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2014年7月30日に日立市大甕(おおみか)めぐり(その1)
 日立市大みか町(住居表示は「甕」が平仮名になる)の某大学に勤める家内が、体調が悪いけれども休めないと言うので、大学まで送り迎えすることになりました。しかしつくばから日立までは往復だけで2時間以上、高速料金もそれなりにかかり、ただ送り迎えで2往復するのも勿体ないし、大甕という所はこれまで未踏の地であったので、この機会に半日ばかり大甕周辺を歩き回ることにしました。しかし大学の先生っていうのもなかなかハードなのね・・・

 普通は突然知らない街(それもかなーり田舎の方の)にぽんと降ろされて、ここで半日過ごせと言われてもちょっと困ってしまいますが、実は大甕にはそれなりに見どころがありまして、こんな本(左写真『懐かしの街さんぽ(懐かしの街さんぽ製作委員会 編 2013 幹書房))にも駅の東側(海側)を回るモデルコースが出てます。今回は暑い折でもあり、モデルコース(8.9km)の前半部分を歩き、銅像と日立おさかなセンターが主な見どころである後半は省略して大甕駅へショートカットすることにしました。実際にはスタート地点が大甕駅ではなくその西側の大学だったし、大甕駅までの戻りの歩きも加わった(モデルコースではおさかなセンターから大甕駅までバス利用)ので、歩いた距離はたぶんモデルコースとそんなに変わらない、というかむしろ長かったかも。
 なお書いてみたらずいぶん長くなってしまいそうなので、その1とその2に分けてアップしようと思います。内容的には前半の「その1」は神社・淡水編、「その2」は海・街編ということになります。
1.大甕神社
 まずは駅の西側にあってモデルコースには含まれていない大甕神社を訪れます。ところがここには案内板等が見当たらず、御祭神がどなたかもこの場ではわかりませんでしたし、拝殿の右側に「宿魂石」という巨石(何となく憚られて写真は撮ってない)がありますが、これの由来もわかりませんでした。それだけ地元密着で観光地化されていないということでしょう。しかし帰ってきてから改めて調べてみますと、大甕神社も宿魂石もそれぞれただならぬ由緒あるものであることがわかりました。

 まず大甕神社の祭神は武葉槌命(たけはつちのみこと)という神で、この神は『日本書紀』巻第二(神代下)、高天原の神たちが皇孫ホノニニギを葦原中国(あしはらのなかつくに)に降臨させ治めさせるのに先立ち、フツヌシ(香取神宮の祭神)とタケミカヅチ(鹿島神宮の祭神)の二神を下してあらかじめ葦原中国を平定させる場面に登場します。フツヌシとタケミカヅチは出雲のオオナムチに国を譲らせたのを皮切りに、皇孫の支配に逆らいそうな邪鬼・鬼神等を片っ端から服従させるのですが、たった一人、星の神カガセオという者だけはどうしても従わせることができません。
「其の服(うべな)はぬ者、唯星神香香背男(カガセオ)のみ、故(か)れ又、倭文神(しずりかみ)武葉槌命を遣(つか)はせば則ち服(うべな)ひぬ。」と。つまり歴戦の勇士フツヌシとタケミカヅチすら手を焼いた強敵カガセオ対策として特に派遣され、無事服従させたのが武葉槌命(タケハツチ)で、大甕神社はこのタケハツチを祭神としているのです。

