インネコネコネコ

 『独断 大田流 にいがた弁講座』(大田朋子 平成7 新潟日報事業社)138ページに「インネコネコネコ」という見出し語がある。この語は「ネコヤナギ」を指し、佐渡の一部で昔使われていたそうで、同書には「建物も照明も暗〜かった旧某県立図書館の禁携出本に偶然この単語を発見した」(p. 138)とある。見出し語の他にインネコジョージョー、インニョコニョコ、ネコニャンニャン、ニャンニャンコとも言われていたらしい。
 これらのうちネコニャンニャン、ニャンニャンコのニャンはネコを猫とみて鳴き声を連想したものと思われる。これに対してインネコネコネコ、インネコジョージョー、インニョコニョコにはインという語が入っているが、このインは一見して意味がわかりにくい。そこでインを含まないネコニャンニャン、ニャンニャンコはこの不明のインを思い切りよく省いた、比較的後代の派生形と考えることができる。一方インを含む3者はいずれが元とも決め難い。
 そこで仮に見出し語のインネコネコネコを解釈してみると、この語は前段のインネコと後段のネコネコに分かれ、前段のインネコは「犬の子」、後段のネコネコは「猫の子」、すなわち「犬の子猫の子」であろうと思う。インは「犬」と見るわけだ。
 それならばインネコネコネコをそのまま「犬猫猫猫」と見た方が素直だが、敢えて「イヌノコネコノコ 犬の子猫の子」という祖形を想定したのは、インニョコニョコという語が記録されているからだ。インニョコがイヌネコから出たとすると、ネコからニョコに転訛するのに必要な母音の変化ないし交替( /e/ から /o/ )の例が思い浮かばないし、猫はどの子も知っているから、ネコのことをニョコと訛ろうものなら朋輩がすかさず指摘し訂正するだろう。これに対してイヌノコからインノコを経てインニョコへの転訛は極めて容易である。
 想定した祖形「イヌノコネコノコ(犬の子猫の子)」からインネコネコネコへの変化は次のように説明できる。まず前段のイヌノコは発音の都合で早くからインノコに変化したと考えられ、その結果、一度は「インノコネコノコ」という形が成立し、インニョコニョコはこの段階で分化したものと見られる。ところが「ノコネコノコ」という音の連なりは小さな口にとってはノとネの言い分けが煩わしく、かつは子どもたちに親しい存在である猫に引きずられて「ネコネコネコ」にまとまったであろう。これに伴って、「インノコ」の形であれば「犬の子」と思い当てることができたかも知れない「イン」が、「インネコ」という連なりになったがために意味がわからなくなったのだろう。その結果、意味はわからないが昔から伝わっている「イン」に「ネコネコネコ」をつなげた現在の形が成立したと考えられる。ネコニャンニャンやニャンニャンコが、この意味がわからなくなった「イン」を切り捨てて成立したものであろうことは前に述べた。
 以上でインネコネコネコ、インニョコニョコ、ネコニャンニャン、ニャンニャンコについては一通り説明したが、残るインネコジョージョーは不明である。おそらくインネコネコネコが成立した後に、後段のネコネコを余計な繰り返しと見てジョージョーに差し替えたのではないだろうか。ジョージョーの語義は今の私にはわからない。

 

 さて、上の仮説が正しいとすると、佐渡の子どもたちはかつてネコヤナギを「犬の子、猫の子」と呼んでいたことになるが、それはどういうことだろうか。
 ご存知のとおりネコヤナギの花芽は春が近づくと芽鱗を脱ぎ捨てて真っ白に輝く綿毛に包まれた姿を見せる。日本海のただ中に孤立して冬の激しい季節風と波浪をまともに受ける佐渡に暮らす子どもたちは、うれしい春の訪れを告げるこのふわふわとした美しい綿毛に包まれた一つ一つの花芽を愛おしみ、大きさや形のわずかな違いを捉えては「これは犬の子」「これは猫の子」と興じたのではなかっただろうか。
 「インネコネコネコ=犬の子猫の子」説はあくまでも私一己の仮説であって、検証された事実ではない。しかし方言の背後にそれを言い伝えてきた人々の暮らしぶりと心の動きを読み取ろうとすることは、まことに興趣尽きない営みであり、冷たく乾いた風に吹きさらされてひび割れた心を耕して新鮮な空気と潤いを通わせようとする試みでもある。

