おっこンないでヨー

仕事が終わって建物の外階段を降りていると、下から登ってくる中年の女性社員の一団から「◯◯さん、おっこンないでヨー」と声をかけられた。「だいじょうぶだヨー」と答えてすれ違い、駐車場まで歩きながら考えた。

 

「おっこンないで」とは勿論「(階段を踏み外して)落ちないで」という意味に違いない。そして「おっこンないで」のンはおそらく撥音便(たとえば「積む」の連用形「積みて」が「積ンで」、「読む」の連用形「読みて」が「読ンで」になる等の発音の変化をいう)であろう。もしそうなら元の動詞は何だろう。それはおそらく「おっこる」という形なのではなかろうかと考えた。
さらにその「おっこる」の「おっ」の部分は関東方言で多用される「お+促音の接頭語」(たとえば「オッぱじめる(始める)」「オッころぶ(転ぶ)「オッぺしょる(へし折る)」等の「オッ」)ではないかと考えた。もしそうなら接頭語が付く前の本来の動詞は何だろうか。単純に「おっ」を除けば「こる」が残るが、「こる」という語が「落ちる」という意味を持つのだろうか。どうも違和感がある。

 

そこで思い出した。「落ちる」の関東方言で「おっこちる」という語がある。この語はふつう「落っこちる」と書いて、つまり最初の「お」が「落ちる」の「お」だと思われているのだが、あれも実は「落ちる」に関東方言の「お+促音の接頭語」が付いたものなのではないだろうか。
ただし、もしそうであれば「おっ落ちる」という形になるが、「おっお」という音の連なりは発音しにくいので、発音しやすくするため仮に k の子音をはさんで「おっ・k・落ちる → おっこちる」となったものではないだろうか(これを「k仮説)と呼ぶことにする)。
そこでこの「k仮説」を先ほどの「おっこる」に適用してみると、「お+促音の接頭語+k」を取り除いた形は「おる」になる・・・なんだ、「おる」なら「下りる・降りる」の古語「下る・降る」そのものじゃないか!つまり「おる」に「お+促音+k」の接頭語を加えることで、その内容の「下りる」に勢いと強さが加わり、結果として「落ちる」という意味を表すことになったと考えられるのだ。

 

帰宅後に「落ちる」という意味の茨城方言「おっこる」が実在することを確認した(たとえばこちらの該当箇所)。
あとは私の「k仮説」が正しいことが検証されれば、茨城方言「おっこる」が、実は由緒正しい古語「おる」にまっすぐつながる語ということになるわけだ。


「何?「おっこる」?そんなの聞いたこともないね。どーせイバラキの田舎の方言でしょ?へへ」なんて思ってるそこいらここいらのアナタたち!どうせ皆、茨城の事バカにしてんだっぺよ。おめえら、いつまでも調子に乗ってんじゃねーかんな!((C) 赤プル)(笑)

