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取手駅から台宿、本多作左衛門重次の墳墓
 梅雨空の七夕から一転梅雨の晴れ間となった7月8日の朝、つくばバスターミナルに高速バスの回数券を買いに来たら、どうも散歩の虫がうずきます。あてもなくつくばエクスプレスに乗り込んでから、東京まで出ようかそれともどこか途中で・・・そうだ以前から気になっていた常総線の騰波ノ江(とばのえ)や大宝(だいほう)の辺りをぶらぶらしてみようと思い立ち、守谷で下車。ところが大宝までは片道1,030円もするし、さらに土・日・祝日に一日フリーきっぷがあることがわかったので、騰波ノ江・大宝はまたの機会に譲ることにしました。しかしこのまま守谷から戻るのもつまらないし、出鼻をくじかれて遠出する気分も萎えてしまったので、とりあえず常総線で取手へ。

 というわけで特にあてもなく取手に来ました。取手といえば駅の東側を旧・水戸街道が通っていたはずですが、下調べも何もしていないので、それがどこをどう通っていたのか全然わかりません。まあとにかく東の方へ行ってみれば何かあるべと思い定めて東を目指すことにしました。常総線からぽんと降りて西口に出てしまったため、駅ビルをぐるっと回って跨線橋を渡り、そのまま真っ直ぐ細い道をとにかく東を指して進んで行くと、ちょっと広い道にぶつかりました。角のところに「台宿中地区自主防災会倉庫」と書かれたプレハブ倉庫と、「茨城県指定史跡 本多作左衛門重次墳墓 ↑ 600m」と書いた案内柱が立っています。ほれー、何かあったっぺよ!

  本多作左衛門重次という人がどういう人か全然知りませんが、お墓が県指定史跡になっているくらいの人だから名のある方に違いない。600mなら歩くにも手頃だし、ひょっとしたらお墓が街道筋にあったりして・・・というわけで、さっそく矢印の方向へ。
 道は比較的新しい住宅の建ち並ぶ中をややうねりながらどんどん下っていきます。このあたりは台地に樹枝状に小さい谷が食い込んでいる、関東地方に広く見られる谷戸(やと)・谷津(やつ)・谷地(やち)などと呼ばれる地形のようです。今たどっている道は防災会倉庫と案内板があった台地上(宿というくらいですから高い所にある)から谷の一つを下っているのです。

<左写真は道を下りながら振り返って撮ったもの。ここに写っているさらに向こうもずっと坂が続いていて、2〜300mにわたって下り坂が続きます。右写真は道を下りながら右手側を撮ったもの。台地面から7〜8mも下りているでしょうか。>

 やがて谷の底と思われるレベルに下り着きました。正面に台地上に登り返す坂があり、見た目で比高10mくらいはありそうです。いやーあれを登るのは大変だ・・・とりあえず私は水が低きにつく如く易きに流れて、坂の手前を右に曲がり道に沿って進んでいくと団地に出ました。「取手井野団地案内図」という案内板が出ています。

<左写真は谷底から台地上に登り返す坂。結構急に見えるし、用がなければ登りたくないですよね・・・。下右写真は取手井野団地。ここから奥に大小約100棟が建ち並びます。団地が建つ前はほぼ団地の敷地の形の池だったそうですから、やはりこの一帯は台地に低湿地の谷が入り込む、典型的な谷戸地形だったのです。早くから排水・干拓できていれば東隣の青柳や長兵衛新田と同じく水田になったのでしょうが、排水路として適当な小河川が近くになかったために永く池のまま残ったものと思われます。>

 私の経験上、団地の敷地内にはお墓はありません。江戸時代のお侍の墓とておそらく同じでしょう。団地の敷地は既存の墓地を避けるのです。これは参った、どこかで道標を見落としたか、それとも(あってはならないことですが)肝心なところに道標が設置されてなくてたどり着けないようになってしまっているのか・・・いずれにしてももう600mくらいは歩いているし、本多作左衛門重次の墳墓は少なくともこの道の先にはなさそうだと見切りをつけて、来た道を戻ります。

