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メニューインのバッハ
 先月(2015年8月22日)のことですが、土浦音楽院楽友会の演奏会でバッハの管弦楽組曲第2番を演奏する機会がありました。実はこの曲は私にとって個人的に思い出深い曲なのです。
 まず小学校の5年生の頃、岡山県倉敷市の小学校の合奏部で、第2曲の「ロンドー」と第6曲の「メヌエット」を演奏しました。私がフルートを始めたのがこの合奏部でのことなので、この曲もフルートで吹いたように思っていましたが、この時吹いたのはアルトリコーダーだったかも知れません。いずれにしてもこれがこの組曲との出会いでした。
 その後私は倉敷から転校して名古屋市の中学校で2年生になりました。ところがさらに東京に転校することになり、そのときに私がフルートを吹くことをご存知だった先生が「みんなの前で何か一曲吹いてくれ」とおっしゃったので、第3曲の「サラバンド」を伴奏なしで吹きました。40年前のこの中学校には吹奏楽部や器楽部などがなく、フルートを吹く生徒はあまりいなかったのです。

 このバッハの管弦楽組曲第2番を、子供の頃の私はユーディ・メニューイン Yehudi Menuhin 指揮のバース音楽祭管弦楽団 Bath Festival Orchestra、エレーヌ・シェーファー  Elaine Shaffer のフルートによる演奏で聞いていました。それはこのLP(カップリングは第3番)が当時のお小遣いの範囲で手が届くものだったという、いささか消極的な理由によるもので、特にこの演奏を選んだわけではありません。このLPは中学生の頃まではよく聞きましたが、その後めっきり聞かなくなり、今は処分してしまったか実家にあるかどうかすらわからなくなってしまいました。
 ところが最近になって、メニューインが指揮・演奏したバッハの管弦楽組曲全曲、ブランデンブルク協奏曲全曲、「音楽の捧げもの」、チェンバロ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲などを収めたCD7枚組のセットをネットの通販で廉価で入手し、思い出の管弦楽組曲第2番を、おそらく30年ぶりくらいに聞くことができました。また付属の簡略な解説書により、バース音楽祭管弦楽団やフルーティストのエレーヌ・シェーファーについても新たな知見を得ることができました。
 ユーディ・メニューイン Yejudi Menuhin は20世紀を代表するヴァイオリニストの一人であると同時に指揮者としても活躍しました。この一連のバッハの録音は、その多くがメニューインの40歳台にあたる1958年から1965年に行われ(ヴァイオリン協奏曲全曲が1958年10月と1959年7月、ブランデンブルク協奏曲全曲が1959年7月、管弦楽組曲全曲が1960年6月と11月、ヴァイオリンとオーボエのための協奏曲(チェンバロ協奏曲からの復元)が1962年4月、フルート、ヴァイオリン、チェンバロのための協奏曲が1965年6月と7月)、またチェンバロ協奏曲集の録音は彼の50歳台の1969年6月・7月・10月、1970年7月と1973年9月に行われています。なお3台のチェンバロのための協奏曲ハ長調 BWV1064 と4台のチェンバロのための協奏曲イ短調 BWV1065 は1956年6月に録音されていますが、これはメニューインの一連の録音とは全く別物で、ボリス・オード Boris Ord 指揮プロ・アルテ管弦楽団 Pro Arte Orchestra によるモノラル録音です。