| ことばのこと | 01:10 | comments(0) | - | pookmark |
昭和歌謡独り言〜忘れてしまう

【忘れてしまう】

 今回は前回の補足です。前回でユーミンの『あの日にかえりたい』(1975年)の中の「青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう」を取り上げました。その時には「青春の後ろ姿」について、岩崎宏美の『思秋期』(1977年)や森田公一とトップギャランの『青春時代』(1976年)を引き合いに出して考えてみたんですが、もう少し歌詞の内容を掘り下げてみると、『あの日にかえりたい』と『思秋期』『青春時代』とは、大雑把にいえば過ぎ去った青春を懐かしむ、愛おしむという意味でほぼ同じ内容の歌ではあるけれども、その問題意識というか、注目している点が違うのです。ここでは『思秋期』を取り上げて、その違いを見てみたいと思います。

 

 「青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう」(『あの日にかえりたい』)と「青春は忘れもの 過ぎてから気がつく」(『思秋期』)には、「青春」「忘れ」という共通のワードが2つもあり、「後ろ姿」と「過ぎてから気がつく」も実質的に同じことといってもよいのですが、この2つの歌詞の内容は実はけっこう違います。
 まず「青春は忘れもの 過ぎてから気がつく」(『思秋期』)の方は、「青春は忘れもの」という静的な記述が主な内容で「過ぎてから気がつく」は「忘れもの」の説明として付け足されています。
 これに対して「青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう」(『あの日にかえりたい』)の方は、『思秋期』では「忘れもの」の補足説明に過ぎなかった「過ぎてから気がつく」に相当する「(人はみな)忘れてしまう」という動作の方に力点があり、逆に『思秋期』の主文であった「青春は忘れもの」に相当する「青春の後ろ姿」は、こちらでは「忘れてしまう」の目的語として置かれているに過ぎません。
 この2曲の違いをもう一つ挙げるなら、『思秋期』では「お元気ですがみなさん いつか逢いましょう」と何の屈託もなくあけっぴろげに素のままで再会を待ち望んでいるのに対して、『あの日にかえりたい』では「あの頃のわたしに戻って あなたに会いたい」と言ってます。今の素のままで、ではなく「あの頃のわたしに戻って」という条件節が付いているのです。

 

 ユーミンの同じ時期の名曲に『卒業写真』(1975年)があります。この曲と『あの日にかえりたい』を並べてみると、「青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう」「あの頃のわたしに戻って あなたに会いたい」という歌詞の意味がはっきりしてきます。そのヒントは『卒業写真』の「人ごみに流されて 変わってゆく私を あなたはときどき 遠くでしかって」という部分です。「人ごみに流されて変わってゆく」(『卒業写真』)と「青春の後ろ姿を忘れてしまう」(『あの日にかえりたい』)とは、同じことをいっているのです。それは「自分があの頃から変わってしまった」という自覚の悲しみと後悔、そしてもう戻れない絶望感が入り混じった気持ちなのです。

 本当は「あの頃のわたしに戻ってあなたに会いたい」けれど、それはもうできない。だからせめて私が変わっていくのを「ときどき遠くで叱って」ほしいと思う。そして「あの頃の生き方を あなたは忘れないで」(『卒業写真』)と願う。それが「私の青春そのもの」だから。そうでないと本当に「青春の後ろ姿を忘れてしまう」から。

 

 『思秋期』や『青春時代』には「忘れてしまう」ことに対するこうした屈折した気持ちは盛り込まれていませんし、そもそも「過ぎてから気がつく」「後からほのぼの思う」という動作の方向は「忘れてしまう」とは逆を向いている。そこがユーミンの歌との違いということになります。そして後悔や絶望という陰に縁取られて、青春の姿はいっそうまぶしいのです。
 ところで『卒業写真』の「あの頃の生き方を あなたは忘れないで」というフレーズは、実はそれほど独特なものではなく、たとえばかぐや姫 / 風の『22才の別れ』(1974年)には「あなたはあなたのままで 変わらずにいてください そのままで」という歌詞がありますし、今は思い出せませんが演歌にも類似の歌詞があったような気がします。しかも並べてみると、みんな女から男への言葉として書かれている。ひょっとして「私のことはどうでもあなたは変わらずにいてね」というのは、「おんな歌」の定型的な歌詞なのか?まあそれはまたいずれ機会があったら考えてみましょう。

