本宿(ほんしゅく)駅再び 〜 10年後の再訪

 ちょうど10年前の夏、今ではもう存在しないJR南武線の旧・西府駅と本宿駅について調べたことがありました。このときのことはこちらにまとめましたが、今年の3月にこの記事へのコメントをいただきました。そのコメントの内容は大変示唆に富み、10年前の私の結論を補完するものでしたが、個人名でいただいており、コメントを公開するとお名前も公開されてしまうので、コメントの内容だけをこちらに掲載させていただきます。

 

(以下コメント内容)

本宿駅と推定しているところに住んでいた者です。
ホームの残骸のコンクリートの塊が多く残されていた所が駅のはずで、あなたの推定場所よりやや右です。
線路北側に東西に走っている道があり、本宿村の主要道の一つです。
小学校東のマンション群の昔は、別荘です。林の中に日本風の立派な建物があり庭もたいしたものです。子供のころ中に入ってドングリをひろいました。別荘主はどこかの商社の人らしく、子供は府中の明星学園に通ってました。ここに別荘を建てたのは、崖上で富士山の見晴らしがよく、眼下には稲穂やレンゲ畑がきれいだからです。ここの傾斜は大昔(鎌倉、室町時代)多摩川が流れていて、川が削り取った後です。鎌倉幕府が滅びたきっかけの足利軍との大決戦があった分倍河原の戦いはこの少し東です。
以上
(コメント内容終わり)

 

 上のコメントより、本宿駅は私が推定した場所(都道府中・町田線バイパスが南武線をアンダークロスしているところの真上)よりもやや右、つまり東側にあったらしいことと、私が「豪農の母屋か」と推定した府中五小の東隣の、現在はマンション群になっている一画は、もとは別荘であったことがわかりました。
 この一画に関するコメントの「林の中に日本風の立派な建物があり庭もたいしたもの」という記述は、1947年撮影の空中写真に対する10年前の私の所見「今ではマンション群が建っているところが、当時は大きな社寺でもあったのか、学校とほぼ同じ面積の木立に囲まれた一画になっていました。しかも写真によっては、この一画のほぼ中央に大きな屋敷のような建物が写っているようにも見える」とよく一致しています。当時は高い建物はなかったので、ここから彼方に富士山も見え、逆S字型の中坂を下りた府中崖線下の多摩川の沖積平野に広がる水田も広く見渡せたことでしょう・・・としばらくの間当時の風景を想像してしまいました。

 その後このコメントをいただいた方(仮にA様としましょう)から、さらに以下のような補足情報をいただくことができました。

  • 府中・町田線バイパスが南に向かって南武線をアンダークロスしようとするところの東側に細い道が南武線に向かってついていて、線路で途切れている。A様はこれが本宿駅に向かう道だったと確信していらっしゃるとのこと。
  • バイパスはもともと南武線だけをアンダークロスしてその先は掘割にする計画だったが、当時まだあった例の別荘地の貴重な緑を残せという反対が出たため、トンネルを延長して別荘地の下を潜らせた。その後地主がこの別荘を売却したためにマンション群が建ち、現在のようにマンション群の下を道路が潜ることになった。

貴重な情報をお寄せくださったA様には、改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

 

 さて、A様からいただいた補足情報で触れられていた「本宿駅に向かう道」が、いたく私の興味をそそりました。実はこの辺りは10年前の実地調査の際にあまりの暑さにメゲて調べ残していたエリアで、その際に私自身が「宿題」として「調べ残したバイパス入口の東側(府中寄り)の線路北側に、ひょっとしたら駅へのアプローチの名残があるかも知れないが、どうかなぁ・・・「本宿駅→」なんて書いてある案内板がさり気なく残ってるとか、「行くゅしんほ りよ はかちた」(昔だから横書きは右からね)の切符が落ちてるとか・・・あるわけないか。」と書いていました。やっぱり駅へのアプローチは残っていたのか!?これは10年前の宿題をやりに現地に行くしかないでしょ!