| ことばのこと | 20:33 | comments(0) | - | pookmark |
インネコネコネコ

 『独断 大田流 にいがた弁講座』(大田朋子 平成7 新潟日報事業社)138ページに「インネコネコネコ」という見出し語がある。この語は「ネコヤナギ」を指し、佐渡の一部で昔使われていたそうで、同書には「建物も照明も暗〜かった旧某県立図書館の禁携出本に偶然この単語を発見した」(p. 138)とある。見出し語の他にインネコジョージョー、インニョコニョコ、ネコニャンニャン、ニャンニャンコとも言われていたらしい。
 これらのうちネコニャンニャン、ニャンニャンコのニャンはネコを猫とみて鳴き声を連想したものと思われる。これに対してインネコネコネコ、インネコジョージョー、インニョコニョコにはインという語が入っているが、このインは一見して意味がわかりにくい。そこでインを含まないネコニャンニャン、ニャンニャンコはこの不明のインを思い切りよく省いた、比較的後代の派生形と考えることができる。一方インを含む3者はいずれが元とも決め難い。
 そこで仮に見出し語のインネコネコネコを解釈してみると、この語は前段のインネコと後段のネコネコに分かれ、前段のインネコは「犬の子」、後段のネコネコは「猫の子」、すなわち「犬の子猫の子」であろうと思う。インは「犬」と見るわけだ。
 それならばインネコネコネコをそのまま「犬猫猫猫」と見た方が素直だが、敢えて「イヌノコネコノコ 犬の子猫の子」という祖形を想定したのは、インニョコニョコという語が記録されているからだ。インニョコがイヌネコから出たとすると、ネコからニョコに転訛するのに必要な母音の変化ないし交替( /e/ から /o/ )の例が思い浮かばないし、猫はどの子も知っているから、ネコのことをニョコと訛ろうものなら朋輩がすかさず指摘し訂正するだろう。これに対してイヌノコからインノコを経てインニョコへの転訛は極めて容易である。
 想定した祖形「イヌノコネコノコ(犬の子猫の子)」からインネコネコネコへの変化は次のように説明できる。まず前段のイヌノコは発音の都合で早くからインノコに変化したと考えられ、その結果、一度は「インノコネコノコ」という形が成立し、インニョコニョコはこの段階で分化したものと見られる。ところが「ノコネコノコ」という音の連なりは小さな口にとってはノとネの言い分けが煩わしく、かつは子どもたちに親しい存在である猫に引きずられて「ネコネコネコ」にまとまったであろう。これに伴って、「インノコ」の形であれば「犬の子」と思い当てることができたかも知れない「イン」が、「インネコ」という連なりになったがために意味がわからなくなったのだろう。その結果、意味はわからないが昔から伝わっている「イン」に「ネコネコネコ」をつなげた現在の形が成立したと考えられる。ネコニャンニャンやニャンニャンコが、この意味がわからなくなった「イン」を切り捨てて成立したものであろうことは前に述べた。
 以上でインネコネコネコ、インニョコニョコ、ネコニャンニャン、ニャンニャンコについては一通り説明したが、残るインネコジョージョーは不明である。おそらくインネコネコネコが成立した後に、後段のネコネコを余計な繰り返しと見てジョージョーに差し替えたのではないだろうか。ジョージョーの語義は今の私にはわからない。

 

 さて、上の仮説が正しいとすると、佐渡の子どもたちはかつてネコヤナギを「犬の子、猫の子」と呼んでいたことになるが、それはどういうことだろうか。
 ご存知のとおりネコヤナギの花芽は春が近づくと芽鱗を脱ぎ捨てて真っ白に輝く綿毛に包まれた姿を見せる。日本海のただ中に孤立して冬の激しい季節風と波浪をまともに受ける佐渡に暮らす子どもたちは、うれしい春の訪れを告げるこのふわふわとした美しい綿毛に包まれた一つ一つの花芽を愛おしみ、大きさや形のわずかな違いを捉えては「これは犬の子」「これは猫の子」と興じたのではなかっただろうか。
 「インネコネコネコ=犬の子猫の子」説はあくまでも私一己の仮説であって、検証された事実ではない。しかし方言の背後にそれを言い伝えてきた人々の暮らしぶりと心の動きを読み取ろうとすることは、まことに興趣尽きない営みであり、冷たく乾いた風に吹きさらされてひび割れた心を耕して新鮮な空気と潤いを通わせようとする試みでもある。