| 聞いて何か感じた曲、CD等 | 09:43 | comments(0) | - | pookmark |
昭和歌謡独り言〜後ろ姿

 数年前から牛久市のコミュニティFM「うしくうれしく放送 FM-UU」で番組を持たせていただいてまして、今年4月からは牛久市の昭和世代の方々向けのインタビュー番組を担当させていただいております。牛久市内にお住まい、もしくはご活躍の昭和世代の方々へインタビューするのですが、その項目の一つに「思い出の曲」がありまして、ここにはおそらく昭和歌謡の往年の名曲がどんどん登場するのだろうと思います。
 そんなわけで、思い立って自分が持っている昭和歌謡の音源がどれくらいあるのかと思ってちょっと数えてみたら、300じゃきかないくらいありました。私は1961年生まれですので、さすがに戦前のものはあまりないのですが、戦後の、特に自分が物心ついてからの1960年代後半以降のものはけっこうあります。ただし内容は非常に偏っていて、例えば男性アイドル歌手系のものは、個人のもグループのもほぼ絶無です。オトコには興味ない笑。
 というわけで、そんな偏ったコレクションを聞きながら呟く昭和オヤジの独り言を、ときどき書いてみようと思います。

 

【後ろ姿】
 荒井由実時代のユーミンの『あの日にかえりたい』(1975年)の歌詞にズキッときます。例えば「悩みなき昨日の微笑み わけもなく憎らしいのよ」なんて、そんなこと思ったこともない自分大好き脳天気な自分がまるで馬鹿に思えたし、「光る風 草の波間を 駆け抜ける私が見える」の生々しさに息を呑みもしました。そんな中で一番ドキッとしたのはBメロ(いわゆるサビ)の「青春の後ろ姿を 人はみな忘れてしまう」ですね。「青春の後ろ姿」って言われて、そう言えば青春の思い出の脳内映像っていつも笑顔とか涙顔とかで、親友や好きだった人の後ろ姿ってどんなだったっけ、思い出せないな、確かに。

 もっともここでの「青春の後ろ姿」はそんな具体的・直接的なことじゃなくて、例えば岩崎宏美の『思秋期』(1977年)の「青春は忘れ物 過ぎてから気がつく」という、その時は夢中で気づかなくて、後になって初めて「あれがそうだったのか」と気づくしかない、そういうことかな。そういえば森田公一とトップギャランの『青春時代』(1976年)にも「青春時代が夢なんて あとからほのぼの思うもの」とあります。個人的には「青春時代」という語は「平安時代」みたいなコトバに聞こえて違和感あるんですが、「後からほのぼの思うもの」はよくわかる。いずれにしても青春が過ぎ去ってしまったことに後から気づいて呆然と見送っている、って感じかな。

 

 ところで「後ろ姿」という言葉から印象的に思い出される歌に、『ウナ・セラ・ディ東京』(1964年)があります。おーっと、いきなり10年以上も遡ってしまった。さすがに3歳当時のことは全く覚えていないので Wikipedia によりますと、この曲はもともと『東京たそがれ』というタイトルで、1963年にザ・ピーナッツが歌ってリリースされたそうです。さっそく YouTube でこの『東京たそがれ』を確認してみました。こういうことがすぐできるのは時代の恩恵ですね。聞いてみると確かに同じ曲ですが、クライマックスの「とても淋しい」のところの大きなルバート(溜め)がなく、アレンジも地味でちょっと陰気な感じです。そのためかこの曲は当初あまりヒットしなかったそうですが、翌1964年に「カンツォーネの女王」として知られたミルバ Milva が来日してこの曲を歌ったところ大ブームとなり、ザ・ピーナッツも曲調とアレンジを変えて『ウナ・セラ・ディ東京』として再リリースしてヒットとなったとのこと。
 私の記憶にあるのはこのザ・ピーナッツの『ウナ・セラ・ディ東京』ですが、ミルバの日本語の歌唱もよく覚えています。よく言えばしっとり、悪く言うとしんねりむっつりしたザ・ピーナッツの歌い方よりも、ミルバのストレートな歌い方の方が私は好き、というか、「女王」の歌唱にはもうただただ圧倒されますね。