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| 地域とくらし、旅 | 16:45 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
初めての青梅 その3 〜旧青梅街道・雪守横丁・仲通り〜

 2018年8月25日に初めて訪れた青梅のレポート第3弾・最終回。再び旧青梅街道を歩いて麦酒を飲み、横丁をさまよい、青梅の影の部分も見てしまって、お土産買って帰ります。今回はちょっと長くて濃いよ〜。

 

 山腹に展開する宗徳寺の墓地を見てから再び旧青梅街道に出て、青梅駅方面に戻る途中、釣具店発見。そうそう、青梅からは多摩川も近いのです。この日は訪ねませんでしたが、多摩川河畔には郷土博物館や釜の淵公園、市立美術館、「雪おんな縁(ゆかり)の地」碑などがあるようです。

 

 旧青梅街道を歩いて「青梅麦酒」まで戻ってきました。ここまで来ればあとは駅まで戻るだけ(実際にはそうではなかったが)だし、けっこう上り下りして一汗かいたし、何より暑いし、というわけで迷わず入店。
 この旅行記の「その1」で言及した「拡大号 青梅線・五日市線の旅 2018 SUMMER」や、まさにこの日にゲットした「中央線が好きだ。magazine vol.19 2018(クラフトビールの夏がきた!)」といったJRの旅行情報パンフレットで繰り返し紹介されているので、満員だったり行列してたりしてたらどうしよう、と心配していましたが、行ってみると店内には家族連れ1組と一人ビールのおじさんだけで、窓際のテーブルを独占できました。
 ビールもフードもワンショット(注文の都度現金払い)で、レジで注文と支払いを済ませると、ビールはすぐ横のディスペンサーからグラスに注いで溢れた泡の上部をナイフで払って手渡してくれ、フードはでき次第テーブルまで持ってきてくれます。私はまず奥多摩の VERTERE のIPA(インディアンペールエール)とおまかせ三種盛り(この日は焼き枝豆とグリルドソーセージと、あーもう一つは・・・えーと野菜の何か!)を頼み、喉を潤しながらこの日にゲットした地図やパンフレット類をじっくりチェックしました。
 ウッディでシンプルな内装、同じく飾り気のないイス、というかスツールとテーブル、静かで明るい店内。家族連れは話が弾んでいるようですが、一人ビールのおじさんはナッツとビールを相手にゆったりと読書中。確かにここでは「ふぅー」と息を吐いて体の力を抜いて、適度な一人感を感じられます。時刻はこの時点で午後1時ぐらいだったかな。旅先でのんびり昼ビール、いいね!あまり快適だったのでもう一杯、「多満自慢」の石川酒造(福生市)のダークだったかな、をいただきました。
 ここ、いいですよ。また行きたい。みなさまもぜひご贔屓に!

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| 地域とくらし、旅 | 10:33 | comments(0) | - | pookmark |
初めての青梅 その2 〜旧青梅街道から住吉神社・西分神社〜

 2018年8月25日に初めて訪れた青梅レポート第2弾。旧青梅街道を歩き、地元の神社にお参りします。

 

 青梅駅前のロータリーから南へ伸びる大通りを少し歩くとすぐに旧青梅街道と交差するので、交差点を左へ折れて、東の方、立川方面へ歩きます。天気がよくて日向は暑く、日陰になる通りの南側の方が歩きやすいです。

 

 通りにはいかにも昭和を感じさせる商店の建物が並び、さらに昭和の映画の看板が掛かっていて、なるほど「昭和レトロの町」ですね。

 この写真だとちょっと見にくいんですが、3軒並んだお店の一番左のお店は「間坂屋紙店」というお店です。実際には紙だけじゃなくて文房具や事務用品も売ってるんですが、昔は紙(おそらく洋紙)や便箋、ノートといった紙製品だけで商売が成り立った時代もあったのかも知れませんね。そしてこのお店の店名、まさかの「まさか屋」さん、ですか?

 

 歩道にはこのようなタイルがはまっている部分もあり、何だか街全体がドレスアップしている感じがあります。「劇場型の街並み」とでもいいましょうか。劇場型というと何だか特殊詐欺の手口みたいですが、こういう劇場型は大歓迎です。

 

 

 商店の店先で一杯ひっかける、じゃない一息入れる昭和の少女二人・・・いやいや、今は平成30年ですから。

 別にヤラセでもモデル撮影でも何でもない絶対非演出の完全ドキュメント(大げさな笑)なんですが、お店のたたずまいがいかにも昭和レトロなだけに、絵になりすぎですね。欲を言えば絞り開放で後ボケの絵にしたかったですが、そこはコンデジなもので・・・いや、いっそ白黒にしちゃってもよかったかな。うんうん、これはやっぱり「劇場型の街並み」の力ですよ。

 

 

 

