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筑波海軍航空隊記念館とその周辺
 「筑波海軍航空隊記念館」(左は開館時のポスター)はJR常磐線の友部駅から南に2kmほど行った「県立こころの医療センター」の敷地内にあります。戦争関係の記念館が病院の敷地内にあるのは不思議ですが、実は順序としては逆で、病院の方が筑波海軍航空隊の跡地に作られたのです。

 ここはもともと大正7(1918)年に農林省(当時)の友部種羊場として開かれた所で、その後茨城県種畜場、日本国民高等学校として使われた後、昭和9(1934)年に霞ヶ浦海軍航空隊友部分遺隊が置かれ、練習機による操縦基礎教育を開始しました。その後友部分遣隊は昭和13(1938)年に筑波海軍航空隊(以下「筑波空」)として独立し、この年に司令部庁舎(ポスターに移っている建物で、現在記念館となっている)が完成します。
 筑波空は1945(昭和20)年の敗戦により解体されましたが、跡地と建物等の施設は旧制水戸高等学校、宍戸中学校、茨城師範学校に転用された後、昭和35(1960)年に茨城県立友部病院(現・茨城県立こころの医療センター)が開設されて現在に至っています。

<写真は昭和22年頃の筑波空跡地の空中写真。直角三角形と長方形などが組み合わさった白い図形状の部分は訓練用の滑走路で、大部分が現在も道路として残っています。筑波空はこの滑走路の左上側に展開していて、司令部庁舎を含む建物群が写っています(筑波海軍航空隊記念館のガイドブックから転載)。>

 県立友部病院の管理棟等に利用されていた筑波空の司令部庁舎は、県立こころの医療センターが平成23(2011)年に新病棟に移転した後も取り壊されず、敷地内にある号令台や供養塔等の筑波空関連の施設と一緒に残されました。またセンターの敷地の周囲には地下戦闘指揮所跡(土・日・祝日のみ公開)、無蓋掩体壕跡(見学不可)があり、当時の滑走路も道路になって利用されていますし、さらにJR水戸線の宍戸駅方面から開かれた「海軍道路」とその記念碑も現存しています。この一帯には筑波空に関連する戦争遺跡が多く残っているのです。

 ここが筑波空の遺跡として注目されるきっかけとなったのが平成25(2013)年12月21日に公開された映画「永遠の0」。「ALWAYS 3丁目の夕日’64」(平成24(2012)年1月21日公開)のロケでこの旧・司令部庁舎を使ったことがあった山崎貴監督が、「永遠の0」の撮影に当たって、作中の主要人物の宮部久蔵の実際の職場であった筑波空の旧・司令部庁舎でロケ(平成24(2012)年6月)を行い、それがきっかけとなって旧・司令部庁舎が「筑波海軍航空隊記念館」として公開されるに至ったのです。オープンは映画「永遠の0」公開初日の前日の平成25(2013)年12月20日。理由や事情は承知していませんが、今のところ平成27(2015)年3月31日までの期間限定公開の由。管理運営は筑波海軍航空隊プロジェクト実行委員会です。

 上述のとおり筑波空の前身は霞ヶ浦海軍航空隊の友部分遣隊でしたが、その本隊があった阿見町には航空隊内に置かれた予科練(海軍飛行予科練習生)の遺品展示を中心とした「予科練平和記念館」(平成22(2010)年2月オープン)があり、私も見学して、展示された「実物」の迫力に圧倒されました。
 しかし「予科練平和記念館」の建物は新しく建てられたモダンな建物です。これに対して「筑波海軍航空隊記念館」はその建物自体からして「実物」なわけで、これはぜひ見たい!しかも来年3月いっぱいまでの期間限定ですよ。早く行かなきゃ!
 というわけで、2014年10月29日(水)に、見学に行ってきました。
  「筑波海軍航空隊記念館」のホームページによると、友部駅から県立こころの医療センター行きバスで終点まで、またはその他のバスで友部第二小学校前下車と案内されていますが、地図を見ると友部駅から迷いようのない一本道で2劼曚匹覆里如駅から歩いて行きました。晴天無風で暖かく絶好のお散歩日和。ぶらぶら歩いて30分ほどで到着しました(写真は友部駅南口)。