| ことばのこと | 01:10 | comments(0) | - | pookmark |
満を引く 〜漢文と和文と〜

 今ではまず見かけませんが、昔は「満を引く」という言い方があり、多少なりとも漢学の素養のある酒徒が使ったようです。私がこの言葉を初めて目にしたのは、その著作を通じて私に学問の楽しさ面白さを教えてくれた青木正児(あおき・まさる)の『抱樽酒話(ほうそんしゅわ)』(昭和23 弘文堂)に収める「大酒の会 附 酒令」という随筆でした。文化12(1815)年に江戸の千住で行われた大酒会の条に「来賓の文晁・鵬斎も江島や鎌倉で満を引き、其の上で小盃でちびちびやったと云うから上戸の部に這入る資格は有る。」とあるのがそれで、文中の「文晁」は画家の谷文晁、「鵬斎」は文人の亀田鵬斎、「江島」「鎌倉」はこの大酒会のために用意された大盃の名で、それぞれ5合入と7合入だったそうです。文意からして「満を引く」とは「盃を満たして飲み干す」という意味であることは明白なので、私はことさら辞書を引くまでもなくこの語をそのように解して何の疑問も持ちませんでした。
 ところで最近雪隠読書で岩波文庫の『陶淵明全集』(松枝茂夫・和田武司訳注 1990)を読み始めたところ、その「巻二 詩五言」に収める「遊斜川」という詩の「引満更献酬 / 満を引いて更(こもごも)献酬す」という句に至り、なるほど例の「満を引く」の出処はこのあたりか、流石に周代から唐代に至る飲酒詩のアンソロジー「中華飲酒詩選」(1961)を編んだ青木らしいと自得しましたが、さてその訳を見ると「なみなみとついだ杯を互いにやりとりする。」とあり、語注には「〈引満〉杯になみなみとつぐ。」とあります。つまりこの語釈では「満を引く」とは杯を満たすところまでを指し、その杯から酒を飲む動作は含んでいないのです。おやおや、それでよいのだろうかと鈴木虎雄『陶淵明詩解』(昭和23 弘文堂 / 1991 平凡社東洋文庫)を参照してみると、引満の字句解は「満は酒をなみなみとついだ杯、引はその杯を口元へ引きつけること」、訳文は「十分ついだ杯を引受け引受け互にやりとりをする」としてあります。私の理解にやや近いですが、「引」という字に引っ張られてか「口元へ引きつける」「杯を引受け引受け」までにとどまっていて、その杯から酒を飲むところまで踏み込んでいないのは甚だ遺憾です。披露宴の花婿じゃあるまいし、酒徒にとっては酒をなみなみとついだ杯を口元へ引きつける動作とその酒を口に含む動作とは当然一続きで、切っても切れないものですから。
 もっとも青木正児によると鈴木虎雄は下戸だったのだそうで、やはり『抱樽酒話』に収める「飲酒詩雑感」には「鈴木豹軒(虎雄)先生が作詩作文の時間に、御自作の遊記一篇を示され、そして或る箇所を指して、此所は一瓢を傾けることにすると面白いのだが、虚言を書くわけにもいかないし、と残念がられた。豹軒先生が下戸であり、そして真摯であらせられることを知ったのは此時が始めである。」とあり、さらにその先には「豹軒先生は三杯までは旨いが、それ以上は飲めない」ともあります。酒盃を口元にまで引きつけておきながら飲むに至らないのは、上戸の心下戸知らずといったところでもありましょうか。
 閑話休題、その後家蔵の辞書類を引っ張り出してみたところ、広辞苑第6版の「満」の項に「―・を引く」として「 1) 弓を十分に引きしぼる。 2) [漢書叙伝上「皆満を引き白を挙ぐ」]酒をなみなみと盛った杯をとって飲む。」とあり溜飲を下げましたが、諸橋轍次(もろはし・てつじ)他著の新漢和辞典(大修館)四訂版の「引」の項には「みたす」という字義を上げ、「引満」の語義を「 1) 弓をいっぱいに引きしぼること。 2) 杯に酒をなみなみと盛ること。」としてあります。
 かれこれを思い合わせてみると、どうやらこの「引満・満を引く」という語は、漢文では「杯を満たす」であってそれを飲むまでには言及せず、これに対して和文では「杯を満たして飲む」と、その意味するところが微妙に異なっているように見受けられます。この違いがどこから出たものか俄(にわか)には知り難いのですが、ことによると、かの魏志倭人伝に「人の性、酒を嗜む」と看破された我が祖先から無慮数千年にわたって伝えられてきた飲ん兵衛DNAの仕業なのかも知れません。

 

(なお文中敬称は略し、引用文は新字・新かなに改めました。)

| ことばのこと | 09:48 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
アサガオの別名
 昨日、というか本日未明か?、風呂に入りながらNHKの「ラジオ深夜便」を聞いていたら、「アサガオは別名を牽牛(けんぎゅう)といいます」という話が流れてきて、「おや?」と思いました。それはひょっとして牽午(けんご)では?

 なぜ私がそう思ったかというと、アサガオの種子はケンゴシという生薬として使われるのを知っていたからで、ケンゴシの最後のシ(子)は「種子」という意味なので、ということは植物そのものは当然ケンゴであろうと思われ、さらにケンゴという音からすると、牽牛の牽はいいとして、ゴと読むなら「牛」(うし)ではなく「午」(うま)だろうと推測したからです。もし本当に「牽牛(けんぎゅう)」と呼ばれるとしても、それはもともとの「牽午」が織女牽牛の話と混同されて午が牛と誤られ「牽牛」と書かれるようになったせいなのではなかろうか、とも思いました下線部分はあくまでも私が立てた仮説で、検証された事実ではありません。ご注意ください。以前このテの仮説を知らないうちに赤の他人に剽窃されて Wikipedia に掲載されたのを発見し、Wikipedia に「それは私の仮説で事実ではありません」と削除依頼したことがあります。ひどい話だ。)
 そこで風呂から上がって早速手元の『新漢和辞典』(諸橋轍次他著 大修館書店)を引いてみたら・・・