 「ここは歩道乗り上げ駐車禁止です」という看板が見えます。この通りの歩道には縁石がなく建物の前の歩道が切り下げてあるだけで、歩道と車道の段差もそれほど高くないので、地元の方の車は段差をそれほど気にする風でもなく、けっこう大胆に歩道に乗り上げてきます(私の普段の生活圏内の歩道にはほぼ縁石があって歩道乗り上げはほとんどないので、最初はちょっとびっくりしました)。それでこういう看板が必要になるのでしょうが、かと言って縁石でがっちり車を締め出すわけでもなく、車の側もそこは遠慮するという阿吽の呼吸がまたなんともいい感じです。

 

 今回の青梅訪問の最重要目的である「青梅麦酒」はすぐに見つかりました。青梅駅から旧青梅街道に出て東へ50mほど行くと通りの南側にあります。店名の看板はないが「カネボウチェーン店 いたや」という日除けが目印。正面ガラス戸に「青梅麦酒」と書いてあります。しかし「あったー♪」と喜んで早速入って呑んじゃうと街歩きに支障が出そうなので、ここはぐっとこらえて帰りに立ち寄ることにします。

 なお、観光案内所で紹介された青梅赤塚不二夫会館・昭和幻燈館・昭和レトロ商品博物館もこの旧青梅街道沿いにあります。しかし私はこの3館にはあまり興味がわかず、特にこの日は初めて訪れた街のいろいろな姿を見たかったので、博物館系は遠慮しました。すみません、へそ曲がりなんです

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| 地域とくらし、旅 | 16:24 | comments(0) | - | pookmark |
初めての青梅 その1 〜青梅駅とそのごく周辺〜

 青梅という地名を私が初めて知ったのは、奈良に住んでいた小学生時代でした。当時友達の影響でテツだった私は、東京の青梅という所に鉄道公園があり、蒸気機関車を含む国鉄(当時)の車両が展示されていることを知り、ぜひその鉄道公園に行ってみたいと思いましたが、かないませんでした。その後私は国立市にある高校に通うようになり、青梅は私の高校の学区となったのですが、この頃にはテツ熱もやや冷めて、青梅を訪れる機会はありませんでした。
 ところが今年の7月23日、青梅で最高気温40.8度を記録し、青梅が東京都で一番暑い街となったことが、私の青梅への興味をそそりました。私の理解では青梅は関東山地を流れてきた多摩川が関東平野に向かって形成した武蔵野扇状地の扇頂部に位置する宿場町で、標高もそこそこ高く、海風の及ばない内陸ではあるが盆地でもないし、ヒートアイランド現象が起きるような都市部ではさらさらないはずで、なぜ東京で一番暑い街になったのか、ちょっとわからなかったのです。その後この高温の原因はフェーン現象らしいということで「ああ、なるほど」と納得したのですが*、これまでの己の人生を振り返ってみると、鉄道公園の件だとか高校の学区だったとか、以前から青梅には何かと縁があるような気がするのです。そこで一つこれを機会に現地を訪れてみようと思い立ち、8月25日(土)の朝、常磐線荒川沖駅へと向かうバスに乗り込みました。

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| 地域とくらし、旅 | 07:05 | comments(0) | - | pookmark |
谷塚散策、のつもりが浅間神社にハマって・・・(埼玉県草加市)

 2017年1月28日(土)の午後、ふと思い立って埼玉県草加(そうか)市の谷塚(やつか)を訪れました。ここを訪れたのはいささかセンチメンタルな理由からですが、それはこの文章には関係ないので省きます。東武スカイツリーライン(伊勢崎線)に乗って北千住駅から6つめの「谷塚」駅に降り立ったのが午後4時を少し回った頃。6時過ぎから都内某所でオーケストラの練習があるので、谷塚にいられるのは1時間くらいです。

 

  高架の島式ホームから階段で下りて一つしかない改札を出ると、出口が東口と西口の二つありますが、何せ急に思い立って来たのでこの街のことは全くわかりません。まずはとりあえず両方の出口の様子を伺ってみることに。

 

 東口の方は出るとすぐに案内図があり、駅前はロータリーになっていて25階建ての大きなマンションがあったりと、けっこう開けている感じ。

<東口を出るとすぐ目に入るのが「草加市住居表示街区案内図」(右写真)。三角形の底辺の真ん中あたりに谷塚駅があり、右斜辺の青い帯は毛長川。この図は北を示す矢印が左を向いていることからわかるとおり上が東で、この図に正対したときに地図と実際の方位が合って見やすくなっています。ただ、この向きで背中側になる西口側は「谷塚町」という字があるだけで空白になっているのは、ちょっとなあ・・・西方面へ行く人は西口へ回ってくれということなのかな>

