大伴坂上郎女の逢坂山の歌

京都駅からまっすぐ東へ向かう東海道本線の上り列車に乗ると、京都の次の山科駅を出た列車はトンネルに入ります。そしてトンネルを抜けてすぐの大津駅はもう京都府ではなく滋賀県の駅。このトンネルは京都府と滋賀県の境にある標高325メートルの逢坂山(おうさかやま)を越える逢坂山トンネルです(もっとも実際の県境は逢坂山の西麓を通っていて、逢坂山そのものは滋賀県大津市に属する)。
逢坂山といえば百人一首の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」(蝉丸)を思い出す方も多いでしょう。この逢坂山は、古くは畿内と畿外の境とされていました。畿内とは宮都(みやこ)の近隣地域のことで、大和・山城・播磨・河内の四つの国(さらに後には河内国から和泉国を分立して五畿内と言われるようになる)を指しましたが、そうなる以前の孝徳天皇の大化2(646)年に出された「大化の改新の詔」には「凡(およ)そ畿内は(中略)北は近江(おうみ)狭々波(ささなみ)合坂山より以来(このかた)」とあり、この山が畿内の北の境とされていたのです。

 

夏四月、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の、賀茂神社(かものやしろ)を拝(おろが)み奉(まつ)りし時に、便(すなわ)ち相坂山(おうさかやま)を越え、近江の海を望み見て、晩頭(ゆうぐれ)に還(かえ)り来て作れる歌一首

 

木綿畳(ゆうたたみ)手向(たむけ)の山を今日越えていづれの野辺に廬(いおり)せむわれ
(万葉集巻第六 1017)

※訓読は中西進『万葉集 全訳注原文付』(昭和53から58(1978から1983)年 講談社文庫)に拠り、( )に包んだ振り仮名は新仮名遣いとしました。

 

歌の題詞(歌の前にあって歌が詠まれた状況や背景を説明する文)によると、これは大和朝廷の有力豪族である大伴家の坂上郎女が、ある年の四月に山城国の賀茂神社に参拝した際、ついでに足を伸ばして逢坂山の峠に立って近江の海(琵琶湖)を望見し、夕刻になって賀茂神社近くの宿所に帰って来た際に作った歌ということです。歌の意味は

 

木綿を重ねて畳んだ木綿畳(ゆうだたみ)を峠の神に手向けて旅の安全を祈る、その手向けの山を今日は越えてきて、さて、どこの野辺に仮の廬を結んで一夜を過ごそうか、私たちは

 

というもの。歌の最後の「われ」は単数の「私」のように聞こえますが、原文は「吾等」とあり複数。当時貴族が、まして女性が、一人旅をすることはあり得ず、必ず伴の者がついて一行となる習いでした。

そうしたことは承知の上でなお私は、この歌の「われ」を坂上郎女自身の一人称と見たいのです。「吾等」という集団的な発想ではなく、後期万葉を代表する優れた女流歌人であったこの人の、その繊細で鋭利な感覚で感じ取られた畏(おそ)れや慄(おのの)きの主体であるところの、一人の「わたし」と見たいと思うのです。

 

〈画像は奈良県のマスコットキャラクター「せんとくん」のツイッター「せんとくんのつぶやき」から〉
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| 国語・国文 | 10:09 | comments(0) | - | pookmark |
「舞わす」 〜 陶淵明「形天舞干戚」句の解 〜