 建物は白一色の2階建て(一部3階)。玄関の庇の真上にバルコニーがありますが、建物自体の凹凸はそれだけ。飾り気のない白い四角い箱に窓を開けただけの造りはモダニズム建築にも共通する手法ですが、モダニズムの明るく開放的な雰囲気はなく、いかにも軍関係施設らしい無口さをたたえています。
<右写真は建物全景。右側の窓が大きい建物は後の増築部分です。>

 玄関を入ると売店と受付窓口があり、ここでチケットを買い、床面に貼ったテープの矢印に従って見学します。【重要!】トイレは館内にはなく、屋外の仮設トイレを使うようになっているので要注意です。
 館内がどれくらいオリジナル(筑波空の司令部庁舎)の面影を残しているのかはちょっとわかりませんが、少なくとも天井や窓の高さはオリジナルであろうと思われます。以下建物中心に見ていきます。

<左:建物東端の階段。石の手すりの重厚な階段ながら、背の高い窓のおかげで意外と明るい。>

<右:2階の廊下。建物の長軸の中心に廊下が伸びてその両側に部屋がある作りは1階も同じ。決して広くはないが天井が高いためか圧迫感はあまりない。配管やダクトはオリジナルではなく後世のものと思われますが、それを差し引いても古い病院の廊下みたいな雰囲気なのは壁が白だから?>

<左:2階の南向きの展示室の室内の例。窓が大きいので外光がたっぷり入り、内装が白のため明るい。天井が高いのが贅沢。白の内装がオリジナルかどうかはちょっとわかりませんが、工場みたいな立派な梁はオリジナルであろうと思われます。北向きの展示室も作りは同じですが、日が入らないので雰囲気はちょっと暗いです。>

<右:旧・指令室。さすがに広い。これは東側を向いて撮っています。正面の黒い扉は書庫で、扉を開けると壁一面に棚が取り付けてあります。腰板も黒っぽく、その上の壁はグレーで、先ほどの展示室とはちょっと雰囲気が違います。書庫扉や腰板、グレーの塗装がオリジナルかどうかはわかりませんが、おそらく先ほどの展示室ももともとの内装は真っ白ではなくもっと黒っぽい感じで、病院に転用された際に白に変えられたのではないだろうか。>

<左:同じく旧・指令室。上の写真とは逆に西側を向いて撮っています。奥の扉(開放中)は隣の旧・副官室に続いています。>

<右:旧・指令室の書庫の前に設置されているキャビネット。しかしこれ、実は(少なくとも今は)キャビネットではなく、正面の扉を開くと中に洗面台(ごく普通の白い陶器のもの、蛇口つき)とその他の部材がごちゃごちゃっと隠れていて、つまりこのキャビネット状のものは洗面台の目隠しなのでした。
 確かめたわけではありませんが、これだけの建物なら当然設置されているはずのトイレ(実際それっぽい扉はいくつかあるが立入禁止)が使えなかったり、洗面台が目隠しされていることなどから考えると、この建物の給排水設備は何らかの理由で現在使えない状態、または使わない設定になっているのであろうと思われます。>

<左:ロケ再現部屋。映画を見てない(私は映画やドラマは見ない人です)ので確(しか)とはわかりかねますが、医務室か何かのセットのようです。実際にここがオリジナルの医務室(?)であったかどうかはわかりません。天井から下がっている灯りには灯火管制用の黒い布がかけられていますが、あれ、蛍光灯は?・・・たぶんロケの時は蛍光灯は外してたのではないでしょうか。一応1941年には東京芝浦電気(現・東芝)から「マツダ蛍光ランプ」が発売されていたようですが、蛍光灯だからといって灯火管制しなくていいわけはない。>

 一方、館内の展示はややちぐはぐな印象でした。当時の部品を組み合わせただけの(復元されていない)零戦や、零戦の胴体後部、当時の飛行機のプロペラ(私は知らなかったのですが木製なのね!)、計器等を始め、さまざまな遺品、旧・指令室や副官室のたたずまい等は「実物」ならではの力で迫ってきますが、戦闘機や艦船のx分の一の模型をずらりと並べた展示は、何かちょっと違うかなぁという気がしました。模型に「実物」が放つオーラがないから、というわけではなく、たとえば「予科練平和記念館」で見た人間魚雷「回天」の実物大断面模型には、「これは・・・」と絶句するほどの力がありましたが。