 何と!「牽牛 ケンギュウ」ですよ(左)。これは「ラジオ深夜便」の先生(お名前は聞き漏らしました)の説のとおりです。いやいやそんなはずはない、中国はいざ知らず、昔の日本ではケンゴと呼ばれていただろうと、昔も昔、大昔の『倭名類聚鈔』(平安時代中期)を引いてみると・・・

 何と!「牽牛子」ですよ(右)。やっぱり午じゃなく牛です。割注に「和名阿佐加保(あさかほ)」とあるので人違いでもありません。しかもここには牽牛という名の由来も書いてあります。「陶隠居本草に牽牛子と云う。此田舎に出て凡人之を取る。牛を牽いて薬に易(か)う。故に以って之を名づく。」と読むことができ、「牛を牽いて薬に易(か)う(牽牛易薬)」とはこれで作った薬が牛一頭分に値したということで、そう言われると「ラジオ深夜便」の先生もそんな話をされていたようだったなあ・・・(汗)。出典とされている「陶隠居本草」は陶弘景(456-536)の「本草集注」のことで、本場中国でも最初から「牽牛(子)」であったことは間違いないようで、私の「もともとの牽午が織女牽牛に引かれて牽牛になった」仮説はあっさり崩れてしまいました(笑)。

 しかし、字は牽牛子であっても、少なくとも「ケンゴシ」という読みは間違いないはずだ。そうそう、奈良の明日香村に牽牛子塚(けんごしづか)古墳というのがあるが、あれをケンギュウシ塚古墳と呼ぶなんて聞いたことないし、そない呼んだら笑われるで。
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| ことばのこと | 23:02 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
「賞品/商品」と「背景/拝啓」−アクセントのこと
 テレビやラジオで数年前から頻繁に耳につくようになりましたが、「賞品」と「背景」のアクセントは私が子どもの頃とはもうすっかり変わりましたね。以前はそれぞれ「しょうひん」「はいけい」と頭を低く第2音節から後を平らに高く言ったものですが、今では逆に頭を高く第2音節から低く言ってます。それでも少し前までは以前のアクセントで発音する人もいましたが、今はもう切り替えが完了したような感じです。私は「賞品」が「商品」に、「背景」が「拝啓」に聞こえて何とも妙な気分ですが、若い人はきっと全然違和感ないんでしょうね。

 「賞品」については、ひょっとすると言っている本人も素朴に「商品」と信じているのかな、と思われるフシもあります。どうせ賞品ったってどこかで買ってくるのでしょうから、もとを糺せば商品だったわけで。
 そういえば昔は夏休みのラジオ体操を毎日近くの公園なんかでやっていて、行くとカードにハンコ押してくれて、出席日数が多いと賞品がもらえたものですが、今はそんなことで賞品をもらう機会も減ったし、また世の中的にも賞品から賞金やギフト券等へのシフトが進んだりして、「賞品」という概念そのものの存在感が薄くなって「商品」と区別しなくなったのかも知れない、などとも思います。