<左写真は団地の向かい側。すぐ台地になっていて、比高は10mを優に超えるでしょう。>



 ところが先ほどの谷底から登り返す道との分岐まで戻って来たところで何気なく坂の方を見ると、おや、電柱に何か看板が・・・え、こっち?これ登るスか・・・はぁぁ・・・

<右写真は先ほどの台地上へ上り返す坂のたもとに立つ電柱上に取り付けられた看板を拡大してみたところ(もっとも拡大部分は実は看板だけを別に撮った写真ですが)。ご覧のとおり「100m先右へ」とある矢印は無情にも坂そのものを指し示しております。しかも100m先ということは、この坂全部、途中までじゃなくて完全に坂の上まで登るってこと・・・ですよね。>




 坂の上まで登り着いてすぐの角を右へ曲がると、そこにもまた比較的新しい住宅が建ち並んでいます。ちょうど先ほど団地の前から見上げた台地の上に今いるわけです。ところがここにはただ住宅が建ち並んでいるだけではなく、道に沿って桜が数本並木状に植わっていて、それが皆少なくとも樹齢数十年は経ったもののようです(左写真)。むむ、これは何かある・・・と道を進んでいくと、突き当りにありました。ひときわ大きな桜の古樹に守られるように石碑と案内板が立ち、その奥に石造りの墓標。茨城県指定史跡の本多作左衛門重次墳墓(ほんださくざえもんしげつぐふんぼ)です。

以下案内板の文章を転載します。( )内は案内板にあるフリガナです。

茨城県指定史跡
本多作左衛門重次墳墓(ほんださくざえもんしげつぐふんぼ)

 「一筆啓上火の用心お仙なかすな馬肥やせ」の手紙で有名な徳川の旧臣本多作左衛門重次の菩提寺(ぼだいじ)は青柳にある光明山本願寺である。
 重次はあだ名を鬼作左といい、三河国大平村に生れ、九才にして家康の祖父松平清康に仕え、のち家康に仕えて当地に移り三〇〇〇石を領していたが文禄五年七月十六日六十八才を以って病没し、遺骸を俗にお墓山(桜ヶ丘)と称する寺領の丘地に埋葬され、昭和九年県史跡に指定さる。
 お仙というのは重次の長男仙千代のことで、のちに越前丸岡四万三〇〇〇石の城主本多飛騨守成重(なりしげ)のことである。
 本願寺には徳川家康よりの拝領品や武具など門外不出の品が寺宝としてある。

平成三年九月

取手市教育委員会

以上です。

 ああ、その手紙知ってる!日本一短い手紙ってやつですよね。なんだ、こんな近くにいた人が書いたのか。全然知りませんでした。
 この手紙を書いたのは取手の人(実際には出身は三河で晩年の蟄居先が取手だったというだけで、例の手紙を書いたのも取手に来る前のようだが、書いた本人が一時的にせよ取手に住んで取手で亡くなったことには違いない)なのに、息子のお仙こと本多成重が越前丸岡の城主になったことから、現・福井県坂井市の丸岡城に「一筆啓上碑」が建てられ、それにちなんだ「一筆啓上賞」が坂井市で毎年行われているそうです。うーむ、茨城県よ取手市よ、PRが下手だのぉ・・・。

 案内板によればこの台地はお墓山とか桜ヶ丘と呼ばれていたようで、確かに本多重次の墳墓以外にもお墓がいくつかあって小さい墓地になっています。またここへ至る道に桜が植えられていたのも、桜ヶ丘という地名にちなんでのことか、あるいは古くから桜が植えられていたために桜ヶ丘と呼ばれるようになったのか・・・この案内板の説明文だけではここがいつ頃からお墓山や桜ヶ丘と呼ばれていたのか厳密にはわからないので、断定はできません。
 墳墓の後ろ側へ回ると、東の方を見晴らすことができます。この日は好天にも恵まれて、眼下に広がる団地と関東平野ならではの地平線を堪能できました。