 私の思い出の管弦楽組曲第2番が録音された1960年というと、その前年の1959年にジャン・フランソワ・パイヤールのパイヤール室内管弦楽団、クラウディオ・シモーネのイ・ソリスティ・ヴェネティ、ネヴィル・マリナーのアカデミー室内管弦楽団などが相次いで活動を始め、さらにそれ以前から存在していたカール・ミュンヒンガーのシュトゥットガルト室内管弦楽団(1945年設立)、イ・ムジチ合奏団(同1952)、カール・リヒターのミュンヘン・バッハ管弦楽団(同1953)、クルト・レーデルのミュンヘン・プロ・アルテ室内管弦楽団(同1953)なども活躍して、バロック音楽を主要なレパートリーとする合奏団が盛んに活動した時期でした。これらの団体はいずれも現代楽器による比較的小さいアンサンブルで、それまで一般に知られていたバッハ、ヘンデル、ヴィヴァルディ以外の作曲家の作品にまでレパートリーを広げたり、作曲当時の演奏様式やテクスト等に関する音楽学の研究成果を(折衷的・部分的にでも)演奏に反映させたり、チェンバロやリコーダー、ヴィオラ・ダ・ガンバなどの古楽器を取り込んだりしながら、今日の古楽演奏の基礎を築いていきました。アウグスト・ヴェンツィンガーが率いたバーゼル・スコラ・カントルム合奏団(同1934)、ニコラウス・アーノンクールのウィーン・コンチェントゥス・ムジクス(同1953)等、ピリオド楽器を使った古楽専門の演奏団体も活動していましたが、その演奏理念や美感が当時の一般的な嗜好と異なり、古楽に関する情報もまだ一般の好楽家の間に広まっていなかったため、現在ほど広く受け入れられるには至っていませんでした。
 メニューインの一連のバッハ演奏も当時のこうした潮流に乗ったもので、それ以前に一般的であったところの、大指揮者が大オーケストラを指揮し和声をたっぷり鳴らして豊麗に演奏するというスタイルではなく、小規模なオーケストラで通奏低音にチェンバロを加え、リズミックで引き締まったアンサンブルと対位法的な線の絡みを表に出したものになっています。「2つのヴァイオリンのための協奏曲ニ短調 BWV1043」(ソリストはメニューイン自身とクリスチャン・フェラス)の緩徐楽章ではポルタメントやモルト・テヌートの歌い込みが聞こえてやや違和感がありますが、それはどうやらフェラスの音のようで、逆に言うとメニューインのバッハが、当時一般的であった美音による歌を良しとする嗜好(当時売れっ子であったフェラスの音楽がそうであるように)とは一線を画したものであったことを示すものと言えるでしょう。
 使用楽譜としてはおそらく当時の一般的な通用版が用いられたと思われ、新バッハ全集時代の音を聞き覚えた耳で聞くと、ごく稀に「ん?」と思う音が聞こえる気もしますが、些細なことでもあり演奏が音楽的に豊かなので、それほど気にはなりません。ただし、奏者による何らかのカデンツァ(ヴァイオリンやチェンバロによる即興的な短いものが演奏されることが多い)が予定され、それを締めくくる和音二つだけが書かれているブランデンブルク協奏曲第3番の第二楽章には、英国の作曲家ベンジャミン・ブリテン Benjamin Britten のサジェスチョンにより、バッハのオルガンのためのトリオ・ソナタ第6番ト長調 BWV530 の第二楽章 Lento をヴァイオリン独奏(メニューイン)、ヴィオラ独奏(パトリック・アイアランド)と通奏低音用に編曲したものが使われています。もっともこの Lento は楽想が非常に内省的な上にそこそこ長いもので、どちらかというと小ぶりで快活な第3番の緩徐楽章としては少々重すぎるのではないかと私には感じられました。演奏時間もバッハがきっちり書いている第一楽章が6分02秒、第三楽章が5分32秒なのに対して、この第二楽章は6分58秒と最も長くなっていて、ちょっとバランスが悪い気がします。
 また、楽器編成や楽曲の演奏順に定説のない「音楽の捧げもの」は、ネヴィル・ボイリング Neville Boyling がバース音楽祭のために特に用意したバージョンによっているとのこと。このテクストを提供したボイリングという人は他にもヘンデルのオルガン協奏曲の編曲等も手がけていますが、もし同名異人でなければ、EMI のレコーディング・エンジニアのネヴィル・ボイリングではないかと思います。後述するとおりバース音楽祭管弦楽団の設立に携わり、この一連の録音にもチェンバロ・通奏低音奏者として参加しているロナルド・キンロック・アンダーソン Ronald Kinloch Anderson は EMI のプロデューサーでした。今日でも音楽家・演奏家としての高い技能や見識を持った人が CD の制作に携わることはまま見られることですが、巨匠メニューインと組んでこういう仕事をするとは、EMI にもなかなかの人物がいたということになりますね。