 雪隠書目の一つ、松枝茂夫・和田武司訳注『陶淵明全集』(岩波文庫)もようやく下巻に進み、いよいよ私の大好きな「読山海経(山海経を読む)」にかかりました。これは初夏の風が爽やかに吹き抜ける一室で、神話伝説を盛った古代中国の地理書である「山海経」を繙(ひもと)いている陶淵明が、興のおもむくままに経中のエピソードに付した五言詩を13首集めたものです。この13首のうち最も知られているのが「精衛銜微木 将以填滄海(精衛(せいえい)微木(びぼく)を銜(ふく)み 将(まさ)に以て滄海を填(うず)めんとす)」で始まる第10首「其十」でしょう。
 ところでこれの次の節は「形天舞干戚 猛志固常在(形天(けいてん)干戚(かんせき)を舞わし 猛志(もうし)固(もと)より常に在り)」と続くのですが、この「舞」字に付けた「舞わし」という訓には実にゆかしいものがあります。この字は鈴木虎雄『陶淵明詩解』にも同じく「(干戚を)舞はす」(旧仮名遣い)と訓んであり、おそらく古くからの訓なのでしょう。ただし松枝・和田がこの句の解を「形天という獣は、盾と斧をふりまわして」としているのに対し、鈴木が「又形天といふふしぎなものは(首が断ちきられても目と口があつて)盾や斧をとつて舞ををどるといふ」としているのはやや厳密を欠くようです。形天が自分で舞をおどるのなら「舞はす」ではなく「舞ふ」と訓むべきで、「干戚を舞はす」と訓んだ以上は松枝・和田の解のように「盾と斧をふりまわ」すと解するのが穏当でしょう。思うに鈴木は「舞わす / 舞はす」という語に馴染みがなかったのではないでしょうか。

(図は形天(胡文煥・画))
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| 国語・国文 | 09:34 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「こけら」と「かき」はどう違う? 〜漢字表記をめぐって〜
 「こけら落とし」という言葉があります。手元の辞書によると「(新築の劇場や映画館の)最初の興行」とあります。
 ところで「こけらおとし」とパソコンやスマホで打って漢字変換すると、おおむね「柿落とし」と変換されますし、辞書などの活字も「柿(かき)」という字が使われています。ところがなぜ「かき」の字を「こけら」と読むのか、少なくとも手元の辞書『新明解国語辞典』第二版(三省堂 昭和49)には何の説明もありません。
 そこで、漢字のことならやっぱり漢和辞典だろうと手元の漢和辞典『新漢和辞典』四訂版(大修館 昭和50)を引いてみると、音訓索引に「こけら」がなく、つまり「こけら」という訓を持つ字はこの漢和辞典には収録されていないのです。「柿(かき)」という字は収録されていますが、字義は「果樹の名。また、その果実。」とあるだけで、木片とか屋根を葺く薄板といった「こけら」に関する記述は全くありません。つまりこの漢和辞典のスタンスは「柿という字には「こけら」という意味はなく、つまり柿(かき)と「こけら」は別の字なのである(でも「こけら」という字は収録してないよ)」ということらしく、別の字だというのなら「こけら」の字も収録してほしかったのですが、仕方ありません。
 手詰まり感が漂う中、思い立って『岩波古語辞典』(岩波書店 1974)で「こけら」を引いてみたら、そこにヒントがありました。この辞典でも漢字としては「柿」(かき)を当てているのですが、例文として「柿、和名古介良(こけら)」<和名抄>とあったのです。< >は例文の出典を示し、出典として挙げられている「和名抄」とは平安時代中期に源順(みなもと・したごう)が編纂した『倭名類聚抄』の略称で、この書は当時使われていた漢字・漢語を天・地・人倫・飲食等の部建てに従って配列し、 それぞれの字・語の意味と発音、相当する和名等を記した一種の漢和辞典です。つまり『岩波古語辞典』はこの『倭名類聚抄』中に「柿、和名古介良」と出ているよ、と言っているわけですが、私は運良くその『倭名類聚抄』を持っていました。それは国立国会図書館所蔵の元和3(1617)年刊行の古活字本(古活字とは手書きに近い形に木を彫って作ったもので近代の鋳造活字とは違う)の影印本で、それを見たらようやく「かき」の字と「こけら」の字の関係がわかりました。
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| 国語・国文 | 20:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「もの」と「事」と〜平知盛のこと

