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新旧地形図に見る角海浜

 今回もこのところ集中的に取り上げている新潟県西蒲区の角海浜についてです。8月13日に巻郷土資料館角海浜を訪れる前に、旧版地形図その他をもとに角海浜周辺の地形やおおまかな歴史について事前調査をしていました。ここでは地形図を中心にしてそれらを整理しておきます。あらかじめお断りしておきますが、ちょっと長いです。

明治44年周辺1. 明治44年の角海浜
 国土地理院の図歴システムを用いて検索できるこの地域の最も古い地形図は明治44年測図の五万分一地形図です。これ以前に迅速測図(明治前期から中期にかけて作られた、正規の三角点測量によらない簡易な地図。縮尺は二万分一)がこの地域について作られていたかも知れませんが、その有無は確認していません。
 この明治44年の地形図で、まずは角海浜を含む周辺の様子を概観しておきましょう。

 このあたりの海岸線は基本的に海が山に迫った岸壁になっており、この大きさではよく見えませんが、海岸沿いに「○○岩」と名がついた奇岩怪石が見られます。そんな中でわずかに分布する砂浜と平坦地を拓いて、五ヶ浜、角海浜、間瀬といった集落が存在しているのです。
 集落の背後には角田山、多宝山、弥彦山といった山々が連なっており、海岸の集落からこの山々を東へ越えると、広大な越後平野(蒲原平野とも)が広がっています。越後平野には信濃川の支流が縦横に走り、巻町の東側にある広大な鎧潟(よろいがた)をはじめ大小の潟が分布しており、水はけの悪さが見て取れます。自然堤防上に分布する集落以外は水田が広がり、一見豊かな穀倉地帯に見えますが、実際には深田が多く、生産性は低かったのです。この大きさではわかりませんが、原図を見ると水田の中のあちこちに小規模な並木が見られます。これは木と木の間に竿を渡し、そこに刈り取った稲束を架けて干すための「ハサ」または「ハサ木」と呼ばれるもので、今ではこの地方を象徴する田園風景となっていますが、他の地域では秋に水を落とした田に稲を積んで乾燥させるところ、この地域は水はけが悪くそれができなかったために、やむを得ず発達したものなのです。条件の悪い深い泥田と、それでもなおその地で生活するために不可避であった重労働が生み出した風景であると言えましょう。
 このように角海浜の周辺は、
1) 岸壁の間にわずかにある浜に角海浜、五ヶ浜等の集落が分布する海岸地域
2) 角田山、多宝山、弥彦山の連山
3) 広大だが低湿な越後平野
という3つの特徴ある地域から成っていました。

 それでは同じ地形図で、今度は角海浜の集落を見てみましょう。

明治44年角海浜 海岸に五ヶ濱(浜)と角海浜の集落が見えます。もとはそれぞれ別の村でしたが、明治34年に合併して浦浜村となりました。五ヶ浜は周辺にやや平らな地面(おそらく耕作されている)がありますが、角海浜は角田山−多宝山の間の支尾根と支尾根の間にくさびを打ち込んだように三角形に宅地が割り込んでいて、まとまった耕地はなさそうに見えます。また四角で囲んだ「角海濱」の字のすぐ右脇に水車の記号と小屋が描かれていて、よく見ると水車の記号から右斜め下へ撚り糸状の記号で短い川も描かれていますが、集落を流れる川はこれだけのようで、灌漑用水が豊かではなさそうです。
 集落の三角形のうち海に面した辺にはぎざぎざした崖や崩壊地の記号が並んでいて、その崖下の海すれすれを道が走っていますが、港等の設備は見えず、漁業を盛んに行っていたようには思われません。この地形図ではわかりませんが、約半世紀後の昭和43(1968)年測量のこの地区の二万五千分一図「角田山」では角海浜集落の中心に標高点があって、その標高が9mと表示されています。海岸線は標高0mですから、角海浜は海岸から約9mも高い崖の上にあったわけで、それはおそらく数十年に一度ここを襲うという激しい海岸浸食「マクリダシ」のせいなのでしょう。