 この『東京たそがれ』改め『ウナ・セラ・ディ東京』は、静かなAメロ−情熱的なBメロ−静かなAメロという三部構成で、Bメロにクライマックスが置かれ、その後に戻ってきた静かなAメロに「街はいつでも 後ろ姿の 幸せばかり」という歌詞が与えられています。この「後ろ姿の幸せ」には、過ぎ去ってしまった幸せを見送っているという含意もあります(最初のAメロの歌詞に「いけない人じゃないのに どうして別れたのかしら」とある)が、「(街は)いつでも」「(後ろ姿の幸せ)ばかり」という語が入っているために、街中の幸せという幸せがみんな自分に背を向けているような、自分があらゆる幸せから拒否されているような、そんな私の絶望的な哀しみが惻々と胸に迫ります。

 

 ところで私はBメロの歌詞を「あの人はもう私のことを 忘れたのかしら」、戻ってきたAメロの歌詞を「街はいつでも 後ろ姿の 幸せばかりね」と覚えていたのですが、今回改めてザ・ピーナッツ(『ウナ・セラ・ディ東京』『東京たそがれ』)とミルバのオリジナル盤を YouTube で聞き直してみたら、いずれの音源もそれぞれ「忘れたかしら」「幸せばかり」と歌っていますし、岩谷時子さんの原歌詞もこのとおりです。うーむ、記憶ってなんだろう・・・考えてみると「忘れたのかしら」はその直前のAメロの歌詞「別れたのかしら」に引きずられて、また「幸せばかりね」は歌詞の世界のあまりの絶望感に呑まれて、それぞれ私の脳内で勝手に「の」「ね」が付加されたものとも思われますが、これも歌の力というものでしょうか。

 


 というわけで、私の昭和歌謡独り言の第1回はこれできれいに終わるはずでしたが、今回 YouTube で音源を探しているうちに衝撃的な事実を知ってしまいました。「街はいつでも 後ろ姿の 幸せばかり」というこの世紀の名歌詞は、なんとその場しのぎの苦し紛れから生まれたというのです。いやまあそれは言い過ぎとしても、作詞者の岩谷時子さんご本人がそのようなことをお話になっていらっしゃいます。詳しくはこちらの動画をご覧いただきたいのですが、これには驚きました。
 しかしふと目に入ったサラリーマンの後ろ姿から不滅の歌詞を探り当てた岩谷さんといい、懐旧談の初回からいきなり衝撃の事実に出会ってしまった私といい、世の中はそうそう後ろ姿ばかりでもないようですね。はい、おしまい。

| 聞いて何か感じた曲、CD等 | 16:03 | comments(0) | - | pookmark |
ブラームスのセレナーデ17枚+2枚を聞く 07. アラン・フランシス指揮ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団

 「ブラームスのセレナード17枚+2枚を聞く」プロジェクト第7弾は、第1番と第2番のカップリングのCDで、演奏はアラン・フランシス Alun Francis 指揮のミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団 Orchestra Sinfonica di Milano "Giuseppe Verdi" です。
 アラン・フランシスは1943年生まれの英国の指揮者。オーケストラのホルン奏者から指揮者に転向し、英国内の主要オーケストラを指揮した後、欧米のオーケストラを指揮し、北西ドイツ・フィルハーモニーやベルリン交響楽団、ボルツァーノ・トレント・ハイドン管弦楽団、チューリンゲン・フィルハーモニー管弦楽団などの首席指揮者を歴任しました。
 ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団は1993年にイタリア国内の若手演奏家を中心に結成されたオーケストラとのことで、このCDが録音された1996年から1999年までアラン・フランシスが首席指揮者を務めていました。

 CDは ARTE NOVA Musikproduktions GmbH の 74321 39104 2。1996年7月29−31日と8月1−2日、ミラノにて録音となっています。

 