 しかしなぜこのタケハツチがここ大甕神社の祭神となっているのでしょうか。『日本書紀』巻第二の上記の部分の少し後に、さらに次のような記述があります。
「一書に曰く、天神(あめのかみ)、経津主(フツヌシ)神、武甕槌(タケミカヅチ)神を遣して葦原中国を平定(しづ)めしむ。時に二神(=フツヌシとタケミカヅチ)曰く、天に悪神あり、名を天津甕星(アマツミカボシ)と曰ふ、亦の名は天香香背男(アマノカガセオ)。請ふ先づ此の神を誅(つみな)ひて、然して後に下って葦原中国を撥(はら)はん。」つまり『日本書紀』本文とは別の伝え(一書)では、フツヌシとタケミカヅチは葦原中国に下りる前に「天神族の中にカガセオという悪い奴がいる、まず彼を成敗させてください、それから葦原中国に参ります」と願い出たというのです。ここではカガセオは高天原の神たちと同じ天神(天・アマノという接頭語が付けられている)であるにも関わらず「悪しき神」であり、しかもカガセオは「亦の名」で、本名はミカボシ(天津・アマツは接頭語)ということになっています。
 さらに「大甕倭文神社のしおり」という資料に「抑(そもそも)大甕の地は当社の御縁起に甕星香々背男と称する屈強なる悪神が占拠していた所であったために称する地名であると伝えられております。」とあるのを合わせてこれらの情報を総合すると、タケハツチは悪神ミカボシ−カガセオが占拠していたためにオオミカと呼ばれていた大甕の地を、その悪の手から解放した英雄神であるわけで、なるほど大甕神社の御祭神とするのにこれ以上相応しい神はいらしゃるまいと思われます(この「大甕倭文神社のしおり」という資料は私は直接見ていませんが、このHPの最後に転載されています)。
 またこの「大甕倭文神社のしおり」によると、拝殿の右手にある「宿魂石」はこのミカボシ−カガセオの荒魂を封じ込めた石であるということで、うーむ、何となく憚られて「宿魂石」の写真を撮らなかった私って意外と霊感強い???そして当社はもともとタケハツチの墓所と伝えられる大甕山上にあったのを、神社の由緒の重大なることが水戸光圀公によって認められために、藩命をもって現在の「宿魂石」上に遷されたのだそうです。それはつまりミカボシ−カガセオの霊威が後世に至るまで相当畏れられていたということなのでしょうか。
 そして現在の大甕神社は、どういう経緯かわかりませんが国道6号によって境内が分断されているそうで、国道の向こう側にも境内が続いているらしい。今回は上に述べた神話的背景を含めて何の事情も知らずにお参りしたために、国道の向こう側の部分はお参りしていません。機会があればまたお参りしてみたいと思います。深い由緒を持ちながら自ら語らない、奥ゆかしい、しかし何となくただならぬ気配の漂う神社でした。
 またこの神社を取り巻く樹叢は天然記念物に指定されています。これに関しては案内板がありましたので、文面を転載します。

日立市指定文化財天然記念物第一号
天然記念物 大甕神社境内樹叢(おおみかじんじゃけいだいじゅそう)
                                           昭和四十六年四月二十二日指定
 この樹叢は、常磐線大甕駅から西方五百メートルのところに位置し、背後に多賀山地をひかえた温暖な環境のところにあります。神社の東側に位置する市道は旧岩城相馬街道で、樹叢の景観と相まって、どことなく昔の街道の雰囲気を残しています。
 この樹叢の特徴は、東側のアカマツ林をのぞけばスダジイ(ブナ科)の優占する常緑広葉樹林で、最大のものは目通り幹周三・五メートルにおよびます。
 林内には、スダジイの中にタブ、アカガシが混在し、またスダジイの下にはモミジ、イチゴ(筆者注:モミジイチゴの誤り?)、コゴメウツギ、コアジサイ、ヤブコウジなどの低木が多く、草木(筆者注:草本の誤り?)にはチゴユリ、オオバジャノヒゲ、ヤブラン、ミズヒキなどが主なものです。また、林内にはツルマサキ、サカキ、ビナンカズラ、ツルグミ、サンゴジュ、シロダモ、ユズリハのような暖地性植物も繁茂しています。
 故山口隆太郎氏(茨城キリスト教短期大学教授)の調査「大甕倭文神社境内の植物」(同大学紀要第七号一九六七)によると、確認された植物は、シダ植物六科十種、種子植物七十八科二百七種です。
                                                 日立市教育委員会

 以上です。ミカボシ−カガセオの霊威と地元の信仰に守られて、良好な環境が残されたものと思われます。

 というわけで、その時は何も知らずに大甕神社のお参りを済ませた私は、国道6号から森山町の跨線橋を渡って常磐線の東側へ出て、モデルコースの最初の目的地である泉が森を目指しました。

2.泉が森・泉神社
 モデルコースでは泉が森へ西側から入るようになっていますが、モデルコースの道は大みか二丁目西の交差点からけっこう細い道へ入るのです。しかし紙面の地図では道の太い細いがよく表現されていないので、私はモデルコースとは違う太い道をたどってしまい、ちょっと遠回りして東側から泉が森に入りました。この地図だけで一発でモデルコースどおりに泉が森に行ける人がいたら尊敬するわ!(笑)
<左は泉神社の鳥居から拝殿への参道。両脇に赤い旗が立ち並んで壮観でした。>