 次に角海浜と他の集落との間の交通について見てみましょう。集落の下の海岸線を通る道は、約1.5km北隣の五ヶ浜へは「里道」のうちの「聯路」(片側実線・片側破線)の記号で描かれていて比較的よく利用されていたことがうかがわれますが、約3.5km南隣の間瀬集落(図の範囲外)への道は「聯路」より格下の「小径」(破線)で描かれている上に、途中の岩を越えるために80m〜90m近いアップダウンもあり、頻繁に利用されていたかどうか疑問です。
 角海浜にとって最も重要な交通路であったのは、集落の奥から水車小屋の横を通り、無名の峠を東へ越えて、西蒲原郡峰岡村の福井集落(横書きの字は右から左へ書かれています)へ抜ける道であったと思います。隣の五ヶ浜からも五ヶ峠を越えて同じ峰岡村福井へ通じる道が開かれていますし、五ヶ浜にあった浦浜校(五ヶ浜集落の中の○で囲った「文」の記号がそれ)が、もともと明治11年に峰岡校付属五ヶ校として開学した(浦浜校百周年記念碑の「浦浜校の沿革」jによる)ことからも、福井集落が属する峰岡村と角海浜・五ヶ浜とのつながりの歴史と強さがうかがわれます。
 なぜこの道が最も重要であったかというと、角海浜はこの道を通じて日本全国に開かれていたからです。地図の右下端に、少し斜めになった「北」という字が見えますが、これはこの字の下側の道路の名前「北陸道」の一部で、角海浜から峠を越えて峰岡村福井から峰岡、舟戸を通って東日本の日本海側を縦貫するこの街道へ出れば、これを通って全国へ行くことができたのです。角海浜から出た毒消し売りも、間違いなくこの道をとって旅に出たことでしょう。角海浜から峰岡村福井へ越える峠の標高は約220ないし230mなので、角海浜集落からの比高は210〜220m程度、角海浜から北陸道までは水平距離で5kmほどの道のりでした。

 明治44年測図の地形図から読み取れる角海浜の姿は以上のようなものです。もちろん多少の空き地があれば耕作もし、海に面した村ですから港の設備がないとは言え何らかの漁も行ったことでしょう。しかしそれだけで村の暮らしを立てるに足りたとは思えません。おそらく男も女も村の外へ出て働いたことでしょう。女たちが数ヶ月の行商の旅に出る毒消し売りは、その究極の形だったと思われます。

昭和56年周辺2. 昭和56年の角海浜
 さて次に、角海浜集落が消えてしまった後の時期の地形図を見てみましょう。まずは周辺を含めた概観図です。( )で括ったのは明治44年測図の地形図にはあって、こちらではなくなってしまった地物です。
 まず角海浜集落は廃村となり、すっかり更地になってしまいました。角田山−多宝山−や英彦山の連山には大きな変化はありませんが、越後平野は大きく変わっています。
 まず越後線や弥彦線等の鉄道、北陸自動車道、上越新幹線の計画線(図の右端近くをわずかに左に湾曲しながら上下に貫いている線、開通は翌年の11月)など交通インフラが目覚しく整備されていることはすぐに目に入ります。しかしここで注目すべきは、平野全体に耕地整理がなされ、水田が縦横に走る用水路で四角く区切られていること、そして巻町の東にあった広大な鎧潟や弥彦山の東麓にあった楊枝潟などの潟が消滅していることです。これらは水はけが悪く低湿な越後平野全体の排水が進み、足を踏み入れるとずぶずぶと潜ってしまうような深田が、用排水路が整備された豊かな美田に改良されたことを示しているのです。そしてこの越後平野の排水に大きな役割を果たしたひとつが新川(地図の範囲外)で、あの広大な鎧潟とその北に連なっていた田潟・大潟などは新川の開鑿によって排水され消滅しました。そしてこの新川こそ、私が角海浜に注目するきっかけとなった川でもあるのです。