 とある雑誌に、奈良と京都を結ぶ奈良街道沿いにある般若寺と、平家の武将平重衡(たいらの・しげひら)についての記事が載っていた。重衡は清盛の命を受け、東大寺・興福寺など南都(なんと:奈良を指す。京都に対して南にあるためこう呼ぶ)の僧兵勢力討伐のために4万の兵を率いて悪名高い南都焼討(なんとやきうち)を行い、寺社を含む奈良の町と住民は莫大な被害を被った。重衡はその後一ノ谷の合戦で源氏に捕えられて鎌倉へ送られた後、彼を憎む南都大衆(だいしゅ)の要求により奈良へ連行されて木津川河畔で斬首され、その首は南都焼討により廃寺同然となっていた般若寺の門前に晒されたのであった。彼の最期を記した「平家物語」巻第十二の「重衡被斬(しげひらのきられ)」の段には、阿弥陀仏に向かい念仏を唱えた重衡が自ら首を差し出して打たれ、それを取り巻いた数千の群衆と守護の武士がともに涙にくれる場面が描かれている。南都を焼き払った大悪人であるはずなのに、その処刑の場面はどこかイエスの最期を描く福音書の記述を思わせる宗教的雰囲気に満ち、直前にある妻との再会のエピソードと相まって感動的だ。
 その「平家物語」の記述を踏まえて、件の記事はこのように言う。
「コスモスの咲く時期、多くの観光客が般若寺を訪れますが、いったいここで何人の人がこの悲劇の武将のことを思い出すのでしょうか。享年29歳。若すぎるその死。彼は兄の平知盛のように「見るべきほどのもの」を見たのでしょうか。」
 「この悲劇の武将」は言うまでもなく重衡。また重衡の兄平知盛(たいらの・とももり)は壇ノ浦において、その兄で平家の棟梁であった宗盛(むねもり)とともに平家軍を率いて戦い、壊滅的な大敗を喫して自ら海に沈んで果てた。享年34という。

 この雑誌記事を読むと、この世で「見るべきほどのもの」はすべて見終えた兄の知盛に対して、弟の重衡はそれほどに生を満喫することもなくあたら若い命を散らせたかのように感じられる。少なくともこの記事の著者はそのように考えて、重衡への哀れをつのらせたのであろうと思われる。
 もしもここでの「見るべき」という言葉が「見ておくに足る高い価値がある」という意味であるならば、それらを見尽くしたというのは確かに結構なことである。しかし実際には、知盛はこの世で見るべきほどのものを見終えて未練なく死に就いたわけではなかった。なぜなら彼が見たのは、見るべきほどの「もの」ではなくて「事」だったからだ。

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| 国語・国文 | 06:52 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
わすれぐさ再び
 猛暑と節電と放射能の今年の夏にも、あの「わすれぐさ」(ヤブカンゾウ)が咲きました、という記事の続編です。同時に昨年書いた「わすれぐさを付けるのはなぜ」という記事の続編でもあります。
 「わすれぐさを付けるのはなぜ」の大意は、万葉集巻三の334番歌の読みと歌意について、折口信夫・佐佐木信綱らが「わすれぐさ わが紐に付く 香具山の 故(ふ)りにし里を 忘れぬがため」と訓み、飛鳥の旧都を「忘れられないので」わすれぐさを付けて忘れようとしている、と解いているのに対し、中西進・伊藤博(はく)らが同じ歌を「故(ふ)りにし里を 忘れむがため」と訓み、飛鳥の旧都を「忘れるために」わすれぐさを付ける、と解く、その違いに注目し、同じ歌が異なる訓と解を持つ理由が本文校定にあること、具体的には両者とも「萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 不忘之為」という本文を持つ底本に拠りながら、中西・伊藤らは沢瀉久孝(おもだか・ひさたか)が「万葉集注釈」で復元した「萱草 吾紐二付 香具山乃 故去之里乎 忘之為」という原文を採用したことによるものだ、ということを知り、それについていささかの感慨を述べたものです。