<左:復元されていない零戦前部。重くてはいけない、重い方が性能が劣りかえって危険なんだと頭ではわかっていても、こんな駕籠みたいな骨格だったとは衝撃的。いくら金属板貼ったってそれがまた薄いんだし・・・やっぱり必死で腕を磨かないと生き残れない。>

<右:零戦実機の尾部。「JAP ZERO TAIL」と書いてあるので、これは撃墜された残骸ですね。これを見ると外装の金属板が剥落したりめくれたりしているのに対して、骨格は丈夫でよく残っているように見えます。さすが日本品質・・・ったって、資源がなくては作れないのだし。>

 前述したとおり、現在の県立こころの医療センターの敷地内には「筑波海軍航空隊記念館」=旧・司令部庁舎以外に、号令台と訓練中に亡くなった隊員の供養塔が当時のまま残っており、神社の跡も残っているようです。また敷地外にも地下戦闘指揮所跡、滑走路跡が当時の面影を残しています。しかし残念なことにこれらの施設・遺跡への案内は、地下戦闘指揮所跡(土・日・祝日のみ公開)を除いてはあまり充実していないように感じました。玄関前の掲示やガイドブック(有料)をよく見ればどこに何があるのかがわかるのですが、それが一枚ものの地図になっていて無料でもらえるという風にはなっていなくて、私のように事前の準備なくふらりと訪れた一見さんが地図を見て「おお、あっちにもこっちにもこんなものが!」と喜んで見て回る、というふうにはなっていないのです。
 私の場合は記念館を見た後に外のトイレに行こうとしてその途中にある号令台に気付き、さらに帰ろうとしてふと「供養塔→」という小さな看板に気付き、「供養塔って何だ?」とそちらの方へ行って供養塔に詣でることができましたが、神社跡は後でガイドブックを見て初めて存在を知り、滑走路跡は見たかったのですが案内板等が見つからずたどり着くことができませんでした。しかも号令台と供養塔にはその脇に説明板が設置されていましたが、私が出た県立こころの医療センター裏門(しかもそのありかも守衛さんに聞いてわかった)はガイドブックに「旧隊門跡」と表示されているのに、説明板等は見当たりませんでした。うーん、せっかく戦争遺跡が集中しているのにPR不足ですよ。こういうところがほんとに残念だなあ。

<左:玄関前の掲示板。どこに何があるのかわかりやすく書かれていてとてもよいのですが、これを一枚ものの地図にして持ち歩けるようにしてほしいものです。>

<右:号令台。説明板付き。説明文を転載します。
「この号令台を前に多くの隊員が集会を行いました。柵は無くなりましたが、現在も当時のままの姿を残しています。裏側から内部に入れる構造になっています。元隊員の方のお話では、満開に咲き乱れる桜の季節は、号令台周辺もそれは見事な景色だったそうです。グランドに併設した兵舎には多くの隊員が在籍し、終戦間際の昭和20年(1945)4月頃は、2500人以上が在籍していました。」
 案内板の上部の写真には木造の建物が写っていて、これが説明文中の兵舎と思われます。司令部庁舎の東側に接して建てられていたようです。現在は取り壊されて旧・司令部庁舎の増築部分が建っています。>

<左:号令台の裏側。説明文のとおりドアがついていて号令台の中に入れるようになっていますが、何のためなのか?物置代わり?
 写真では号令台の左側に仮設トイレが写っています。上述のとおり記念館内にはトイレがなく、この仮設トイレを使います。>

<右:供養塔。説明板つき。旧・司令部庁舎の裏手にあります。説明文を転載します。
「昭和13年(1938)から筑波空で司令を務めた古瀬貴季中佐の指示で、訓練中に亡くなった隊員の為に建てられた供養塔です。
 現在では、掘り込んだ文字も読みづらくなってしまいました。
供養塔を建てた古瀬中佐は、フィリピンで連合軍に捕らえられBC級戦犯として死刑判決を受けますが、
「ああ、モンテンルパの夜は更けて」のレコードを出した流行歌手・渡辺はま子が戦犯の減刑を嘆願し、恩赦によって帰国する事ができました。」
 「あゝモンテンルパの夜は更けて」は昭和27(1952)年に渡辺はま子・宇都美清の歌で発売されました。「モンテンルパ」はフィリピンのマニラ近郊の都市で、当時ここにあったニュービリビット刑務所に日本人捕虜百数十人が戦犯として収容されており、「あゝモンテンルパの夜は更けて」の作詞の代田銀太郎、作曲の伊藤正康もともに刑務所の囚人でした。この歌がきっかけとなって、収容されていた戦犯全員が日本への帰国を果たすのですが、その経緯はこちらをご覧ください。
供養塔の前には小さな仏像と花が供えられていました。>