昭和56年角海浜 続いて角海浜集落周辺を見てみましょう。まず明治44年測図のものより等高線に比べて字が弱く見にくく感じますが、これは原図が4色刷なのを白黒で出力してあるせいで、原図は等高線が茶色で字が黒なのでもう少し見やすかったはずです。ただ旧版地形図の謄本は白黒なら一部500円ですが、カラーだと確か一部2,000円だかするため、今回は予算の関係で白黒の謄本を利用しております。
 閑話休題、角海浜は地名としては残っていて、建物も2棟ほど描かれていますが、民家は廃村となった翌年の昭和50年に全て取り壊され撤去されたと聞いていますので、これは民家ではなく東北電力の管理施設でしょう。廃村になってから約7年経過しているために、角海浜から無名の峠を越えて福井集落へ越える道も廃絶して・・・と思ったら、確かに角海浜から峠までの道は消えていますが、よくよく見ると福井集落から無名峠までの道(厳密に同じかどうかは確信が持てませんが、少なくとも上半分くらいはこの道を踏襲しているように見えます)は破線(幅員1.5m未満の道路)で生きていて、ただし峠から角海浜には向かわずに尾根伝いに北上して五ヶ峠まで続いているようです。五ヶ浜から五ヶ峠を越えて福井集落に降りる昔ながらの道もやはり幅員1.5m未満の道路で健在なので、この福井−無名峠間はひょっとして福井−無名峠−五ヶ峠−福井という周回ハイキングコースのような使われ方をして残ったのではないでしょうか。角田山には多くのハイキングコースがあるのです。もしこの道が今でも歩けるなら歩いてみたいものです。
 明治44年地形図に載っていた角海浜−五ヶ浜間の海岸の道は消滅して、もう一段高い所に新しい道がついています。この道は今年8月13日の現地踏査の際に封鎖されていた道のようです。
 五ヶ浜から角海浜を避けて山の方へ駆け上がっている越後七浦有料道路(現・越後七浦シーサイドライン、現在は無料です)のトンネルの切れ間から海の方を眺めれば角海浜集落の故地を俯瞰できそうなので、現地踏査の際に家内のお父上に頼んでこの道を走っていただきましたが、残念ながら立ち木のために視界を遮られて全く見えませんでした。
 なお明治44年の地形図に現れていて、角海浜にとって非常に重要な役割を果たしていた北陸道は、この地形図ではどうなっているでしょうか。明治44年地形図の時と同様に福井−峰岡−舟戸と集落を東へたどっていくと、その道は堤防に囲まれた川を渡って、図の右下隅を丸く囲むように走っている、なんてことない普通の道に突き当たりますが、明治44年の地形図と見比べてみると、この一見ごく普通の道が以前の北陸道であることがわかります。
 しかしこの道がかつての主要道であったことは、実は明治44年の地図を見なくても知ることができるので、その手がかりは図右下に四角で囲んだ、「7.3」という数字の右にある正方形の真ん中に点(・)が打ってある記号です。これは水準点という高さの基準となる点の記号で、この点の標高が7.3mであることを示していますが、この水準点は測量当時の国道や主要街道沿いに設置されたので、逆に言うと水準点が置かれている道は、たとえ今は一見普通の道であっても、昔は主要な道路であったことが多いのです。この道の場合がまさにそうで、弥彦山系の東麓の村々を縫って坦々と走るこの道沿いに点々と置かれた水準点(約2kmおきに設置される)は、この一見ただの田舎道が、かつては岩室や巻の市街の中心を貫いて走る賑やかな道より格上だったことを物語っているのです。

 さて、この図で注目していただきたいのはアンダーラインしてある「新樋曽山隧道」という文字。隧道とはトンネルのことですが、新樋曽山隧道は人ではなく水が通るトンネルです。この文字の右側に丸で囲った水の取り入れ口が見え、そこから細い直線(原図では細い破線で地下水路を示してあるが見にくいので上書きしました)が2本引かれていて、それぞれ海へ出口が開いています。この隧道は越後平野の水を日本海へ排水する排水路で、鎧潟その他を排水した新川と同じ機能と役割を持っています。2本の線のうち下側が新樋曽山隧道(昭和43(1968)年完成)、上側は樋曽山隧道(昭和10(1935)または昭和14(1939)年完成)で、現在は3本目の新々樋曽山隧道(平成12(2000)年完成)もこれらに平行して掘られ稼動しています。明治44年地形図で弥彦山東麓にあった楊枝潟が消滅しているのは、この樋曽山隧道による排水のためだそうです。
 このように越後平野の水田改良にとってはなくてはならなかった樋曽山隧道ですが、海への放流口をすぐそばに開けられた角海浜にしてみれば、地先の海に真水がどうどう放流されて、海中の様子も魚の分布も変わってしまったはずですから、迷惑なものだったことでしょう。明治の地形図で見る限り漁業が盛んであったとは思えませんが、それでも何らかの影響はあったと思われます。