 さて、一度は自分の中で片付いたこの件ですが、今年もまたヤブカンゾウの花を目にして、この歌の原文が「万葉集注釈」の説のとおり「忘之為」であったのなら、なぜそれがそのまま伝わらず「不」という否定の字が付いた形で流布するに至ったのか、にわかに納得できんなぁ、という思いがわいてきました。写すときに誤って字を落とすならともかく、字を加える、しかもどちらかというと歌意がすらりと通じにくくなるような字を加えるということはあり得るのかね、というわけです。
 そこで、これはひとつ原文見直しのもととなった「万葉集注釈」の当該部分を読まねばなるまい、と思ったのですが、こういうときに頼りになる筑波大学の図書館は7月1日から8月31日まで大学の夏休み期間中で、開館時間が平日の9時から5時のみで土日祝は休み(医学図書館だけは平日土日祝9時-20時開館ですが、「万葉集注釈」は置いてないんだよな〜、ま、そりゃそうだろう)なので、サラリーマンには利用できません。参ったね・・・と思ったら、つくば市立中央図書館に全巻あることがわかりました。やるなぁつくば市!

 というわけで「万葉集注釈」(以下「注釈」)に当たってみると、さすがは沢瀉先生、「不」字が後から加わったと考える理由についても説明されていました。
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| 国語・国文 | 09:59 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
和本リテラシー

 日本文学研究者の中野三敏(なかの・みつとし)氏の「勿体ない話」というエッセイが4月17日(日)の日本経済新聞文化面に載っていて、大変おもしろく読みました。氏は江戸時代の文字メディアについて「多分、十八世紀前後としては世界一の達成度を示して、社会万般の事柄を集約した写本・刊本交々の書物化を果たしている。その数は優に百万点を下るまい。」とし、しかし当時の文字は「明治三十三年の官報で、現行の一音一字の平仮名字体に統一される迄の凡てに用いられて」いた「草書体の漢字と所謂(いわゆる)「くずし字」の平仮名」で、「従ってそれを読む能力(私は「和本リテラシー」と称している)を備えない限り、明治三十三年以前の書物の内容に通じるチャンネルは持ち得ないことになる。」と指摘しています。
 確かに江戸時代の手書きの文字は勿論、印刷された刊本の字もミミズがのたくったような連綿体で、どこからどこまでが一字なのかすらわからないこともあります。氏はさらに続けて「そのチャンネルを持つ日本人は、多く見積もっても五千人を下回る数にしかなるまい。」と言っています。うーむ、そんなもんですか・・・。

 ところで、実は私も今から30年くらい前の学生の頃、「草書体の漢字と所謂(いわゆる)「くずし字」の平仮名」を読むトレーニングを受けたことがあります。日本史とその関連分野を専攻する学生がやる「古文書(こもんじょ)演習」というやつです。最初は後ろに解答がついている問題集みたいのを読み、次に実際の文書のコピーを読み、ある程度読めるようになると「古文書(こもんじょ)実習」を受けさせてもらえます。この実習、私のときは信州伊那の箕輪村(現在の長野県上伊那郡南箕輪村と思う)に3日くらい泊まり込み、主に現地の地方文書(じかたもんじょ:村役人が作成した行政上の文書)の実物を読みました。「実物は墨色の微妙な違いがわかるからコピーより読みやすいぞ」と言われましたが、そうかといって劇的に読みやすいわけではありません。
 それでも地方文書は行政文書なので、定型的なものなら数字と人名以外はほとんど様式どおりであまり苦労せず読めますし、そうでないものも語彙や構成はだいたい決まっていますから、ある程度決め打ちできるところはあります。これが私信(手紙)などになると、読みにくいひらがなが多くなるし、語彙も内容も千差万別で、浅学の身ではほとんど歯が立ちませんでした。

 中野氏はさらに続けて「恐らく、多くの方々は、それでも必要な書物の大半は活字化されていると御思いなのではなかろうか。とんでもない誤解である。確たる数字は把握出来ないが・・・その数は一万点に届くかどうか。これでは前述した通り百万点の一%に過ぎぬ。・・・読めない本はゴミに等しい。文化国家日本は何とも太っ腹な国で、自らの文化遺産の九十九%を平然とゴミ同然に放置しているのである。」と書いています。つまりはそれがこのエッセイのタイトルである「勿体ない話」だ、というわけですが、ということは「和本リテラシー」を身につければ、これまでに活字化されているものの99倍という、ほとんど汲めども尽きぬ楽しみに手が届くということでもあるわけだよね。

