代後期に改訂した「18のコラール集」BWV651-668 の中に、BWV668 としてこれと全く同じコラールが収録されています。もっともこの BWV668「汝の玉座の前に今やわれは歩み出て Vor deinen Thron tret ich hiermit」は26小節で中断した断片で、後半部分は上で見てきた「フーガの技法」付属のコラールから復元した形で演奏されているようです(「バッハ叢書」別巻2『バッハ作品総目録』角倉一朗 1997 白水社 p.721 / p.978)。リンクでは BWV668 として演奏されています。演奏と一緒に流れる譜面はオルガン用の3段譜になっていますが、上段がソプラノ、中段の上がアルトで下がテノール、下段がバスの4部で、コラール主題は常にソプラノに、フーガ主題は常にテノールに出ます。>
https://www.youtube.com/watch?v=52RdshARXdg
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