 

<「草加市住居表示街区案内図」の右側にもう一つ、「避難誘導案内板」という案内図がありました。この図は「草加市住居表示街区案内図」と違って、地図の上が北という一般的なルールにしたがって描かれているので、両方の案内図を突き合わせるにはちょっとアタマを使わないといけません。谷塚駅はこちらの図のほぼ中央にあり、その右側に広がる黄色の部分が「草加市住居表示街区案内図」の三角形のエリアの下半分にあたります。オレンジ色が駅の西側の谷塚町(やつかちょう)エリア、緑色は吉町(よしちょう)エリアです。>

 

 一方の西口は案内図もなくこじんまりしています。

<西口で目についたのがこの三角(実際にはこの角だけが尖った不等辺四角形)のビル。変形地を極限まで利用した結果であろうこの尖った部分の内側がどのように使われているのか興味あり。普通に物置みたいに使われているのか、ひょっとするとまさかの説教部屋とか?

 ・・・そういえば突然思い出しましたが、2年間お世話になった大学の学生宿舎の私が入った部屋は、ホームベースをタテに引き伸ばしたような五角形で、その尖った斜めの辺に窓がついていました。備え付けの机とベッドとスチールの本棚をどう置いたものか、しばし悩みました。んー、大学って自由だ(笑)。ちなみに学生宿舎の部屋の多くは普通の四角形で、五角形の部屋は少数です。念のため。>

 

 そこで再び東口の案内図をしばし眺め、東口からまっすぐ進んで県道49号足立越谷線と交わる交差点を右折し、夕暮れの水神橋に佇んで茜色に染まる毛長川の流れをぼんやり眺めてみることにしました。うん、こりゃ十分センチメンタルじゃろうて!

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| 地域とくらし、旅 | 16:58 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
JR蓮田駅(埼玉県蓮田市)から30分ぶらぶら散歩

 年明け早々の土曜日(2017年1月7日)、オーケストラのメンバーと埼玉県蓮田市の清龍酒造の酒蔵見学ツアーに行きました。私は蓮田という所にはこれまで行ったことがないので、待ち合わせ時間より約1時間早めに着いて、30分ほどぶらぶらしてみました。快晴でしたが冷え込みが強く、マフラーとニットの帽子が手放せません。

 

 今回は東京駅から上野東京ライン・宇都宮線の直通を利用。570円奮発してグリーン車に乗ってみました。2階建て車両の2階は車窓の眺めもよく、グリーン車にはモーターがついてないので静かで快適。何だか旅行気分。

<左写真は蓮田駅でグリーン車から下りたときに撮りました。乗ったのは4号車でしたが少し進行方向に歩いてから撮ったので5号車が写っています。右写真は2階進行方向左側の車窓からの眺め。団地萌えです(笑)>

 

 蓮田駅は改札が一つで出口が東口と西口の二つ。東口の方が国道122号に面して賑やかなようなので、今回は東口側をぶらーりすることに。地図を持たないぶらぶら歩きながら、一応駅の東にある元荒川を目指します。広い幹線道路よりも一本入った静かな通りの方が「物件」が見つかりそうな気がするので、嗅覚の導くままに蓮田駅前からまっすぐ元荒川方面へ伸びる道の一本東側の道へ入り込みました。

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野岩線の旅
 年明け早々の2016年1月3日、栃木県日光から福島県会津に抜ける野岩(やがん)鉄道会津鬼怒川線と会津鉄道会津線に乗ってテツ分を補給してきました。野岩鉄道会津鬼怒川線(以下「野岩鉄道」)は東武鬼怒川線の新藤原(栃木県日光市)と会津高原尾瀬口(福島県南会津郡南会津町)とを結ぶ全長30.7kmの路線、会津鉄道会津線(以下「会津鉄道」)は会津高原尾瀬口と西若松(福島県会津若松市)とを結ぶ57.4kmの路線です。
 この日はJR常磐線で荒川沖から柏へ出て東武アーバンパークライン(野田線)に乗り換え、春日部から東武スカイツリーライン(伊勢崎線)の直通快速列車に乗って東武日光線下今市から東武鬼怒川線に入り、新藤原から野岩鉄道を完乗し、会津鉄道の会津田島まで乗ってきました。この直通快速はセミクロスシート・トイレ付の快適な車両(東武6050系)で会津田島まで乗り換えなし、しかも運賃のみで特別料金不要という優れものです。会津への旅にお薦めですよ〜!