 昔取った杵柄、いっちょ「和本リテラシー」所有者の5001人目に挑戦してみようかな。

| 国語・国文 | 23:38 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
わすれぐさを付けるのはなぜ
 以前わすれぐさ(ヤブカンゾウ)について書いたとき、折口信夫(おりくち・しのぶ)の『口訳万葉集』の巻第三の334番歌の読み下しが近年のそれと違っていることを書きました。以下その詳細について書きますが、けっこう込み入ったというか、面倒くさい話であることを予めお断りしておきます(^^;)。

 折口の読み下しと近年の読み下しの違いは、忘れ草を使う人の気持ちの違いとなって表れています。折口の読み下しは次のとおり。

 萱草(ワスレグサ)我が紐につく。香具山の古りにし里を忘れぬがため

 これに対して近年(ここでは例として講談社文庫の中西進『万葉集 全訳注原文付 (一)』に拠ります)の読み下しはこうなっています。

 わすれ草(くさ)わが紐に付く香具山の故(ふ)りにし里を忘れむがため

 漢字だけで書かれた原文を漢字かな混じりに移す過程で生じた用語の違いもありますが、それは本質的な違いではない。決定的に違うのは「忘れがため」と「忘れがため」の「ぬ」と「む」。このたった一字で歌意ががらりと違ってしまいます。今仮にこの歌の第五句を「忘れぬがため」と読んでいる諸本を「ぬ」派、「忘れむがため」と読んでいる諸本を「む」派と名づけて、それぞれの解釈を見てみましょう。

「ぬ」派
 自分が持っている「万葉集」のうち「ぬ」派に属するのは次の諸本。( )内の年号は初版の発行年。なお旧漢字の書名は勝手ながら新漢字に改めました。
・折口信夫『口訳万葉集(上)』(大正5(1916))
・佐佐木信綱 編『新訂新訓万葉集 上巻』(岩波文庫 昭和2(1927))
・佐佐木信綱 編『白文万葉集 上巻』(岩波文庫 1930)
・武田祐吉 校註『万葉集 上巻』(角川文庫 昭和29(1954))
 この派の読み下しによれば、忘れ草を紐に付けるのは香具山の古りにし里を「忘れないため」です(「ぬ」は打ち消しの助動詞)。しかし「忘れないために忘れ草を付ける」という言い方はやや通じ難い。なぜなら「ため」には「目的」(例:二人のため世界はあるの)と「理由」(例:風邪のため欠席した)の二義があるからです。「ぬ」派はこの「ため」を「理由」と見て、「忘れ(られ)ないから」と解きます。もう都ではなくなった飛鳥の里がたまらなく懐かしい、しかしいくら思ってももう戻ることはできないのだから、いっそのこと忘れてしまいたい、でも忘れられなくて思い出すたびに辛い、だから忘れ草の力を借りて忘れよう、というのが「ぬ」派の解釈です。

「む」派
 一方「む」派に属するのは次の諸本。旧漢字の書名は新漢字に改めております。
・中西進『万葉集 全訳注原文付 (一)』(講談社文庫 昭和53(1978))
・伊藤博(いとう・はく)校注『万葉集 上巻』(角川文庫 昭和60(1985))
・伊藤博『万葉集 釈注 二』(集英社文庫ヘリテージシリーズ 2005)
 この派の読みでは、忘れ草を紐に付けるのは香具山の古りにし里を「忘れようとして」です。「む」は意志を表す助動詞で、「ため」を「目的」と読むわけです。この読みでは「ぬ」派の「でも忘れられなくて思い出すたびに辛い、だから」という屈折がなく、「忘れるために忘れ草を付ける」というのですから、論旨明快で合理的です。

 以上のような両派の違いを整理してみると、次のようになります。
「ぬ」派(折口、佐佐木、武田ら)
   忘れ草を付けるのは「忘れぬ(打ち消し)・が・ため(理由)」
   ⇒「忘れ(られ)ないから」忘れ草を付ける
「む」派(中西、伊藤ら)
   忘れ草を付けるのは「忘れむ(意志)・が・ため(目的)」
   ⇒「忘れようとして、忘れるために」忘れ草を付ける
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| 国語・国文 | 22:19 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
わすれぐさ
 わすれぐさ(忘れ草)という草が、万葉集以来和歌や俳句に詠まれています。それは思うとつらくなる物事や人のことを忘れさせてくれるという草で、たとえば万葉集には