 実はこれの直前に聞いたアバド指揮マーラー・チェンバー・オーケストラの演奏が印象に残っているので(やはりそれだけのインパクトのある演奏だったのですねアバドのは)どうしても比較してしまうのですが、入念に組み立てられ丁寧に仕上げられながら少しもこせつかず懐(ふところ)の深さが印象的なアバドの演奏に対して、この演奏は元気で明るくて、その代わり細かい仕上げはもう一つで少々荒っぽく、時として一本調子に聞こえてしまいます。素朴で飾り気がないのはよいのですが、あまりにあっけらかんとしていて、もうちょっと何かないの?と言いたくなります。

 まあ20代半ばの青年の作品へのアプローチとして、あまりに重厚だったり彫琢しすぎたりするのもいかがか、という考え方もあり得ますから、この演奏くらいすっきりと飾り気ないのも、それはそれでよいのかも知れないと思わないでもありません。たとえば第1番の第3楽章は2/4拍子で書かれていて、初回のボンガルツのところでやや詳細に述べたとおり、楽譜どおり1小節を2つに振るか、それとも8分音符単位で4つに振るかという問題があるわけですが、ここでのフランシスはブラームスが書いたとおり素直に1小節を2つで振っている気配があり、その結果音楽が停滞することなく、よいテンポでさわやかに進んでいきます。
 それ以外の楽章も、第2番の第1楽章のテンポが Allegro moderato という指定から受ける感じよりはやや遅めなのが気になることを除けば、テンポも中庸で特に目立った主張やこだわりがありそうでもなく、その結果として健康的で素朴でおおらかな音楽が流れていきます。しかしそれを聞いている私は、ちょっとした音符への無頓着さや音形の訴えのなさに、どこか肩透かしを食ったような物足りなさを覚えています。音楽が滞りなく流れていくのは確かに大事なことだけれども、それ以上の何かがあってもいい、あってほしいと思うのですが・・・。

 

 そんなわけで、指揮者のフランシスとミラノのオーケストラの皆さんには大変申し訳ないのですが、私はこの演奏を聞きながら、かえって直前に聞いたアバドとマーラー・チェンバーの演奏のすごさを改めて思い知ることになってしまったようで、そのおかげでこのレビューもまことに薄いものになってしまいました。
 これはこのプロジェクトにとっては決してよいことではありません。特定の演奏に囚われていては、それ以外の多くの演奏を虚心に聞いていくことはできないのです。アバドの呪いといってもよいかも知れません。実に困ったことです。

 

次回はガリ・ベルティーニ指揮のウィーン交響楽団の演奏を聞く予定です。果たしてベルティーニはアバドの呪いを解いてくれるのか?

 

 このプロジェクトのベースノートはこちら
| ブラームスのセレナーデ | 16:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ブラームスのセレナーデ17枚+2枚を聞く 06. クラウディオ・アバド指揮マーラー・チェンバー・オーケストラ

 ブラームスのセレナード17枚+2枚を聞く」プロジェクトの第6弾。今回聞くのはシューマンのチェロ協奏曲とブラームスのセレナーデ第1番を収めたアルバムで、プロジェクトとしては第1番だけを聞きます。
・・・と何気なく始めましたが、ふと気がつくと前回の第5弾(ケルテス / ロンドン響)からなんと4年と2ヶ月半ほど空いておりますね。まあこの間にはいろいろなことがあったりなかったりしたわけですが、気を取り直して粛々とプロジェクトを再開したいと思います。


 というわけで今回のCDのご紹介。クラウディオ・アバド指揮マーラー・チェンバー・オーケストラによる演奏で、2006年3月と4月にイタリアはレッジョ・エミリアという街のテアトロ・カヴァレリッツァとテアトロ・ムニチパーレ・ロモロ・ヴァッリにおけるライブ録音となっております。足掛け2ヶ月で収録場所も2ヶ所でライブ録音とはこれ如何に?ですが、このデータはカップリングのシューマンのチェロ協奏曲(独奏はナタリア・グートマン)も含めてのもので、コンサートの内容や曲ごとの録音の詳細は不明です。録音を聞いたところでは不自然な編集の痕跡や会場ノイズには気が付きませんでしたし、拍手も入っていません。もちろん演奏上の大きな傷もありません。ドイツ・グラモフォン(DG)の476 5786という番号のCDです。

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| ブラームスのセレナーデ | 20:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
中島みゆき「世情」(1978年)で考えた