 あまり知られていないようですが、栃木県日光近くの今市(いまいち)と福島県会津若松は会津西街道によって古くから結ばれており、昔の宿場町の姿をよく残していて観光地としても人気があり重要伝統的建造物群保存地区にも選定されている大内宿は、この街道の宿場です。現在では国道121号が会津西街道と呼ばれて今市と会津若松を結んでいます
 一方この区間の鉄道はというと、明治20年頃(1880年後半から1890年頃か)に県境一帯で敷設を希望する声が高まり、1904(明治39)年には国による測量も行われたらしく、1922(大正11)年に「栃木県今市ヨリ高徳ヲ経テ福島県田島ニ至ル鉄道」が改正鉄道敷設法による敷設予定線となりました(会津西街道のうちこの予定線に含まれていない会津若松−会津田島間は、これとは別に軽便鉄道法で計画されていた)。しかしこの予定線の実現はそれから64年後の1986(昭和61)年の野岩鉄道の開通まで待たなければなりませんでした。つまり東武線下今市−会津鉄道会津田島間を乗った今回の旅はこの今市−田島間の予定線をたどる旅であったわけですが、それと同時に、私の学生時代の思い出をたどる旅でもありました。私はこの沿線の旧・栃木県塩谷郡栗山村(現・栃木県日光市)をフィールドにして卒論を書いたので、このあたりはまんざら知らない土地でもなかったのです。

 まずはこの予定線の歴史関係を整理しておきましょう(左図参照)。会津側は軽便鉄道法によって1934(昭和9)年に開通していた国鉄会津線の西若松−会津田島間を延長する形で、1953(昭和28)年に会津田島−会津滝ノ原(現・会津高原尾瀬口)間が開通しました。これが今日の会津鉄道です。
 一方の栃木側はやや事情が複雑で、予定線の起点として想定されていたのは1890(明治23)年に開業していた国鉄日光線の今市駅でしたが、鬼怒川水力電気下滝発電所(現・東京電力鬼怒川発電所)の資材運搬を目的とした下野軌道が、予定線の構想に先立つ1917(大正6)年から1919(大正8)年にかけて、国鉄今市駅前に新たに設けた新今市駅から藤原(現・新藤原)駅までの間をいち早く開通させており、1929(昭和4)年には起点を新今市駅から東武日光線の下今市駅に変更しました。これが現在の東武鬼怒川線です。しかし残る新藤原−会津滝ノ原間はその後長く未開通のままでした。
 この区間については、おそらく地形や地質、当時の工事技術等の問題から、戦前には実質的な進展がありませんでした。戦後になって1957(昭和32)年の鉄道建設審議会で今市−会津滝ノ原間が調査線とされ、1962(昭和37)年には工事線に格上げされましたが、あくまでも国鉄日光線の今市駅を基点とするこの工事線と、既に下今市から新藤原まで鬼怒川線を運行していてこれと一部並走・競合することになる東武鉄道との間の調整が難航、1966(昭和41)年には栃木県側の接続点が未定のまま、見切り発車の形で福島県側から工事が開始されました。ところが全体の40%ほどまで工事が進行していた1980(昭和55)年12月に国鉄再建法(日本国有鉄道経営再建促進特別措置法)が制定され、工事は凍結されてしまいます。
 しかしその間に、この路線の栃木県側の接続点を東武鬼怒川線の新藤原とし、国鉄でなく第3セクターによる運営とする調整が行われ、それを受けて翌年の1981(昭和56)年に福島県、栃木県、東武鉄道などが第3セクター「野岩鉄道株式会社」を設立、さらにその翌年の1982(昭和57)年初めには工事を再開し、予定線となってから64年間未開通のまま残っていたこの区間は、幾多の紆余曲折の末1986(昭和61)年10月9日に開通しました。この日地元には「悲願80年」という掲示や「祝開通 ばあちゃんやっと電車が通ったよ ぢいちゃん早く乗ってみべ」という手製の立て看板などが見られたそうです。80年は国による測量が行われたという1904(明治39)年を野岩線元年として数えたものでしょうか。県境一帯で鉄道敷設の声が高まったという明治20年、すなわち1887年を起点とすれば「悲願百年」ということになります。

