京都駅からまっすぐ東へ向かう東海道本線の上り列車に乗ると、京都の次の山科駅を出た列車はトンネルに入ります。そしてトンネルを抜けてすぐの大津駅はもう京都府ではなく滋賀県の駅。このトンネルは京都府と滋賀県の境にある標高325メートルの逢坂山(おうさかやま)を越える逢坂山トンネルです(もっとも実際の県境は逢坂山の西麓を通っていて、逢坂山そのものは滋賀県大津市に属する)。
逢坂山といえば百人一首の「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関」(蝉丸)を思い出す方も多いでしょう。この逢坂山は、古くは畿内と畿外の境とされていました。畿内とは宮都(みやこ)の近隣地域のことで、大和・山城・播磨・河内の四つの国(さらに後には河内国から和泉国を分立して五畿内と言われるようになる)を指しましたが、そうなる以前の孝徳天皇の大化2(646)年に出された「大化の改新の詔」には「凡(およ)そ畿内は(中略)北は近江(おうみ)狭々波(ささなみ)合坂山より以来(このかた)」とあり、この山が畿内の北の境とされていたのです。
夏四月、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)の、賀茂神社(かものやしろ)を拝(おろが)み奉(まつ)りし時に、便(すなわ)ち相坂山(おうさかやま)を越え、近江の海を望み見て、晩頭(ゆうぐれ)に還(かえ)り来て作れる歌一首
木綿畳(ゆうたたみ)手向(たむけ)の山を今日越えていづれの野辺に廬(いおり)せむわれ
(万葉集巻第六 1017)
※訓読は中西進『万葉集 全訳注原文付』(昭和53から58(1978から1983)年 講談社文庫)に拠り、( )に包んだ振り仮名は新仮名遣いとしました。
歌の題詞(歌の前にあって歌が詠まれた状況や背景を説明する文)によると、これは大和朝廷の有力豪族である大伴家の坂上郎女が、ある年の四月に山城国の賀茂神社に参拝した際、ついでに足を伸ばして逢坂山の峠に立って近江の海(琵琶湖)を望見し、夕刻になって賀茂神社近くの宿所に帰って来た際に作った歌ということです。歌の意味は
木綿を重ねて畳んだ木綿畳(ゆうだたみ)を峠の神に手向けて旅の安全を祈る、その手向けの山を今日は越えてきて、さて、どこの野辺に仮の廬を結んで一夜を過ごそうか、私たちは
というもの。歌の最後の「われ」は単数の「私」のように聞こえますが、原文は「吾等」とあり複数。当時貴族が、まして女性が、一人旅をすることはあり得ず、必ず伴の者がついて一行となる習いでした。
そうしたことは承知の上でなお私は、この歌の「われ」を坂上郎女自身の一人称と見たいのです。「吾等」という集団的な発想ではなく、後期万葉を代表する優れた女流歌人であったこの人の、その繊細で鋭利な感覚で感じ取られた畏(おそ)れや慄(おのの)きの主体であるところの、一人の「わたし」と見たいと思うのです。