 この日見学したのは以上です。周辺も含めて見どころがたくさんあるので、見学ポイントを一枚にした地図と、できれば旧・司令部庁舎のオリジナルの部屋割り平面図とかあるといいなあ、と思いました。
 展示に関しては「予科練平和記念館」ほどの訴求力が感じられなかったのがやや残念でした。ホームページも何となくごちゃごちゃしていて見にくく感じました。豊富な見どころやエピソードがすっきり整理されると、展示もホームページももっと迫力が増して見やすくなると思います。

 見学しているうちにお昼を回ってしまったので、再び友部駅まで歩きながら途中で食事して帰りました。今回見ることができなかった滑走路跡の道路や「海軍道路」とその記念碑などを見るために、ぜひもう一度来たいです。次回は車に自転車を積んで来ると、楽にあちこち回れて便利だと思う。

<左:途中で発見したマンホール蓋1号。「友部笠間下水道」とありますが、このあたりは旧・友部町で、2006年に旧・笠間市、旧・岩間町と合併して現在の笠間市になりました。笠間といえば笠間稲荷に菊まつり、笠間焼(陶芸)というわけで、菊ですよ。ちなみに旧・笠間市と旧・友部町の花も菊だったそうです。>

<右:途中で発見したマンホール蓋2号。こちらは菊とうぐいす、よく見ると桜の花も散らしてあります。菊・うぐいす・桜はそれぞれ現在の笠間市の花・鳥・木なのです。ちなみにうぐいすは旧・友部町の鳥、桜は旧・岩間町の木だったそうです。合併した自治体っていろいろ気を使うのね・・・。>

<左:友部駅近くの「小伊勢屋」。筑波空の教官を務めた山岸昌司・飛行兵曹長という方が下宿していたという「旧友部町の小伊勢屋」とはここかな、と思って撮りました。小伊勢屋さんが山岸さんの戦死した後も大切に保管していた遺品が、2012年に山岸さんの姪に引き取られて70年ぶりに里帰りしたというエピソードが館内展示やガイドブックで紹介されています。>

<右:「小伊勢屋」よりさらに友部駅近くの「伊勢屋旅館」。ガイドブックには「宍戸の町(現笠間市宍戸)は飛行場建設によって、大工さんや人夫で溢れ、飲食店、理髪店、雑貨商などができ、運送業、料理店、旅館などの需要も高く、下宿先として海軍兵を預かる家もあり、町は基地によって栄えました。」とありますが、もちろん友部の町にも同様な事情があったことでしょう。伊勢屋旅館もその頃から続く旅館ではないでしょうか。>

<この日ゲットしたものたち。下左から反時計まわりに紹介します。ます下左は入場時にいただいたパンフレットですが、たまたまこの日を含む10日間は「主にお子様を対象に試験運用していた『筑波海軍航空隊記念館オリジナル アトラクションパンフレット』」に差し替えられていました。これは館内に隠されたキーワードをつないでクイズの問題文を見つけ、これに正解すると「攻略の証」がもらえるという特典つき。でも普通のパンフレットもほしいぞ。やっぱりもう一度行かなくちゃ。下右は有料のガイドブック(500円)、情報満載。
 上右は茨城県を代表するスナック菓子メーカー「リスカ」の「うまい棒」(コーンポタージュ味)。これはその左の「クリアの証」とともに、『筑波海軍航空隊記念館オリジナル アトラクションパンフレット』のクイズにみごと正解した賞品なのだ!(笑)その左は入場券。大人500円です。上左は館内の売店で買った「たのくろ豆」の甘納豆。売店には笠間のお土産もおいてあります。「たのくろ豆」は在来品種の大豆で、田の畔(くろ)に植えられるのでこの名がついたそうです。少々青みがかった色あい、大豆なのでちょっと硬めの歯ごたえ、グラニュー糖はかかっていません。「たのくろ豆」は生育期間が長く、10月頃に枝豆として収穫されるのがおいしいらしいのですが、甘納豆もおいしいです。また買おう。>
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