 このように新旧の地形図に見る角海浜は、もともと平坦地の少ない集落で、農業にも漁業にも条件としては決してよくなく、マクリダシという海岸侵食にも脅かされながら、出稼ぎや古くからの主要街道であった北陸道を利用しての毒消し売りで暮らしを立ててきました。しかし昭和10年ないし14年の樋曽山隧道の開鑿によっておそらく漁業に影響が出、高度経済成長を背景にした生活様式の変化によって毒消し売りが廃れるとともに衰退に傾き、さらにそれに乗じるような形で巻原発の建設予定地指定を受けて、角海浜は止めを刺されたのです。あたかも越後平野の排水と農地改良、高度経済成長、原子力発電所建設といった陽のあたる出来事についてまわる影の部分を一身に背負い込んだかのようにも見えるその終わり方を見ると、思わず角海浜に肩入れしてしまいます。今後も折に触れてこの村のことを調べていくつもりです。

| 地域とくらし、旅 | 22:47 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
コメント
何年も前に友人とふと思い立って新潟にドライブに出かけ、シーサイドラインを通ったんですが、「何でここで山ん中に入り込むんだろう」と思ったんでした(もっと海を見たかったのに!)。原発用地がこんなふうに確保されているなんて気づきませんものね。

記事に出てくる地図にはまだありませんが、白根方面からきて五ヶ浜でシーサイドラインに合流するR460が五ヶ峠をくぐるトンネルの名前は「五ヶ峠トンネル」ではなく、「五福トンネル」となっています。五ヶ浜と福井のむすびつきの深さを感じさせる命名と思います。

外界への交通路という話で、ひとつ南の間瀬集落にかんしてこういうレポートがありました。
http://yamaiga.com/koneta/koneta_116.html
| いづのおどりこ | 2011/08/24 1:03 AM |
いづのおどりこ様、詳細な補足コメントありがとうございます。
今回出した地形図は、この地域の一番古いものと角海浜集落が無くなった直後に近いものを選んでいますので、五福トンネルがまだ開通していませんが、この福井という集落は「越後七浦シーサイドライン」が開通するまでの五ヶ浜と角海浜にとって、いわば外界に開かれた唯一の玄関口だったわけで、国道460号線もそうした経緯を踏襲したもののようですね。
事情は間瀬集落も同じで、越後七浦シーサイドラインがなかった頃の間瀬は、やはり山越えをして越後平野に出るしか外界と結ばれる道がありませんでした。ただ明治44年地形図を見ると、港がない(今はありますが)とは言え砂浜で海に面していたので、その気になれば船も使えたのではないかと思われますが、陸路は北へも南へも「小径」でしかつながっていないので、やはりメインの陸路は弥彦山系に分け入る沢を詰めて、そこから南東に折れて石瀬峠(明治44年地形図では「間瀬峠」とある)から石瀬に出るか、沢の詰めから北東に北東に進んで樋曽に出る(明治44年地形図には「間瀬越」とある)かでありました。もちろん今では越後七浦シーサイドラインがあるので、わざわざ山越えをする人は少ないでしょうけど。
というわけで、私も「間瀬トンネル」についてはネットで一応承知してはいましたが、やはり角海浜のアイロニカルな悲運がメインとなったので、脇に置いていたようなわけです。
| ほーほ | 2011/08/24 9:54 PM |
いや〜!。お盆の間の「時間旅行」。本当に、見る人が見たら書いていない歴史、もちゃんとよめるわけですねぇ。ちょっと、もう一度念入りに読んで見たいと思います。私は個人的にブリュージュのレースメイカーについて、いつかその実生活を調べたいと思っているのですが、こんな風に、当時の社会状況がどうだったのか知る方法があるんですねぇ。(感慨)
| とらのすけ | 2011/08/25 3:41 PM |
地形図は特定の主題を持たない一般図であるだけに、他の情報とぶつけやすくて情報豊かなのですよ。
ところでブリュージュというとベルギーの、ですね?私はレースについてはまったく知るところがないのですが(あー、私がいじるとなぜか黒ずんでしまう、ということだけは知ってますが・・・←ちゃんと手を洗えってば!)、ブリュージュのレース産業は産業革命前から盛んだったのでしょうか。
| ほーほ | 2011/08/26 9:16 PM |
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