 一方の「背景」が何故こういうことになったのかはちょっとわかりません。「はいけい」と後ろを張るより「いけい」と緩んじゃった方が楽なことは楽ですが。それにたとえば「賞品を差し上げます」「背景について」と後ろに語を続けてみると、後ろを上げる発音では「しょうひんをさしあげます」「はいけいについて」と続いた語も高くなりますが、今風の発音だと「しょうひんをさ(中高)しあげま(低)す」「いけいにつ(更に低)いて」という具合に全体のトーンが下がるので、こりゃ楽だわぁ・・・え、まさか、そのせいなのか?
| ことばのこと | 22:50 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ルクジューのこと
 沖縄に工房を構えて芭蕉布を織っている高校の同級生(こちらです、どうぞご贔屓に!)が、沖縄県立博物館で開催中(5月27日(日)まで)の沖縄復帰40周年記念「紅型BINGATA 琉球王朝のいろとかたち」展を見て大変感動した、とブログに書いていました。
 紅型(びんがた)が沖縄の染物であることだけは何となく知っていましたが、この機会に紅型についてもっときちんと知っておこうと調べているうちに、面白いものに出会いました。
 それは「ルクジュー」というもので、紅型の型紙を彫るときの下敷きに使うのですが、何と豆腐で作るのです。豆腐を陰干しまたは冷蔵庫で2ヶ月ほどかけて乾燥させた、10cm四方ほどの茶色い固い塊で、カンナで削って表面を平らにするというのですが・・・あれ?それって六条(ろくじょう)豆腐じゃないの?
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| ことばのこと | 21:52 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
apo- と a-
 このブログに記事を上げるたびに、mixi と facebook に記事へのリンクを投稿しているのですが、先日「気になる外来語 その3」の facebook のリンクに、高校の同級生で医師のI氏から「アポトーシス(=アポプトーシス)。まにあっくです。」というコメントがつきました。
 うーむ、アポトーシスは聞いたことがあったけど、正しくはアポプトーシスとは知らなかった。このコメントにはとりあえず「おそらくアポプトーシスはアポ+プトーシスで、一般的にギリシャ語の語頭の pt の p は他の言語では落とされるのでしょうかね」などと答えたものの、実際のところはどうなのか確かめないと気がすまない。そこで Wikipedia をのぞいてみたら、やはりアポトーシスの綴りは apoptosis で、「apo-(離れて)」と「ptosis(下降)」に由来し、もともと「(枯れ葉などが木から)落ちる」という意味なのだそうな。なるほど、枯葉が木から落ちるねぇ、それはいかにもアポトーシスな感じが出ているし、季節的にもぴったりだわいと感心しました。
 さらにギリシャ語の語頭の pt ですが、初めて経緯線を持った地図を作ったといわれているプトレマイオスの英語名がトレミー(綴りは Ptolemy だが発音はト(タ)レミーで p は発音しない)であることから、やはり語頭の p は落とされるというか、無声音化される傾向があるようです。
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| ことばのこと | 19:09 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
気になる外来語 その3
 すぐにネタが尽きそうなのにもかかわらず、第1弾第2弾に続きまたもや「気になる外来語」発見。今回は同音・類似音が繰り返される場合の片方が脱落する「脱落編」です。

ナルシスト
 これを出してしまって、実は後悔してます。というのは、この語は英語から来ているのですが、さっき念のために調べてみたら、その肝心の英語でも最近は narcissist(ナーシシスト)だけでなく narcist(ナーシスト)もOKよ、みたいな感じなので、「ナルシストはナルシシストの2つ連続したシの片方が脱落した形である」と一概に決め付けるわけにいかなくなってしまいました。英語の方でこういう事態になってきたのは、narcissism(ナーシシズム)をドイツ語では Narzißmus((ナルツィシスムスではなく)ナルツィスムス)というので、その影響があるのかも知れないと思っております(ちなみに narcissist に相当するドイツ語は Narziß ナルツィス)。
 もともとは、昔々ナルキッソスという美少年が池に映った自分の姿に恋してそのまま水仙 narcissus の花になったので、水仙の花は今でも池に映った自分の姿をのぞき込むようにうつむいて咲くのである、というギリシャ神話にもとづく語で、-ist や -ism が付く語幹は narciss(ナルシス)です。谷山浩子も ♪あッたしはアリス、弟はナルシス♪ (「不思議なアリス」)と歌ってました。だから narciss-ist(ナルシス-ィスト)であり narciss-ism(ナルシス-ィズム)が本来の形だったのですね。しかしこの語の使用者自身が自己愛に耽るあまり(?)会ったこともない美少年のナルシス君のことなんかどうでもよくなって、その結果発音の面倒なシが片方脱落し、ナルシスト/ナルシズムになったものと思われます。

 なお、これと同様の「シ脱落」により生まれた語に「マルキスト」があります。これはマルクシスト/マルキシスト Marxist のシ脱落形です。しかしこのマルキストという語が比較的広まった(と思う)のに対して、これに対応すべきマルキズム(Marxism のシ脱落形)という形はそれほど広まらず、「主義」はマルクシズムまたはマルキシズム、「主義者」はマルキストと、器用にあるいは無意識のうちに使い分ける論客が多かったように思います。言葉って不思議。