 このメニューインの一連のバッハは、現在の古楽の演奏水準から見れば使用楽器や演奏法、演奏様式などの点で多分に折衷的であり、オーセンティシティ(正統性)の面からはあまり高く評価されませんが、1950年代末から1960年代中頃の古楽の演奏水準にあっては決して見劣りするものではないし、演奏も堅実で音楽的にとても充実しています。ほとんど録り直しなしの通し一回で録音されたものか、まれにアンサンブル上のごく小さな乱れがありますが、それ自身が演奏のキズになってもいないし、またそれをいちいち切った貼ったで修正をかけていないために音楽の流れが途切れず保たれていて、まさしく楽興の時を共に過ごす思いです。

 さて、この一連の録音の演奏はバース音楽祭管弦楽団 Bath Festival Orchestra(とメニューイン音楽祭管弦楽団 Menuhin Festival Orchestra)にソリストが加わる形で行われています。CDセットの解説書によると、バース音楽祭管弦楽団はもともと1958年にEMIがメニューインにバッハのヴァイオリン協奏曲の録音を依頼した際に、コンサートマスターとなったヴァイオリニストのロバート・マスターズ Robert Masters と、EMIのプロデューサーでチェンバロをよくし、一連の演奏及び録音で通奏低音を担当したロナルド・キンロック・アンダーソン Ronald Kinloch Anderson がメンバーを集めて結成したものとのこと。結成当時はコンサートマスターの名をとってロバート・マスターズ室内管弦楽団 The Robert Masters Chamber Orchestra と名乗っていましたが、メニューインが1959年にバース音楽祭の Director に就任し、このアンサンブルも音楽祭に参加することになったためにバース音楽祭管弦楽団と改名したものです。同年にブランデンブルク協奏曲を音楽祭で演奏し、同時にこのセットに収められた録音を行った際には、オーボエ奏者のジャネット・クラックストン、ホルン奏者のバリー・タックウェル、ファゴット奏者のアーチー・キャムデン、ヴィオラ奏者のパトリック・アイアランド、チェロ奏者のデレク・シンプソン、コントラバス奏者のユージン・クラフト、ガンバ奏者のアンブローズ・ゴーントレットとデニス・ネスビットといった奏者が加わってソロを受け持ったそうです。
 ちなみに、メニューインが1968年のシーズンを以ってバース音楽祭の Director を辞した後は、このアンサンブルはメニューイン音楽祭管弦楽団 Menuhin Festival Orchestra と名を改めたので、1969年から始まったチェンバロ協奏曲の録音のクレジットはこの新しい名前に変わっていますが、実質的には同じ団体です。

 もう一つ、私にとって思い出深いフルーティストのエレーヌ・シェーファー Elaine Shaffer という人については、解説書には「魅力的なアメリカの女流フルーティストで、残念なことに若くしてガンで亡くなった」とあるだけですが、Wikipedia(英語版)などによると1925年10月22日アメリカのペンシルヴァニア州アルトゥーナに生まれ、独学でフルートを吹いていたが、カーティス音楽院で当時のアメリカのフルート界のドンであったウィリアム・キンケイドに学んでその才能を認められ、卒業後は1947年からカンザス・シティ・フィルの第2フルート奏者となります。実は彼女はこのポストには不満だったものの、オーケストラ伴奏で協奏曲を吹かせるという条件で1年だけ務めたそうで、このカンザスでのコンサートはシェーファーの優れた演奏と音楽性の高さで批評家や聴衆のみならず当時の音楽監督であったエフレム・クルツをも魅了し、二人は後年結婚することになります。
 シェーファーはカンザス・シティ・フィルの2番奏者からヒューストン交響楽団の首席奏者に転出し、1953年までこのポストを務めた後、アメリカ人女性初のフリーの(=オーケストラ等の団体に所属せず独立した)ソロ・フルート奏者としてロンドンでデビュー、ヨーロッパで多くの音楽祭に参加し、メニューインやチェンバリストのジョージ・マルコム George Malcolm などとの仕事も始まります。今回とりあげた一連の録音もこの時期の成果で、シェーファーは管弦楽組曲第2番、ブランデンブルク協奏曲第5番と「音楽の捧げもの」に参加しています。残念なことにその後肺がんに冒され、47歳の若さで亡くなりました。