  ところで私が栃木県の旧・栗山村でフィールドワークしながら卒論を書いていたのは、建設工事が再開された1982(昭和57)年のことでした。旧・栗山村は五十里(いかり)湖の西方に427.37平方キロメートルという広大な面積(栃木県内の自治体では最大で、その90%以上は山林)をもって広がる山村でしたが、野岩鉄道は実際には村の東端をかすめるように通るだけで、旧村域内の駅も湯西川温泉駅ただ一つだけです。そして私のフィールドは村内西南部の野門(のかど)という集落で、野岩鉄道のルートからは大きく外れていました(図参照)。それでも野門集落に住む複数の人々から野岩線という言葉が聞かれ、たとえ自分たちの集落はルートから外れていても、野岩鉄道の開通が村の振興によい影響を与えるであろうという期待が見て取れました。
 それ以来30数年、私は野門集落はおろか旧・栗山村をも訪れておりません。せめて車窓からなりとも、野岩線の開通を待ちわびていた旧・栗山村の今日の姿を見たいというのが今回の旅のもう一つの目的でした。
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| 地域とくらし、旅 | 20:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
駒込天祖神社で茅の輪くぐり
 6月27日(土)のお昼頃、所属している某オーケストラの室内楽演奏会を聞くために、JR駒込駅から本郷通りを歩いて文京区駒込地域活動センターへ向かっていたところ、左(北)側へ入る通りに「天祖神社入口」という石の道標と「夏越大祓」(なごしのおおはらえ)の幟(のぼり)が立っているのに気づきました(左写真)。
  私は出先で神社を見つけると、できるだけお参りすることにしています。この日もまだ時間があったので、早速この道へ入りました。夏越大祓といえば6月30日の茅の輪くぐりですが、こちらの神社では融通を利かせて、直近の週末であるこの日にも間に合わせていただいているようです(神主様が立ち会ってのお祓いは翌日28日の午後4時からだったらしい)。出不精な私はこれまで6月30日に神社に出向いて茅の輪をくぐったことがない(今日だって家にいてこの記事書いてるし・・・)ので、思わぬところで茅の輪くぐりを初体験することになりました。

 この道へ入るとすぐの角に「旧町名案内」という看板が立っています(右写真)。このあたりは昭和41(1966)年まで「駒込神明町(こまごめしんめいちょう)」だったとのことで、町名の説明文と旧町域図が出ています。以下、説明文を転記します。なお[ ]内は説明文にあるフリガナです。

旧 駒込神明[こまごめしんめい]町
      (昭和41年までの町名)

 もと、北豊島郡駒込村の内であった。明治24年、旧神明原の大部分、本村、本村下、富士裏[ふじうら]、丸山、丸山下の地を東京市に編入して一町とした。
 町名は、神明社[しんめいしゃ](現・天祖[てんそ]神社)の所在地であるところから神明町とした。
 文治[ぶんじ]5年(1189)源頼朝[みなもとのよりとも]が奥羽征討の途中、夢にお告げを聞き探させたところ、大麻[たいま](伊勢神宮のおふだ)がかかっていた。頼朝は喜びここに神明社を建てたという。
 古川柳[こせんりゅう]に“駒込は一富士二鷹三茄子[なすび]”という句がある。富士神社、鷹匠[たかじょう]屋敷と富士裏(富士神社裏)のなすの駒込の名物がうたいこまれている。

 説明文は以上です。説明文の隣の地図(左写真)を見ると、今通っているこの道が区立第九中学校の前を通って天祖神社の正面に至る、いわば参道であることがわかります。なるほど道沿いに「夏越大祓」の幟が立ち並んでいました。
 
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筑波海軍航空隊記念館とその周辺
 「筑波海軍航空隊記念館」(左は開館時のポスター)はJR常磐線の友部駅から南に2kmほど行った「県立こころの医療センター」の敷地内にあります。戦争関係の記念館が病院の敷地内にあるのは不思議ですが、実は順序としては逆で、病院の方が筑波海軍航空隊の跡地に作られたのです。