エステシャン
 これの原形はエステティシャン aesthetician です。aesthetic-ian ですね(英語的にはエスセティシャンの方が近い。th ですよ th )。テクニシャン technic-ian とかアカデミシアン academic-ian と同じ成り立ちの語です。しかし日本ではエステティックなんて長ったらしく言わずエステと略すのが一般的。ということは、「テティ」の部分が言いにくいというだけでなく、エステシャンだって「エステ」という語が完全に入ってるんだから間違ってないんじゃん?という推測が加わり、この形に落ち着くのは時間の問題かと。

 これ以外にもまた違った脱落系の語があるかもしれませんが、今見たところでは同音が連続反復する場合に片方が脱落する傾向があるようです。以前ちょっと触れた(クビキリ・キリギリス)→クビキリギリス→クビキリギスという流れとも似てる気がします。同音の連続・反復はともすると冗長に見えますが、だからといって無造作に整理してしまうと語としての意味や構成が失われることになる。そういう整理は悪い整理である、と私は思います。
 言いにくいかもしれないがナルシシストとかエステティシャンと言ったほうが意味も通るし、カロリーも消費でき、口の周りの筋肉も鍛えられて、やがてアナタは若々しく豊かな表情を得られることでしょう。これぞ名づけてオーラル・エステティーク!(笑)

もうひとりのアリス<本文中でたまたま谷山浩子さんの「不思議なアリス」に触れてしまったので同曲を含むアルバムの絵を出しただけで、よくある「写真は本文の内容とは関係ありません」というやつです(笑)。
「もうひとりのアリス」 私のはPONY CANON D32A0071(1985/4)、その後番号と価格を変えて再発されてます。オリジナルはLP PCCA-00259(1978/3)>


| ことばのこと | 21:25 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
気になる外来語 その2

 以前外来語の言い間違いについて「気になる外来語」という記事を書きましたが、気になってる外来語は他にもあるので、前回の「言い間違い編」に続いて、今回は「微妙に訛ってる編」を。

ビヒクル(ベヒクル)
 私が大学を卒業して最初に就職したのは印刷会社でした。印刷や出版は独特の用語が比較的多い業種ではないかと思いますが、その中に明らかに外国語なのだが元の語がちょっと思い浮かばない、という用語がいくつかあって、その代表がビヒクル(またはベヒクル)でした。これは印刷用インキの材料の一つである粘度のある液体のことで、樹脂と油と溶剤の混合物です。印刷インキは色料(色を持った粉)とビヒクル・補助剤からできているのですが、色料は多くの場合インキ中に「溶けている」のではなく粉体のまま分散しているのであって、ビヒクルまたはベヒクルは、この色のついた粉である色料を紙などの被印刷体の表面に付着させ固定させる役割を果たします。つまり色料を印刷機から被印刷体へ運ぶもの、と考えると・・・正解は vehicle(車、車両)でした。
 vehicle という語は今ではクルマのタイプの SUV (Sport Utility Vehicle:スポーツ用多目的車)等でおなじみで、一般にビークルと書かれ発音されていますが、おそらく明治の昔に西洋の印刷術を学んだ先覚者たちは、外国人技術者からではなく欧米の書物や文献を通して知識や技能を習得していった者が多かったために、実際の発音を知らないまま字面どおりにビヒクルまたはベヒクルと言い、書いていたのではないでしょうか。もしそうなら、ビヒクルまたはベヒクルは色料だけでなく明治の香りも乗せて運んでいるってことですかね。
 これ以外にも、ゲラ/ゲラ刷り(=galley proof:校正刷り。原稿を印刷にしたばかりのもので、これに校正を加えて出版のための最終稿になる)とか、ヤレ/ヤレ紙(これは外来語ではなく「破れ」の古語から。印刷機の調整時や印刷に失敗して出る、印刷物としては使えないロス紙のこと)とか、「え何ですかそれ」っていう用語はけっこうありました。

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| ことばのこと | 22:44 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
気になる外来語

 わりとよく聞く外来語の中で、元の語と音が微妙に違っていて気になるものがいくつかあります。要するに言い間違いの類なのですが、この間違い方にもいくつかパターンがあって、それぞれの中に英語を始めとする外国語に対する日本人の受け止め方が透けて見えるようで、ちょっとおもしろいと思います。

