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酒の肴にしたい本
 高校から大学時代にかけての学問に燃えていた頃に大きな影響を受け、今でもその跡を慕っている学者が何人かあります。もともとは万葉集研究を志望していた私を民俗学へと宗旨替えさせた折口信夫(おりくち・しのぶ)は別格として、民俗学の宮本常一(みやもと・つねいち)、食物史・風俗学の篠田統(しのだ・おさむ)、中国文学の青木正児(あおき・まさる)と数え上げてみると、この人たちはみなひ弱でない骨太な学風を持ち、また学問の奥深さや楽しさをたっぷりと伝えてくれたのでした。
 中でも青木正児の著作からは学問することの楽しさを直截かつ強烈に印象づけられました。その業績は「青木正児全集」全10巻(春秋社)にまとめられていますが、それとは別に文庫本などの比較的入手しやすい形で出版されているものは専門家でない一般の読者を対象としており、中国の文物に興味を持つ人ならば比較的気軽に楽しめます。すなわち『華国風味』『酒の肴・抱樽酒話(ほうそんしゅわ)』『隋園食単』(いずれも岩波文庫)、『江南春(こうなんしゅん)』『琴き*書画(きんきしょが)』『中華名物考』(いずれも平凡社東洋文庫)などがそれ。特に岩波文庫の3冊はいずれも中国の飲食に関する考察や随筆を集めたもので、これらを肴にいくらでも酒が飲めること請け合いです。
 ところが、酒の肴にもってこいの著作でかつては単行本で出版されながら、いまだに文庫化もされないまま入手しにくくなってしまったものがあります。これは酒徒として実に残念なことと言わなければなりません。

*「き」は「碁」の字の「石」の代わりに「木」

中華飲酒詩選表紙 その一つが筑摩書房から筑摩叢書32として出版されていた『中華飲酒詩選』です。これは「酒徒が酔余の朗詠に供する」のを目的として「周代から唐代までの飲酒の詩を選んだ」(同書の「凡例」による)アンソロジーで、総数何篇か数えたことはありませんが、ゆうに百を超える詩のそれぞれに原文・訓み下し・意訳と簡単な注が添えられています。中には「時に及んで当(まさ)に勉励すべし / 歳月人を待たず」(陶淵明「雑詩」)といういささか誤解されている詩(ここだけ抜き出すと「さっさと勉強しなさい!」と言っているみたいだが、最初から読むと「みんな集まれ酒盛りだ、若い盛りは二度とない、だからいま一生懸命遊ばないとじきに老いぼれてしまうぞ」という内容の詩であることがわかる)や、クラシック音楽ファンならご存知のマーラー「大地の歌」の第五楽章「春に酔える者」の原詩(李白「春日酔起言志」)なども採られています。本書を味読しながら呑むほどに酔うほどにホロリまたニヤリ、それからさらに進むと悲歌涕泣(ていきゅう)あるいは放吟哄笑…まあそこまで行ってしまったら、翌日は間違いなく単なるだめな人になってますが。

『中華飲酒詩選』では陶淵明「雑詩」がこのように紹介されています(第二聯)。

雑詩

酒中趣表紙 もう一つは同じく筑摩叢書の289『酒中趣(しゅちゅうしゅ)』の中の「酒顛(しゅてん)」。この『酒中趣』は「抱樽酒話」「酒の肴」「酒顛」の三部から成り、前の二つは岩波文庫の『酒の肴・抱樽酒話』として復刻されていますが「酒顛」は省かれました。おそらく「酒顛」が青木自身の著作ではなく明の夏樹芳の「酒顛」及び類書の訳だからであろうと思われますが、この「酒顛」は「中華歴代飲酒家の趣味深き逸話を収録したもの」で、かの地の酒飲みどもの愉快痛快なエピソードが120篇余。これがまた酒の肴にもってこい。中に「書を読みながら呑む」エピソードがあるのでご紹介しましょう。


 「漢書」を肴に一斗(蘇舜欽)
宋の蘇舜欽(シュンキン)、字(あざな)は子美。蘇易簡の曾孫(ひまご)である。豪放にして飲酒を好む。妻の父杜祁(キ)公(衍(エン))の家に在って、毎夕書を読むに飲酒一斗を定量としていた。祁公が人をして密かに様子を窺わしめると、子美の「漢書」張良伝を読む声が聞こえる。「良ハ客ト秦ノ皇帝ヲ狙撃シ、誤ッテ副車ニ中(アタ)ル」と云うに至り、はたと手を打ち、「惜しいかな中らず」と曰って、遂に一大盃を満引した。また読んで「良曰ク、始メ臣ガ下ひ*(カヒ)ニ起リ、上(ジョウ)ト留(リュウ)ニ会ス。此レ天ガ臣ヲ以テ陛下ニ授クルナリ」と云うに至り、また案(つくえ)を打って曰う「君臣相遇う、其の難きこと此(かく)の如し」と。復た一大盃を挙げた。祁公は此の事を聞いて大笑いして曰う「こんな酒の肴が有るのなら、一斗も多いと言えぬ」と。

(原文は旧字旧かな。なお引用文中の(衍(エン))はその前の「公」が本来は不要な余計な字であることを示す注。)

 『中華飲酒詩選』の「贅言」に、自身が中国文学を勉強し始めた頃を回想して「最も愛誦した集は李白の集であった。秋夜燈下にひもといていると、生唾が出て飲みたくなる。飛び出して四合瓶を買って来て、番茶茶碗で傾けながら読むと一層面白くなる。注釈なんか無用である。杜甫の詩は、へむつかしくて、めそめそしていて嫌いであった。今も嫌いである。酒興を佐けるには何と云っても李白の詩が第一であった。」(原文は旧字旧かな)と書いた青木は、「酒顛」のこの段を訳しながら、番茶茶碗で安酒を呷りつつ李白の詩に全身全霊で共感した若き日の自身の姿を重ねていたに違いありません。それはまた青木の著書をひもといては酒盃置く能わざる私の姿でもあります。

 『中華飲酒詩選』と「酒顛」を含む『酒中趣』は、いずれも筑摩叢書で出ていたものを二十年以上愛読していますが、酒興にまかせて頁をめくるせいもあって少々汚れ、カバーがなくなったり製本が壊れかけていたりします。しかも現在ではいずれも古書でしか入手できない様子。筑摩さんでも岩波さんでも構わないので、この二書が廉価で復刻されることを切に望みます。
(文中の敬称は略させていただきました。)

*「ひ」は「胚」のつくりに「郎」のつくりを組み合わせた字
| 飲み食い、料理 | 10:22 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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