 最近、ある歌を思い出しました。1978年4月に発売された中島みゆきの4枚めのオリジナルアルバム「愛していると云ってくれ」に収録された「世情」です。
 この「世情」の歌詞は従来から難解であると言われています。確かに一度聞いてすぐに「あーなるほどうんうんそうだねー、じゃ次いこうか」というふうはいきません。誰かに肩入れしているようでもあり、状況を突き放して見ているようでもあり、聞く方としては何をどこからどう見てどう受け入れればいいのか、ちょっとわかりにくい感じがします。これはちょっと深堀りしてみなければ・・・

 

 というわけで、まずはこの曲の最も印象的な部分、シュプレヒコール云々が歌いこまれて何回も何回も繰り返されるリフレインを聞いてみましょう。歌詞としては一連ですが、付された旋律によって前半と後半に分けて書いてみます。

 

  シュプレヒコールの波 通り過ぎてゆく
  変わらない夢を 流れに求めて

 

  時の流れを止めて 変わらない夢を
  見たがる者たちと 戦うため

 

 この「シュプレヒコールの波」という歌詞から、昭和おやじな私がすぐに思い浮かべるのは「安保闘争」や「大学紛争」ですが、実はこれらは1970年代の初めにはほぼ終息していて(安保闘争は日米安全保障条約締結をめぐる1959年から60年にかけてと、その10年後の自動延長を阻止しようとする1969年から70年にかけての2回行われ、大学紛争を象徴する東大安田講堂事件は1969年1月)、もちろん歌自体はアルバム発売より前に作られているわけですが、それにしても1970年代初めと1978年4月という発売時期との間には大きな隔たりがあります。では1978年当時に世間を騒がせていた「闘争」は何だったかというと、それは成田空港の開港をめぐる「三里塚闘争」でした。これは1968年頃から学生たちを巻き込んで激化し、1977年4月から5月にかけての妨害鉄塔撤去をめぐる反対運動で大きな盛り上がりを迎えます。中島みゆきが実際に見聞し、歌の中に織り込んだ「シュプレヒコール」は、おそらくこの時のものだったのでしょう。
 さて、ここには「変わらない夢」という同じ語句が前半と後半にそれぞれ出てきます。しかし同じ語句でありながら、前半の「変わらない夢」と後半の「変わらない夢」の内容は実は正反対と言っていいくらいに違っていると思われます。
 順序は逆になりますが、まず後半の「変わらない夢」を見ているのは誰なのかを考えてみましょう。それは「時の流れを止めて変わらない夢を見たがる者たち」です。ここでは「時の流れを止めて」という句に注目して「守旧派」と言っておきましょう。そしてその夢とは「昔ながらの価値観を貫くこと」であり、その行動原理は「保守・反動」ということになりましょう。。
 これに対して前半の「変わらない夢」を見ているのは「その夢を流れに求めて「守旧派」と戦うために通り過ぎてゆくシュプレヒコールの波」です。ここでは「流れに求めて」という句に着目して「進歩派」と呼んでおきましょう。そしてその夢の内容は「旧弊に囚われない新しい価値観」であり、その行動原理は「自由・改革」といったものであろうと思われます。
 つまりこのリフレインは、自由・改革を掲げる進歩派と、保守・反動を旨とする守旧派との対立を描いたものということになります。最初に見たとおり中島みゆきが実際に見ていたのは三里塚闘争のデモだったと考えられますが、歴史を遡れば、安保闘争も大学紛争もやはり進歩派と守旧派との対立であり闘争であったわけで、つまりこのリフレインが描く情景は目前の三里塚闘争のそれにとどまらず、戦後日本を一貫してきた闘争を昇華した象徴的なものであると見ることもできるでしょう。

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| 聞いて何か感じた曲、CD等 | 18:46 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
本宿(ほんしゅく)駅再び 〜 10年後の再訪

 ちょうど10年前の夏、今ではもう存在しないJR南武線の旧・西府駅と本宿駅について調べたことがありました。このときのことはこちらにまとめましたが、今年の3月にこの記事へのコメントをいただきました。そのコメントの内容は大変示唆に富み、10年前の私の結論を補完するものでしたが、個人名でいただいており、コメントを公開するとお名前も公開されてしまうので、コメントの内容だけをこちらに掲載させていただきます。