シュミレーション
 元の語は simulation で、そのままカタカナにするならシミュレーションですが、どちらかというとシュミレーションの方が多数派なのではないでしょうか。おそらく「ミュ」という音が発音しにくいのと、さらにシュミ(趣味)という音になじみがあるので、たとえシミュレーションと書いてあっても、なんとなく「シュミ・・・」の方に引っ張られちゃうのでは。
 もっともシュミレーションという音自体も何となく英語っぽく聞こえるので、これが正しいと信じている方も多いような気がします。何気なく「シミュレーション」と書いたり言ったりすると「シュミレーションね」と冷静に直されたりして。

フューチャリング
 音楽関係で、普段活動しているユニットが特別に外から目玉になるようなアーティストを迎えて演奏するときに「何々 featuring 誰それ」という言い方をします。この featuring、素直にカタカナ化すればフィーチャリングですが、これもフューチャリングの方が広く通用してるんじゃないか。「何々が誰それを feature したアルバム」という風に動詞に使うときは「フィーチャーした」と言われるんですが、アルバムのタイトルになった途端にフューチャリングの方が多数派になってしまうのが不思議。
 思うにfuture(未来)の方が feature より断然なじみがある単語なのでそっちに引っ張られちゃうのでしょう。「フィーチャーする」という動詞を使う人なら当然アルバムタイトルもフィーチャリングと発音するでしょうが、そういう訳知りでコアなファンは相対的に少数で、なかなか大勢を変えるに至らないと考えられます。

エンターティナー
 原語は entertainer。原音に近いカタカナはエンターテイナーですが、しばしばティナーと詰めて読まれ書かれます。これは多分「テ」より「ティ」の方が英語の発音っぽいんじゃないかという、まんざら間違いとばかりは言えない推測の結果の誤読であろうと思います。しかもうまい具合に直後にイの字があるし、これはティに違いないと。我が茨城県でよく用いられる(らしい)「テーシャツ(Tシャツ)」等のケースではこの推測は正しいのですが、entertain + -er という成り立ちのこの語では正しくない
 このパターンのヴァリエーションとしてディスクトップパソコンが挙げられます。これはデスクトップ desk top(机上の)が正しい。以前はデスクトップに対してラップトップ lap top(膝の上の)という言い方があって対照的でわかりやすかったんですが、ラップトップがノート型と呼ばれるようになって対照が崩れた上に、モノがパソコンだけにフロッピーディスク(古!)やハードディスク等からの連想もあるでしょう。
 これらはテ(デ)をティ(ディ)に訂正するという意識的な操作、いわば過度の英語ナイズの結果なので、既知の言葉に何となく引っ張られちゃった風のシュミレーションやフューチャリングとはちょっと毛色が違いますね。

ウオッカ(ウォッカ)
 馬ではなくてお酒の名前の方。ウオツカとツを大きく書く表記と小さく促音に書く表記があります。私はロシア語を全く解しないので英語ベースの話ですが、英語の vodka の発音はヴァドゥカまたはヴァトゥカに近く、したがって「ツ」を子音に発音するウオツカの方が近いです。もっとも t/d 音は発音されずに飲み込まれる傾向があるので(たとえば often のように)、実際にはウォッカに近く聞こえるかも知れません。それはそれとして、私はこれ、ウオツカという字面を見て「「ツ」は「ッ」の方が正しいんじゃないか」と意識的に読み替えてウオッカ(ウォッカ)になった可能性もあるんじゃないかと思っています。そういう意味ではちょっと上のエンターティナーのケースと似てるんじゃないかと。
 これと似たケースとして、人名ですが、パウル・クレツキ Paul Kletzki というポーランドの指揮者の名前の読み方も、綴りから明らかにクレツキであるはずなのに、クレッキーと表記されていることがあります。ウィッキーさんみたい(^^; これも過度の英語ナイズというか、外国語ナイズの結果なのではないか。
 もっともツをッに読み替えるのは、旧仮名遣いに促音表記がなく戦後しばらくの間新仮名遣いにおいても促音表記があったりなかったり流動的だったことや、今でも銀行の口座名義のフリガナに促音・拗音の表記がないことなど、「ッもツと書かれることがあるから、ツをそのまま信じるとアブナイぞ」という意識が手伝ってのことかも知れません。

 以上、思いつくままに。

| ことばのこと | 17:49 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |

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