 シェーファーがアメリカのオーケストラでの女性フルート奏者の先駆者であり、アメリカ人女性として最初のソロ・フルート奏者とされていることには少々驚きました。今でこそ女性のフルート奏者はオーケストラのメンバーとしてもソロ奏者としてもごく当たり前の存在なのに、1940年代から50年代のアメリカではそうではなく、彼女はそうしたキャリアを切り開いたパイオニアの一人だったということになります。確かにそう言われてみると、アメリカや日本で性差別の撤廃を求めるウーマン・リブ運動(Women's Liberation 女性解放運動)が広まったのは、1961年生まれの私自身の記憶にもあるくらいですから1960年代後半から1970年代にかけてくらいの時期であって、それ以前には男女間における雇用・労働機会の均等はまだ確立していなかったようですね。
 ちなみに同じくアメリカの女性フルーティストの草分けで、長くボストン交響楽団の首席奏者を務めたドリオ・アンソニー・ドワイヤー Doriot Anthony Dwyer は、シェーファーより2年半ほど早く1922年3月6日にイリノイ州ストリーターに生まれていますが、イーストマン音楽学校在学中や就職活動中に性差別(十分な実力を認められているのに学生オケの首席を吹かせてもらえない、他のフルートのメンバーが全員男性であるという理由でオーケストラへの採用を断られる等)を経験し、1952年にオーディションを2度要求される等の差別的な扱いを乗り超えて、実力でボストン交響楽団の首席を勝ち取ってからも、女性用の更衣室がない(彼女以外の唯一の女性メンバーであったハーピストは、自分がいつも更衣室がわりに使っているハープのケースを使わせてくれようとしたという)などの不利な条件を跳ね返しながら、ある意味体を張って活動を続けたそうです。まあヨーロッパの某名門オケなんかは20世紀の末頃まで女性を採らないのがウリ(?)で、それをありがたがって崇め奉ったファンも多かったし、かつては在京のプロオケにもそういう団体がありましたが。

 このCDセットに収められたシェーファーの演奏はいずれもバッハの作品ということもあって派手ではありませんがとても堅実で、特にフレーズが長くて呼吸を取るのが難しい管弦楽組曲第2番の第1曲も、シェーファーは粒のそろった音色で何の困難さも感じさせず、きっちりと吹ききっています。この時期のアメリカのフルーティストにしばしば見られる細かくてきついヴィブラートもあまり感じられず、私には好ましいです。というか、これが私が初めて聞いたフルートのソロの音なんですから、刷り込まれるわな(笑)。それから私は覚えていなかったけれど、組曲第2番のサラバンドでは、フルートとダブって動くヴァイオリンを前半後半それぞれ繰り返しのうちの前半の2回めと後半の1回めに休ませて、主旋律をフルートのソロにしています。私が中学校2年生のときに他でもないこの曲を吹いたのも、実はその美しさに感じ入っていたためだったのだろうか・・・あーやだ、ませたガキ!(恥)なお私の知る限りではジョン・エリオット・ガーディナー指揮イングリッシュ・バロック・ソロイスツの1983年の録音(ERATO)が、やはり前半の2回めと後半の2回めをフルート・ソロにしています。

 どこがどうってこともないんだけど、繰り返し聞いてしまう、メニューインのバッハ。着古した木綿のように、気軽にまとって身にそってくれる感じが、心地よい。
| オーケストラ活動と音楽のこと | 14:52 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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