 ここはもともと大正7(1918)年に農林省(当時)の友部種羊場として開かれた所で、その後茨城県種畜場、日本国民高等学校として使われた後、昭和9(1934)年に霞ヶ浦海軍航空隊友部分遺隊が置かれ、練習機による操縦基礎教育を開始しました。その後友部分遣隊は昭和13(1938)年に筑波海軍航空隊(以下「筑波空」)として独立し、この年に司令部庁舎(ポスターに移っている建物で、現在記念館となっている)が完成します。
 筑波空は1945(昭和20)年の敗戦により解体されましたが、跡地と建物等の施設は旧制水戸高等学校、宍戸中学校、茨城師範学校に転用された後、昭和35(1960)年に茨城県立友部病院(現・茨城県立こころの医療センター)が開設されて現在に至っています。

<写真は昭和22年頃の筑波空跡地の空中写真。直角三角形と長方形などが組み合わさった白い図形状の部分は訓練用の滑走路で、大部分が現在も道路として残っています。筑波空はこの滑走路の左上側に展開していて、司令部庁舎を含む建物群が写っています(筑波海軍航空隊記念館のガイドブックから転載)。>

 県立友部病院の管理棟等に利用されていた筑波空の司令部庁舎は、県立こころの医療センターが平成23(2011)年に新病棟に移転した後も取り壊されず、敷地内にある号令台や供養塔等の筑波空関連の施設と一緒に残されました。またセンターの敷地の周囲には地下戦闘指揮所跡(土・日・祝日のみ公開)、無蓋掩体壕跡(見学不可)があり、当時の滑走路も道路になって利用されていますし、さらにJR水戸線の宍戸駅方面から開かれた「海軍道路」とその記念碑も現存しています。この一帯には筑波空に関連する戦争遺跡が多く残っているのです。

 ここが筑波空の遺跡として注目されるきっかけとなったのが平成25(2013)年12月21日に公開された映画「永遠の0」。「ALWAYS 3丁目の夕日’64」(平成24(2012)年1月21日公開)のロケでこの旧・司令部庁舎を使ったことがあった山崎貴監督が、「永遠の0」の撮影に当たって、作中の主要人物の宮部久蔵の実際の職場であった筑波空の旧・司令部庁舎でロケ(平成24(2012)年6月)を行い、それがきっかけとなって旧・司令部庁舎が「筑波海軍航空隊記念館」として公開されるに至ったのです。オープンは映画「永遠の0」公開初日の前日の平成25(2013)年12月20日。理由や事情は承知していませんが、今のところ平成27(2015)年3月31日までの期間限定公開の由。管理運営は筑波海軍航空隊プロジェクト実行委員会です。

 上述のとおり筑波空の前身は霞ヶ浦海軍航空隊の友部分遣隊でしたが、その本隊があった阿見町には航空隊内に置かれた予科練(海軍飛行予科練習生)の遺品展示を中心とした「予科練平和記念館」(平成22(2010)年2月オープン)があり、私も見学して、展示された「実物」の迫力に圧倒されました。
 しかし「予科練平和記念館」の建物は新しく建てられたモダンな建物です。これに対して「筑波海軍航空隊記念館」はその建物自体からして「実物」なわけで、これはぜひ見たい!しかも来年3月いっぱいまでの期間限定ですよ。早く行かなきゃ!
 というわけで、2014年10月29日(水)に、見学に行ってきました。
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「くにニャンストラップ」を求めて国立へ
 9月3日(水)に上野の東京国立博物館で開かれている台北國立故宮博物院展を見に上京したついでに、国立に行くことにしました。そのきっかけになったのが、こちら。なんでも「くにニャンストラップ」なるものが販売されているらしい!しかも市役所のロビーじゃ平日の昼間でないとね。
  「くにニャン」は国立市のゆるキャラです。2012年11月4日に一橋大学の学園祭「一橋祭」の企画「くにたちマスコットキャラクターグランプリ」において、20のキャラクターが参加した一次選考で「くにいたち」に続いて第2位に入り、二次選考で見事1位となりました。見た目では彦根市島根県にも似たようなキャラクターがいるみたいですが、くにニャンは「くにたち駅舎のさんかくねこ」で、赤い三角屋根がトレードマークだった旧・国立駅舎に出入りしていた猫の妖精といわれており、右手と左手がそれぞれ「立川方面」「新宿方面」と決まっているなど、そのフォルムは勿論オリジナルです。詳細はこちらでご確認ください。
  というわけで、今年4月5日(土)の雹が降ったお花見以来の国立ですよ。ほとんど花見の時期にしか来ないので、この時期の国立はおそらく高校卒業以来35年ぶりです。
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