 泉が森には湧水と泉神社があります。ここには教育員会の案内板が立っていますので、例によって文面を転載します。

 茨城県指定文化財(史跡第二十三号)
                                            昭和四十四年十二月一日指定
泉が森
 こんもりと生い茂った常緑樹に囲まれた区域、泉神社境内一帯が史跡として指定されています。
 泉が森については、奈良時代に編さんされた、「常陸国風土記(ひたちのくにふどき)」に次のように記されています。
此より東北のかた二里に密筑(みつき)の里あり。村の中に淨泉(いずみ)あり。俗(くにひと)大井(おおい)と謂う。夏は冷かにして冬は温かなり。湧き流れて川となれり。夏の暑き時、遠邇(おちこち)の郷里(むらさと)より酒と肴(さかな)とをもちきて、男女会集(つど)いて、休(いこ)い遊び飲(さけの)み楽しめり。(原文は漢文)
 密筑の里は、いまの水木の呼称で、淨泉・大井とは、神社の北側に湧出している泉のことです。周囲が五〇メートルほどある泉のほぼ中央部からは、今も青白い砂を吹き上げながら、絶え間なく清水が湧き出しています。水温は夏冬ともに約十三度で、「風土記」に記されているとおり、「夏冷冬温」です。
 泉神社は、平安時代初期の編修である延喜式神名帳にも記載されている由緒ある神社で、天速玉姫命(あめのはやたまひめのみこと)を祭神とし、古くは天速玉姫命神社、さらには泉大明神とも呼ばれていました。
 神社には、「水木のささら」(県指定無形民俗文化財)や「当屋祭(とうやさい)」が伝えられています。
 ささらは、泉神社の出社に際して、露払いとして神輿を先導し、村の五穀豊穣、浜大漁及び住民の安泰を祈願する獅子舞です。
 また、当屋祭は、専業の神職をもたず、村人だけで神事を行っていた、古い時代の名残りとみられる珍しい行事です。
                                                 日立市教育委員会

 以上です。また「日立のささら(水木ささら)」について別の案内板がありましたが、こちらの転載は省略します。

 また拝殿の脇にある「泉神社拝殿造営記念碑」(昭和五十八年六月吉日)の碑文中に、当社についてやや詳細な記述がありましたので摘記します(右は拝殿)。

泉神社拝殿造営記念碑
 和泉神社は 延喜式内常陸国二十八座中の一座 久慈郡七座中の一座で 崇神天皇の御代この地に鎮祭祀されたと伝えられる由緒深い旧郷社である 社記には 古老曰く 社の側に神井あり いま泉河と云ふ 上古霊玉此地に天降り 霊水湧騰して泉をなす 号けて泉川と云ひ 霊玉を以て神体とす とあり 祭神はこの霊玉の神格化した天速玉姫命と伝えられ 延喜式神名帳には当神社を天速玉姫命神社と記している (中略) さらに享禄三年には佐竹義篤が社殿を造営し 社号を泉大明神と改め 続いて永禄三年には佐竹義昭の社殿屋根葺替 江戸時代には徳川光圀の修理 奉財が行われた(後略)

 以上です。ここにも光圀公が出てきました。さすがは黄門さま。なおこの碑によると当社の社殿は昭和35(1960)年に本殿を残して焼失し、昭和58(1983)年に至ってようやく拝殿・神輿・神輿舎・玉垣等を造営・改修することができたとのことです。

 拝殿に参拝してから拝殿に向かって右側へ下りると、弁天堂かと思われるお堂の左右に池があり、右手の池からは小川が流れ出しています。お堂の左側で湧き出した水が右側へ流れて小川となっているようです。

<左写真はお堂の左側、右写真はお堂の右側の池。例のガイド本その他の写真で想像していたのよりも、ぶっちゃけささやかな池でした・・・広角レンズで、しかも池の端から端まで全部入れないで画面の外への広がりを感じさせるように撮ると広く見えるのね。勉強になりました。>

<左写真はお堂の右側の池から流れ出る小川。手前から奥へ向かって流れています。表面の反射がないとあるのかないのかわからないくらい透明できれいな水です。右写真は再びお堂の左側の池。奥の青白く見えるあたりの水底から、砂を吹き上げながら水が滾々と湧いています。ほんの一瞬ですが動画も撮りました(いつまで撮っていても絵柄的に変化がないので、一瞬ね (^^ゞ)。



 ここは木陰の水辺ということで涼しいのではないかと期待したのですが、この日は期待したほど涼しくなかった上に蚊が多く、十数分の滞在中に腕を6,7か所刺されました。酒肴を持ち寄って楽しんだという古代の近郷近在の男女も、さぞ蚊には悩まされたのではないだろうか。

 さて、この泉が森の湧水から流れ出した小川は多少蛇行しながら東へ流れて海に注ぐのですが、湧水からこの小川沿いがこの辺りで一番低い谷筋で、それ以外の所は海面から10〜25mほど高い台地になっており、海に向かっては切り立った崖になっているのです。泉が森から程近い水木海水浴場へ向かうと、その様子がよくわかります(以下、その2へ続く)。
| 地域とくらし、旅 | 21:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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