<上左写真は墓地の背後から見た景色。上右写真はとある家の塀のネジバナ。意識的に季節々々の野草を飾っていらっしゃるとしたら奥ゆかしいお心映えですね。>

 そんなこんなで墳墓の近くをカメラをぶら下げてうろうろしていたら、たまたまゴミの収集に来ていたおじさんから「そのカメラ、フィルムですか?」と声をかけられました。「そうです」「私も持ってるんですよ、ニコンのカメラ」「ええーそうですか。これはニコマートです」「あー、古いやつですね。私のは New FM2で」「それはいいのをお持ちですね!」「いやー最近はめったに使わないです」「そうですよねー最近はデジタルですよね」と話に花が咲きました。ちょっとうれしい。
 ちなみにこの日の撮影機材はジャンクカゴから500円で救出したニコマートFTNヤフオクで数千円で落札したニッコールH・Cオート50f2。フィルムはフジカラー(業)記録用カラーフィルム ISO100 24枚撮りです。掲載した写真もこれで撮影しました(本多重次の墳墓全景だけは引きがなかったので、コンデジのX20の28仟Δ濃っています)。おカネかかってません(笑)。

 さあ今日見るべきものは見たな、と来た道を台宿まで戻って来ると、少し先に神社らしき建物が見えます。出先で神社を見るとお参りすることにしているので行ってみるとそれは香取神社で、石製の欄干や鳥居、拝殿はずいぶん新しく見えます(左写真が全景、右写真は拝殿正面)。お参りを済ませてあたりを見回してみると「平成造営記念碑」という石碑があり、由来が詳しく書かれているので、転載いたします。

平成造営記念碑

 香取神社は遠く江戸時代の初期正保四年(一六四七年)十一月に利根川を眼下にし、北方には遠く筑波の峯を仰ぐ景勝の地に台宿村民の守護神として、精巧な手法を以って建立された。爾来氏子の尊崇の念篤くして、明治六年十月には村社に列格、さらに同四十二年一月には同字内の秋葉、矢大、八坂、熊野及び稲荷の各神社を合祀、昭和二十七年八月宗教法人法による神社の建立となった。しかし、社殿は幾度かの修復はせしも多年の星霜は老朽化を来たし、大改築を余儀なくされる状況に立ち至った。時恰も取手市の都市計画道路拡幅の事業による土地の買収に応じ氏子一同協議のうえ、その代金を氏子崇敬者各位の奉賛金とともに社殿及び神域の整備に充当、平成六年八月造営の計画を立て平成八年十二月荘厳華麗を窮めて竣工壽二月造営鎮座の大儀を奉行せらしは寔に感激の極みである。因みに本事業に対し、終始好意と協力支援を寄せられた関係各方面をはじめ、氏子崇敬者各位に謹んで敬意と謝意を表する次第である。
 ここに経過の概要を述べて遷宮記念の辞とする。
             香取神社造営奉賛会

 以上です。平成8(1996)というと今から18年前ですから、建物としてはまだ新しいと言ってよいでしょう。

 また道を挟んで香取神社の反対側には、新四国相馬霊場第四番という扁額を掲げる大師堂・不動堂が建っており、その背後には石塔類なども見えます。この一画もやはり都市計画道路の拡幅に伴い移転されたものかも知れませんね。

<左写真は大師堂(右)と不動堂、右写真は大師堂に掲げられている扁額。左半面に刻まれている御詠歌は本場の四国八十八ヶ所霊場の四番札所で徳島県板野郡板野町黒谷にある黒厳山大日寺に割り当てられているのと同じ「眺むれば月白妙の夜は(夜半)なれや たゝ黒谷にすみそめの袖」です。ここは黒谷じゃなくて台宿だし、ご本尊も大日寺の大日如来ではなく不動明王だけど、新四国相馬霊場の第四番である以上は、やっぱり御詠歌はこれでないといけないのでしょうね。>

 何の下準備もなしに行ったにしてはいろいろ見られた1時間ちょっとの取手散歩でした。
| 地域とくらし、旅 | 19:35 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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