 

(以下コメント内容)

本宿駅と推定しているところに住んでいた者です。
ホームの残骸のコンクリートの塊が多く残されていた所が駅のはずで、あなたの推定場所よりやや右です。
線路北側に東西に走っている道があり、本宿村の主要道の一つです。
小学校東のマンション群の昔は、別荘です。林の中に日本風の立派な建物があり庭もたいしたものです。子供のころ中に入ってドングリをひろいました。別荘主はどこかの商社の人らしく、子供は府中の明星学園に通ってました。ここに別荘を建てたのは、崖上で富士山の見晴らしがよく、眼下には稲穂やレンゲ畑がきれいだからです。ここの傾斜は大昔(鎌倉、室町時代)多摩川が流れていて、川が削り取った後です。鎌倉幕府が滅びたきっかけの足利軍との大決戦があった分倍河原の戦いはこの少し東です。
以上
(コメント内容終わり)

 

 上のコメントより、本宿駅は私が推定した場所(都道府中・町田線バイパスが南武線をアンダークロスしているところの真上)よりもやや右、つまり東側にあったらしいことと、私が「豪農の母屋か」と推定した府中五小の東隣の、現在はマンション群になっている一画は、もとは別荘であったことがわかりました。
 この一画に関するコメントの「林の中に日本風の立派な建物があり庭もたいしたもの」という記述は、1947年撮影の空中写真に対する10年前の私の所見「今ではマンション群が建っているところが、当時は大きな社寺でもあったのか、学校とほぼ同じ面積の木立に囲まれた一画になっていました。しかも写真によっては、この一画のほぼ中央に大きな屋敷のような建物が写っているようにも見える」とよく一致しています。当時は高い建物はなかったので、ここから彼方に富士山も見え、逆S字型の中坂を下りた府中崖線下の多摩川の沖積平野に広がる水田も広く見渡せたことでしょう・・・としばらくの間当時の風景を想像してしまいました。

 その後このコメントをいただいた方(仮にA様としましょう)から、さらに以下のような補足情報をいただくことができました。

  • 府中・町田線バイパスが南に向かって南武線をアンダークロスしようとするところの東側に細い道が南武線に向かってついていて、線路で途切れている。A様はこれが本宿駅に向かう道だったと確信していらっしゃるとのこと。
  • バイパスはもともと南武線だけをアンダークロスしてその先は掘割にする計画だったが、当時まだあった例の別荘地の貴重な緑を残せという反対が出たため、トンネルを延長して別荘地の下を潜らせた。その後地主がこの別荘を売却したためにマンション群が建ち、現在のようにマンション群の下を道路が潜ることになった。

貴重な情報をお寄せくださったA様には、改めてお礼申し上げます。ありがとうございました。

 

 さて、A様からいただいた補足情報で触れられていた「本宿駅に向かう道」が、いたく私の興味をそそりました。実はこの辺りは10年前の実地調査の際にあまりの暑さにメゲて調べ残していたエリアで、その際に私自身が「宿題」として「調べ残したバイパス入口の東側(府中寄り)の線路北側に、ひょっとしたら駅へのアプローチの名残があるかも知れないが、どうかなぁ・・・「本宿駅→」なんて書いてある案内板がさり気なく残ってるとか、「行くゅしんほ りよ はかちた」(昔だから横書きは右からね)の切符が落ちてるとか・・・あるわけないか。」と書いていました。やっぱり駅へのアプローチは残っていたのか!?これは10年前の宿題をやりに現地に行くしかないでしょ!

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| 地域とくらし、旅 | 16:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
最近買った石川ひとみのアルバム2枚

 以前もこのブログで石川ひとみについて書いたことがありましたが、ここ数日で石川ひとみのCDを2枚買いました。石川ひとみの歌、けっこう好きです。

 

 1枚は沖縄出身のバンド BEGIN が開発した「一五一会」(四字熟語の変換ミスではありません)という楽器の伴奏でフォークソングの名曲の数々を歌った「With みんなの一五一会 〜フォークソング編」(テイチクエンタテインメント TECI-1106)というアルバム。インストの1曲を除いて10曲を石川ひとみが歌い、伴奏は夫君の山田直毅が弾く一五一会その他と、曲によっては BEGIN の上地等のアコーディオンが加わります。