萓草(わすれぐさ)我が紐につく。香具山の古りにし里を忘れぬがため。(巻第三 334)
歌意:私の住んで居た、香具山の辺の故郷を忘れないので、萓草をば、自分の着物の紐にとりつけて、どうかして忘れようとつとめて居る。

などと歌われています。ちなみに歌と歌意は、私をして万葉集研究志望から日本民俗学へと翻意させた張本人・折口信夫の「口訳万葉集」(大正5年、同6年。折口信夫全集第四巻・第五巻に収める)から引用しております(原文は旧字旧かな)。
 しかし残念なことに、こちらから思いを寄せるばかりで「あふ」(古語なので旧かなづかいです。ただ単に「会う」だけでなく、親しくお付き合いすることも含まれる)ことの難しいあの人あのお方、このまま思い続けていては身も心もどうかなってしまいそうで、せめて今この一瞬でもいいから忘れさせてほしいその人のことには効果がなかったようで、後の巻では

萓草(わすれぐさ)垣もしみみに植えたれど、醜(しこ)の醜草。尚恋いにけり。(巻十二 3062)
歌意:物忘れをする為に、垣根に一杯になる迄、萓草を植えたけれど、鈍(どん)な莫迦(ばか)な草奴(め)だ。自分はまだ、いとしい人に焦れて居ることだ。

と、八つ当たり気味の悪口を頂戴してます(^^;)。名前が似ている忘れな草(勿忘草)とは効能が全然違うので要注意。

ヤブカンゾウ この忘れ草の正体はヤブカンゾウということになっています。なぁんだヤブカンゾウか、なんて言っては少々かわいそうですが、つらいことを忘れさせるという不思議な力を持っている(らしい)割にはその辺に当たり前に咲く花で、私の身近なところでも、毎年6月から7月にかけて田んぼの畔などに咲きます。ユリに似てちょっとくちゃくちゃした感じの濃い黄橙色の花は、緑一色の水田風景の中で一際鮮やかでよく目立ちます。

ヤブカンゾウ花アップ この草が忘れ草と呼ばれるわけは、もともと原産地の中国でこの草が「忘憂草」、憂いを忘れる草とされていたからで、たとえば周代の成立とされる「詩経」の中に「ケン草*」(萓草(カンゾウ)と通音)という書き方で登場しています。このケン草が出てくるのは東方に兵として出征した夫の身の上を思う妻が「どこかでケン草(=萓草)を探して裏庭に植えよう、ひたすらあなたのことを思っていると病気になりそうだから」と歌う詩なので、周代すなわち紀元前7世紀以前から、この草が憂いを忘れさせると考えられていたことがわかります。なぜそう考えられたかはこの歌からはわかりませんが、想像するに花の色も形もぱぁっと鮮やかで、思わず憂いを忘れてにっこりしてしまいそうだからかな?
 *ケンは「援」のてへんに代えてごんべんを書く字で、字義は1. いつわる 2. わすれる。ここはもちろん2. の意味。
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| 国語・国文 | 11:05 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
遊ぶために生まれてきたのは誰ですか

 「梁塵秘抄」に収められた歌の中で「遊びをせんとや生(うま)れけむ、戯れせんとや生(むま)れけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ。 」が最も知られているのは、やはりそれが現代の我々にも素直に共感できる歌だからです。専門家の立場からは、たとえば「遊び」とか「動(ゆる)がるれ」について、作歌当時の観念や信仰に基づいた解釈が種々なされておりますが、現代の我々の立場からは、無心に遊ぶ子どもの声や姿に思わず心が動く、日々の心配事やらしがらみやらあれやこれやをえいやと投げ打って、自分もあの無心さ、あの全能感に浸りたいという、かなえられることのない憧れの歌ということになるのでしょう。

 ところで先日聞いたラジオ番組では、冒頭の「遊びをせんとや生(うま)れけむ、戯れせんとや生(むま)れけん、」が、子供についての言葉と解釈されていました。つまり「子供というものは遊びをするために生まれたのだろうか、戯れをしようとして生まれたのだろうか」というわけです。それまで私は、これは歌っている本人のことで、「遊ぶ子供の声に身が揺るぐほど感応してしまう私は、本当は遊びをするために生まれたのだろうか、戯れをしようとして生まれたのではないだろうか」という歌だと捉えていたので、この放送を聞いて「なるほど、そういう見方もあるのか」と気づかされました。
 しかし私は、自分自身が遊ぶために生まれてきたせいか(^^;)、この「遊びをせんとや」云々が子供だけのことを言っているというふうにはどうしても取れません。必ずや「揺るぐ我が身」も対象に含まれているに違いない。
 ああ、そうか!今まで私は「我が身」のことしか考えていなかった、遊ぶ子供の声は聞いていても子供の姿は見ていなかった、遊ぶ子供を実体として、実在として捉えてはいなかったのです。確かにそれでは片手落ちである。子供が遊んでいる、その声を聞いて揺らいでいる我が身もここにある、ということは「遊びをせんとや」云々は子供も我が身も包摂した言い方であるはずです。たとえばこんなふうに。
 「人はみんな遊びをするために生まれてきたのだろうか、戯れをしようと生まれてきたのではないだろうか、子供が遊んでいる、そしてその声を聞くと、我が身も揺らぐよ」

 この歌の「我が身さへこそ」という言い方も興味深いですが、これは未だ成案を得ないので、今回はここまで。

| 国語・国文 | 21:28 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
万葉集の「雲に飛ぶ薬」の歌
 日本経済新聞の文化面に昨日(2010年6月8日)まで10回連載されていた「アニメのふるさと絵巻十選」(羽衣国際大学教授 安東民児氏:お名前の「児」は本来は正字ですが、便宜上「児」と表記させていただきました)は、現在のアニメに用いられるのと共通する表現を絵巻物の中から探り出し、古人の表現力の豊かさと、現在の我々の感覚との意外な近さに気づかせてくれる好企画でした。
 ところでその最終回では、浦島太郎と天女が雲に乗ってふんわりと飛行する「浦嶋明神縁起絵巻」が紹介され、これに関連して

「我が盛り いたくくたちぬ雲に飛ぶ 薬食(は)むとも またをちめやも」

という万葉集の歌を引いて「雲に飛ぶ薬、この仙薬を飲めば天を飛行できるという、雲に乗って遊覧飛行してみたいなあという憧(あこが)れの歌であるが、古来より人が雲に乗るのは夢だった。」と結論されています。日経は一応仕事がらみで読んでるんですが、この日の私は中の記事より何より、連載のこの部分に反応してしまいました。それ、そういう歌じゃないですよ!

 この歌には確かに雲まで飛ぶ仙薬が歌われてはいますが、歌としては「雲に乗って遊覧飛行してみたいなあという憧れの歌」ではありません。それはこの歌が「またをちめやも」(また「をち」るだろうか)と結ばれているからで、「をち」は「若返る」という意味の動詞(終止形は「をつ」、漢字は「変若」と当てる)なのです。したがって歌の意は、この句が冒頭句「我が盛り いたくくたちぬ」(私の盛りは大変損なわれてしまった)と呼応して、

「自分はすっかり年をとってしまった。今さらそれを飲めば雲まで飛べるという高価な仙薬を飲んだとて、また若返ることなどあろうか(いやありはしない)」

ということになります。

 とりあえず歌意は取ったものの歌自体は初めて見たので、新聞を読んだときには「たとえ高価な仙薬にすがってでも若返りたい!でももう無理だわ(涙)」という切ない女心の歌か、あるいはわざとそうした物言いで座を盛り上げた、やや年かさの遊女の歌でもあろうかと思いましたが、調べてみると、これは大伴旅人のけっこうシリアスな歌だったんですね。
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| 国語・国文 | 23:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |

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