 このCDの帯のキャッチに「「なごり雪」、「神田川」、「悲しくてやりきれない」…心に残るスタンダート・フォークソングを一五一会にてカバー。」とあるように、このアルバムは一五一会という新しい楽器のプロモーションを目的とした「一五一会シリーズ」の一枚という位置づけで、伴奏は一五一会をフィーチャーした薄いものなので、その分石川ひとみの歌唱がくっきりと浮き上がり、じっくりと楽しめる仕上がりになっています。収録曲は以下の11曲です。

 

1. 汀(みぎわ)※一五一会のソロによるインスト
2. まちぶせ
3. 真夜中のギター
4. 悲しくてやりきれない
5. 亜麻色の髪の乙女
6. 神田川
7. あなたの心に
8. なごり雪
9. 白い冬
10. 岬めぐり
11. 風にのせて

 

 最後の「風にのせて」は石川ひとみの作詞、山田直毅作曲のオリジナル曲ですが、それ以外は自身の「まちぶせ」を含むカバー曲で、私の世代 ≒ ひっちゃん(石川ひとみの愛称)の世代には懐かしい曲ばかりですね。

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| 聞いて何か感じた曲、CD等 | 08:56 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
雪隠読書録『五日市憲法』(新井勝紘 2018 岩波新書新赤版1716)

 世の中がまだ昭和であった頃、大学を卒業後東京の会社に就職して数年経ち暮らしにも若干余裕が出てきた私には、多摩の御岳山(みたけさん)が気に入って、違ったルートで何回も登ったり降りたりしていた時期がありました。そんなある日、御岳山から南の方へ、馬頭刈(まずかり)尾根をたどって五日市(いつかいち)に降りたことがありましたが、そのときはどこでどう間違ったものかルートを外れてしまい、目の下に見える林道めがけて小さな崖をへずり下り、夕方になってようやく五日市の街に入ったものの、街の外れにある国鉄(現・JR東日本)の駅までがひどく遠く感じられたことを思い出します。
 本書を読むことになった直接のきっかけは、先日送られてきた母校の高校の同窓会紙に、母校の大先輩にあたる著者が近著である本書をご紹介されていたからですが、あの時の体験から「ほう、五日市がねえ」と書名に反応したせいもあります。

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「舞わす」 〜 陶淵明「形天舞干戚」句の解 〜

 雪隠書目の一つ、松枝茂夫・和田武司訳注『陶淵明全集』(岩波文庫)もようやく下巻に進み、いよいよ私の大好きな「読山海経(山海経を読む)」にかかりました。これは初夏の風が爽やかに吹き抜ける一室で、神話伝説を盛った古代中国の地理書である「山海経」を繙(ひもと)いている陶淵明が、興のおもむくままに経中のエピソードに付した五言詩を13首集めたものです。この13首のうち最も知られているのが「精衛銜微木 将以填滄海(精衛(せいえい)微木(びぼく)を銜(ふく)み 将(まさ)に以て滄海を填(うず)めんとす)」で始まる第10首「其十」でしょう。
 ところでこれの次の節は「形天舞干戚 猛志固常在(形天(けいてん)干戚(かんせき)を舞わし 猛志(もうし)固(もと)より常に在り)」と続くのですが、この「舞」字に付けた「舞わし」という訓には実にゆかしいものがあります。この字は鈴木虎雄『陶淵明詩解』にも同じく「(干戚を)舞はす」(旧仮名遣い)と訓んであり、おそらく古くからの訓なのでしょう。ただし松枝・和田がこの句の解を「形天という獣は、盾と斧をふりまわして」としているのに対し、鈴木が「又形天といふふしぎなものは(首が断ちきられても目と口があつて)盾や斧をとつて舞ををどるといふ」としているのはやや厳密を欠くようです。形天が自分で舞をおどるのなら「舞はす」ではなく「舞ふ」と訓むべきで、「干戚を舞はす」と訓んだ以上は松枝・和田の解のように「盾と斧をふりまわ」すと解するのが穏当でしょう。思うに鈴木は「舞わす / 舞はす」という語に馴染みがなかったのではないでしょうか。

(図は形天(胡文煥・画))
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